第4話 長い黒髪の女 (3)
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小梅から漂うアルコールのニオイが、車内に充満していた。
後部座席には美桜とももかが座っている。
宍色は今、美桜の家へと向かうため、車のハンドルを握っていた。
食事を終えた後、
恋人とその娘を家まで送るついでに娘の友達も乗せることになった。
辺りはすっかり暗くなっており、若い女が一人で歩くには危うい。
―――特に、女を狙った怪事件の多いこの街では。
「君も家まで送ってあげよう。俺の車に乗りなさい」と宍色が声を掛けると、
「ありがとうございます」と言って、美桜は恭しく頭を下げた。
美桜のナビで、宍色は真華津上北区にある閑静な住宅街へと車を入り込ませた。
そこは宍色の住む南区や、ももかたちの住む清衣市とは正反対の方向だ。
手間ではあったが、だからと言って彼女だけを置いて帰るのも薄情だろう。
世間一般が想像する"紳士"ならばそう考えると思い、内心面倒だと思いながら宍色はハンドルを握っていた。
大きな一軒家たちが並ぶこの区域には、いわゆる、富裕層の人間達が多く住まう。
後部座席に座る黒髪の少女も、どことなく育ちが良さそうに見えた。
―――憎たらしいな。苦労一つ知らずに生きてきたメスガキか。
宍色の中で、憎悪の炎が、灯る。
「へえ。この辺りに住んでるなんて、結構なお嬢様じゃないか」
「うふふ。それほどでもありませんわ」
「親御さんはさぞ立派な仕事をしてることだろう」
「……母が芸能関係の仕事をしておりまして」
「ほお! 芸能人かい!? 通りで娘さんも綺麗なワケだ」
恥ずかしそうにはにかんだ美桜の笑顔が、バックミラー越しに見えた。
ももかと同じ年頃にしては、妙に色気のあるガキだ。
―――小梅とももかが居なけりゃ、こいつを犯してたところだったな。
だが今夜のターゲットは、あくまでももかだ。お前じゃない。
美桜の容姿を褒めた瞬間、隣に居る小梅から不機嫌そうなオーラが生じる。
年増の女がそう言った反応を見せることに対して、宍色は辟易した。
―――ババアが。一丁前に若い女に嫉妬してんじゃねえ。
あとで東雲家で飲みなおすときに言葉でだけフォローしておこうという算段を立てながら、宍色は住宅街の奥にある坂道に入り込んだ。
今夜は東雲家で酒を煽って、一晩を過ごすつもりだ。
すでに泥酔気味の小梅にも、更なる酒を盛ってやろう。
そうして母親を酔い潰した隙に、今夜こそももかの"扉"をこじ開ける。
オスの本能が屹立しそうになるのを、宍色は無理やりに抑えた。
「この坂道を登った先にある赤い屋根の家が、私の自宅です」
薄暗い車内で、美桜のウィスパーボイスが響き渡る。
暗闇から漂ってくるその静謐な声が一瞬、
ただならぬ存在感を発している……ように思えた。
坂道を車で飛ばしながら、宍色は妙な既視感を覚えていた。
―――この道、前にも通ったような覚えがある。
確か……3年ほど前か?
あの時は、でかいヤマを追っていたはずだ。
確か今追っているヤマと同じ、若い女が失踪する、怪事件……。
ドクン。
既視感の正体を掴んだ宍色は、心臓が大きく跳ねるのを感じた。
そうだ。この坂道を登った先には……"あの屋敷"があるはずだ。
いや、馬鹿な。そんなはずはない。
あの家の住人は、あれだけ探しても見つからなかったんだぞ!?
だけどこの坂道の先には、
あの屋敷がポツンと建ってるだけで他の住居なんかねえじゃねえか……!
戸惑う宍色は、長年刑事として培ってきた第六感をフル稼働させる。
彼の中のなけなしの"正義"が寄せ集まり、
『鬼の幻惑』をほんの少しだけ祓った。
―――"赤月美桜"という名前に掛かった、『幻惑』のみを、
―――ああっ!そうかチクショウ!
なんで俺は、こんな簡単なことにも気づかなかったんだ……!?
ももかの友達は確かにあの時、"赤月美桜"って名乗ったじゃねえか……!
赤月美桜とは、この街に伝わる心霊スポット、
『赤月邸』の、持ち主の名前だ。
得体の知れない恐怖が、宍色の中を暴れまわる。
先ほどまで下衆な妄想で悦に浸っていた宍色だったが、
刑事として長年培ってきた本能が、その愉快な妄想を打ち消した。
『危険だ!早くその女から手を引け!』
宍色の本能が、彼にそう何度も語りかけてくる。
「ここです。……わざわざ送ってくださって、ありがとうございました」
天使のような声が、後部座席から響き渡る。
車は屋敷の門前で止めた。
門の表札には『赤月』という苗字が刻まれている。
―――間違いねえじゃねえか、クソやろうぉ……!
「ねえももか。もう一晩だけ泊まっていってよ」
そう言って美桜はももかの手を引っ張り、彼女を車から引きずり降ろした。
外に放り出されたももかは、全開まで降ろされたドアウィンドウ越しに座る
己の"両親"に、ぺこりと頭を下げる。
「ごめんね。ママ。もう一日だけ、美桜ちゃんの家に泊まらせて?」
「仕方ないわねぇ~。明日には帰ってきなさいよ~?
美桜ちゃ~ん!娘のことをよろしくお願いね~!」
「ちょっと!ママ!止めてよ!」
親子の浮ついた会話を、宍色は切羽詰った表情で一瞥した。
今夜の獲物が遠ざかっていく……などと考える余裕など今の宍色にはない。
彼の視線は今、屋敷の入り口へと歩いていく美桜の後姿に釘付けだった。
美桜が歩くたび、その長い髪が揺れる。
その髪は、この世の闇を凝縮したかのように黒く輝いていた。
―――『長い黒髪の女』だ。
3年前、有名な女子高生シンガーの命を奪った女。
数日前、廃ホテルに居たという謎の女。
2つの怪事件の重要人物像が、目の前の美桜と合致する。
屋敷の中に入っていくと思われた美桜は急に足を止め、
車のほうを振り返った。
美桜と目が合った瞬間、宍色は表情をこわばらせ、冷や汗を噴出す。
―――殺される。
彼の本能が、そう訴えかけたからだ。
「貴方とはまた会えるような気がします。……おやすみなさい、宍色鴇也さん」
別れ際、美桜は透き通るような声で宍色の名前を呼んだ。
あまりにも美しすぎるその声が、焼きついたかのように宍色の頭に張り付いて、
その晩中、ずっと離れなかった。




