再び図書館で
――― 飯田千恵 SIDE ―――
「………」
図書館。
ぱらり、と紙がこすれる音、微かに聞こえる書き物をしている音。
そこはただそれだけの世界。
私はこの静かな世界が好きだ。
きっとこの図書館にいる多くの人が、この中で本を読む密かな歓びを感じている。
図書委員である私も、カウンター席で本を読む。
本の中で、私はある繊細な大人の男性となり、落ち着いた感じの女性と甘く苦い恋をしていた。
主人公の感じている歓び、悲痛、諦観。
それを私が擬似的に体験している。
今この瞬間、私は地味な私ではなく、まったく違った異性になっている。
それが面白くて、心地よい。
そしてこの図書館にいる数多の人と、この心地よい空間を共有している。
そのことに微かな幸せを感じていた。
「飯田さん」
「はい?」
呼ばれて振り返ると、そこには司書の篠田さんがいた。
50才ぐらいのおばさまで、笑った顔がとても素敵な人だ。
将来、こんな穏やかな笑顔ができる人になれればいいなぁと、私は密かに憧れていた。
「そろそろ閉館の時間だから、音楽流すわね」
「わかりました」
私は読んでいた本を閉じて、図書館のカウンター席からざっと周囲を見回した。
少しすると、ショパンの『ノクターン』の穏やかな調べがスピーカーから流れ出した。
『閉館の時間が近づいてきました。本日は当図書館にご入館くださり………』
篠田さんの声が音楽と共に流れる。
その声に気づき、閲覧席から立ち上がり帰ろうとする人、読みかけの本を借りようとする人がこちらに来た。
私はそうした人たちに挨拶をしたり、図書の貸し出し手続きしたりして閉館までの時間を過ごす。
そして、最後の人が帰ったのを見て、私はカウンター席から立ち上がった。
「まだ誰か残ってないか、見回りをしてきますね」
「頼んだわよ〜」
篠田さんの声を聞きながら、私はまずは1階から見回りを始めた。
誰もいなくなったこの大きな図書館を、私1人が独占しているような気分になる。
そんな贅沢な気分を味わいながら、地下3階までの道のりをゆっくり歩いた。
地下1階、2階。残ってる人はいない。
地下3階………………あ。
最後の階で、館内放送に気づかなかったのか、閲覧席でまだ読書に没頭している人がいた。
学生服を着ているから、この学園の男子学生みたいだ。
……熱心な人だなぁ。
呆れ半分、関心半分で私はその人に近づいた。
「……すみません。もう閉館時間なので」
「………ん?」
「……あ!」
その人の顔を見て、私は思わず声をあげたまま固まった。
自分にしても珍しく図書館で本を読んでいたら、司書の人に声をかけられた。
「……あ!」
その人は俺に閉館時間を告げた後、盛大に固まっている。
………この気弱そうな顔にストレートロングの髪は。
補助科E組の飯田千恵だったかな。
「………なんだ?」
あまりにも固まったまま動かないので、とりあえず声をかけてみる。
「魔ー、さん………え…………その……………なんで………………ここに」
呆然とした表情のまま、飯田はようやくその言葉をひねり出した。
「いや、なんでと言われてもな」
普通に読書してただけなんだが。………閉館時間には気づかなかったが。
……まあいい。
「とにかく、これ返して帰ればいいんだな」
必要な知識は大体吸収したし、もう用済みとなった本を手に取った。
「あ、私が返します!」
慌ててそう言ってきたので、「どーも」と適当に返事して本を手渡した。
飯田は俺から本を受け取り、ちらりとその本の題名を見ると。
がくっと肩を落とした。
「………『逃げるが勝ち』」
飯田は心底がっかりしたというような声だった。
「なんだ?」
その本をバカにするなよ?
その本は銀行強盗をして巨万の富をゲットした著者が、警察相手にトムとジ●リー並の逃亡劇を繰り広げるという実話を描いたスペクタクルなエッセイなんだぞ?
「………見直して損しました」
「なにおう」
ま、その本の内容より、中に書いてある逃げる方法を参考にしたかっただけだから、バカにされたところで別にいいんだが。
………帰るか。
俺は無言で踵を返した。
背後で盛大なため息が聞こえたが、無視する。
かちゃっ
「………ん?」
帰ろうとしたが、扉が開く音がして思わず足を止めた。
音がした方を見ると、本棚と本棚の間から、誰かが部屋から出てくるところが見えた。
………っておいおい。
そいつが出てきた場所が、問題だった。
そこは、つい先日まで棚だった、この図書館の隠し倉庫だった。
いろいろヤバイ物が入っているらしいが、先日俺と八巻が誤って入ってしまったところだった。
ゆえに桃ちゃんは隠すのを止めて、その代わり鍵をつけたりセキュリティを強化したりして徹底的に入れないようにしたらしいが。
………普通に開けてたぞ、あいつ。
……とにかく跡をつけてみるかと、俺は先ほど本に書いてあった気配を消す方法を早速試した。
「………………ふぅ〜」
全身の魔力を均一にし、その状態で周囲と一体になる。
………何のこっちゃ、とは思う。
あの本の著者は実際こうやって、数々の危険な場面を乗り切ったらしいが。
俺ができることは、せいぜい魔力をどうにか一定に近い状態にして、足を忍ばせるぐらいだ。
本棚に隠れながら、影の見えた方に近づく。
ちらりと見てみると、そいつの身長は俺より少し高め、180cmぐらいか。手に何かの本を持っていた。
そいつはそのまままっすぐ階段を上ろうと………
「………あれ? 帰ったんじゃなかったんですか?」
「……!」
いきなり後ろから飯田が話しかけてきた。
やばっ!
人影の方を見ると、そいつはびくっと身体を震わせると、ダッシュでその場から逃げ出した。
「こら待て!」
追おうとしたが、時すでに遅し。不審者はもう見えなくなっていた。
「………何してたんですか」
不審者を見る目で、飯田が聞いてきた。
………ちくしょう。こっちの事情も知らないで。
「………いや、ちょっとな」
俺は言葉を濁しながら、さすがにこれは無視できないよな〜、と考えていた。
(………桃ちゃんに相談するか)
うふふふ………さーあ! 不穏な気配が漂って参りました!