最悪の出会い
人ごみが嫌いだ。喧噪が嫌いだ。だから、本当は街など歩きたくない。欲にまみれた人間の声が、あらゆる角度から否応なしに聞こえてくる。街が近付くたびに大きくなる人間の声に、耳を塞ぎたくなった。
鬱屈とした心に追い打ちをかけるかのように、急に空が曇りだしたかと思えば、次の瞬間には雨が降っていた。今日は晴れだと予知したはずなのに。
元来、天気を予知する事には長けていた。どんな天気になろうと、ほぼ確実に当てるのだが、ごく稀に予知が外れる。そして、そういう時は決まって、よくない事が起きるのだ。
「最悪だ……」
久しぶりに出かけようという気になったと思えば、これか。何とついていない。
街に到着して、まずは傘を買う必要があった。晴れだと確信して外出したため、あいにく持ち合わせていない。しかし、一軒目の店では目の前で最後の一本が売り切れ、二軒目に立ち寄った店ではそもそも傘を置いておらず、三軒目にしてようやく購入できたものの、露店の前で盛大に小銭をばら撒いてしまった。早速、ついていない。
多分、いや確実に、今日は出掛けない方がよかったのではと、暫く歩いてからようやく思い至った。自分の間抜けさにほとほと呆れる。
今日の目的は、頼んでいた品を受け取る事だった。だが、天気を外してしまった以上、今日手に入れれば、壊しかねないのではないだろうか。
「……引き返すか」
不本意だが、来た道を引き返す事にした。楽しみにしていたが、致し方ない。傘の代金を無駄にしたが、それぐらい大したことではないだろう。
踵を返した途端、人間のざわめきとともに、馬車が凄まじい勢いで駆け抜ける音が鳴り響く。目の前には、音に比例してスピードを上げる馬車が迫っていた。
「うわっ」
慌てて脇道に避ければ、足こそ捻らなかったものの盛大に尻もちをついた。この見た目の齢で尻もちなど、他人から見ればさぞ滑稽に映るだろう。同情を寄せる声の中に、嘲笑が混じっているのを聞き逃さなかった。
馬車はそのまま自分を無視して去って行くのかと思えば、十メートルほど進んだところで急停止した。その中から貴族と思しき男が現れ、従者に傘を広げさせながらこちらに向かってゆっくりと歩みを進めてきた。
「失礼、怪我はなかったかな?」
あからさまに見下した視線と声色をたっぷりと含ませ、男は声をかけてくる。
「ああ、問題ない」
「服を汚してしまったね。差支えなければ新しい服を与えようか」
施しのつもりだろうか――一瞬、そんな考えがよぎったが、すぐに打ち消した。目の前の男が放つ視線、感情は、そのような善意の欠片も持ち合わせていない。彼から放たれるのは、欲。そのただ一つだった。
「別に。服なんか着る事さえ出来ればどうでもいい」
申し訳程度に泥を払い除けて立ち上がる。整えられた金髪碧眼に、派手な服装、左眼にはモノクル。金持ちだという事がありありと窺える。対する自分はボロボロのコート、起き抜けのままの無造作な髪に無精ひげという、如何にもみすぼらしい姿だ。傍から見れば自分はとても惨めに映っている事だろう。
「いやあ、そうかね。それを聞いて安心したよ。これで心配事なく夜会に出席できそうだ」
目の前の男はニコリと愛想のいい笑みを浮かべる。そして、
「いちいち貧乏人に恨まれる心配をしていては、身が持たないからね」
そう言って高らかな嘲笑を響かせながら、自分の馬車へと戻っていった。
「……最悪だ」
遠ざかる馬車をぼんやりと見つめながら吐き捨てる。
雨も嫌いになりそうな日だった。それほど、男との出会いは最悪であった。