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日々の仕舞い

作者: 此花耀文

 五月の二十八日は夜である。夏の前ともなれば蒸し暑い。


 数日来の晴れで星が出ているが、乾燥した砂塵が巻き上がっているのと、加えて城外の処々で焚かれる巨大な炎の光と煙とで、闇は中天まで追いやられていた。

 それは不愉快であると私は感じた。


 その感じを伝えようと胸元までせり上がった言葉を、私は辛うじて飲み込んだ。飲み込んでから、飲み込むまでもなかったかと苦笑し、次にその笑いを引っ込める。

 言葉や表情というのは他者に己を知らしめるためにあるものだが、といって他者がなければ不要というわけではない。それは私と世界のつながりの窓として、私から皮一枚隔てた向こうにぶら下がっている。私はそれを使って私と私の愛したもののために演技してきたのだが、その片割れがひょっと抜けてしまっては、つり合いというものが取れない。困ったことだが、おそらくはこの壊れた天秤を直すのもままならぬうちに、同じように傾いた街が私を海へ滑り落とすだろう。


 夫は阿呆だ。彼は城壁を取り囲む湾で死んだ。戦死である。神学者である。

 渡し船にさえ数えるほどしか乗ったためしのないのが、義勇兵などと称してぼろ船に乗りこんで当然の結果であろう。しかもその戦死の理由が奮っている。かつては異端と蔑んで、街中ですれ違いするたびに眉をしかめていた西の商業都市の水軍を救わんと出撃したのだ。商船に手を加えたにわか作りの軍艦は出港するや湾内をよたよたさまようだけの幽霊船と化し、あまつさえ、当たろうとしてすら当ったためしのないと言われた大砲の直撃を受けた。船は文字通り木っ端微塵と化し、目撃者によれば乗船していた者の身体も同様である。

 敬虔な信徒であったのは私が保証するから、五体満足で死ねばあり得たものを、これでは復活も不能である。折につけ完全という概念を語る人であったが、いわば完全な不完全としての死を得た。満足だろうか。

 私は満足でない。夫がいないのでは、私も天国行きを希望しない。となると復活を阻止せねばなるまいが、しかしばらばらにされるのは嫌だ。残された短い時間で奢侈に走るのは難しい。乱暴狼藉を働こうにも異教徒が相手では善行になってしまい、盗みを行うべき家々は既にすっからかんだ。荒淫に身を任すくらいならできようが、そうするには私は亡き夫を愛しすぎている。

 愛するが故に、私たち夫婦は今生ならぬ死後ですら結ばれぬ。こんな結果になるなら、私も女だてらに義勇軍に加わっておけばよかった。そうすれば、もしかしたら夫と同じ死地を選べたかもしれないのだ。


 私は裾で額をぬぐう。噴き出た細かい汗に砂塵や煤煙がまといついて、ざらざら不愉快な感触だ。顔をぬぐおうと思って、窓際の寝床からゆっくりと身体を持ち上げた。

 部屋は、窓から差し込む光とわだかまった闇で二分されていた。私はこういう景色が好きだ。夜の光というのは闇の中で自由であるように思う。心が浮かれ、普段であればだがそんなものには自制の止めが入るのを、今日という日だ。自分の命にもう先がないと知っていては、つかの間に湧き立つ気持ちに身を任せて損はない。


 召使のようなのは、包囲戦の始まる前に暇を与えて逃がしたから、家には私ひとりしかいない。もとより広くもない家、体面で雇っていただけで、私と夫ふたりの生活にはそれでもたいして不自由はなかった。私ひとりになってからはますますだ。

 ただ、生活の流れが世間様と狂ってきたのは困りもので、このような夜に目を覚ましていたり、そうかと思えば真昼に高いびきということもある。一度なぞ、ほんのはす向かいにひと抱えもある石弾が直撃して大騒ぎになったが、私は例によって眠りこけており、事件を知ったのは翌々日になってからだった。近所の人々は私の有様を夫を亡くしての悲しみ故と捉えてくれているようだが、事実は単に自堕落の本性が現れているにすぎない。


 水は数日前に降ったのをその辺の壺に溜めこんだのでたくさんある。雨の少ない時期だから、籠城が続くならと節約していたが、これも今は昔。顔、そして体を適当にぬぐって、外出の支度にかかる。

 身にまとうものはそれでも入念に選ぶ。外聞を気にする性質だし、ある種の放埓な気分というのもある。上着は濃い紺と地味に、だが腰は金をあしらったベルトで止め、深い緋のマントを止めるのも黄金のブローチにした。

 髪は結わないのである、これが。結うのは好きじゃないのだ。そもそも結って美しいほどに伸ばしてない。以前はそれでもしぶしぶ結わえていたが、面倒くさいし、結い方ひとつにしても周りがやいのやいのとうるさいから、戦の始まるのを口実にばっさりと切って売り払い、保存のきく食料に替えた。これにて、貞女の鏡とほめられこそすれ、やれだらしない、ふしだらと文句をつけられる筋合いはなくなった。


 外に出ると、生暖かい風が髪をふうと揺らした。この揺れる感じが好きだ。あるいは自然と一体であるかのごとく、一方で自然に対して私のあるのを声高に叫ぶがごとく。

 白昼で見られたら相当に気味悪がられそうな薄笑いを浮かべ、闇と見分けのつかない土をみしりと踏む。踏んで心地良いのは、当然ながら、通行人に固められた通りよりは、うん十年も人の姿のない打ち捨てられた旧市街から、郊外の菜園にかけてである。郊外というのは街の西北の側で、ここら一帯は数年来、私と夫だけの蜜の園であったのが、不調法にも攻め寄せた敵の陸上部隊を迎撃する兵たちに踏み荒らされてしまい、昔と比べれば見る影もない。だがそれでも、兵の使わない打ち捨てられた細道や、管理する者のいなくなった果樹園というのは残っていて、流れ矢が危なかったりするものの、なにせやることが他にないから、私はかなりの程度入り浸っていた。

 最前からの風が空気をくゆらす。夜というのに気温は高く、肌が少し汗ばむのを感じた。体温と同じ闇の中を私は遊弋する。体が次第に溶け広まって、闇と同じだけの確かさとはかなさに沈んでいく。揺れるのは私の歩みであり、ひとつ歩めば緩慢な波紋が体内を巡り、ついには城壁を越えて私たちを囲む異教の兵まで届く。彼は長い見張り役に疲れている。にわかに寄せた風は、かがり火に焼けた彼の肩頬を心地良くぬぐい、それで彼はため息をひとつ吐いて城壁を見る。千年の長きを耐え抜いた厚く高い壁、しかし彼の主は間もなくそれを越えるであろう。その時には、なだれを打って市街に突入する兵のうちに彼もある。主は略奪を許すはずだ。彼は手近な家を物色する。が、意外にこれといったのがない。なんてことだ、かつてこの国にあったという富は、既に航海術に長けた貪欲な商業都市に、あるいは救援の空証文ばかり振り出した近隣の君主たちに、それとも彼自身の主にか、吸い尽くされて、今や虚ろな骸しか残ってない。ならばいっそ、市街などではなく、街外れを探ってみるか。まあ大かた何も残ってなかろうが。否、雑木の生い茂った古い果樹園で、彼は人を見つける。女だ、眠っている。落城の狂乱のさなかに、のんきな奴もいたものだ。近づいて彼は驚き、ほくそ笑む。着衣はさほど価値あるようにも見えぬが、派手な黄金の飾りをいくつも身に着けているではないか。最前から腕にぶら下げていた重たいものが、ひとなぎに女の首などふっ飛ばす得物であったと、彼は思い出す。楽に儲けさせてくれた礼だ、ここは苦しませずにこいつらの天国やらを拝ませてやろう。


 妄想はやめよう。私は泣いているのだ。こんなふうに半透明の闇が重たく被さった夜、私はいつも夫と歩いた。私は夫の影となり、またはその逆に、言葉を交わさずとて、ふたりの歩みはひたと寄り添って狂いがなかった。

 被造物は不完全だと、夫はいつも言った。私はうなずいて、しかし信じなかった。何故なら私と夫はこれほどに完全ではないか。ならばその失われようとも考えられなかった。確かに夫は学究の人で、そうである結果として肉体の鍛錬に興味がなく、ならば身体としての存在感というものを感じさせるほうではなかった。船上にて爆発四散し雑魚の餌になろうとは、夫らしからぬ勇壮な最期なのだ。

 といってそれは体、あくまで肉体である。私は夫の説教を解釈して、不完全性はまさに肉体にあろうと、精神こそは自由に完全であろうとこじつけた。復活できぬといえ、例えば頭に羽のついただけの天使もある。あるいはあの夫の精神なら、肉体の死をかいくぐって私の下へ戻るかもしれぬ。

 ところが驚いたことにというべきか、それとも当然なのか、夫の精神が私を訪う日はなかったのである。三日と三晩待って私は絶望した。早くはない。三日を空けることのできぬほどに私たちは私たちとしてあるべきと、私は、私ひとりは思いこんでいた。

 そして今日は四日目だ。嘘だ。実際は二ヶ月近く経っていよう。しかし私は四日目と変わらぬように泣くのである。


「夜か」

 不意につぶやき、私は顔を上げた。夜は夜に決まっている。私のは、ある種の親しみを含んだ台詞である。夜と涙に近しいものを感じたから。どちらも陰々滅々としているようで、意外と破廉恥に閃く。

 つまり、私は泣くのを惨めとは思ってない。涙とは世間でいうように陰惨ではないからだ。もっとこう、いわば能天気か、ほとんど自動的に頬を伝い、伝えば伝うほど気分は軽く、夫の黄泉返りは当然ないが、あるいはしかし私の巡り合いそうして共にあった時間というもの、それは終わったのだが終わったとはまさにそれが紛れもない幸福として完結し、誰であろうと変じ得ない輝きを未来永劫残した、ならばそれは本当の奇蹟ではないかと、だから私は夫との別離を嘆いているのか、それとも別離のもたらした美しさというものに打たれて泣いているのか、とにかくそれはほの明るい。


 蛇を念じれば蛇が現れるという。気がつくと、市街に通じる石畳の道の遠くに光が揺れていた。まさか、妄念の変じて現実と変わったか。私は目を凝らした。

 神の子、であった。またその聖なる母もおわす。当然である。帝国は神の国の地上における代理であり滅ぶとなればこれは世界の滅びと等しい。世の終わりには神の子が再臨するのであり、それが今というわけだ。母御前のおわすのは、まあおまけだろう。

 また嘘をついてしまった。聖像画である。何十というその数、加えて金銀で飾られた聖遺物匣、開かれたその中身は磔の十字架の一部とされる木片、恐れ多くも神の子の御顔の映りこんだ聖骸布。その他、こぶしほどもある宝石の嵌めこまれた聖杯、豪華な挿絵の写本、黄金の細線を数百本も組み合わせ、エナメルで飾った十字架などなど。宮殿の屋根材をはいで売り飛ばすほど困窮していた帝国に、まだこれだけの秘宝があったか。

 松明で照らし出されたこれらの宝玉を担ぐのは、皇帝を始め、重臣や教会の主だった面々である。何回か見た覚えのある皇帝の顔は精悍、を通り越して面やつれしているが、それがまた厳粛な空気を醸してもいる。場違いに華美なこの集団に続いて皇帝の近衛兵たち、さらに何百としれぬ民草が列をなしている。

 時間からして、夕刻からの礼拝を終え、その足で街を練り歩いてきたか。内心ではこれが最後と覚悟を決め、ただ釉薬のように秘宝による滅敵の霊験を求めて、斯様なる行動に及んだに違いない。

 折からの風に松明が揺れ、きらびやかな宝の数々を踊らせた。その風は私にも届く。髪の風に流れるのを感じると幸福だと思った。

 帝国の滅びは闇、栄華は光、栄枯盛衰はただいま出会い、そして永久に別れる。出会う瞬間、無限の光は無限の闇を照らし、無限の闇は無限の光を飲み込む。それは敵対でなく宥和だ。何故なら、形ある物は必ず崩れる、形が光で崩れるのは闇だ。しかしその崩れ去る間際、形は形としての歩みを完結する、つまり最期において形はついに定まる。それが完全であり、闇と光の結果なのだ。

 私は集団に加わりたく思った。落ち果てる際の陽の一条残した純粋な閃きを、己の身体が分解されて輝きに変わる快楽を味わいたいと。それでほとんど一歩を踏み出し、けれどやめた。

 やめたひとつはやはり私は夫を愛していたので、夫を差し置いての完全というのも気が引ける、それ以前に、私において夫なしで完全でもあるまいし。もうひとつは完全になるのは一方は光で、もう一方は闇だ。神の子は光で復活する者も光だから、復活しない夫はあるいは闇において完全たる、という詭弁も成り立つ。夜歩きが好きな私というのもそういう夫とかそれともそうでなく最初から闇のほうに立つので、だから私は行列には加わらず、そうではなくて闇においてそれを完全となさねば嘘だ。


 そういうことか。

 戦いは終わる。今日のあの光があった以上、もはや光は闇に消え、一網打尽に滅びるべきと思う。心は軽くなる。

 皇帝の御行列と並んで、しかしその光が届かぬ荒れ道を私は進んだ。

 帝国の至宝を異教徒に誇ろうというのか、行列は市街を抜けて城壁を上り、ひと際明るく松明を灯し、聖なる御宝の数々を掲げた。城壁の守備兵たちも歓呼してこれを迎え、持ち場を離れて列に加わる。私は打ち捨てられた門のひとつに向かった。

 門はかんぬきで施錠されている。太いが運べないほどでもない。私はかんぬきを持ち上げる。長く使われていたために砂っぽく乾いて、予想より軽かった。

 引きずって歩く。なにしろ闇であるから誰にも見とがめられることなく旧市街まで着いて、深そうな井戸を見つくろって放りこんだ。

 異教徒の軍勢はもう間もなく攻め寄せよう。かんぬきの代わりは間にあうまい。

 私はざらざらになった手で汗をぬぐい、夜空を見上げた。


 数日来の晴れで星が出ているが、乾燥した砂塵が巻き上がっているのと、加えて城外の処々で焚かれる巨大な炎の光と煙とで、闇は中天まで追いやられていた。

 そうして私はそれが愉快であるように感じた。


 そのまま井戸に飛びこむのも悪くなかったが、私の心中するのはかんぬきでなくて夫だから思い直し、帰って寝た。

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