その歌に乗せて
ネオンサインが彩る裏通りを、俺は歩いていた。手にはギター。その辺の飲み屋に立ち入っては、リクエストに応えて歌を歌う。いわゆる、流しって奴だ。地元じゃ一番だった俺の歌も、上京してきたこの地では、三流もいいところ。売れずに苦節二十年。三十後半にもなってこんなことをしているよりも、故郷に帰って、老いた両親のこぢんまりとした店を継いで、親孝行をするのが筋ってものだ。
そんな当たり前な事が分かっているのに、なかなか故郷に帰れないのは、若い頃に夢見たプロに未練があるからだろう。飲み屋の中の一席じゃなく、ステージの上で万の客に歌を振る舞う。十の客も満足させられない俺には、とてもとても叶わない。
そんな葛藤を抱えながら、今日の路銀を稼ごうと、輝くネオンを品定めする。儲かっていそうなのはどこか、酔っているのはどいつか、そんな事を見極める能力ばかり磨かれた。
どういう訳か、路地の終点、住宅街の入り口まで、儲かりそうな店は無かった。仕方なく引き返そうとして、ふと、声が聞こえるのに気が付いた。寂しく鳴いている虫の声をコーラスにして、拙い音楽が流れている。その、泣きそうな響きに引き寄せられて、俺は住宅街に立ち入った。
ネオンの代わりに、街灯が俺の姿を照らす。手にあるギターは明らかに場違いだ。この場所では、ギターを持った流しなんかより、家族の手土産の買い物袋を持ったサラリーマンの方が、よっぽど喜ばれるだろう。すぐそばの家から漏れる明かりは、中の暖かい雰囲気を伝えて、場違いな俺を非難していた。
だからだろうか、その声は近くの暖かな声に負けることなく、もしくは、交じることが出来ずに、俺にまで届く。この場所には、俺も、その声も、外れ者だった。俺の心は、磁石のようにその声に惹かれる。
声が近くなった。そこにあったのは、一つの小さな公園。円になった椅子に座って、声の主は泣いていた。歌いながら、でもその声は確かに泣いていた。俺からは、公園のたった一つの電灯に照らされた背中しか見えなかったが、それでも分かった。綺麗な黒髪が、背中に流れている。
円形の椅子の反対に、背中合わせに腰掛けた。泣いている声に耳を澄ませたまま、俺はギターに手をかけた。ギターからも、音が流れ出す。声に寄り添うように奏でた。少し声が乱れたが、それもすぐに無くなった。
虫たちのコーラスが、周りの茂みから聞こえる。彼等も一人きりで、相手を求めて鳴いているのだろう。だからこんなに寂しいコーラスになる。声は何を求めているのだろう。一人きりの寂しさだけが、声を伝って流れ込んでくる。
俺の音は、どんな風に聞こえているのだろう。寂しい。悲しい。辛い。でも、一つだけ諦めきれない。一欠片でも伝わっているか。心に聞こえているか。それが出来ているのなら、きっと、俺の二十年は、無駄じゃなかったのだ。
周囲の住宅から漏れる明かり達は、俺達なんて知りもせずに、暖かさを満たしている。歌う俺達を囲んでいるのに、彼等は観客には成り得ない。俺達を拒絶する。最高のステージに立っているのに、結局のところ、俺達は一人きりだった。
バチバチッと音がして、電灯が暗くなった。俺達を照らすスポットライトであり、唯一の観客だった電灯も消えた。俺達は、どちらからともなく歌を終えた。
ちらりと振り返る。声の主がこちらを見ていた。想像通り、その頬には涙の跡が、月明かりに照らされて煌めいていた。想像以上に、声の彼女は美しかった。
「ありがとう。良い物を聞かせてもらったよ。お金の代わりに、これを上げよう。大事に使ってくれよ」
俺は、ギターを彼女に渡した。このステージで俺の心は決まった。最高のステージが終わったプロは、引退をする時期なのだろう。
「え、こんなの、貰えませんよ。大切な物なんでしょう?」
彼女は、そんな事を言って、ギターを返そうとする。そうだとも。それは、俺が世界で一番に大切にしていた物だ。夢を持った十代に、コツコツとバイトを重ねて買った、俺だけの相棒。
「勿論。だからこそ、君に上げようと思ったんだ。これから夢見る君に。俺の夢も連れて行ってくれよ」
それにきっと、そいつがいれば寂しくはないだろう。一人では寂しい夜も、二人なら寂しくない。そんな相棒がいたから、二十年もやってこれた。そういうものに、そいつはなってくれる。
決別をするように、彼女に背を向けた。後ろで、何かを拭う気配。そして、下手くそな音が響いた。振り返る。頬にあった涙の跡は拭われて、綺麗な顔が露わになった。手は、古ぼけたギターに添えられていた。
「分かりました。ありがとうございます。きっと、大事にします」
俺は頷いて、踵を返した。
一年後、俺はラーメンの麺を茹で上げながら、テレビを見ていた。とある、音楽番組が流れていて、そこにいたのは、いつかの彼女だった。ちょっと大人になって、あの美しかった黒髪をショートに切っていた。
「今年、大ヒットした理由は、何だと思いますか?」
おかしなスーツに身を包んだ司会者が、彼女にマイクを傾けて尋ねる。彼女は、古ぼけたギターをぎゅっと胸に抱いて、微笑んだ。
「きっと、この、相棒がいてくれたからです。この子がいなければ、私は今頃、どこかの公園で寂しく一人で歌っているでしょう」
そんな受け答えをして、彼女はステージに立つ。対面には、万を超える客の群れ。彼女は歌い始める。その声には、あの時の寂しそうな響きは無く、夢の放つ輝きに溢れていた。