小説家の話 2
よく晴れた初夏の日だった。俺と神田は馴染みのパン屋に昼食を買いに来ていて、店内にはいつものように他の客の姿は無かった。
「神田さんて、出版社にお勤めなんでしたっけ」
店番はいつ来ても同じ娘がしている。二十代を折り返したくらいの年頃で、黒い髪を後ろで一つに束ねた、快活そうな女。俺たちはすでに顔見知りで、他に客も居ないものだからよくお喋りをした。娘はサンドイッチを丁寧に包装しながら、ふと思い出したようにそう言った。
「ああ、そうだよ」
「どこの会社?」
「今売れ線のある推理小説家が何とかって賞を取った新作を出してるところだよ」
神田の答えに、作業をしていた娘の手が止まった。手元を離れ神田を見上げる大きな目が、らんらんと輝いている。
「ほんとう?」
「ほんとうだよ」
そういえば以前、彼女はそのある推理小説家のファンなのだと言っていた覚えがある。それで神田はわざわざあのような言い方をしたのだろう。
「あのね、無理ならはっきり言ってくれていいんだけど、神田さんからその人にサインなんて頼んでもらえたりしない?今度本、持ってくるから」
娘は相変わらずきらきらとした瞳で神田にそう頼んだ。図々しい要望ではあるが、媚びるような姿勢ではないし、彼女の持つ快活さも相まって嫌な気分はしない。
「いいよ、明日出勤前に寄るから、その時にでも」
「わあ、ありがとう!」
実を言えば神田が彼へのサインを頼まれるのは、これが初めてではない。何しろどの本屋へ行っても目立つところに平置きされているような人気作家であるし、顔もいいのでメディアへの露出も多く、彼女のような若いファンが多い。神田が勤め先を告げる度に、同じような依頼が舞い込んで来るのだった。神田はその頼みを断らない。サインする本人の方は大分うんざりしているらしいが、彼には神田を邪見に扱えない重要な秘密がある。それを知っているのは、この広い世界にほんの数人しか居ない。
チリチリと鈴が鳴って、パン屋の入り口ドアが開いた。業務用の声色で「いらっしゃいませー」と娘が声を掛ける。サンドイッチを包装する手も再開された。
「客か、珍しいな」
「失礼ね、二人がタイミング良いだけよ」
娘はそう言いながら、漸く包み終えたサンドイッチを差し出した。
*
「神田さん、前々から言ってますけど、出来ればこういうのは…」
「分かってるよ、でもお前のファンだって聞くと、どうも嬉しくなっちゃって」
神田はにやにやと笑いながら、めでたくサイン本となったそれを受け取った。水原は険しくなろうとする表情を抑えようと努めている。神田は水原のこの表情を見るのが好きだ。
「今度は誰宛てですか?」
「贔屓にしてるパン屋の子だよ」
「…神田さん、これで最後にしてくださいね」
「あ、そういや今度のインタビュー用の台本出来たから後でメールする」
「ありがとうございます、いつもお世話になっております」
*
神田の職業はゴーストライターである。神田の書いた物は全く別人の名前を冠し、売れに売れているのだが、神田自身の名前がそこに記されていたことはない。神田名義での出版の話もたまに来るそうだが、全て断っているらしい。神田はあくまでゴーストに徹する理由を、「あいつの嫌がる顔を見るのが好きだから」と言っていた。神田はそういう奴だ。
俺は週に二度、近所にある図書館でバイトをしている。蔵書整理と簡単な本の改修作業。大したことのない仕事だが、何もしていないよりは随分精神にいい。神田の書いた本は、この図書館でも大変な人気だ。予約がいっぱいで、本棚に納まっていることなどほとんどない。万一あったとしても、すぐに借りられていってしまう。神田は大分法外な報酬を請求しているようだったが、文句一つ付けられないというのは、それだけ彼の本が売れているということなのだろう。もしくは何か別の弱みでも握っているのかも知れない。
「隼人くん、一つ相談があるのだが」
その日も図書館へ出掛けて行くための仕度をしていると、食卓でいまだコーヒーと煙草を嗜んでいた神田が声を掛けてきた。神田のこのような物言いには、余りいい内容が伴わない。出来れば聞きたくないと思いながらも無言で促すと、神田は例の如くにやにやと笑った。
「折角仕事を見つけたばかりのところ何だが、一週間ほど休みを取れないか」
「どうして」
「バカンスだよ」
神田はさあ喜べとばかりにそう言ったが、俺は沈黙を返してそれに対応するしかなかった。神田が突拍子もないのはいつものことだが、何度経験しても耐性を付けるのは難しいようだ。
「バカンス?」
「そう、俺とお前で、南の島」
やっとの言葉で神田の言葉をオウム返しすると、神田は更に笑みを深くして頷いた。神田は俺と、お前、を指さした後、机の上に広げてあったカラーの派手なチラシを投げて寄越した。
「まとまった金が入ったが、今は特別欲しい物も無い。ということで、静養と取材を兼ねて豪遊することにした」
チラシには青い海と青い空、真赤な花と水着の女たちの写真が刷られていた。典型的な南の島の風景だ。俺と神田が二人でこの中へ?悪い夢のようだった。
*
「あらこんにちは、ちょっと久しぶりね」
パン屋の娘は相変わらずの朗らかな笑顔を浮かべた。神田も愛想良く手を振ってそれに応える。俺は今日の昼食を選ぶべく、早速棚に並べられたパンを吟味し始めるが、神田はパンのことなどそっちのけでカウンターに立つ娘の方へ向かった。
「ちょっと旅行に行ってたんだ、お土産」
そう言って神田は娘に、手に提げていた紙袋を渡した。今まで買い物のついでに少し世間話を交わす程度の関係であっただけに娘は一瞬戸惑った顔を見せたが、すぐにいつもの笑顔に戻ってそれを受け取った。
「ありがとう、どちらへ行ってたの?」
「南の島でバカンスだよ」
「ああ、それで少し日焼けしてるのね」
二人の会話を聞きながら、俺はトレーにパンを乗せていった。今日のサンドイッチはチキンのバジルソース、二人分を取り上げ、それからクリームパンとクイニーアマンも。小さな店構えで品ぞろえも多くはないが、惣菜パンも菓子パンも、どちらも美味いのがここの良いところだ。
「あそこのフルーツ、こっちとはけた違いに美味いんだ、とは言っても生もの運んで来るわけにいかないからさ、あ、そっちは名産のお菓子」
買い残しはないかと棚を見回す俺の背中に、嬉々とした神田の声が降って来る。神田は向こうで、二人の人物に向けて土産を選んでいた。対照的な二つの顔を想像しながら。
「ちなみに女性って、土産もらうには食いもんと形に残るもんとどっちがいいの?」
「私は食べ物の方が嬉しいかな、自分で選ぶときも食べ物の方が多いかも、相手の趣味のこととか考えるとその方が無難だし、物によっては困らせるだけかも知れないから」
「やっぱそうだよなあ」
神田はうんうん、と頷いている。大変機嫌が良いようだ。ちなみに神田が土産を選んだもう一人の人物は、例の推理小説家だ。彼のために神田が購入したのは、派手な赤色のアロハシャツだ。現地で浮かれた観光客が着ているのを見かけた。レジへとそれを運ぶ神田が、「着ないと次の書かないって言ってやろ」と楽しそうに呟いていたのを俺は目撃している。神田はそういう奴なのだ。