2話 ピンク・ビッグ・ファット 前編
1
真夜中のことである。
ある住宅の一室にて"そいつ"は豪快なる食事をとっていた。ランプのみがこの暗黒とそいつを照らしあわせている。
500ミリリットル缶の発泡酒を滝のように流し込み、片手にむき出しのコンビーフを一口で吸収し、また発泡酒の蓋を開ける……。その光景は美味しさを表現するものは何もなく、食い散らかし部屋にポイ捨てする行為は畜生とも呼べる醜いものであった。
"そいつ"は毎日就寝前にこのような醜い習慣を行っていた。コンビーフ、サラミなどの塩分の高いものを豪快に食べ、口内に蓄積した塩分を酒によって胃の中に洗い流す……。極めて健康に悪いことは明白であり、事実ランプによって照らされるそいつの肌は黄色人種ではあったもののどす黒いものとなっていた。
今日に限って"そいつ"の食事量は並々ならぬものであった。そいつの周りには外界からあふれんばかりのレジ袋が二袋置かれていた。食料もとい餌を胃の中に流し込み、片手でレジ袋から酒とツマミを取り出した。どうやら就寝前に全部むさぼるつもりである。
「ファム……」
「むほっ……」
呼吸音と食事の音がそいつの言語となっていた。もはや人語のコミュニケーションを取る必要はないのだ。酒と食事と享楽…。それだけがそいつの生きがいでもあり、人生でもあった。
リビングの一室にて、そいつとは異なる人物がうつむせになって斃れていた。そいつと体格を比較すると、ひどく痩せこけているといってもいい体格である。その人物は血を流し、上の階にいるそいつを恨むかのように目はおぞましい形となっていた。
一室からランプの明かりが消えた――。
さて――。
心乃枝官九郎の無実が証明された瞳明寺高校ではいつもと変わらぬ日常を再開しており、勉学に励む者、部活動を行うもの。三年間の生活を無駄にせんと学生たちは青春の道を歩き出していた。
性的暴行の被害者となった長野は、被害状況が全クラスに知れ渡っており学校にいること事態が、
「つらいもの」
となり、官九郎がそのことに気づいた時既に別の高校に転校したのである。結局のところ長野は官九郎に罪をなすりつけたことに対する謝罪ができないまま瞳明時高校を離れることとなった。
そよ風が教室を包み込む。昼休みの時間である。三井陽一と官九郎は教室にある互いの机をあわせ惣菜のパンをむさぼりながら会話をした。
「陽一。小、中学のことで質問なんだけどさ」
官九郎は左手に焼きそばパンを持ちながら、ホットドッグを食べている陽一に語りかけた。
「ん?どうした?」
ホットドッグをほうばることを止め、官九郎に顔を向けた。
「陽一はものすごく強かったのは小学生から喧嘩をやってたの?」
「いや、修行の成果だから。喧嘩なんてやってないよ。」
「修行って……。」
陽一は少し目をつむった。そして、
「親が武術に長けた人でね……。小さい頃から結構無茶されたんだよ」
(なるほど)
官九郎は思った。ホットドッグを食べている陽一を見つめているときにある疑問が頭の片隅から湧き出た。一体彼の格闘術は何の部類に入るのだろうか?
下の名前で互いに呼び合える仲にはなったものの、彼の素性に関する事は官九郎自身、
(やめておいたほうが身のためだな……)
と思い食事をとりながら陽一と他愛のない会話をした。
そして放課後。官九郎は日課となっている妹の見舞いに行くことにした。見舞いといっても医者でもない官九郎には、彼女の容態を物理的に回復させることはできなかった。しかしながら不安という雲を解消する事はできた。そのため毎日ただずっと彼女のそばで勉強や宿題、彼女と会話するだけの存在という役割をもっていた。
彼女としても官九郎に対して、
「ただ傍に居てくれるだけでうれしいよ」
との発言をし、官九郎の脳内に稲妻が巡ったのである。
そして今日も官九郎は彼女の待つ病院に向かう。下駄箱の場所に向かったとき、官九郎は誰かと話している陽一を見た。
「じゃあね小清水さん。部活頑張ってね。」
陽一は小清水日香梨に別れの挨拶をしていた。
そのとき官九郎は妹の発言を思い出した。
「お兄ちゃんのヒーローに会ってみたいな!!」
官九郎は妹に陽一の件を話していた。今の今までそのことを忘れていたが、官九郎にとっては良いタイミングだと思い、陽一に病院に一緒に来ないかと誘った。
陽一は少し目をつむったものの、
「……わかった。いこうか」
陽一は快諾したのである。
2
病室でのことである。官九郎の妹である芳佳は初めて会う陽一にビックリして泣いてしまった。これには陽一は困惑した。確かに目が厳ついため血の気が多い人物に見られてしまう事がしばしばあった。官九郎は陽一が何もしていないにもかかわらず泣いてしまった事に対して、
(やっぱり逆効果だったのか……?)
と不安になった。しかし初めてあった人物に対してこのような振る舞いは、
(陽一にも悪いし、何より失礼だ……)
と思ったため、彼女に陽一はそんな人物ではない事を伝え、ようやく顔を向け会話することができた。官九郎は唇を口内に少し引き寄せながらテンションの低い声で、
「ごめん陽一。本当に悪いことをしてしまった……」
と謝罪した。陽一は、
「こういう事はもう慣れたからいいよ」
と気にしていない回答をした。この後芳佳は陽一に官九郎を助けてくれた事を感謝した。陽一としては、日香梨というもう一人の協力者の存在があってこそ官九郎を助けたので、
「いやいや。もう一人彼女が居たからこそ官九郎は助けられたんだ。俺に感謝するより小清水さんに感謝したほうがいいよ」
(なるほど。さっき陽一が話していたのはその人物だったのか……)
官九郎は納得した。
(今度あったら小清水さんにお礼を言っておこう)
と思うのであった。
芳佳は一週間後手術を控えていたが、日々訪れる不安に心が縮こまっていた。手術一ヶ月前の時間は早く流れたものであったが、時期が近づくにつれ芳佳の体感時間はとても長いものとなっていた。その上病院の場所が場所なので、同じ学校のクラスメイトは多くて一週間に一度という期間しか訪れることしかなかった。そのため彼女は不安を加速させたのである。
芳佳の病状は盲腸であった。手術や治療によって改善する事は報告されているが、その過程において命を落とす者もいた。
(もしかしたら私は死んでしまうかもしれない……。私もパパやママの所に行って、お兄ちゃんをひとりぼっちにしてしまうかもしてない)
無垢な少女は先の見えない不安によって、官九郎がいない夜涙で枕を濡らした。そしてその頻度は手術が近づくにつれ頻度を増していった。
芳佳の最近のホットワードとして手術と陽一の二つのキーワードが芳佳の心の中を巡っていた。手術については先程述べたが、官九郎の窮地を救った人物はどんな人物であるのか一目で確かめたかったのだ。
そして見た。
窮地を救ったヒーローとはほど遠い、貫禄ある悪役のそれであった。相手に失礼とは芳佳は思っていたが、突然このような男に会ってしまいとっさに泣いてしまったのである。
しばらく時間が過ぎた。
芳佳は陽一に官九郎との日常や、小中学生の時何をやっていたのかの質問攻めをした。官九郎も芳佳の質問から陽一の過去を知ることができた。
陽一の過去はなかなか悲惨たるものであった。両親を物心つく前に事故で亡くし、実の親の顔も知らないらしい。中学時代あるトラブルによって人間関係で滅入り、養父亡き後に息子と名乗る男から経済的、精神的ストレスを受けたという。どうやらこれらの事象がきっかけとなって他県の高校を受験したという事を初めて知った。
養父の息子と名乗る男は陽一に暴力を振るわなかったのは、日ごろからの養父からの修行の成果はその気になれば殺傷可能であることを知っていたからである。そして男と陽一の実力差は歴然であった。その為金銭的、精神的方面からの嫌がらせをするようになり陽一は身動きができずにいた。そして中学3年のある日、
「俺の奴隷となれ」
という腐りきった根性にとうとう嫌気がさし、
「金なんて要らねえから他県の高校に行く。くたばれクソ野郎!!」
と捨て台詞を残しこの学校に入学したのである。高校まで入学する間、養父を知る人々の助けによって衣食住を確保し今日まで至るのである。
「養父との思い出で一番印象に残っているのは何?」
との芳佳の質問に対して陽一は腕組みをし、視線をしばし天井に向けながら沈黙した。
そして、
「どれもこれもがポンポンと思い当たることがあってね…。中三の時にさっき話したクソ野郎との生活から先生の言葉に納得しちまったことはあったね」
それは何か?
官九郎と芳佳は思わず、
「「どんなことを言ったの?」」
一瞬陽一と芳佳は官九郎の方に振り向いた。官九郎はとっさにでた言葉にアワアワとしながらも、
「ごめん!続けて続けて!」
と滑舌の悪い早口で話すのである。
「俺が小学生の時、親がいないことでからかわれて泣いて帰ってきたことがあってな」
父も母も物心つく前に亡くなっているので、悲しみというものは当時の陽一にはなかった。それは家に帰れば養父がいつものように楽しく会話をしたり食事を作ってくれたりしたので、陽一は父や母がいなくともこの生活に満足していた。
養父の名をここで紹介するが、荻原生泉水と呼び外見は六十半ばの年齢であった。160センチを超えるか超えないかの背丈と、脂肪が少ないその肉体はよく見かける年配の男性の特徴であった。しかしその武術はあらゆる脅威をものとせず負け知らずと陽一に豪語している。
これは陽一も事実であると認識している。陽一が小学生の時だっただろうか。犯人グループが政府要人を人質にハイジャックされた時、ジェット機に潜入した荻原生泉水は鍛え抜かれた体術と武術により、あっという間に敵を降伏させたのである。陽一は修行としてその場に居合わせており、生泉水の活躍をこの目で見た。
「すげえ……」
と思わずつぶやいたのである。他にも彼の所業に関してすさまじいものであったから陽一は生泉水を養父であるものの、
「先生!」
といつも彼を呼び、彼から与えられる修行に対して真剣に取り組んだのである。
話を戻すとしよう。
小学生の言葉はよかれ悪かれいつも的を得るものである。父や母がいないことをまくし立てられた陽一は表情に泣くそぶりを見せなかった。はやし立てたグループは陽一のことを卑下する目的ではなく、いかにして陽一が涙を流すというレスポンスを行うかのみに注目していた為何の反応もない陽一に対して、
「「「こいつつまんね」」」
と飽きたおもちゃのように次のおもちゃを探しに行ったのである。
まったく陽一は本当の父や母に対しての意識はなかった。別にあのグループの悪口が悔しいとは思わなかった。しかし本当の父や母というものを意識すると急にいとおしくなってしまった。街中の親子連れが陽一の涙のトリガーとなった。
泣きながら家についた陽一は生泉水に泣きながら、先程の嫌がらせについてのことを打ち明けた。すると生泉水は陽一に対して、
「親子というものはすべて血のつながりだけではない」
と陽一に優しく語りかけ、
「儂は血ではなく、精神や心構えこそ真の親子の絆だと思っておる…。儂がどんなに一つの分野に優れていても、子は子、儂は儂じゃ…」
陽一は生泉水の発言に疑問がわく。血だけでは親子の証明ではないのか?そのことについて生泉水に質問した。
「人には得手不得手というものがあってな…。親である儂がどんなにある分野で優れていても、血がつながった子はその分野に関して得意であるとはいえないことじゃ。」
と続けて、
「人の心や精神を引き継ぐ者こそ真の子孫であると儂はいつも思うておる。陽一。おぬしは儂の精神を立派に引き継いでおる…。儂の息子じゃ…。心配なさるな」
と陽一に語ったのである。陽一は泣いて抱きついた。生泉水の温かみは今でも陽一の記憶に残る。
一連の話を聞いた二人は、陽一は自分たちにも共通するところはあるが、全く異なるベクトルの人生を歩んできたことを知った。
官九郎は疑問となった。
(まさかその格闘術は……)
彼の名前から推察すると、
「まさか格闘術はその人の名前から荻原流とかいうんじゃないだろうね?」
「そうだけど」
即答された。
二人は少しあっけにとられた。まさかこんなにあっさりと即答されるとは思ってもみなかったのである。官九郎としては、
(昼ごろの変な気遣いはなんだったのか…?)
と少し肩が重くなった。
官九郎は過去についてこんなにあっさりと答えられることに疑問を持ち、
「陽一はよく俺達に荻原流とかいうのをあっさりと答えたね。それって公にしたらまずいんじゃないの?」
芳佳より先に質問したのである。
「周囲はもう荻原流なんて一代で途絶えたと認識してるからね…。俺は荻原流なんて継ごうとも思ってないし」
と彼は再び生泉水の話を引用しながら、
「無理して継ぐようなものではないから好きに生きなさい。儂の流派は周囲が勝手に呼んだだけだから」
と言われたことを話した。二人は陽一の話しぶりから引き継ぐつもりなど毛頭ない態度であることを理解した。
3
芳佳のお見舞いが済んだ後、陽一は我慢していた尿意を解放するためトイレに向かった。
陽一は病棟のトイレに向かう途中、女性の大きな金切声を聞いた。病院であるならなおさらだ。何か悲しいことがあったに違いないと思いながらも無視してトイレに向かった。
陽一がトイレについたとき、ある昔なじみの人物がいることに気付いた。
「あれ……?オッサン。なにやってんの?」
と目の前の人物に語りかけた。目の前の人物は陽一の方に振り向き、久しぶりの知人に会う表情となった。
「おお。陽一じゃないか!?大きくなったな!」
突然の再開となった。喜びと驚きが一緒に含まれていたため、目の前の人物は無意識に一物を触れた手で陽一に触ろうとした。
これには陽一も、
「きたねえよ!!早く手を洗ってくれ!」
これには目の前の人物もハッとなり、すぐに手を洗浄した後彼と久しぶりの握手をした。
「すまん」
と返した。
トイレに来た官九郎は陽一と楽しげに会話をする人物を見て、
(陽一の知り合いかな…?)
と思い、
「えーと……。陽一君と知り合いですか……?」
と二人に質問した。陽一は、
「ああ。紹介するよ。この人は市川昇一さんと言って、小学校からの付き合いなんだ」
市川昇一という人物は初老の男性であり、白髪交じりの七三。小さな丸渕メガネ。それなりの高価な腕時計と、年相応の品のある恰好であった。
官九郎は陽一の小学校時代の話を思い出した。まさかこの人物とのファーストコンタクトは先程言っていたハイジャック事件のことなのだろうか…?官九郎は市川という男に、
「まさかハイジャックの時からの知り合いですか?」
と質問した。
「そうだね。私は当時その事件の現場主任を任されていてね…。生泉水さんとはそこで知り合って今に至るんだよ」
と返した。陽一のエピソードは本当のようである。それと同時に、市川昇一という人物は警官であることを官九郎は理解した。
この後、官九郎は休憩室で陽一と市川の昔話を聞いていた。陽一がクソ野郎と呼んでいた人物も、市川は人間のカスと揶揄するあたり、よほどの悪評を持った人物であることが伺えた。話の途中で陽一とはどのくらいの期間あっていないのかと聞いたところ、一年以上も連絡が途絶えたことを話した。
陽一は市川の娘のことについて尋ねた。市川は自分の娘のことを平然と、
「ばか娘」
と呼び、官九郎は二人の仲が悪いことを悟った。今はどうしているのかと陽一が彼に聞いたところ、意見の対立の末に彼女は家出しこれ以降のコンタクトをとっていないことを伝えた。風の便りでは京都の大学に入学し一人暮らしをしている事を知っただけである。彼も変な意地があったためか彼女のところには赴かなかったのである。その為彼は今一人暮らしであることを陽一に伝えた。
官九郎は陽一になぜ彼女のことを聞くのかと伝えたいが、不満な表情の市川を見て、
(親父さんの目の前で聞くのはまずい……)
と思い会話に水を差さなかった。
ふと陽一は市川の来ている服装が病院に似つかわしくない喪服であることに気が付き、
「なにかあったんですか?」
と昇一に聞いた。
彼によれば数日前若い警官が刺殺体となって発見されたため、葬儀に参列するため喪服をあらかじめ着ていた。病院に似つかわしくない格好は、どうやら凶悪事件の関係者宛に、犯人からの殺害予告と思わしき文章が届いたため急いで向かった為である。要するに市川は多忙であるが故に喪服を着たまま病院に向かったこととなる。
「それは大変で……」
と官九郎は話した。
しばらくして市川の目が少し変わった。どうやら別の案件を思い出したらしい。そのときの彼は少し目を見開き、陽一の顔に向けた。
陽一は何か嫌な予感がした。まさかとは思うがまた市川からの面倒な依頼が再開するというのかという不安に駆られた。事実陽一は市川による様々な依頼を受け、見事なまでに役目を果たしている。そのため市川の陽一に対する信頼は大きかった。陽一としてはこの信頼こそがトラブルに巻き込まれる魔の連鎖だと思っていた。陽一の額は少ししわを寄せた。
市川は仕事の目になった。
「ところで陽一。久しぶりに私の依頼を受けてもらえないか?」
陽一は落胆した。高校入試までの一年間全く学生以外の外界の人々とのコンタクトを絶って、この高校まで来た。そして平穏な生活を送ろうとした矢先、また裏家業とも呼べるこの仕事を引き受けるというのか……。
(情けは人のためならずということわざは俺には当てはまらないのだろうか……?)
とまぶたが少し重くなり、口からゆっくりと息を吐いた。
市川に、
「何です?まさかさっき話したことを解決して欲しいとか言いますか?」
市川の目は全く表情を変えなかった。そして、
「確かに手伝ってもらいたいが、今回は違う。全くの別件ではあるが、あるターゲットを揺動して欲しい」
「陽動って事は、何か証拠でも見つけるのですか?」
官九郎は市川に返事をした。
「ああ。こいつは幾度となく捜査の目をかいくぐってきた面倒な奴でな・・・」
この面倒な奴とは、この話の冒頭に紹介した“そいつ”である。
二人は”そいつ”の経歴を聞いた。
ほぼ真っ黒である犯罪を行っていた。保険金殺人計三回、生活保護不正受給、闇金の取り立て等、犯罪のオンパレードであった。被疑者として逮捕しても、体格や容態から、
「容態を考慮すると犯罪は不可能」
裁判官と発言するほど、手足は既に生きた細胞の色ではなかった。無罪と言い渡された時の車いすから聴衆に向ける微細な笑顔は被害者の怒りを増加させるものであった。”そいつ”は無駄に資金力があったためか相当の手練れとも言える弁護士を雇うことによって難を逃れている。ある時は家宅捜索を行おうとしたが、妨害によって有罪となる資料が見つからなかったのである。
三度による無罪判決後、”そいつ”の被害者である遠藤優佳、宇都宮薫、福田勇実の親族は一団となって警察の無能ぶりを糾弾した。市川は被害者の気持ちも分からなくはなかった。しかし全力をつくして”そいつ”を本来の豚箱に入れようとしても”そいつ”の狡猾さに警察関係者は手を焼くだけであった。警察の信頼を落としかねない事態であった。
この依頼をなぜ陽一にしたのか理由がある。信じがたいことではあるが”そいつ”は四度目の結婚を執り行った。配偶者は中西円。証券会社勤務の30半ばの人物である。最近中西という人物が行方不明となったという連絡を受けたためである。今度こそ奴を捕まえないと被害者遺族の無念を晴らせない・・・。そのような心情からである。
「でも”そいつ”はもう顔は割れてますよね?普通に拘束すればいいじゃないですか?」
官九郎は答えた。
「奴は有力な弁護士を雇っている。人権派だからへたに出ればこちらが不利となる。」
陽一は答えた。
「つまり俺が奴を闇討ちしてる間に、おっさんは強制捜査でもするつもりですかい?」
「まあそういう事だ。……もちろん報酬も用意する。どうだ。引き受けてはくれないだろうか?」
市川は陽一に懇願した。
陽一は答えた。
「俺も一人暮らしだからな。学費は払ったが何をやるにも金はいる…。」
少し陽一はにやけながら、
「分かりました・・・。受けましょう」
と両手を太ももに置き市川に話した。官九郎は陽一が仕事の目に変わっている事を確認した。
陽一も市川を信頼していた。これまでの依頼は無茶な要求は多かったものの、すべて嘘偽りない情報でもあり、陽一が対応できない火の粉を払ってくれた為だ。
「そのかわり報酬はそれなりのものでお願いしますよ」
かくして陽一は裏家業を再開する言霊を告げた。
4
次の日。
休日の天気は快晴とも呼べるすがすがしい空であった。
陽一は昨日の官九郎と自炊についての会話をした。何より四月から一人暮らしを始めたものの、毎日固形食料や一品料理だけでは、
(身体が壊れるだろうな……)
と危機感をもった。陽一の本心は栄養不足にならない手作り料理を欲した。しかしそのようなメニューでは今の経済的に厳しいことは承知であった。できるだけ出費を抑えつつ食事を取りたい……。そのため陽一は官九郎にどこかいい業務スーパーはないかと尋ねた。
「あるよ。明日の昼にでも行こうか」
とOKをもらったため陽一は可能な範囲の千円札を財布の中にしまい込み、官九郎とともに業務スーパーに向かうのであった。
そして店から出た。
陽一は両手にあふれんばかりの商品が入ったレジ袋を両手に持ちながら、
「いやー。イイ買い物をしたこれでカレーを数日間作り置きできる。官九郎サンキュー」
「別にどうって事はないよ」
愛想笑いを浮かべながら陽一に語る。
二人は駐車場に、このスーパーに似つかわしくない高級車が止まっているのを見つけた。海外製のメーカーのシンボルが前方の車体にありあまり車についての知見がない二人でも、
(一般人には手がだせないものだ)
と理解した。
高級車のドアが開かれ、ドライバーが現れた。
戦慄した。
本来このような高級車ならば社会的地位のあるビジネスマンか社長クラスの風格をもった人物が所有する者だと二人は認識してした。
しかし目の前の人物はどうだろうか?
明らかに不釣り合いな服装と体格であり、ボロボロのサンダル、黒い安物のズボン、よく分からないシャツ……。明らかにこの車のトライバーとして不適合な要素がふんだんに詰め込まれた人物であった。四肢の色は黒く変色しており、日焼け跡とは思えなかった。
強烈なことに”そいつ”はXXLサイズのシャツを着ていた。それでも腹部が露出する形であり、見にくい物であった。シャツの色はなぜかピンクであり、肌の色と服装から相反して太っていることが強調されていた。そしてそのシャツの柄はピンクの単色に大きなポップ体で、
「EAZY LIFE」
と表記されていた。
二人は沈黙のまま店内に進行する”そいつ”を見ていた。
いや見ることしかできなかったのだ。
“そいつ”が視界に消えた後官九郎は思わず、
「ピンク・ビッグ・ファット……」
と英単語3つを連続してぽつりと呟いた。適当なワードではあったが、”そいつ”の特徴としてはそれが正解であった。
陽一は思った。
(まさかターゲットってのはあいつなのか?)
暑さからのものではない謎の恐怖感によって二人は大量の汗を流した。