第3話 惹かれあう光と闇 (1)
その部屋は深い闇に包まれていた。
窓から差し込む淡い月明かりが、部屋の中央に座している長テーブルの真っ白なクロスを青く輝かせている。
そこへ一人、女が料理を抱えてやってきた。
女の持つお盆には一切れのパンとトマトサラダと血のように赤いトマトのスープ。
そしてデミグラスソースのかかったハンバーグが乗っている。
料理を机の上に置いた女は、
テーブルの中央に備えられた五つ股の燭台に向かって、パチン!と指を鳴らした。
女のフィンガースナップに呼応するかのように、燭台に備えられたキャンドルの先端から業火が迸り、その周囲を赤く照らす。
蝋燭に灯った小さく柔らかな明かりを頼りにして女―――赤月美桜が、
ナイフとフォークを持って食事を始めた。
ナイフでハンバーグを一口大に切り分け、口の中に入れる。
―――味は悪くないのだけど、
しばらく冷凍していたせいで風味が落ちてしまっている。
53点くらいの美味しさ。
やはり、人 の 肉 は新鮮なうちに食べるのが一番美味しいわね。
口の中のハンバーグを飲み込んで、美桜はそう結論付けた。
ハンバーグの素材に使ったのは,
先月この屋敷に忍び込んだ新田流介のバンド仲間の肉だ。
食べ切れなくて冷凍保存したままだった肉を、美桜は今処分している。
ここ半月、ももかの血液や深紅の魂といった食料に恵まれていたのは幸いだったが、そのせいで冷凍肉を片付けるタイミングをすっかり逃してしまった。
無理にハンバーグにしないで燻製や塩漬けなどの
保存食として使ったほうがよかったかもしれない。
極上の魂を喰らったばかりのいまの美桜は、
抑えきれないほどの"食欲"を感じずに済んでいるのだから。
二口めを切り分け、口に運ぼうとして……美桜は手を止めた。
この家の中に自分以外の生命が居るような気配を感じたからだ。
意識を、『嗅覚』に集中させる。
"それ"はあろうことか、自分の『妖力』と同じニオイがした。
そして美桜はすぐに悟った。"それ"の正体が誰なのかを。
「……愛らしい子」
相手は未だ、美桜の渡したペンダントを大事に身に付けてくれているのだ。
そのことが嬉しくて、美桜は頬をにやけさせた。
今日の朝、学校で逢ったときもそうだった。
素っ気無い振りをしながら、冷たい態度を取りながら、
私からのプレゼントを大事に持っているその姿を見て愛らしいと思った。
多少の苛立ちなど、全て水に流してしまえるほどに。
「貴女、意外と不躾なのね。
……ノックもしないで他人のお家に入ってはダメよ?」
美桜の言葉に反応して、"その人物"が物陰から姿を現す。
部屋の入り口に立ったももかは、
「……ごめんなさい」と困ったような顔で頭を下げた。
「お外から灯りが見えたから、また誰かが肝試しに来てるのかなって思って……」
「そんな頻繁に肝試しに来る人が居てくれたら、
お肉には困らないでしょうね」
「ごめんなさい……」
「……いいわ。許してあげる」
困り顔のももかが、部屋の入り口で立ち尽くしている。
美桜はフォークの先端を口元まで運び、再び53点のハンバーグを食べた。
■
逃げるように家を飛び出してきてから、とりあえず電車に乗り込んだ私。
だけど、特に行き先があるわけでもなかった。
とりあえず、今の持ち物はスマホだけだ。
スマホカバーに入れていた定期券で電車には乗れたけど、
財布はいつも鞄の中に入れてあるので、お金はまったく持っていない。
どこかで休憩したりご飯を食べたりすることも出来ない状態だ。
スマホを取り出すと、4件の着信履歴があった。
その全てが恐らく宍色さんからだろうことは通話アプリを開かなくても分かった。
私はそっと、スマホの電源を落とし、窓の外を眺める。
電車は陰泣市の方面へと向かっている。
こういうときに学校で仲の良い友達を作っておけば、
気軽に『親と喧嘩したから家に泊めて!』とでも言えたんだろうなぁ。
だけど生憎、私には友達なんて居ない。
―――いや、でも一人……。居るような居ないような……うーん。
どのみち赤月さんとは、いま喧嘩気味だし……。
私は……あの人とどう接したらいいんだろう?
まだ、よく分かんないや。
今朝学校で赤月さんのことを嫌っているような素振りをして見せたけど、
彼女のほうはきっと私のことを悪いように思っていないような気がする。
それどころか私なんかに……好意、を。抱いてくれているような気さえする。
私は、どうなんだろう?
私は、『鬼』の赤月さんのことが嫌いだ。
冷酷で、残忍で、恐ろしくて自分勝手で、美味しいご飯が食べたいという理由だけで、平気で人を騙して食べる赤月さんのことが嫌いだ。
だけど私は、"お友達"の美桜ちゃんのことは好き……なんだと思う。
お嬢様っぽくて、優しくて、ユーモアがあって、いつも冗談を言っては私を笑わせてくれて、悲しいときや困ったときに助けてくれる美桜ちゃんのことは、好き……だ。
もしも。
もしも今から逢いに行ったら、彼女はどんな風に接してくれるだろう?
『鬼』の赤月さんじゃなくて"お友達"の美桜ちゃんに逢えるのなら、
私は今、無性に彼女に逢いたい。
美桜ちゃんに逢えるのならきっと、
この身の寂しさも不安も心細さも怖さも、何もかも消してしまえる気がする。
「まもなく、終点。終点の~『陰泣』。『陰泣』です」
アナウンスが車内に響いて、まもなく陰泣駅に到着することを告げた。
陰泣駅から赤月邸まで行く道筋は知ってる。
初めて彼女に出逢った夜は、徒歩であの屋敷まで行ったから。
これから会う"赤月さん"が"美桜ちゃん"であることを願いながら、
私は赤月邸までの道を歩き始めた。
■
椅子に座った私は、彼女が食事をするのをじっと見守っていた。
机の真ん中に置かれた蝋燭の灯りのみを頼りに食事するだなんて、
なんだか異世界にでも迷い込んだような気分だ。
彼女はただ無言でご飯を食べている。
肉を切るナイフがお皿にぶつかる音だけが部屋に響いていた。
「どうして……こんな時間に私の家に来たの?」
ナイフとフォークをお皿の両脇に置き、ナプキンで口を拭いながら、
彼女が私に尋ねてきた。
どうしよう……なんて答えれば良いんだろう?
『母親のカレシに襲われて家に居られなくなった』だなんて、かなり言いづらい。
「さっきペンダントの……『結界』の力を使ったでしょう?」
「……うん。気づいてたんだね」
「……気づいていたけど、
貴女の周囲に他の『鬼』の気配を感じなかったから放置した。
……もしかして貴女、人間相手に私の力を振るったの?……悪い子ね」
彼女に咎められて、私の胸がずきん、と痛む。
あのバリアは、『鬼』と化した深紅ちゃんの身体すら容易に吹き飛ばせるほどの威力を持ったバリアなんだ。
いくら緊急事態だったとはいえ、
人間の宍色さん相手に使ったのは不味かったかもしれない。
「ごめん……なさい」
「うふふ。謝る必要なんてないわ。貴女が悪い子になってくれると、私も嬉しい」
「わ、私は嬉しくない……いい子で居たいもん」
「いい子は……夜中に恋人の家に押しかけるようなふしだらな真似はしないわ。
一夜を共にしたいと言っているようなものでしょう?」
「こっ……!?恋人……じゃない……!」
「貴女がどれほど否定しても、もう皆そう思ってる」
「う……ううぅ」
今朝の光景が目に浮かぶ。
彼女のせいで、クラスの皆に変な目で見られるようになってしまった。
……いや、今までも十分変な目で見られてたとは思うんだけど、その変な目のベクトルがすっかり変わってしまったような感じだ。
真っ赤になった顔を伏せて縮こまった私に、彼女が言った。
「どうして私の家に来たのかは、話したくないのなら答えなくていい。
お家に居づらいのでしょうということは貴女を見ていればなんとなく察しが付くわ。良ければ泊まっていきなさい」
視線を上げると、彼女は微笑んでいた。
切れ長の瞳の目尻を垂れさせて、慈愛に満ちた表情で私を見ている。
―――美桜ちゃんだ。私の"お友達"の、美桜ちゃんの表情だ。
美桜ちゃんが泊めてくれると聞いて、私はとても安心した。
宍色さんに襲われてからずっと怖かったから。
寂しくて不安だったから。誰かに傍に居てほしかったから。
受け入れてもらえて本当に良かった。ここで断られたらどうしようって思ってた。
「ありがとう……美桜ちゃん」
あまりにも嬉しくて、泣きそうな声になってしまった。
安心したせいか、私のお腹がぐぅ、と鳴る。
どうしようもない恥ずかしさを覚えて、私は咄嗟に両手でお腹を押さえた。
そういえば、お昼ごはんを食べてからこの時間帯まで、ほとんど何も口にしてなかった。作りかけたシチューを、一口味見しただけだ。
ふと、美桜ちゃんの手元にあるハンバーグが目に入る。
―――美味しそうなお肉だ……。
私の視線に気づいたのか、
「あぁ、これ?」といって美桜ちゃんがハンバーグを指差した。
そしてフォークで一切れのハンバーグを刺し、
「一口、食べてみる?」と言いながら私に差し向けてくる。
生唾を飲み込みながら、私は席を立って美桜ちゃんの傍に寄った。
だけどすぐ隣まで身を寄せて、私は気づいてしまった。
―――美桜ちゃんは確か、人間のお肉以外は食べない人じゃなかったっけ?
……このハンバーグは、何のお肉で出来てるんだっけ?
美桜ちゃんがニタァと笑う。私がお肉の正体に気づいたことを悟ったのだろう。
「ほら、お口を開けて?アーンしてあげる……ふふ、ふふふ」
悪戯に微笑む美桜ちゃんに向かって、
私はブンブンブンブン!と全力で首を横に振るのだった。




