プロローグ
人によっては残念に思うかもしれない。寧ろ喜ばれるかもしれない。
現代社会に生きる今でこそ世間一般的に普通と呼ばれる性質寄りにはなっているが、悲しいかな前はそうじゃなかった。
前というのは中学生時代とか幼少期とかの話ではなく、もっとずっと昔。前というよりは昔。
昔、彼には愛し合っていた男がいた。もちろん純愛だ、憧れや信頼が愛に発展しただけのこと。
有難くも彼の周りは理解してくれる人ばかりで、彼を兄のように慕っていた弟分は多少複雑そうだったが、おおむね皆に祝福されていた。
しかしその時代は争い事が多く、男だろうが女だろうが、愛し合い添い遂げることが難しかったから、幸せそうにしているふたりを引き剥がそうだなんて思う奴はいなかった。
そんなふたりを引き剥がしたのはやはり戦争だった。
片方が帰りを待つなんて話ではなく、ふたりとも別々の地に発ち、ふたりして別々の地で散った。
傍から見ればきっと美談なのだろうが、その時ふたりが絶賛喧嘩中だったとしたらどうだろう。
お互いに汚く罵り合い、お互いが聞いた最後の言葉が、
「お前なんて死んでしまえ!!」
だったとしたら、これは美談では片付けられない悲しい話だ。
でもこれはあくまで仮定。本当のところはふたりしか知らない。
そのふたりもいなくなってしまったのだから誰も知る由も無い。
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それから時は流れ、彼らが死んでから数十年。
進藤 黒行は、大学進学を機に一人暮らしを始めた。
実家から通える近場の大学を選んだので別に家を出る必要はなかったが、常に重い空気の漂うあの空間で生き続けることが苦痛で飛び出してきたのだ。
ただ生真面目な性格ゆえ、ただの家出で済ませることはなく説得とフォローを繰り返し、了承を得て本日より”正式な”一人暮らしの開始となる。
引越し以上に体力と精神力を消費した黒行は手に持ったコンビニの袋をがさりと床に落とすと、スプリングが変形してきた硬いマットレスに倒れこんだ。
環境は変われど慣れた感触にほっと息を吐く。
鳴ることのないスマートフォンを見やると、もちろん何も表示されていない。
この一人暮らしを許可された条件は、結果的に想定外の出費と人間関係の表面的な初期化だった。
どうしてそうなったのかは黒行自身もよくわかっているのだが、自分の初動が悪かったことを認めるのが嫌で仕方ないと諦めている。
引越し後、そのまま暮らしていればいいもののどうしても『逃げた』事に納得がいかなかった。
悲しいかな黒行の性である。
意を決して実家に出向くと半狂乱の母に壷を投げられ、気が付くと見慣れた天井。
恐る恐る玄関ドアを開いて「ただいま」と声を出した時間は体感3秒程だったが、時計では30分経過。
一応手当てはされているらしい左即頭部の痛みに顔を歪めつつ周りを見渡したが、自室に閉じこもったらしい母の姿は確認できず、文字通り頭を抱えてその日は実家を後にした。
一度目の訪問は終了。
二日後に再度出向くと、壷こそ投げられなかったものの玄関より中への進入は許されず、何を言っても完全否定されて敗北。
日を改めると伝えるだけで二度目の訪問も終了。
一週間ほど日を空けて三度目のチャレンジでは訪問時間が遅くなってしまい、酒で酔っている母と遭遇。
撤退を試みるも、アルコールを吸収してパワーを増幅させた魔の女王に捕まり、機種変更したばかりのスマートフォンを叩き壊された。
初期設定のみ施したそれはバックアップすらまだの状態で、マイクロチップだかが記憶している、機械任せの人間関係を簡単に手放してくれた。
項垂れる間もなくもの凄い力で外に叩き出されて終了。
それからは毎日出向いた。
母からの罵詈雑言に反発することなくひたすら聞くこと数回。
不満を言い切った母はようやく落ち着いた口調に戻り、黒行の言葉を聞いてくれるようになったのだ。
落ち着いて話すと簡単にまとまるのに、一度頭に血が上ると冷えるまでが長く、その間どうしようもできないのは黒行の幼少期から変わらない。
案の定今回も、そろそろ自立したいなどとよくある理由を述べただけで、お年頃だものねで簡単に片付いてしまった。
だからこそ事が終わった後の脱力感、後味の悪さからくるどろどろとした感情が黒行の生命力を奪うのだ。
他の家族も何がトリガーになるか分からない極限の状況で、いつも母の顔色を伺っているから空気は重く、よろしくない。
それでも強行したのは母の支配から逃げ出す為と、ここにきてやっと自分というものを自覚したからだった。
自我が芽生えた時、黒行は黒行個人ではなかった。
幼い頃から妙に大人びた思考というか、発言も子どもらしくなくで母を困らせたらしい。
記憶はないのでどれほどませた発言をしていたのかわからないが、同世代の友人が出来なかったことは事実。
公園で砂遊びや水遊びをするでもなく、読み書きも出来ない齢で挿絵のない本を嬉しそうに眺めていたと聞いている。
年を重ねるにつれ徐々に年相応になっていったので今ではそこまでの違和感は無いが、常に頭の片隅に何かがいるのだ。
しかしその何かは悪さをするわけではない。
ただそこにいて、たまに不思議な感覚をくれるだけだ。
いわばデジャヴのような、初めて行った場所の既視感、懐かしい雰囲気、涙が出た場面も二度あった。
害は無いがたまに煩わしくなる時もある。
人生で初めて見るはずの景色は感動できないし、初体験は新鮮味がなかったりする。
でもそこに紐付く記憶は何一つ蘇ってこない。
黒行はその何かを「誰か」として認識していた。
誰かの記憶が黒行を、時折黒行ではない誰かにしてしまうのだ。
ふとスマートフォンに目をやると高校の友人からLINEが入っていた。
本体を買い換えたとはいえ電話番号が同じなので、相手が連絡を寄越してくればやり取りは復活できる。
便利な世の中になったものだ。
昔は、今どこで何をしているかなんて、エスパーでもない限り知り得なかったというのに。
適当に返信しながら起き上がると、フローリングで行儀良くしているコンビニの袋に手を伸ばす。
温めてもらったはずだが触れても丁度良い温かさは感じなかった。
電子レンジは置いていないのでそのまま封を開ける。
牛すき丼(温泉卵のせ)の美味しそうなにおいは多少の温度変化にも劣化せず、温泉卵をつぶすと見た目にも食欲をそそってくれた。
テレビを点けて、ニュースを崩して伝えるワイドショーの観客の笑い声を聞きながら、一口目を頬張った。旨い。
今まで至極真面目に生きてきた黒行に今の時間は新鮮だった。
何の用事も無い平日の昼に、コンビニ弁当を携帯片手に行儀悪く食べる。
合う合わないを全く考えず飲み物は甘いココアで、牛すき丼の後には杏仁豆腐が待っている。
新鮮味を感じたのはいつ以来だろうか。
片隅の誰かも、こんなのんびりした日を過ごしたことはないのかもしれない。
内容の無いLINEを半ば無理やりに終わらせると、黒行は満足そうにまたマットレスに寝転がった。
食べ終わった残骸は小さなローデスクに放置したまま、放っておいても何も言われない。
枕元に置いてある大学の入学案内を見ても表紙に写る外観に何の感慨も沸かず、黒行ははぁと溜め息を吐いて大きめのゴミ箱に投げ込んだ。
この大学を選んだのは母だった。
ここではないと許さないと言われ、いつもなら不満に思うところを黒行はあっさり了承した。
こっそり進路に考えていた学校は大学ですらない専門的なところで、希望を言おうものならまた罵詈雑言に晒されるのは想像に易い。
黒行にとっての夢は夢でしかなく、あわよくばという気持ちだけで、母に反発してまで強行する気は起こらなかった…と、何とも情けない思考を持っていたのだ。
生活環境は人格形成に大きな影響を及ぼす。
黒行にとって母はそれはそれは大きな存在で、反発や反抗をしようなどと考えたことが無かった。
本能的に敵に回してはいけない生き物だと察していたのかもしれないが、何でも言いなりになっている様は極度のマザコンに見えたことだろう。
けれど好きだったわけではない、苦手だった。感情を露わにするところが特に。
なのにどうしてかその時は、不満も嫌悪も無かったのだ。
(片隅の誰かが「行きたい」と言ったから)
「…それにしても小さい声だったな」
声に出す必要は無いが、呼吸と一緒に漏れた言葉が漂う。
たまに不思議な感覚をくれるだけで主張することはなかったから「声」を聞いたのは初めてのこと。
控えめに搾り出したような声色は誰かによく似た成人男性のものだった。
誰かというのは他人行儀か、こんなにずっと一緒にいるのに。
今度声が聞こえた時に彼の名前を聞いてやろう、希望を叶えてやったのだから。
そこまで考えて黒行は目を閉じた。
満腹感から睡魔が襲ってきて、抗うのも面倒になったからだ。
引越しの後片付けはほぼ終わり、アパートの入金関係や住所変更なども完了している。
大学への行き方も把握しているし、入学式に着る予定のスーツはクリーニング済み。
自炊の特訓のために安いスーパーを捜索して、本屋も、図書館が近くにあれば、
思考が途切れ、規則正しい息遣いとドラマの再放送の音声だけが空間を満たした。
入学式まで一週間。
人生が変わるまで、あと一ヶ月と10日。