第7話 うしなわれし光~愛の迷子と堕とされし聖女~(3)
■
スケッチブックの上に筆を落とすと、
まっしろのキャンバスの上に青色の点が出来た。
下書きをなぞるように、さらに筆を滑らせていくと、
点は線になって画用紙を彩っていく。
画用紙の中では今、
黒髪の女性がカクレクマノミの水槽の前で指揮棒を振るっていた。
黒髪の女性の隣には、背の低い茶髪の女の子が一人立っていて、
女性が優雅なリズムを刻む様に見とれている。
色という概念が存在しなかった、キャンバスの世界。
その真っ白の世界は、私の筆使い一つでこんなにも鮮やかに変わっていった。
楽しい。絵を描くのは、とっても楽しい。
いつだってそうだ。
―――現実が辛くなればなるほど、絵空事の世界に浸るのが楽しくなる。
あの日。私が宍色さんに電話した日。
あれからほどなく、宍色さんは行方が知れなくなった。
それからというもの、陰泣市中では特殊な遺体が見つかる事件が相次いだ。
最初の遺体が発見されたニュースを目の当たりにしたときに、
私は即座に悟ってしまった。
宍色さんは、"覚醒"してしまったんだって。
バケモノと化した宍色さんは、深紅ちゃんと同様、
目をつけた人間をさらって、エサにしてしまってるんだって。
そう理解できたときには、私の頬を涙が伝っていた。
宍色さんと和解して、私達が親子としてやり直す機会は、
今後永遠に訪れることがないのだろうと悟ったからだ。
だけど私は、このまま宍色さんが美桜ちゃんに食べられるのを
黙って見ていることなんて出来なかった。
ここ数日の間、学校が終わるなり陰泣市中を歩きまわり、
宍色さんのことを探して回った。
コミュ障だけど勇気を振り絞って、
道行く人に宍色さんのことを尋ねたりもたくさんした。
宍色さんは『鬼』と化して、人の命を奪ってしまった。
取り返しのつかないことをしてしまった。
いまさら彼と会ったところで、何の解決にもならないことは分かってる。
だけど私は、もう一度で良いから宍色さんと会いたかった。
話をして、分かってもらいたかった。
彼がどれほど、母に愛されていたか。ただそれだけを、彼に伝えたかった。
その望みを、未だに叶えることが出来ないで居る。
まるで、利き腕にAIか何かが搭載されているみたいに。
頭の中では宍色さんのことを考えながら、
私の右腕は無意識に従ってスケッチブックの上に筆を走らせていた。
真っ白だったキャンバスは、水槽の水色と、カクレクマノミの赤色と、
指揮棒を握る女性の黒色とで埋め尽くされている。
私の髪色と同じ栗色の絵の具を、水に混ぜてパレットの上に乗せる。
筆先を栗色の絵の具で湿らせたところで、ガチャリという音が玄関から聞こえた。
母が帰ってきたのだろう。机の上に置かれた目覚まし時計は20時30分を指し示している。パレットに筆を置いた私は、水彩画用のエプロンを脱いで椅子に掛け、玄関へと向かった。
今日、母は家でご飯を食べなかった。
仕事なのか、ただ単に知り合いと外食するのかは分からなかったけど、
今日のお昼ごろに、『今夜は遅くなるから』というメッセージはもらっていた。
「おかえりなさい。ママ……?」
私が玄関に向かうと、
母は靴も脱ごうとせずに、迎えに来た私の顔をじっと見つめて、突っ立ったまま動かなかった。玄関に立ち尽くす母の顔は、何だかいつもよりやつれて見える。
「ただいま」
力無く言いながら、母は潤んだような瞳で、私をじっと見つめていた。
気のせいか、今朝見たときよりも何だかお腹が膨れているように見えた。
食べ過ぎた……のかな?
アルコールのニオイとかは、全くしない。
だけど母の体からは、母が吸わないはずのタバコのニオイと、
そらまめを煮詰めたみたいなつんとしたニオイが、充満している。
―――あぁ。
ずっとこの人の娘をしてきたから、そのニオイの意味が、私には分かってしまう。
母はさっきまで、男の人と逢ってたに違いない。
「誰と、逢ってきたの?」
「……鴇也君よ」
「宍色さんと!?」
宍色さんの名前が出てきたことに私は驚いた。
驚きと同時に、安堵と不安が同時に湧いてきた。
母の言うことが本当なら、彼女は『鬼』と化した今の宍色さんと逢ってきて、
無事に戻ってきたというのだ。
それはつまり、
母が獲物として見られていないだけなのか、
大事な人をエサとして見ないで居られる理性を宍色さんが残しているのか、
はっきりとは分からない。後者であることを、私は強く願った。
「鴇也君、元気そうだったわよ」
「そう、なんだ……。良かった……ずっと、心配だったから」
「アンタの言うとおり、愛を伝えてきたわよ?
……鴇也くん、私と一緒になっても良いって言ってくれた」
「ほ、ほんとに!? お、おめでとう……」
母の愛は、宍色さんに届いたんだ。
それなのに私は素直に喜ぶことが出来なくて、
1オクターブ低い声で返事をしてしまった。
そんな私を見て不満だったのか、母は、
「なによぉ~!アンタが煽ったんでしょう?もっと喜びなさいよぉ~!」
と言って私を肘で突いてくる。
さっきまでの元気のなさは、一体何だったのだろうか。
私は愛想笑いを浮かべたけど、自然な表情が作れているかは自信が無かった。
宍色さんが犠牲者を出す前なら、もっと大喜びできたはずなのに。
"真実の愛"は、『鬼』を人に戻す鍵となる。美桜ちゃんはそう言っていた。
彼女は嘘つきだけど、『鬼』に関することでなら、彼女が私に嘘をつくことはない。
それなら。
これで宍色さんも元に戻れるんだろうか?
だけど、人間に戻ったあと、どうする?
このまま私達と、幸せに暮らす?―――暮らせる?
私と母と、父になった宍色さん。親子三人で暮らす光景を想像してみる。
『鬼』だった宍色さんと、『霊力』を持つ私だけは、
宍色さんが犯した罪の事を決して忘れることはないのだろう。
確かなのは、母だけは幸せで居られるだろうということだった。
何も知らない母だけは、笑顔で居られるだろうということだけだった。
―――ママが笑顔で居てくれるなら、それでもいいかもしれない。
一瞬だけだけど、そんなことを思ってしまった自分が恥ずかしかった。
とりあえず。とりあえずは、だ。
美桜ちゃんの犠牲になる人を一人減らすことが出来た。
そのことだけは、素直に喜ぶべきなのかもしれない。
「ねえ、ももか。結婚祝いにさ。一つお願いを聞いてもらってもいい?」
母が私に問う。
もやもやする気持ちを抑えて、私は笑顔を作った。
こういうときに母の幸せを素直に祝福できることが、"いい子"の条件だ。
後先のことは後先で考えて、今はただ、母と幸せを分かち合えればそれでいい。
「うん。私に出来ることなら、何でも言って?」
母の前では、"いい子"でありたい。
母に頼ってもらえることが、
自信のない私にとっての、唯一の存在価値だ。
だから自分の気持ちに多少の嘘をついてでも、私は彼女に笑顔で居てほしい。
「そう……じゃあ……」
母が深呼吸をする。
私は表情筋にチカラを込めて、頬を持ち上げる。
目元を細めて、優しい眼差しを形成する。
なるだけ穏やかな表情を作って、母の"お願い"をじっと待った。
「……ねえ、ももか。一回だけでいいからさ。
鴇也君に抱かれてくれない?」
作り上げた表情が萎んでいくのが、自分でも分かった。
★
鴇也君がね、私にねだるの。
ももかを俺に抱かせろ、って。そうしたらお前と一緒になってやるって。
おかしいよね、そんなの。
娘を抱かせろだなんてよりにもよって自分の彼女に向かって言う?
バカじゃないの?って思う。思うわよ。私だって。
ほら、私って結構尽くす女じゃない?
尽くして、与えて、したいことなんでもさせてあげて……してあげて。
そうして段々、自分のことが疎かになっちゃう。
……よく知ってるでしょ?ももかなら。
家のこととか、自分の事とか、全部めちゃくちゃになっちゃう。
そのくらい、恋愛に魂持って行かれちゃうの。
10代のときに初めて付き合った人のときからそうだった。
私の恋愛っていっつもそうよ。
尽くして尽くして捧げて捧げて。
そうしてる内に、"重い女"だとか言われて……。
相手のほうが耐えられなくなっちゃう。
『もう求めないでくれ』とか言われちゃう。
私は何も"求めて"なんか無いのに。ただ、"捧げてる"だけなのにね。
今まで付き合った中で私の愛に耐えられたのは、
顔も思い出せないあの人と、鴇也君だけだった。
そんなだからかな。
鴇也君はたぶん、自分が望みさえすれば私が何でも言うことを聞くと思ってるのよね。
何を望んだって、私が自分から離れていかないと思ってる。調子に乗ってる。
だけどそれは間違ってないのよね。私はもう、鴇也君無しじゃ生きていけないもの。
今まで沢山の男と付き合ってきたけど、
いまさら他に、私の愛を受け止めてくれる人なんか居そうな気がしない。
彼以上に私を満たしてくれる人は居ない。
……もうさ。
もう分かんないのよ。どうしたらいいか分かんないのよ。
……ねえ、ももか。私、どうしたらいい?
どうしたら、いいのよ。
知ってたわよ。
わたし、知ってたわよ。
鴇也君が私だけじゃ飽きたらなくて、
若い子と浮気してたことだって知ってたわよ。
だけどずっと見ない振りしてた。
私以外の女に手を出してても、全部許してあげられた。
彼が望むこと、何だって許して、何だって受け入れられる自信があった。
だってそうでしょう? 鴇也君のこと愛してるんだもの。
私にとって、愛するって、そういうことだもの。
なんだって許して、何だって受け入れてあげるってことだもの。
それなのに。
なんでよりにもよって、って思うわよ。
これからも浮気してくればいいのに。
いっぱい外でシてくればいいのに。
よりにもよってアンタを欲しがるなんて。
しかも私にそれを求めて来るなんてね。
そんなことを求めてくるような人とは別れるべきなんだって分かってる。
それがまともな親の考えなんだって分かってる。
でも私ね……? あの人から離れたくない。
あの人が居なきゃ、私、生きていけない。
どうしたらいい?
ねえももか。私、どうしたらいいんだと思う?
わかんないわよ。
教えてよ。ももか。
■
涙を流しながら淡々と語る母の姿を見ながら、私は思った。
―――この人はなんて、弱い人なんだろう、と。
『分かんない』『どうしたらいいの』。
うわ言のようにそう繰り返す母の姿を見ながら、私は思った。
―――この人はなんて、ずるい人なんだろう、と。
どうしたらいいかなんて、分かりきっていることなんだ。
本当に、私のことを大事に思ってくれているのなら。
私にはそんな話しないで、迷わずに宍色さんと縁を切ってくれたはずなんだ。
それなのに彼女は、『あの人と離れたくない』と言った。
泣きながら『分かんない』『どうしたらいいの』と言って私に問いかけた。
それはつまり、
私が言うのを、期待しているんだ。
『宍色さんに抱かれてあげる』って私が言うのを待ってるんだ。
私が自分の意思で、宍色さんに抱かれにいくことを期待しているんだ。
そうすることで、少しでも娘を"捧げる"罪悪感から逃げようとしてるんだ。
……なんて、どうしようもない人なんだろう。
「ももか……」
切ない声で、母が私の名を呼ぶ。
その声色は、彼女が寝室の奥に男を招いたときにあげるものと似ていた。
……"求める"ときの、娼婦の声だ。
やめてよ、ママ。そんな声で私を呼ばないで。
そんな目で、私を見ないで。
そう思う心とは裏腹に、私の体は勝手に動いて、
泣き崩れていた母の頭部を優しく抱いて、胸元に引き寄せた。
母の頭が、私の胸に吸い込まれていく。
胸の脂肪のかたまりが、母の頭の重みによって、形を変えた。
この人の前ではいつも、私のほうが"ママ"っぽくなってしまう。
娘を"ママ"にしなくてはいけないほど、東雲小梅は人間として未熟で、弱い人だ。
そのことに対して、私が苛立ちを覚える事は不思議となかった。
私にとって、母が弱い人間だということはもはや常識のようなものなのだ。
諦めているからこそ、もうなにも感じることはない。
「ねえママ。覚えてる? 私が中学の頃、
先生にレイプされそうになったときのこと」
「……ごめんなさい」
「それからの私、学校に馴染めなくなっちゃったんだ。
周りからはその先生と遊びまくってたことにされてて、
ヤリマンビッチとか言われたの。
……辛かったよ。とっても辛かった」
「……ごめんなさい」
私は、性被害の経験者だ。
母は今、そんな娘のことを男に売ろうとしている。まともな所業じゃない。
いま私は、思春期になって初めて、
自分の弱みを母に吐露したような気がする。
そうすることで、母に罪悪感を抱かせたかった。母に踏みとどまって欲しかった。
「だから私ね、今でもトラウマなんだよ?
男の人に触られたりすると、未だにあの時のことが頭に浮かぶの」
罪悪感によって母を虐めるためだけに、胸の内を明かす。
こんな形でしか弱音を吐き出せないほど親子関係が浅いことに、
寂しさと悔しさを覚えて声が震えた。
お願いだから、気づいて欲しかった。
母がどれほど、残酷なことを私にねだっているのかを。
『私が間違ってた』『鴇也君となんか寝なくていい』。
そう言ってくれるのを、期待した。
喧嘩になるかもしれない。傷つけあうことになるかもしれない。
私はそのどちらも苦手だけど、
今回ばかりはそうなってしまっても構わないと思った。
少しでも、私の痛みを母に届けたかった。
なのに。
「……ごめんなさい」
母の反応は、なにひとつ変わらなかった。
私の言葉は、母には届かないんだ。
そう分かった瞬間、私はもう、母を傷つけるのをやめた。
「……ふふ。うっふふ、ふふ」
「もも、か……?」
口の端から、笑みがこぼれてしまう。
突然笑い出した私に困惑したのか、母が不安げな表情で私を見上げた。
母の瞳の中には、なにもかもを諦めきったような瞳で母を見つめる私の顔が映りこんでいる。
この人は本当に、どうしようもない人だ。
まともな人間らしさなんてカケラもない。ひたすら弱くて、ひたすら愛の深い女。
だけど私も、今まで散々、そんな母の存在に救われてきた。
父が居なくなったこと。
先生に襲われたこと。
友達が一人も居なくなっちゃったこと。親友と疎遠になってしまったこと。
周囲からあらぬ噂を立てられたこと。
孤独で、辛いことだらけの人生。
生きる意味を見失いそうな人生の中で、
母に求めてもらえることは、私にとって大きな救いだった。
掃除や洗濯、料理をして、精神的に不安定な母を支える。
母に頼ってもらえることが、
生きる意味を見いだせない私にとっての、唯一のアイデンティティ。
"手の掛からないしっかり者"だって母に思ってもらえることが嬉しくて、
私は、ずっと"いい子"として振舞ってきた。
そういうところが、親子だなぁって思う。
大好きな人の"いい子"で居たくて、自分のことを何でも捧げてしまう。
どうしようもなく、私達は似ている。
そう悟った時、諦めが私の中を占めた。
犠牲の愛は、"真実の愛"だ。
それが正しいかどうかはともかく、
それこそが私たちの性である限り、抗いようがない。
「狂ってるよ。宍色さんも、ママも」
負け惜しみを、母に投げかける。
「ごめんなさい」と、変わらない言葉をつぶやき続ける母に、
私は「いいよ」と告げた。
「いいよ」と告げて、その頭を撫でてあげた。
「宍色さんに、抱かれてあげる」
私の答えを聞いて、母は雨雲が晴れたように表情を明るくした。
そんなどうしようもない母の事を見ていて、愛おしさが湧いてくる。
愛おしさの裏で、とてつもなくドス黒い感情が過ぎ去っていく。
私はそれを、見なかったことにした。
母の髪に、手ぐしを通す。
傷ついた枝毛が、私の指に引っかかった。
母ももう若くないんだということを思い知らされる。
この間触った美桜ちゃんの黒髪は、さらさらで、手触りが良かった。
そう思った瞬間、私は"彼女"の長い黒髪を恋しく思った。
「ねえ、ママ。一つだけ教えてくれない?宍色さんのどこがが好きなの?
娘の私を犠牲にしてまで、一緒になりたいって思えるのはなんで?」
「それはね……。鴇也君が私にとっての一番だったからよ。
今まで私が付き合ってきた男の中で……。
あの人が一番……。
―――セックスが上手かったからよ」
母の返答に、渇いた笑いが出そうになった。
セックス依存症だった母は宍色さんと付き合い始めてからの4年で多少はまともになってくれたんだと思っていた。
でも、違ったらしい。
簡単なことだ。
宍色さんのセックスに満たされていたから、
男をとっかえひっかえする必要が無かっただけ。
母の"恋愛"依存症は、今もずっと続いている。




