第7話 うしなわれし光~愛の迷子と堕とされし聖女~(2)
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ベッドの横に備えられたテーブルには、灰皿が添えてある。
口にくわえたタバコの灰をその皿に落しながら、
宍色はその逞しい腕で一糸まとわぬ己の恋人を抱き寄せた。
「貴方と抱き合ってる時が、一番幸せを感じられる」
微睡んだ瞳で、小梅は語る。
先ほどまで行われてきた"愛の証明"によって、
その声は普段よりも甘い"女の声"になっていた。
宍色はタバコを灰皿に押し付け、再びその女体に覆いかぶさる。
無言で襲いかかってきた宍色の様子に、小梅は一瞬目を見開いたが、
その表情はすぐさま、全てを受け入れる聖母のように変わり、
恋人の欲望を受け入れた。
部屋に入ってから、これで4回目だ。
それでも宍色には、その行為に対する満足感はなかった。
満足そうな顔で自分に抱かれている恋人の姿が、彼に苛立ちを募らせる。
その満ち足りた幸せは、宍色とは決して分かち合う事が出来ない。
男の肌と女の肌は、決して超えられぬ境界線のように、
二人の心が繋がるのを阻んでいた。
未だ冷め止まぬ喉の乾きが、宍色を苛んでいる。
―――俺はもう、手遅れだ。
いまさら小梅を抱いたところで、
あの路地裏で感じたような幸福は二度と手に入らない。
バケモノと化した彼にとって、女とは捕食対象でしかない。
"愛"などが届かない干からびた砂漠の世界に、宍色の精神はあった。
行方を眩ましていた数日の間、宍色は5人もの女を喰らった。
覚醒したその日に喰らった2人の女と合わせて、
計7人の人間を喰らったことになる。
その全てが家庭的で、料理上手な女だ。
愛する人と食卓を囲うために磨かれた腕前は、宍色の欲望のためだけに消費された。
7人目のエサを喰らったその直後、宍色は喉の渇きに抗うことが出来た。
着々と『妖力』を身に着けた彼は、本能に突き動かされるばかりではなく、己の本能を俯瞰し、欲求に抵抗するだけのわずかな理性を手にした。
わずかな理性を取り戻したカゲロウが、初めて抱いた感情は寂しさだった。
以前の彼が恋人やその娘と居るときに感じていた、
所帯染みた安心感が恋しくなって、宍色はスマートフォンで小梅に連絡を入れた。
『……急で悪いが、今夜お前に逢いたいんだ。
仕事が終わったらすぐに"いつもの場所”に来てくれないか?』
散々人を喰らっておいていまさら人並みの幸福を望むことに、
宍色はもはや何の罪悪感も抱かなかった。
そのことを恥ずかしいと思えるような慎ましさは、
今は彼の中から抜け落ちてしまっている。
ホテルの中で小梅の姿を見つけたとき、
宍色はこれでようやく救われるという気持ちになった。
しかし現実はこうだった。
何度彼女を抱いても、何度その肌に触れても、
宍色の心は決して満たされず、喉の渇きが増していくばかり。
自分一人で昇り詰めていく小梅に、宍色は苛立ちすら覚えている。
―――コイツでは、俺の心を満たすことが出来ない。
そんなことは最初から分かりきっていたはずだ。
だからこそ俺は、コイツと付き合っていた期間も愛人遊びをやめられなかったし、
だからこそ俺は、コイツの娘にも手を出そうとした。
宍色の脳裏に、娘の姿が浮かぶ。
あの路地裏で、砂糖菓子のように甘い声を聞かせて宍色を満たしてくれた、
あの何物にも代えがたい恍惚の瞬間を、思い出す。
それだけで、苛立ちも渇きも薄れていくような気がした。
―――ももかだ。
俺を満たしてくれるのは、やはりあの娘なのだ。
小梅の体の奥にタマゴを産みつけながら、宍色はももかのことを考えていた。
情事の終幕として放たれたように見せかけられた、無数のバケモノのタマゴたち。
植えつけられた本人は、ソレには気づかず、なおも恍惚の表情を浮かべている。
―――お前じゃねえ。お前じゃ俺を満たすことは出来ねえ。
ももかを喰わない限り、俺の渇きは潤わねえ!
「ねえ鴇也くん。私たちそろそろ、籍を入れても良い頃合いだと思うの」
穏やかな、それでいて甘えたような声色で、小梅は宍色にせがむ。
行為による虚脱感からか、宍色は昏い目をして、窓の外を見つめていた。
―――別に私の話を聞いていないというわけじゃない。
小梅は宍色の仕草を好意的に解釈して、話を続けた。
「貴方と連絡がつかなくなる前、ももかがね……」
そう前置きをして、小梅の永い永い言い訳が始まった。
ミルフィーユのように幾重にも言葉を重ねながら、
宍色の顔を頻繁に窺い、彼の反応を見ている。
小梅なりに勇気を振り絞った結果だったが、宍色は反応を示すことなく、
たばこを咥えながら窓の外をじっと見つめ、決して小梅とは目を合わせない。
やがて小梅が話を終えると、宍色はきっぱりと言った。
「無理だな。お前じゃもう、俺を満たせねえ」
冷酷に放たれたその言葉に、
小梅は心臓を打ちぬかれたかのような心地になって目を見開いた。
「ど、どうしてよ……?貴方だって、そろそろ身を固めたほうがいい頃でしょう?
ほ、ほら!歳も歳だし。仕事も仕事だし。この先何があるか分からないし。
結婚してたほうが出世できるだろうし。それにほら、子供が居たほうが安心でしょう?
そうよ。子供よ。
そう考えたら、私ほど貴方にふさわしい女なんて居ないと思うの。
だって貴方は、子供作れないじゃない」
彼を説得しようと放たれたはずの、言葉のミルフィーユ。
拒絶された苛立ちからか、最後の言葉には辛辣なニュアンスが混じってしまった。
触れてはならないタブーに触れてしまった事に気づいた小梅は、
はっとなって口元を抑えた。
「ご、ごめんなさい……」
怯えた表情で宍色の顔を窺う小梅。彼女の知っている宍色鴇也ならば、
こういうときは苛立ちによって眉毛を逆立たてせ、怒鳴り散らすだろう。
だが、今日の彼は違った。
小梅の余計な一言にも全く動じることなく、暗く澄んだ瞳で、
小梅の瞳をまっすぐに見つめ返してくる。今日の彼は、いつもと様子が違う。
こんなにも、宍色が何を考えているのか分からないと思うのは、初めてだった。
「なら、ももかを喰わせろよ」宍色が言った。
彼から返ってきた言葉があまりにも突飛だったため、
小梅は表情を失い、思考をフリーズさせた。
―――今、なんて?
ももかを、喰う?鴇也君が?なんで?
「な、何言ってるの……貴方、自分が何言ってるのか分かってるの?」
急に突飛なことを言い出した宍色に、小梅は抗議の声を上げた。
その声は恐怖によって震えている。
『冗談だ』。
彼がそう言ってくれることを期待して、小梅は半笑いの表情を作った。
冗談の空気感を産み出すためにした努力だったが、表情筋が上手く動いてくれない。
「分かってるさ。ももかを喰わせろって言ったんだ」
宍色の目は据わっていた。小梅のささいな努力など何の意味もなかった。
彼は決して、それを冗談で言っているつもりはない。本気だ。
だが、いくらなんでも言って良い事と悪いことがある。
娘を抱かせろなどと言われて、素直に首を縦に振る母親など居ない。
「ふ、ふざけないで!!!!」
声を荒げる小梅だったが、
次の瞬間、バチン!と音が鳴ったことで即座に黙り込んだ。
頬に焼けるような痛みを感じて、慌てて手を頬に当てた。
顔を伏せた小梅は、一寸置いてようやく、自分が今、彼に殴られたのだと気づいた。
「ふざけてんのは」
宍色の怒号が、小梅の耳を裂く。
「ふざけてんのはお前のほうだろうが!!!
籍を入れるってなんだ!?俺に一生お前以外とセックスすんなって言いたいのか!?
お前みたいなアバズレババアのガバガバのアソコで一生満足してろってのか!?ええ!??
ちょっと4年程度相手してやったら図に乗りやがって!!!!
お前みたいな年増じゃもう俺は満たせないんだよ!!!
娘を俺によこさねえならなぁ!!!!てめえと会うのも今日が最後だ!!!」
言い放つなり宍色はベッドから飛び起き、脱いでいた衣服をかき集め始めた。
冗談などではないのだ。
彼は本気で、娘を差し出さない限り自分と別れると言っている。
止めなければ。
―――今止めなければ、私は彼に捨てられてしまう。
Yシャツのボタンを止め、スラックスを履こうとしている宍色の足元に、
裸の小梅が勢いよく抱きつく。揺れる乳房と皺のよった手首は、
彼女が若い頃のそれと比べて、張りが失われている。
それは普段、見た目が若いと言われる彼女が、
実際はもう若くないという何よりの証拠だった。
涙と不安で顔面を覆い尽くした惨めな年増女が、男の足元にみっともなく縋る。
それを見た宍色は、心底鬱陶しそうに眉を寄せて足下を見た。
「何のつもりだ……?離せ」
「お願い……行かないで……。
貴方が居なくなったら私、もう生きていけない……」
「なら分かるだろ? お前が何をするべきなのか……」
「私は……私は……」
自分の恋人に娘を差す出すなんて残酷な真似が出来るはずがない。
娘は中学のとき、男の先生に襲われたことで心に深い傷を負った。
地元から遠く離れた高校を受験させたのだって、全ては傷ついた娘を守るためだ。
その事情を、彼だって知っているはずなのだ。
それでもなお、娘を抱かせろと迫るなんて、鬼畜の所業以外の何物でもない。
「小梅」
恋人が、自分の名を呼ぶ。
その声色は、先ほどまでの怒声が嘘のように優しかった。
ずっと、その優しい声で語りかけて居て欲しい。小梅はそう思った。
「お前は俺の"何"だ?思い出してみろ」
この世には、等価交換の法則というものがある。
何かを得るためには、何かを捨てなければならない。
―――愛する彼に、そばに居て欲しいのならば、
私も何かを捧げ続けなければならない。
それに見合うだけの、"大事なもの"を。
もはや自分のカラダに、彼のぬくもりに匹敵するだけの価値はない。
ならば、答えなど一つしかない。
小梅は、今まで自分の元を過ぎ去ってきた男たちの姿を思い出した。
自分を"捧げる"。自分の持つ何かを"捧げる"。
それが、小梅にとって愛する者を愛するための、最上の手段だ。
それが自分にとって大事なモノであればあるほど、
より強く、愛情を表現する事が出来る。
だったらなにも、変わらない。
今まで男たちに"捧げて"きたことと、なにも変わらない、はずだ。
「私は……」
宍色の問いかけに、か細い声で小梅が答えた。




