第7話 うしなわれし光~愛の迷子と堕とされし聖女~(4)
■
ぼんやりとした意識の中、私は夜道を歩いていた。
先の見えない真っ暗な世界。虫の集る街灯と、
顔も名前も知らない他人の住処の灯りだけが、私に進むべき道を示してくれる。
"あの家"まで。
陰泣駅から徒歩で向かうのにはもう慣れている。これで3度目になるけれど、
私がそこに向かう時はいつも、夜闇に辺りを包まれた時間帯だ。
坂道を登って、正門の前までたどり着く。
私の眼の前には今、そびえ立つ"赤月邸"があった。
人食いのバケモノが巣くう、その屋敷の庭に佇みながら私は、
自分がいかに取り返しのつかないことをしようとしているかを改めて悟って、
唾を飲み込む。
―――もう、限界だ。
『宍色さんに抱かれてあげる』などと母に口走ってしまったとき、私はそう思った。
母を安心させてあげるために言ったその一言。
だけどその一言は心からの言葉なんかじゃない。
ただ一時、母を安心させてあげるための言葉。口約束の、優しい嘘。
私はその後、宍色さんと連絡を取った。
ここ数日間全く繋がらなかった宍色さんの番号は、
私が発信ボタンを押してわずか3秒後にあっけなく繋がった。
電話越しながら数日振りに"父”の声を聞けたことに私は、
―――もはや何の感慨も抱けなかった。
どんなやり取りをしたかすら、今となっては細かく思い出せない。ただ。
『今夜0時に指定のホテルに来い』みたいな事を彼に言われて、
私が『はい』と無機質に答えたのだけはよく覚えている。
指定されたのは、『スカヴァティ』というホテルだった。
母曰く、二人が良く逢引に使っているホテルらしい。
馴染みのホテルを私と彼が使うことに、母は何も感じないのだろうか?
母は「車で送ってあげる」と言ってくれたけど、私はそれを断った。
「いいよ。近くまでは電車に乗って、その後はタクシーでも拾うから。
だから、お金頂戴?」
私がそう言うと母は、
「女の子が夜道を一人で歩くなんて危険よ」
などと言ってしつこく食い下がってきたけど、私にはそれが可笑しくてたまらなかった。
―――ママと宍色さん以上に危ない大人なんていないよ。
心の中で思ったことが喉元まで出かけたけど、なんとか飲み込んだ。
「帰りは宍色さんに送ってもらうからいいよ。
それともママは、私が抱かれている間ホテルの駐車場で待っててくれる?」
私がそう言うと、母はそれ以上何も言えずに口をつぐんで俯いた。
それから財布を取り出して、交通費をくれた。
だけど私がそうまでして一人きりになりたかったのは、
素直にホテルまで行く気がなかったからに過ぎない。
放置された花壇からは、背の高い雑草が生えていた。
風に吹かれて靡くその姿を、綺麗な女性と見間違えたのはほんの一ヶ月前のことだ。
彼女と出会ってからまだ一ヶ月しか経っていないということを考えると、不思議な気持ちが湧いてくる。
その時ふと、どこからかギターの音色が聞こえてくることに気づいた。
風に乗って響いてくるその音色は、切なげで、儚げで。
でもだからこそ美しいと思えるような、そんな音色だ。
そういえば、と私は思い出す。
『その屋敷には夭折した女性シンガーの霊が住み着いていて、
夜な夜な美しい歌声とギターの音色を響かせる』
以前ネットで見かけた、"赤月邸"の逸話の一つだ。
音色に混じって美しい歌声が聞こえてきた時点で、私は確信を覚えた。
蝋燭すら灯っていない薄暗いリビングで、美桜ちゃんがギターを携えていた。
窓辺から差し込む、淡い月の光だけが煌々と輝いて、ギターを弾く彼女の白い指元を照らしている。
儚げな歌声。繊細な音楽。月に照らされた、美桜ちゃんの白い肌。細い指先。
その全てが、目の前の光景を幻想的な世界に仕立て上げていた。
―――相変わらず、画になる女性。
私は演奏が終わるまで、
ただその世界に見惚れるしか出来なかった。
途中で話しかけたりして邪魔をすれば、
ひたすらに美しいその世界が崩れ去ってしまうような、そんな気がしたから。
「……相変わらず不躾な子ね、貴女は。
インターホンを鳴らしなさいと、前に言ったはずよ?」
演奏を終えた美桜ちゃんが、リビングの入り口に佇む私に顔を向けて言った。
たしなめるような口調だったけど、
その表情に苛立ちなどは感じられなくて、むしろ穏やかだ。
まるで、私がこうして訪ねてきたことを嬉しがっているみたいに。
「ごめんね。あんまり綺麗な歌声だったから……。
邪魔したくなくて、チャイムとか押せなかったんだ。
ギター上手いんだね。……かっこいい」
「……ふふ、よく言われるわ」
壁に立てかけられたアンティーク柱時計の、
コツコツと振り子を鳴らす音が静かな部屋の中に響いた。
時刻は22時30分を指し示している。この前の"家出"の時よりも、
今日のほうが、夜が深い。
「……元気がないのね。恋人と一緒なのだから、もっと嬉しそうな顔してよ」
頬を膨らませて、美桜ちゃんは拗ねたように言った。
そんなに元気なさそうに見えるかな、私。
自分の精神状態を言い当てられたことに多少の恥ずかしさを覚えつつも、
美桜ちゃんに理解してもらえていることに、私は嬉しさを感じていた。
美桜ちゃんが、ギターを椅子に立てかける。
まるで幼子に『おいで』をするように、両腕を広げて私を迎えてくれた。
月の光が彼女の黒髪に反射していて―――私にはそれがまるで、
後光を纏った聖母のように見えた。
目頭から、熱い液体がこみ上げそうになる。
この人はなんでこんなに、私がして欲しいことを言わなくても分かってくれるんだろう? 慈母のような顔で、天使のような声で、美桜ちゃんが優しく囁く。
「私はももかの事が好きよ。だから貴女が苦しいときは力になってあげたいし、
そばに居てあげたい。……もっと頼ってよ。貴女の恋人らしいことを、私にさせて?」
これ以上は、我慢できなかった。
我慢するとかしないとかを考えるより先に、
私の身体は既に美桜ちゃんの胸に飛びこんでいた。
「美桜ちゃん……!美桜ちゃぁん……!
無理だった……!無理だったよ……!
宍色さんのことを人間に戻すなんて、私には出来なかった……!
あの人はもう、心までバケモノになってしまってた……!
ひどいよ……!全部貴女のせいだよ……!」
行き場の無い感情を、思いやりのフィルターに掛けることなく、
私は全て、美桜ちゃんにぶつけた。
悲しさ、悔しさ、理不尽への怒り。
それら全てを、聖母はただ受け止めて優しく笑う。
私がいま言ったことで、彼女を傷つけることになるかもしれないなんて、
そんなことを考える余裕すら、今の私にはなかった。
私になじられた美桜ちゃんは、それでも優しい眼差しを崩さずにいてくれた。
彼女はただ微笑みながら、私の頭を撫でる。
まるで、母親が泣き喚く子供をあやすような仕草で。
美桜ちゃんという"聖母"は、どこまでも私を赦してくれる。
「そうよ。全ては私のせい。……見ようによっては、ね?
そう思うことで貴女が救われるのなら……私は喜んで罪を背負うわ」
「美桜ちゃん……ぐすっ……美桜ちゃぁん……」
「だけどねももか?これだけは良く覚えておいて?
私は確かに人の身体を『鬼』に変えることが出来るけど、
心までバケモノになるかどうかは、その人次第なのよ?
他者を想い、他者の幸せを願える―――"穢れなき命"を持つ者ならば、
『鬼』の本能に飲まれることは無い。
私はただ、試練を与えただけ。
宍色さんが本当に、貴女に想ってもらえる価値のある人間かどうか。
そして彼は、その試練に負けた。"愛"を捨てて、"欲望"に走った。
―――だから私に食べられる」
胸元から見上げると、舌なめずりをする美桜ちゃんの口元が見えた。
"聖母"から"バケモノ"へとスイッチを切り替えたのだろう。
今の美桜ちゃんは私の苦手な、とても怖い顔をしている。
数日前の私ならば、
宍色さんを食べようとする彼女のことを止めたいと思えたのだろう。
だけど今夜は違う。
"バケモノ"の美桜ちゃんこそ、今夜の私が逢いたかった美桜ちゃんだ。
そうだ。そうなんだ。
今夜私がこの家に来たのは、バケモノの彼女に、
宍色さんのことを食べてもらうためだ。
「ねえ、そろそろ聞かせてよ。
あの言葉を口にする覚悟が出来たから、今夜私を尋ねてきたのでしょう?」
美桜ちゃんが両手で私の頬を挟む。
顔を背けられないように、視線を逃せないように、
私を捕まえた美桜ちゃんが、その端正な顔をゆっくりと近づけてきた。
吐息が当たるくらい、唇が触れてしまいそうなくらいの近距離。
美桜ちゃんの瞳は、鏡のように私の顔を反射していた。
ドキドキ、する。
だけどそれは、美桜ちゃんもおんなじみたいだ。
私を掴む美桜ちゃんの両手の平からは、ドクドクと激しい脈が伝わってくる。
黒曜石のような美桜ちゃんの瞳には、欲情が宿っている。
―――あぁ……。
美桜ちゃん今、私で興奮してるんだ?
私に"それ"を言わせられることが、そんなに嬉しいんだ?
いいよ。
好きなだけ聞かせてあげる。
貴女が聞きたいのなら、何度だって言ってあげるよ。
ねえ、美桜ちゃん。
「―――宍色さんを食べてください」




