おとをきく
移動教室のある休み時間、トイレに行った友人を一人で待っている、その周りに誰もいない一瞬を狙いすましたかのように一人の男が近づいてきた。実際彼は俺が一人になる瞬間をずっと待っていたのだろう。元々クラスでは誰とも話さず顔も合わせない人間として通っている。そんな彼が誰かと話している所を見られれば少なくとも当分はクラスの話題になる。僕のことを何も知らない人間に憶測で物を言われるのは耐えられない、と以前彼はそんなことを言っていた。それなら無関心でいてくれた方がずっとましだ、とも言っていた。そして今、望み通り彼はクラスの中でまるで空気のような扱いを受けている。誰とも関わらないように、誰にも話題にされないように、彼が心血を注いで作り上げた今の環境を俺と話している所を見られるという理由で壊されるのはあり得ないのだろう。
「これ」
彼が差し出したのは一冊の本だった。教科書にも載ってる名作、芥川龍之介の『羅生門』。
「どうだった?」
「……低いドみたいな感じだった」
それじゃあ、と言って立ち去ろうとする彼を慌てて引き留め、持っていた鞄から一冊の文庫本を取り出し彼に渡す。夢野久作の『瓶詰め地獄』。
「また感想をよろしく」
彼は表情を変えず淡々と本を受け取り、何も言わずに去っていった。
彼こと石野真と初めて会話をしたのは半年ほど前のことだった。
その日は日曜日で学校は休みだった。部活もバイトもしていない人間にとっては一日が自由になる素晴らしい日。そしてその日俺はある美術館に向かった。学校の誰にも会わないように警戒しながら家を出たことを覚えている。俺は俗に言うとスクールカースト上位の人間だ。元気に外でサッカーをしたり授業中に先生に冗談を言ったりそういったことを求められている人間なのだ。決して読書をしたり人があまり寄り付かない美術館に行くことを求められているわけではない。だから学校の誰かに会って俺のイメージが変わることは避けたかった。
町はずれの樹木が多く植えられた公園の中に、ひっそりとその美術館はあった。人の気配はあまりなく、無事美術館にたどり着くことができた。入場券を買って入館する。何度も来たことがあるので手慣れた作業だ。ここの美術館は日によって展示される作品が変わるので、何度来ても飽きない。展示されている作品を一つ一つ丁寧に見ていった。
ふと何気なく顔を上げる。すると目の前に見覚えのある顔があることに気付いた。同じクラスの、石野真。授業中以外でクラスでの発言が皆無な生徒。普段は無口な彼が一枚の絵に見入っていた。普段の学校での能面のような表情とは違い、その目は輝いていた。
なぜ俺が彼に話しかけようと思ったのか未だにわからない。いくら無口とはいえ、カーストが違うとはいえ、クラスメイトなのだ。しかも当時は彼のことを全く知らなかった。休日に美術館に来ていたことを言いふらされる可能性も皆無ではなかった。それでも俺は彼に話しかけた。今から考えるとおそらく彼を一目見た時から自分と似ている何かを感じていたのだろうか。
「なあ、その絵、どう思う?」
いきなり話しかけられた彼は大して戸惑った様子を見せなかった。この美術館では見知らぬ他人から作品の感想を求められることはよくあることなのだ。絵の方に目を向けたまま、彼は感想を答えた。
「高いミの音みたいな感じがする」
「高いミ?」
「そう」
話している間彼は一切こちらを見なかった。
「皆にはわからないかもしれないけど僕はわかる。この絵は確かに高いミのおとがする」
俺は彼のその感想に興味を持った。と同時に疑問も沸いた。俺の見ている世界は彼にはどの様に見えているのだろう。俺はその日たまたま鞄に入っていた本を彼に差し出した。夏目漱石の『こころ』。
「これを読んだらまた違う音が聞こえるのか?」
彼はちらっと本を見て答える。
「そうだね、きっとこの絵とはまた違ったおとが聞こえるだろうね」
「なら、この本を読んで俺にその感想を聞かせてくれないだろうか」
「は?今度君に会える保障なんてないじゃないか。僕は知らない誰かに連絡先を教えるほど不用心な人間じゃないよ」
やっぱり気付いてなった、と俺は少しおかしくなった。
「知らない誰か、じゃないよ。クラスメイトじゃないか、石野真くん」
その時初めて彼は俺の方をはっきりと見た。あの時の彼の驚いた顔は忘れられそうにない。
「あの時は本当に驚いた」
彼は読み終わった『瓶詰め地獄』を差し出した。
「俺の方こそ驚いたさ」
差し出された本を受け取り次の本を鞄から探す。
「もう少し普通な感想をイメージしてたんだぜ」
「でもお前は笑わなかった」
彼曰く、昔から絵だけでなく本や風景、人間すらも音で表現する癖があるらしい。そしてその癖は周りに受け入れられることはなかったのだという。普段から無表情の彼にしては珍しく顔をしかめた。
「まさか僕に本を読んで感想を言えなんて言ってくる人間がいるなんて考えもしなかった。しかもそれがクラスメイトだなんて」
実は俺が彼に本を貸したのは本の感想を聞きたい以外にもう一つ理由があった。それはある一つの質問をすることだった。そのためには彼に俺のことをよく知ってもらう必要があった。そして俺は今日、彼にその質問をぶつけてみることを決めていた。
「そういえば聞きたいことがあったんだ」
「なに?」
俺は鞄から見つけた本を渡しながら尋ねる。太宰治の『人間失格』。
「君から見て俺は、どんな音がする?」
彼の動きが一瞬止まった。目を伏せて何気ない様子で返事をする。
「どうしたの。本の感想だけじゃ飽き足らなくなった?人なら芸能人のイメージとかなら結構言えるけど」
「そうじゃない」
頬が熱い。こんなことを聞くなんて柄じゃないことはわかっている。それでも気になった。
「俺の音が知りたいんだ」
このセリフ、客観的に聞いたらかなりイタイなぁ、などとしょうもないことを考える。
「頼む、教えてくれないか。君はこの半年間俺のことを少なからず見てきただろう。君から見て俺はどんな音がする?」
返事を待った。しかしいくら待っても彼は何も答えてくれなかった。沈黙が続く。答える気がないのかと思ったその時、彼は口を開いた。
「……きこえないんだ」
「え?」
「お前から、おとが聞こえないんだ」
その日以来、俺は彼と話さなくなった。本の貸し借りもパタリと止み、まるで何事もなかったかのように毎日が進んだ。彼と出会った美術館へも足を運ばなくなり、俺と彼がつながっていたと示すものは何一つなくなった。俺自身、あれは夢だったのではないかと思うこともあった。
(だとしたら、ひどい夢だよな……)
授業中、ぼーっとしながら考える。授業の内容はもうほとんど頭に入っていなかった。美術館で一緒に見た絵も貸した本も、テレビに映っているだけの芸能人すらも彼は音が聞こえると言っていた。つまり音が聞こえないのは俺だけだということになる。それはつまり何を示すのか。よっぽど彼が俺のことを見ていなかったか、あるいは、
(俺の中身が空っぽってことなのか……)
普段から自分を偽り、作った自分で周りと接している俺にとってその評価は胸を突くものがあった。自分が何を考えているのか、何がしたいのか、自分は一体何なのか、まるで分らない時がある。だからこそ自分を示す音が知りたかった。その結果が、これだ。
(結局、俺を示すものなんて、何もなかったってことだな)
自嘲気味に笑う。
「おーい、何笑ってんだぁ?そんなに授業が面白いかぁ?」
教師は俺に声を張り上げる。しかし本気で怒っているわけではなかった。こういう時に求められている俺の役割は、
「あー!サーセン!実は昨日見たテレビのお笑い芸人が先生と似ててぇ、つい笑っちゃったっす!」
「何だとぉ!お前失礼だぞー」
教室は笑いに包まれた。そう、俺に求められる役割は道化だ。そして俺もこの役割は嫌いではない。教室にいる誰もが笑っている中、彼、石野真だけは笑っていなかった。
(あーあ、疲れた……)
誰もいない教室で俺は机に突っ伏した。時は放課後。一緒に帰ろう、と何人かのクラスメイト誘われたのだが、少し一人になりたかった俺はその誘いを丁寧に断った。教室は夕日に照らされ赤く染まり、外からは部活をしてる生徒達の声が聞こえる。一人になってもすることは何もない。ただ少し、誰にも邪魔されずにぼーっとしたかっただけだ。ぼーっとした頭で余計なことを考える。
(結局俺って何なんだ)
(俺は中身がない空っぽの人間なのか)
(俺は何を考えてるんだ)
(俺は何をしたいんだ)
(わからない)
(俺は、俺で、俺が、俺を……)
「わっかんねぇよぉ!」
思わず教室で一人叫ぶ。人がいなくて本当によかった。誰もいない教室で一人叫んでいたところなんて見られたら次の日から変人扱い確定だ。
「もう知らね」
とっ散らかった思考をほったらかしにしてふて寝の態勢に入る。とその瞬間に教室のドアが開いた。
「何がわからないんだ」
入ってきたのは、今一番会いたくない相手、石野真本人だった。
「教室の中で一人叫ぶって相当変人だぞ」
「……君に言われたくないな。それより何してるの。君、帰宅部だったよね」
「あぁ、少し用事があったんだ。……ちょうどよかった、お前、今から時間あるか?」
「は?何で」
「少し付き合って欲しいんだ」
連れていかれた場所は音楽室だった。彼はまっすぐピアノへ歩み寄り蓋を開く。そしてピアノの椅子に座った。
「お前、横座れ」
「え?狭いんだけど」
「座れなくもないだろ。座れ」
確かにピアノは連弾が出来るように二人分座れるようになっているが、それでも狭いものは狭い。
「一体何なの、この間のことを気にしてるの?別にあれは君のせいではないし俺は気にしていないから」
「僕、考えたんだ」
俺のセリフをぶった切って彼は続ける。無視かよ。
「僕が人のおとを聞こえないなんてありえない。だから他に原因があるんじゃないかって考えた」
「だから、あれは君のせいじゃないって……」
「僕が嫌なんだ。お前のおとが聞こえないなんて、まるでお前が空っぽみたいじゃないか」
胸が冷えた。指先の感覚がなくなり、一瞬音が遠く感じた。そうだよな、君もやっぱり、そう思うよな。
「じゃあ俺が空っぽってことなんだろ」
うつむきながら話す。
「君に原因があるって考えるより、俺が空っぽだって考えた方が丸く収まるし論理的だ」
声が少し震えた。まともに顔を見ることができない。そうだ、君に空っぽだって言われることが一番怖かった。自分の姿を一番さらけ出したのは、君が初めてだったから。君も、僕を空っぽだって思うのか?
「お前、案外馬鹿だな」
「は!?」
思わず顔をみると、彼の顔に浮かんでいたのは紛れもない『呆れ顔』だった。
「今までに話した文脈を考えろよ。僕がお前を空っぽじゃないって思ってるから僕に原因があるって言ってるんだ。話分かるか?」
「え、いやだから、そもそもそれが勘違いだって……」
「何が勘違いなんだ。そもそも僕が今までどれくらいお前と接してきたと思うんだ。お前が空っぽならその時点で交流を絶っている。空っぽの人間なんて怖いからな。いいか、僕がお前のことを空っぽじゃないと言ってるんだ。何だお前、僕のことを信用できないのか」
「……いや、できるよ、君は信用に足る人間だよ」
「わかってるならいい」
彼は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。彼の言葉が、嬉しかった。自分を、本当の自分を知っている人間に自分を認めてもらうことが、ただただ嬉しかった。が、俺の音が聞こえないという事実には変わりはない。では彼が考えるその原因とは何なのか。
「僕がお前と初めて話した時、お前、僕に本を渡しただろ」
「そうだね、感想を聞きたかったから」
「それから僕とお前って話すときいつも何かしらの本を渡してた」
「うん、そうだね、それが俺たちの関係だったからね」
「僕が思うに、たぶん本のおととお前のおとが混同したんだ」
「混同?」
「あぁ」
音が混同するなんてことがあるのだろうか。いや、音は彼の中で鳴っているのだから、最早何でもありなのかもしれない。
「借りた本の音に混ざってお前のおとが埋もれたんだ。だからお前のおとは、今まで借りた本のおと全部なんだ」
「え?全部?」
「お前、僕に貸した本全部、今この場で言えるか?」
「うん、言えるけど……」
「言え」
「えっと、一冊目は夏目漱石の『こころ』……」
彼はピアノの鍵盤を叩いた。レの音がぽーんと鳴る。
「何、してるんだよ」
「は?お前が言ったんだろ。お前自身のおとが聞きたいって」
「言ったよ、でも……」
「いいから、次の本言えよ」
「……武者小路実篤の『友情』」
「低いドだな」
ポーの『黒猫』、谷崎潤一郎の『刺青』、シェイクスピアの『リア王』、志賀直哉の『小僧の神様』、坂口安吾の『堕落論』、安倍公房の『砂の女』、島崎藤村の『夜明け前』……。
高いミの音、普通のドの音、低いソの音、低いファの音、高いレの音、普通のシの音、高いラの音……。
彼は次々に鍵盤を叩いた。その度に様々な音が空気を震わせる。書籍名を言うたびに音が鳴る。そして残る音はあと一冊分となった。
「最後は……」
「太宰治の、人間失格だな」
「低いドだ」
ぽーん、と最後の音が鳴った。震えていた空気も静かに戻る。
「これがお前のおとだ」
「これが俺の音って……。これは今まで貨した本のおとだろ?」
「わからないやつだな。お前が僕に貸した本は、僕の趣味とはまるで違う。きっと貸してもらわなきゃ今後読まなかったものばかりだ。つまりお前が貸した本で得た音はお前によって作り出されたおと。ということはこれらの本のおとはお前のおとだ。わかるか?」
「うん、三段論法だということがわかったよ」
「いやそうじゃなくて」
「わかってるよ、言いたいことはわかる。じゃあこの先は?今の俺の音は、今弾いた音なのかもしれない。でもこの先また本を貸すことになったら?そうなったらまた俺の音は変わるぞ。それとも、もう君は俺と一切関わりを持たないつもりか?」
彼は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「なるほど、じゃあ別に今日こんなことをする必要はなかったんじゃないか」
「え?」
「この先、お前は僕に本を貸す。そしたらお前のおとはもっと増える。結局、お前のおとはこの鍵盤全部じゃないか」
「ぜん……ぶ……?」
「あぁ、すごいな、僕は一つの対象に複数のおとをあまり感じたことがない。それが全部だなんて。お前が初めてだ」
全部がお前の音。
お前が初めて。
彼の言葉を反芻する。俺は自惚れていいのだろうか。俺が空っぽじゃないということを。そして俺が彼の特別な存在になれるということを。
「うわっ、どうしたんだよ!なんで泣くんだよ!」
「へ?」
頬を触ると、水滴が指についた。目の前で彼が面白いぐらいおたおたしている。というか実際面白い。思わず吹き出す。
「は?何なんだよ!いきなり泣き出すし笑い出すし、訳わかんねぇ!」
「ごめんって」
謝りつつもなかなか涙腺が閉まらない。でも悲しいわけではなかった。
「……暗くなったな」
確かに、ここに来たときはピアノが夕日に照らされていて輝いていたのに、今はもう真っ暗だ。
「そろそろ帰るぞ、空」
驚きで涙すら止まった。驚愕が伝わったのだろう。彼は気恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「初めてだな」
「……」
「君が、俺の名前を呼んだのは。いつも君はお前、としか呼んでなかっただろ?」
「……何でいちいちそういうことを言うんだ」
「何、恥ずかしいの?」
彼の頬が薄く桃色に染まっていた。そんな彼が珍しく、ついついからかうようなことを言ってしまう。
「うるさい!もう遅いんだ!とにかく帰るぞ、空!」
昔から自分の名前が嫌いだった。
自分が空っぽだと突きつけられているような気がしたから。
でも、こんなに力強く俺の名前を呼んでくれる人がいるなら、この名前も好きになれるかもしれない。
「どうした、ボーっとして。置いて帰るぞ」
彼はもう音楽室の入り口に立ってた。
「ちょっと待って、一緒に帰ろう、真」
俺は立ち上がり真のもとへ駆け寄る。音楽室の扉を閉め二人で帰った。部活をしている生徒の声はもう聞こえず、空には月と星が輝いていた。
この作品は「楽器」をテーマに書きました。しかし楽器が出てくるのは本当に最後だけ。テーマ詐欺な作品に仕上がってしまいました。しかしまあ、書いてて楽しかったから良いのです!
最後に、ここまで読んでいただきありがとうございました!
楽しんでいただけたら幸いです。