3.the right to do what is wrong
最近、鐘の音が聞こえなくなった。
利用する人間が減ったんじゃあない。単純に人間の数が減ったんだ。
電気、ガス、水道といったライフラインは、辛うじてまだ生きている。だがいつまで持つか知れたものじゃなかった。食料は政府主導の配給になって、しかも渡されるのは缶詰ばかりだ。先細りは目に見えていた。
ほんの四年。
たったそれだけの時間で、営々と積み上げられた人類の歴史はここまでに落ちぶれちまった。
不安が透明な怪物のように闊歩して、街から人の姿は消え続けた。
どこに消え失せたかは、言うまでもない。
ホーマーもまた、怪物に捕らえれた一人だった。
彼がいついなくなったのか、正確にはわからない。メアリの一件以来、あいつとは疎遠になっちまってたからだ。
会えば、どうしたって俺の頭をピーターの影が過ぎる。そしてホーマーは親友がしでかした事を、自分の罪のように感じていた。互いに憎み合いこそしなかったが、俺たちは好んで顔を合わせる相手じゃあなくなってたんだ。それでも時折、電話越しでやり取りをする程度の関係は続いていた。
けれどある頃を境に、その連絡すらぱったりとなくなった。
こんなご時世だ。音信が途絶えれば気にもなる。思い切ってホーマーの家を訪れると、そこはもぬけの殻だった。 家のドアは開け放たれたままで、友人の大きな体も女王蜂のかまびすしい声も、どこにも見つけられなかった。
薄情にも俺に黙って、どこか別の暮らしやすい土地へ越したのだと信じたかった。だが、できなかった。
──乗り遅れている気がする。
固定電話脇のメモ帳に、誰に宛てるともなく書き残されたホーマーの字だった。
読んだ瞬間に確信をした。
あの女王蜂をどう説き伏せたのかは知らないが、あいつはピーターの言いつけ通りにしちまった。間違いを正しに行っちまったんだ。
そんなわけで俺の大切なものは全部「シュボッ!」、お空の彼方に消え失せたって事になる。
それからの夜は必ず、メアリの日記を捲った。縋るように繰り返し、何度も、何度も。
プライベートを盗み見るようですまない気持ちにはなった。けれど、やめられなかった。
几帳面な彼女の筆は、素晴らしい過去をありありと蘇らせてくれる。アルコールに溺れるように、俺はメアリの残像に耽溺した。でなければ、そのまま壊れてしまいそうだった。
けれど帳面を閉じて明かりを消せば、俺はまた独りだ。
眠りに落ちるその時まで、ずっと独りっきりだ。
「──嫌だ」
懇願を搾り出してたところで、何が変わるはずもなかった。
ここは行き止まりだ。助けは来ない。ただじりじりと、絶望にすり潰されるより他にない。
鋭い痛みが胃を襲い、吐き気がこみ上げる。
今はまだいい。俺はメアリを思い出せる。
だがこの先はどうだろう。
時間は酷薄だ。ヤスリがけのように少しずつ記憶を削ぎ落として、俺はいずれ忘れてしまう。メアリの顔も、声も、そのぬくもりも。大事に抱えた全ては色褪せ、水のようにこの両手から零れて失せる。
本物の孤独がやって来るのはその時だ。それは死と遜色がない。
──嫌だ。嫌だ。嫌だ。
呻いてたところでどうしようもなかった。
閉塞の感は怪物の腕さながらだ。俺は窒息しようとしている。
「これはね、天国への階段なんです!」
頭を掻き毟る横で、スマートフォンが明るく歌った。
*
朝の街を、肩で風を切って行く。
片手に抱き締めた日記帳も上着のポケットの重みも、元々大したものじゃない。加えて昨晩、天啓のように閃いた気づきが足取りを軽くしていた。
見上げれば雲ひとつない空。
俺の心を映すような青に、ますます幸福な心持ちが強くなる。鼻歌のひとつも出そうだった。これだけ人目がないのだから、下手なステップを披露したっていいかもしれない。ジーン・ケリーのように歩けば、教会までの道程はたちまちだった。
久方ぶりに全貌を見る教会は、相変わらず荘厳で神聖だった。周囲の空気までもが澄み切って、しんと冷たく思われるほどに静かだった。
その佇まいに胸が高鳴る。まるで初恋の相手を目にした時みたいだった。
つい足が早まったところで、教会の前を掃き清める、一人の女が目に留まる。
思わず口笛を吹きそうになった。
もっと探し回るのを覚悟してたんだが、一軒目でとは運がいい。やっぱり俺はついている。
日記を丸めて空いてる側のポケットにねじ込み、
「やあ、こんにちは」
心の昂ぶりが声を震わせないように。努めて明るく何気なく、俺は彼女に挨拶をする。
一瞬驚いた様子だったが、女もすぐににっこりと微笑んだ。その綺麗な歯並びは、記憶にある通りだった。
朗らかに挨拶を返そうとするその一瞬を狙って、俺は彼女を体当たりの勢いで突き飛ばす。教会の壁に激しく背を打ち付け、女は、かは、と咳き込んだ。箒が手を離れ、乾いた音でアスファルトに転がった。
生じた距離をすぐさまに詰め、女の体をもう一度壁に打ち当てる。襟首を掴み、間近の距離から瞳を覗いた。
見えたのは、入り混じる驚きと恐怖。
困惑と混乱の色が怒りへ移行し、言葉に変わる瞬間を見計らい、
「なに……ぐッ!?」
俺は開かれた彼女の口に、ポケットから抜き出した銃身を突き込んだ。
まあ銃身といってもメアリの護身用だった、全長十数cmの拳銃のものだ。別段大した長さじゃあない。おかげでトリガーガードに置いた指が唾液に濡れて気色悪いが、これはぐっと我慢する。
「頭蓋骨ってのは丸くて硬い。こめかみに突きつけて引き金を引いたのに自殺し損ねたなんて話もある。逆に言えばな、口から脳へ、ってのは確実なんだ。わかるな? わかったら黙れ」
囁いて、生殺与奪を誰が握るのかを理解させる。
周囲に他の介添え人の姿がないのは確認済みだが、大声を出されるのはいただけない。
「俺を覚えてるか? いや、まあ、どっちでもいい。今日はあんたに御礼をしに来たんだ。家を出るその前に、きちんと電気を消したかどうかを確かめるだろう? それと同じだ。出かけるその前に、ちゃんと気がかりをなくしておこうと思ったのさ」
奴らは──もとい、彼らは、俺たちを試している。
昨夜脳髄に舞い降りた、論理的帰結がこれだった。
だってそうだろう?
嫌悪する生物の生態を具に研究するような、馬鹿げた精神構造なぞありえない。
ならこうも人間の習性に博識な彼らは、俺たちを深く愛してるって事になる。これは少なからぬどころか、ほぼ確実と言っていい可能性だ。
なんせ、そう考えれば全てが符合するんだ。
人類が初めて遭遇した知的生命体が彼らだったように、彼らにとっても人類が初めてだったはずだ。奇跡のような確率で出会った手を取り合える相手へ向けて、駆除だの侵略だのの思考を発展させる方がおかしい。
では今のこの苦境は、人類の惨状はなんなのか。
答えは明確だ。
これは試練であり審査なんだ。彼らは俺たちを試験して、基準を満たした人間だけを救っている。
「あんたら介添え人はご立派だ。自分でもそう思っているんだろう? 自らの善を確信しているんだろう? なら怖がる必要なんてない。むしろ喜ぶべきだ。非の打ち所のない善人が、逆恨みで悪党に殺される。実に泣ける悲劇じゃないか。善人の魂は、きっと天国で救われる」
教会はその為の装置だ。
死に臨んでの、偽りない心を彼らは見ている。確かめている。
ちょうど今、俺がこの女にしているように。
「だから暴れるなよ。済んだらあの部屋に入れてやる。ちゃんと、階段を昇らせてやるから」
告げた途端、女の体が跳ねた。銃を咥え込んだまま、必死の形相で遮二無二暴れる。
だが無駄だ。所詮は女の細腕だ。
左腕一本で押さえ込み、引き金に指をかけた。じわり、じわりと時間をかけて、ゆっくり引き絞って見せる。
血走った女の目が、その動きの意味を理解する。そして。
カチン。
小さく撃鉄が鳴った。
口から銃を引き抜くと、女はずるずると背なで壁を擦りつつ地面へ頽れ、そのまま膝を抱えてすすり泣いた。
辺りに小便の匂いが立ち込める。
──やっぱりだ。
どうせだろうと思っちゃいただが、やっぱりこいつら、彼らを少しも信じちゃいない。
そもそも心から教会を、延いては彼らを信じるのなら、階段を昇るのを躊躇いはしないはずだ。
だのに介添え人どもは揃って地上に居座って、「勿論いつかは我々も旅立ちます。ただし、それはできる限り多くの手助けをした後でです」なんて御託を唱え続けてやがる。要するに連中は、自分だけは許してください、見逃してくださいとと手をこすり合わせてひれ伏す馬鹿の群れってわけだ。くだらない。
首を振って、俺は拳銃を投げ捨てる。
遊底を引いてあっただけで、弾なんざ端から籠めちゃあいない。
何故って殺しは悪い事だ。
そして子供でも知っている。悪い事をしたら、天国へは行けない。
まあちょっぴり驚かせちまったかもだが、所詮はただの悪戯だ。これくらいの茶目っ気、彼らなら目こぼしをしてくれるさ。
ともあれ、これで出立の準備は整った。
メアリを奪い去られた意趣も晴らせたし、この女が後から来る事は決してないと確信も持てた。
すっかり関心が失せた女を捨て置き、俺は教会の扉を潜る。
介添え人の手入れの成果か、最初からそういう具合に作られているのか、開閉は音もなくスムーズだった。
内部に人の姿はない。
早朝だからか、もう利用者が消え果てたからか。まあどちらだろうと、俺には関係のない事だ。
彼らは敬虔で勇気ある者を選別している。
あんな宗教屋どもとは違うって、俺は本当に彼らを信じてる。だから彼らは必ず俺を見ていてくれる。
つまりこれは天国への階段なんだ。
俺には資格がある。他の誰をも拒む扉も、俺だけには開かれる。だって俺は、こんなにも哀れなのだから。
正しい世界に行きさえすれば、間違いはすぐに正されるんだ。
なら、乗り遅れるわけにいかないだろう?
それに──。
もし全てが俺の妄想だったとしても、訪れるのは精々がとこ死だ。喜びに満ちた死だ。
夢も希望も何もなく、独りきり枯れ果てつつあるのが俺だ。死んだ方がマシなのが今の俺だ。
呼吸と鼓動をするだけの状態を「生きる」とは言わない。躊躇う必要はどこにもない。
見回して、俺は左手中央の扉へ進む。メアリと、同じ部屋がよかった。
踏み出そうとして、足がもつれた。どうしたことか膝が震える。とめどなく汗が滲んで、喉はすっかりカラカラだ。呼吸の音がひどく耳に障る。くそったれ。
目を閉じて、深く息を吸って吐く。
大丈夫。
俺は信じてる。彼らの愛を信じてる。
これは天国への階段なんだ。大丈夫。大丈夫。大丈夫。
他の連中とは違う。特別だ。俺は特別だ。彼らにとっての特別なんだ。
だから大丈夫。俺には幸せが待っている。
ひと足先に行っちまった、あいつらがきっと待っててくれる。
遅刻の罰は次のディナー。それが学生時分からのルールだった。三人分の奢りは財布に響くが、ま、仕方ない。甘受するさ。
だから皆、そこに居てくれ。俺を置いていかないでくれ。
水中を進むような緩慢さでノブに手を伸ばす。
その拍子で、日記がばさりと床に落ちた。拾い上げる勇気はない。
オーケー、わかってる。本当は全部わかってる。
それでも。
「くそったれ。くそったれ。くそったれ。くそったれ。……」
抗うように紡ぐ唇を無視して、俺は扉を押し開けた。