第6話 浅ましき下郎 (1)
窓の外は、朝もやに包まれていた。
グラウンドからは、走り込みをする運動部のかけ声が聞こえてくる。
こんなに早い時間帯に登校するのは、一体何日ぶりだろう?
まだ深紅ちゃんが居なくなる前……。
姿の見えない『もう一人の鬼』に怯えていたあの頃は、
こうして毎日この時間帯に登校していた。
美桜ちゃんに、私の血液を捧げるために。
教室の扉には、カギが掛かっていなかった。
扉を開ける寸前、私は息を飲む。
この部屋の中には今、『彼女』が居る。
以前と同じように、鼻歌を歌うか読書をしているかしながら、
私がやってくるのを待っているんだ。
そっと開かれた扉の向こうには、私の想像通り、
文庫本を構えた美桜ちゃんが居た。
「……おはよう、ももか。今日も可愛いわね」
「うん。おはよう。……美桜ちゃんも相変わらず綺麗だね」
朝の挨拶にしてはやたらと湿度の高いやり取りをしながら、
私たちはお互い、真剣な眼差しで向き合った。
今日こそ彼女を説得しなければならない。
宍色さんから、手を引いてもらうために。
「美桜ちゃん、あのね……」
意を決して話を切り出そうとした私の言葉をさえぎるように、
「もうじき覚醒するわよ?彼」
と、美桜ちゃんが言い放った。
その言葉に、私は軽い眩暈を覚える。
遅かった。やっぱり美桜ちゃんは、昨夜宍色さんに"種"を仕込んでしまったんだ。
「うそ……ウソでしょ……?」
「本当よ。昨夜宍色さんと逢ってきたから」
「あ……あぁ……」
昨日の私はおとなしく家に帰って、母とのん気に晩御飯を食べていた。
だけど、本当はそうするべきじゃ無かったんだ。
私が、迷っていたせいだ。
どんなに脅されても、どんなに痛めつけられても、
美桜ちゃんの傍に喰らいついて、彼女を止めておくべきだった。
「……ももかが私を放っておくから、宍色さんと逢ってきちゃった」
「……っ」
ママの悲しそうな顔が、目に浮かんでくる。
パパを失って、光を求めて彷徨っていた頃のママの姿が浮かんでくる。
もう、取り返しがつかないんだろうか?
ママはまた、生きる希望を無くしてしまうしかないんだろうか?
「ふふ……泣くほど嬉しい? 自分を穢した相手が、この世から消えるのが」
「えっ……?」
美桜ちゃんに指摘されてはじめて、私の頬に今、涙が伝っていることに気づいた。
だけどこれは、美桜ちゃんの言葉通りの涙なんかじゃない。
「ぐすっ……私は、ちっとも、嬉しくなんか、ない。
今泣いてるのは、ひっく。昨日迷っていた自分がっ、許せないから……」
しゃっくりが混じって、上手に喋れない。
涙がさらに溢れてきて、止まらない。
だけど私は、美桜ちゃんから決して目を逸らさなかった。
「……なんですって?」
恐ろしい『バケモノ』が、冷酷な表情で私に問う。
怖かったけど、私は必死に言葉を紡いだ。
「昨日は、貴女のそばに、居るべきだった……。
貴女が、宍色、さんに、……"種"を蒔くのを、止めるべきだった」
「止める? この私を? どうしてよ?
宍色鴇也が消えれば、貴女を傷つける人が居なくなるのよ?
自分をレイプしようとした男のために涙を流すなんて、貴女は変わってる」
宍色さんは、私を酷く傷つけようとした。
それは紛れもない、変えようのない事実だ。
だけど……。
「ぐすっ……宍色さんはね?
お母さんを……ママのことを、救ってくれたひとなの。
あの人は、真っ暗闇の中にいたママが、やっと見つけることの出来た……光なの。
確かにあの人は私を襲ったよ。間違いを犯そうとした。
だけど……ひっく。……だけどね?
彼が私達母子にとっての恩人だったのも、事実なんだよ?
だから私は、ちゃんとあの人と話し合ってみたかった。
もう一度だけ……チャンスをあげたかった。
彼が自分の間違いを反省してくれて、
私達が、ちゃんとした家族になれるための、チャンスを」
正直、彼を許したいと思う反面、迷ってしまう自分も居る。
あの時。―――宍色さんに襲われて、無理やりキスされたとき、すっごく怖かった。
美桜ちゃんが助けてくれることを、望むほどだった。
でも、だけど。
小学生の時から知ってる、あの人を。
休日に3人で出かけたり、何度も一緒にご飯を食べたり、
誕生日プレゼントにコピックを買ってくれたり、
家に篭りがちな私を『スケッチしに行こうぜ』なんて言って見晴らしの良い場所に連れて行ってくれたり、私を、他の刑事さんから庇って留置場から出してくれたり。
親子同然だった、宍色さんのことを。
もう一度信じてみたいって思ってる、自分も居る。
―――このまま、美桜ちゃんに命を奪わせたくない。
涙を流しながら、訥々と語る私を見かねた美桜ちゃんが、
はぁ……と大きなため息を吐いた。
「蘇芳村深紅の時もそうだったわよね。
……貴女は、自分を傷つけた相手のことを憎んだり出来ない、とてもか弱い子」
憐憫交じりの声を発して、美桜ちゃんは私を見つめる。
涙で滲んでよく見えないけど、いまの彼女の表情からは、
冷酷な『バケモノ』の雰囲気がすっかり消え去っているように見えた。
「――― 一つだけ、あるわ。『鬼』と化した人間を元に戻す方法が」
優しげな声で、美桜ちゃんがそう語った。
私の大好きな、"お友達"の声だ。
制服の袖で涙を拭うと、美桜ちゃんの顔が、よりはっきり見えた。
困ったような笑顔をした美桜ちゃんが、私に語りかけてくれている。
「おとぎ話でもよくあるでしょう?
大昔から、『バケモノ』を『人間』に戻せるのは、
"真実の愛"だけだと相場が決まっている。
誰かが宍色さんのことを心の底から想って、愛を捧げてあげるの。
宍色さんがその愛に答えることが出来たら……彼は人に戻れる」
「えっ……そ、それ、本当なの……?」
「ええ。貴女が大好きな漫画の中でもそうだったでしょう?
"アリシン"と化した『にんにくマン』も、ヒロインの愛で元に戻れた」
"真実の愛"。
誰かが彼にそれを捧げれば、宍色さんを救うことが出来る。
その言葉を聞いた瞬間、私の両手に再び力が宿った。
だけど私の両目からは、依然として涙が流れ続けている。
それでも。動かなきゃいけない。宍色さんはもうすぐ覚醒してしまう。
悲劇を防ぐために、私が出来ることをしなくてはならない。
胸ポケットからスマートフォンを取り出した私は、上擦った涙声のまま、
今頃職場に向かっているだろうママに電話を掛けた。
■
「ぐすんっ……あのね、ママ。よく聞いてね。ママにどうしても、
宍色さんに今すぐ伝えてあげてほしいことがあってね……」
涙を浮かべ、赤く充血した両目のまま、母に連絡を取ろうとするももか。
健気で必死で、一生懸命なももかの姿を見た美桜は、
そんな彼女のことを"愛らしい"と思った。
―――愛らしい、子。
『鬼』の『女』の言うことを素直に信じるだなんて、なんて愛らしい子なのかしら。
"愛らしい"という言葉は美桜にとって、相手をあざ笑うために存在する言葉だ。
美桜の語った言葉は全くのデタラメに過ぎなかった。
『鬼』と化した者を人間に戻す術は確かにある。
だが、"真実の愛"を持ってすればそれを為せるなどというのは大嘘だ。
現実は、おとぎ話ほど甘くはない。
王子様がキスをしたところで、毒に罹った姫の体が治るはずはない。
キスで毒を消せるなら、この世に医者などいらない。
"魔女"の呪いの前では、人間の愛など無力に等しかった。
美桜は今まで、
『鬼』のチカラの習性や仕組みについてはももかに嘘をついた試しがない。
だが、"真実の愛"でバケモノを人に戻せるというのは、
彼女が『鬼』に関することで初めて、ももかについた嘘だ。
美桜は柔和な微笑みを作りながら、
希望を手にして喜ぶ"愛らしい人"の姿を見つめた。
美桜がいま嘘をついたのは、優しすぎるももかを破壊してあげるためである。
『人間』がいかに薄汚れた生き物なのか、
目の前の少女の瞳に焼き付けたいのだ。
穢れなきその少女を、自分好みに染め上げたいのだ。
―――この期に及んで彼を信じようとするだなんて、
つくづく清らかな子。あぁ……。ますます好きになりそうよ。
だけどね、ももか。
貴女が思うほど、『人間』は清らかな存在ではないのよ?
せいぜいあがいて、酷く裏切られると良いわ。
『人間』に絶望した貴女の血が、どんな味になるのか、
今から楽しみよ。……ふふ。ふふふふ。
柔和な笑顔の下で美桜は、
"穢れなき供物"から光が失われる様を想像し、胸を高鳴らせた。




