第五章-2
「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
身体の芯が震えるような声と同時に、紅緋姫の身体から目を遮るほどの眩しい閃光が放たれた。衝撃を伴う閃光は、霧夜の身体を大きく揺さぶる。
「くひ――」
その腕が、しっかりと握っていたはずの腕が、するりと紅緋姫の左腕から抜けていく。膨大な閃光は霧夜の身体を紙屑のように上空へと放り投げ、地面へと叩きつけようとする。
「くそっ!」
空中での身動きは取れない。いくら足掻こうとも、自分が望むような姿勢にすることはできない。しかし、霧夜はラッキーだった。うまく手から落ち、腕を曲げて衝撃を吸収し、ほとんど倒れ込むように地面を転がった。
さすがに無傷の着地は無理だった。瓦礫のせいで、服が破れ、肌を浅く裂いていた。バネに使った腕にも無理があったのか、動かす度に鋭い痛みが走る。幸いなことに骨は折れてはなさそうだった。
「なにが――」
紅緋姫の方を見ると、彼女が居た場所から白い光が周囲を照らしていた。あまりの眩しさに霧夜は直視をすることができない。
しばらくして光が収まり、改めて紅緋姫に目をやり、彼女の姿に疑問を覚えた。
(なんだ、あれは)
紅緋姫の手には、眩しいまでの白い光を放つ物が握られていた。
この白い光に霧夜は見覚えがある。ロバートが攻撃手段に用いていた、白い球に良く似ている。だが、その時と違うのは、明確な形状を保っていることだろう。しっかりとした輪郭線を持ち、ロバートの球のような不安定さはない。
霧夜にはそれが槍に見えた。
しかし、そうだしても規格外だ。発光している槍は彼女の背丈とは不釣り合いで、非常に大きい。ざっと見ても悠に全長は三メートル以上に見えた。刃の部分が一メートル、柄の部分が残りといったところだ。紅緋姫は柄の丁度中間に位置する部分を右手で握りしめていた。
「神の槍」
彼女は一言、そう告げた。
「膨大な幻想力をその内に秘めている、究極の幻兵装。標的にしたものを抹殺するまで、追い続ける究極の狩人。それが、この武器。あなたは塵すら残らず、この世界から消え失せる」
「それが、隠し玉ってわけか。公園で使った奴か?」
「そう。あれは出力を一割に抑えた結果」
「一割……」
この槍が放たれた結果、公園に巨大な穴が空いたのは記憶に新しい。あの結果だけで、一割の出力。もし、霧夜があの槍の直撃を受ければ、紅緋姫の言葉通り、塵すら残さずに消滅するだろう。
「これをあなたに使う」
淡白に少女は少年に告げる。
「この槍に狙われたら最後、あなたが消滅するまで、槍は追い続ける。逃げることはできない」
「悪いが、引くつもりはない」
「わたしが、撃たないと思う? あなたがわたしを倒したとしても、旧支配者には勝てない。魂が救済されることはない。だったら、ここで終わらせる」
「俺は魂なんて存在は信じないタチだ。どっちにしろ、俺にとっては一緒だ」
「違う。槍で死ぬのと、旧支配者に殺される――。この二つには大きな差がある。槍で死ねば、あの世。旧支配者に殺されれば――きっと、死んだ先にさらに酷い状態が待っている」
冗談を言っているようには見えない。魂など存在しているのか、していないのか、良く分からないものを霧夜は自身の言葉通り、信じていない。だが、彼女は信じている。この場を潜り抜け、旧支配者に挑んだとしても、霧夜は勝てず、死の先に恐ろしいことが待っているということも、信じている。
だからこそ、せめて霧夜をその手で葬ろうとしている。死よりも残酷なことを防ぐために。
「それじゃ、簡単だ」
ならば、と霧夜は簡潔に答えを述べる。
「俺が、その槍を潰せばいい」
紅緋姫が目を見開いた。
「わたしは言った。この槍はあなたを消滅させるまで――」
「その槍は幻想力で構成されてるんじゃないか? だったら、俺には『力』がある。その幻想力に対抗する『力』が」
そう言って、霧夜は符を一枚握る。
「この槍に内包している幻想力は莫大。あなたの符が耐えきれない」
「やってみなくちゃ、分からないだろ」
目の前の槍の強大さは素人の霧夜でも分かる。それでも、彼の意志が変わることはない。
「……どうして」
そう呟いた少女の声は、か細かった。芯の通った淡白な声ではなく、弱々しく、触ると簡単に消えてしまうシャボン玉のような危うさを持った声色だった。
「どうして、そこまでするの!? この槍からは逃げられない! あなたは消滅する! それが絶対の事実! 旧支配者にも勝てない! わたしは――この街にはいられない! それなのに、どうして、どうして、どうして――」
彼女の言葉は少しずつボリュームを下げるかの如く、小さくなっていく。
その目には綺麗に光るものがあった。それは小さな雫となり、場面へと落ちて行く。
「どうして、分かってくれないの――」
「……紅緋姫」
霧夜は初めて見た。これまでの無表情無感動ではなく、感情のまま、全てを吐き出すように自分の想いを告げる少女の姿を。
(紅緋姫の言いたことは分かる。きっと俺のしていることは無茶なことなんだろうな)
それでも、霧夜は自分の意志を曲げることはできない。彼女が無理だと言うこと、霧夜にはそれが不可能な現実だと思わない。手を伸ばせば、掴むことができる現実だと思っている。いや、そう信じている。
そうでなければ、そうでなくては。
(悲しすぎる。そんな、結末しかないなんて)
だから、抗って見せよう。そんな結末しかない運命に、事実に、現実に、それを受け止めてしまう人に、救いの一歩を見せて見よう。誰もしないのなら、自分が、蒼炎霧夜が。
「紅緋姫。俺はその現実を打ち破って見せる。そして――お前を救って見せる」
「――」
言葉は出ない。いや、もうこの彼女は全ての思いの丈を言葉に紡ぎ出したのだ。もう、言の葉で霧夜を思い止ませることはできない。ならば、その手で、その持てる力で分からせることしかできない。
彼女は構えた。その巨大な、神々しくも残酷な槍を。
◆
槍を見ながら、霧夜は思う。
紅緋姫の言う通りだ。とてもじゃないが、符に込めた『力』だけでは槍に込められた幻想力に対抗することはできない。槍に触れた瞬間に符が消滅してしまうのがオチだ。
(思い出せ)
蒼炎霧夜は記憶喪失だ。昔の記憶は何も戻って来ていない。自分が何者なのか、外部から与えられた断片をかき集めて、判断することしかできない。だから、今の今まで蒼炎霧夜が生きて来た、全ての記憶を集めて判断する。『神の槍』という仰々しい物に対抗できる手段を。
(―――あの時)
自分の記憶の始まり。路地裏で目覚めたあの時。蒼炎霧夜は異物と出会った。わけも分からず、襲われ、危うく死んでいたかもしれなかった、あの時。
(俺はどうやって、異物を倒した?)
異物はいなくなったわけではない。その場で消滅したのだ。身体が崩れ、塵となった。どうしてそうなったのだろうか?
自分は『力』を使ったのだ。思えば、霧夜は媒介を必要とすることなく、手の平から『力』を出すことが出来る。しかし、それはあまりにも微弱過ぎるため、実戦では使用できない。だからこそ、符が開発されたのだ。
だが、この場において選択の余地は残されていない。
(『力』の意識を両腕に集中させるんだ)
自分の身体にある『力』を確認することは造作もない。その『力』を両腕に押しやる。ただただ、両腕に押しやる。そこからイメージする。『力』が外へと漏れだすように。
そうだ。できる。
「来い! 紅緋姫!」
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
叫び声と共に、神の槍は少女の手を放れ、宙に解き放たれた。それだけで、部屋全体が振動する。霧夜の身体も芯の底まで震えた。今までに感じたことのないような衝撃だ。まるで神が鉄槌を下してくるかのような、圧倒的な感覚。
いや、違うか。槍は神ではない。槍は少女の想いであり、感情だ。霧夜を旧支配者と関わらせたくないという、強い想い。その想いが、部屋全体を震わせ、霧夜を芯の底から震わせる。
霧夜はそれが嬉しかった。自分のために、ここまでしてくれる死力を尽くしてくれる少女がいることを。感情をぶつけて、自分を止めようとしてくれている少女がいることを。
だから、霧夜は受け止めなければならない。その想いを。
神の槍は目標に向かってひた進む。それを邪魔するものは何にもない。
その槍に向かって、霧夜は両腕を前に突き出していた。
集中する。イメージする。『力』を両腕に押しやり、その腕から漏れ出すように。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
彼の両腕から青白い光が漏れ出す。漏れ出した光は線となり、宙を妖精が踊るように舞いって、光は円を作り、その中に紋様を描き出す。くるくると、くるくると、優雅に美しく、全てを受け止める盾を描いていく。
『陣』は瞬く間に完成した。
神の槍が、その発光する槍が霧夜の視界を覆い尽くす。それほぼ同時に『陣』と神の槍が激突した。
光が飛び散った。
「く――」
重い。受け止めることはできたものの、槍はその勢いを止めようとせず、常に重圧をかけてくる。一瞬でも気を抜けば、『陣』が形を保っていても、自分の身体が吹き飛ばされてしまう。
(大丈夫だ。いける――)
時間が経つに連れ、槍の勢いが少しすづ、本当に少しずつ、弱まっていることを霧夜は感じていた。『陣』が槍の原動力となっている幻想力を吸収しているのだ。何も問題はない。いける。
刹那、槍の勢いが急激に力を増した。
(これは――まさか、紅緋姫が?)
そうとしか思えない。彼女が槍に自分の幻想力を送り込んでいるのだ。自分の想いを、成し遂げるために。
「このままじゃ――」
受け止めきれない。このまま力が肥大化していけば、最初に受け止めた時よりも槍は力をつけてしまう。一方の霧夜は疲労が蓄積し続ける。そうなってしまえば、いつかは受け止めきれなくなる。
どうすれば良い。この事態を打開するためには、どうすれば――。
「――紅緋姫!」
霧夜には一つの方法しか思いつかなかった。彼女が自身の想いの全てを吐き出し、その想いがこの槍に込められているというのなら、霧夜もそれに倣うしかない。
「お前の言う通り、街に残っても悲しいことや苦しいこともある。なら、俺がその全てを代わりに受け止めてるやる。お前の哀しみも苦しみも全部! お前の全てを! だから――」
今の自分の想いを、等身大で不格好でも構わない。
自分の想いを、紅緋姫にぶつけるしかない。
「ここにいてくれ、紅緋姫!」
その想いが紅緋姫に届いたのか、霧夜は窺い知ることができない。それでも、槍の重圧が減ることはなく、増し続けている。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」
ならば、自分も『力』を出し続ける。もっともっと、今よりも強く。その想いに反応するかのように『陣』の光は力強く、輝きを増す。
そして――
カラン、と。
槍が一つ音を立てて、地面を転がった。
「――ウ、ソ」
漏れ出した紅緋姫の声は、この場面の全てを物語っていた。神の槍が力を失い、霧夜が打ち勝つ現実。それは絶対にありえなかったはずの事実。そうだったはずなのに――
「紅緋姫」
自分でも驚くほど誇らしげに、霧夜は言った。
「これが、俺の現実だ」
◆
少女は茫然とした様子で霧夜を見ていた。信じられないといった様子がありありと、顔色に表れている。無理もない、彼女が信じていた現実が幻想と化してのだから。
それは一つのステージが終了したことを意味していた。第一段階、紅緋姫が勝つ手段を失うこと。もう、紅緋姫には勝つ手段も残されていない。戦う力がなくなっていると言い換えても構わないだろう。
霧夜はこの状況だけでは満足していない。
(まだ、第一段階だ。これからが、正念場だ)
そう、まだ第一段階でしかない。紅緋姫をこの街に残らせるには、多くの困難が待ち受けている。
唐突に、ドスンと大きな破砕音が部屋中に響いた。何事かと霧夜が音のした方を見ると、瓦礫で埋まっていた入り口に、歪な穴が開いていた。そこから見えるのは、一つの巨大な剣と、それを持つ漆黒の髪を持つ男だ。もう懐かしいとすら思えてしまう、人畜無害そうに見える柔和な笑みを見せる雨師だ
「きっくん!」
その横から、先輩が姿を現した。彼女はその場に目もくれず、一直線に霧夜へと駆け寄る。
「大丈夫っさ? ああ、すごいボロボロっさ! 全然大丈夫じゃないさっ!」
「いや、これはただの砂埃ですから。ケガ自体はほとんどしてませんよ」
「でも、手から血が出てるっさ!」
「え?」
言われて、自分の手の平を見ると、細かい切り傷が何カ所もあり、そこから血が垂れていた。どうやら、神の槍を受け止めた時に、その力の余波で手が傷つけられてしまったようだ。
「ちょっと待ってっさ。ほら、ハンカチっさ。とりあえず、これを巻いとくっさ!」
「いや、別に――」
「ダメっさ、ダメっさ! ばい菌が入ったらどうするっさ!」
反論や抵抗の暇与えず、手際の良い動作でどこから取り出したか分からない花柄のハンカチを巻いていく。巻き終わると、小さな声で「よし」と言って、霧夜の手をガラス細工の商品のように触れる。
「これで、大丈夫っさ。家に帰るまでは、これで我慢してっさ」
腰に手を当て踏ん反り返る。いつもの調子の翁舞に、霧夜は思わず笑ってしまった。
「何っさー」
「何でもないですよ」
適当にはぐらかすと、雨師が寄って来た。
「そっちは大丈夫だったか?」
「ええ。良い準備運動になりました。こちらは随分と派手にやったようですね」
「まあ、な」
最初に来た時より、この部屋の景色は随分と様変わりしてしまった。主だった原因は天井の崩落だろう。我ながら、派手なことをしてしまったと霧夜は思う。
部屋を一望して、霧夜は彫像のようにピクリとも動かず、膝をついて俯く少女に目をやった。近づこうと足を向けた時、突然彼女の身体がビクンと跳ね上がった。どうしたものかと、様子を見ていると明らかに異常が見て取れた。
まず、彼女の身体全体が小刻みに震え、荒い息が離れたこの位置からもはっきりと聞き取れるのだ。
「どうしたっさ、桜っ子」
「紅緋姫?」
呼びかける二人の言葉に、紅緋姫は反応を示さない。
両腕を交差させ、彼女は自分を抱きしめるように二の腕を握った。震えは止まらず、それどころか先ほどよりも震えが増しているように見えた。額からは汗が流れ落ち始め、顔全体は見るからに蒼白に染まろうとしている。
何もかもがおかしい。その中で霧夜は一際 異彩を放つものを見ていた。
(あれは――)
彼女の左腕。呪われた契約の印が、紫色に輝きを放っていた。
「――あ」
紅緋姫の漏れ出した、小さな一言は、
「ああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁぁぁぁ!」
絶叫へと変わる。喉が引き千切れんばかりの叫び声。
その時、霧夜は部屋全体が変わったように感じた。何が変わったのか、具体的に何が変化したのかは視認できない。しかし、この空間の何かが紅緋姫を中心にして、そこに収束しているように思えた。
ふいに、ピタリと紅緋姫の絶叫が終わりを告げる。それと同時に契約の印の発光が終わる。糸が切れた人形のように彼女の身体はうつ伏せに地面へと倒れた。
「紅緋姫!」彼女の名前を呼んで霧夜が駆け寄り、彼女の傍で膝を下ろす。すぐに翁舞も来て、霧夜と同様に膝を下ろした。
「おい、紅緋姫、紅緋姫!」
呼びかける声に反応はない。
「大丈夫っさ。命に別条はないっさ」
「いったい、どうしたっていうんですか?」
「多分、彼女の中の幻想力が急激に減少したのが原因っさ」
「減少?」
「そうっさ。幻想使いはある一定の幻想力がないと、身体に害が出るっさ」
「でも、どうして紅緋姫がその状態に?」
「普通はあり得ないっさ。でも、桜っ子が幻想力を使って、何かした様子は――」
「……腕が、光っていたようですが」
上から低い声が聞こえて来て、初めて近くに雨師がいることに霧夜は気がついた。いつもの笑みは消え、表情は険しいものに変化している。
「少し、拝見しても?」
「いや、待て、雨師――」
「僕の見間違いでなければ、あの光には非常に重要な意味があります。この都市の出身である貴方なら、それぐらい分かるでしょう?」
「それは――」
言い返せない。オラクルの庇護下にあるこの都市において、旧支配者の痣を持つ契約者は、危険分子以外の何物でもない。この状況でオラクルの一員である雨師に見られれば、紅緋姫がどんな扱いを受けるか、容易く想像はつく。
だからこそ、霧夜は雨師の前に立ち塞がり、紅緋姫に一歩も近寄らせない。
雨師は霧夜を一睨みすると、翁舞の方に話を振った。
「翁舞さん、あなたも光の意味は分かっていますね。その腕を捲ってもらえますか?」
霧夜は一抹の不安を覚えた。翁舞のオラクルの一員だ。ならば、雨師と同じく、彼女は紅緋姫に酷い仕打ちをするのだろうか。可能性は高い。
いや、と霧夜はかぶりを振った。翁舞の人柄から、あまりに考えにくかった。
「翁舞さん、ここは――」
紅緋姫を庇って下さい。直接的でなく、曖昧に、それだけで自分の意志が伝わるように、翁舞に促す。
「――」
翁舞は特に行動を起こさない。紅緋姫の腕をギュッと握り、彼女をじっと見続けている。
「私は――」
彼女がようやく口を開く。しかし、それは一人の来訪者によって阻まれる。
最初に耳にしたのは、小さな音だった。ほとんど気にならない様な、本当に小さな音だった。それが段々と大きくなり、連続して鳴り続けた時、三人は自分たち以外にこの建物内に人がいることを確信した。
足音は自分の存在を示すように、徐々に大きくなる。程なくして、この部屋に足音の主が姿を現した。
「おやおや、随分とこの部屋は様変わりしているね」
飄々とした声の主は、部屋をざっと見まわして適当な感想を並べていた。
霧夜は立ち上がると、喉から絞り出した低い声色を伴って、声の主の名を呼ぶ。
「ロバート……!」
「やあ、随分と派手にやったようだね」
全身黒ずくめの男は、明らかに敵対の色を示した霧夜の言葉とは真逆に、まるで旧来の友のような親しみを込めて返した。
「なるほど。僕の時と同じ方法を使ったか。どうやら、この場所は君にとって有利な条件が整い過ぎているらしい。――ん?」
ロバートは何かに反応を示した。ゆったりとした動作でその場所から離れた位置に落ちていた槍に向かって歩き出した。その槍を拾い上げると、まじまじと見始め、しばらくすると感嘆の声を上げた。
「あれほどの幻想力があったというのに、すっかり空っぽとは……。君の『力』だね、蒼炎霧夜。君のことをもっと調べたいが、生憎と時間がない。僕の目的の為にね」
目的。アカシック・クロニクルのカギを使って、閲覧すること。それがロバートの目的。
(……ん?)
霧夜は何か違和感を覚えた。何かがずれているような気がしてならない。
思えば、ロバートとはいったい何者なのだろうか。強力な幻想使いであり、彼は『賢者』と呼ばれ、知識を貪欲に求めている。その知識をさらに深めるために、ロバートは紅緋姫と協力してアカシック・クロニクルを閲覧しようとしている――今までの情報を統合するとこうなる。
ここで霧夜は疑問を覚えた。
『賢者』とは誰から呼ばれている名なのだろうか?
自称なのだろうか。しかし、ロバートは確か自分がこう呼ばれているのだと言ったはずだ。ということは、誰かから呼ばれているのだろう。それも、特定の人物ではなく、不特定多数の人物から。しかし、それでは一つの疑問が浮かぶ。そんな大仰な二つ名で呼ばれているということは、他者から認められるような大したことをしたはずだ。だが、誰もロバートについて知らない。ロバート・ブレイクという名前も、容姿も知らないのだ。
これは、何を意味しているのか?
小さな吐息が後ろから漏れた。霧夜が思考の渦から抜け出して振り返ると、横たわっていた紅緋姫が上半身を起き上がらせようとしている。
「まだ、起きあがっちゃダメっさ!」
紅緋姫は翁舞の静止を無視したが、まだ顔色は優れない。呼吸もまだ安定していない。休ませるべき状態であるのは、見て明らかだ。
「紅緋姫――」
霧夜も、彼女を横たわらせようと、彼女の傍で膝を折る。その時になって、霧夜は紅緋姫の唇が僅かに動いていることに気がついた。生憎と声は出ていない。
「どうした、紅緋姫? 何が言いたいんだ?」
自分の耳を近づけ、聞き取ろうとする。中々、彼女の言葉は音を伴って出てこない。
「――ぺ――」
ようやく、一つの言葉が口から漏れた時、彼女の言葉を遮ってロバートは一際大きく声を上げた。
「さあ! 君たちを僕のステージに案内しよう!」
両手をお椀のように広げる姿はまるで、虚像のステージに立ち、形なきスポットライトを浴びる舞台役者の様だった。
「紅緋姫。君の幻想力を使わせてもらおうか」
その言葉以外には何の前触れもなかった。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
紅緋姫が片手で自分の胸を、苦しそうに押さえたかと思うと、ビクンと背中が仰け反り、この世のものとは思えない、絶叫を上げた。この姿は、先ほどと全く一緒だ。
「桜っ子!」
「紅緋姫!」霧夜はロバートの方を見て「お前何を――」
ぐらり、と立ち上がった途端に霧夜の身体が揺れた。いや、霧夜の身体だけではない。天井や、壁からは小さな破片が落ち、折り重なっていた瓦礫が崩れ始めた。建物全体が大きく振動しているのだ。揺れは次第に大きくなり、ついには三人共、地面に膝をつけなければならなかった。
その中でロバートは一人、膝をつくことはない。その黒い姿は真っ直ぐと天井へと延び、あまつさえ笑みを浮かべている。その姿は尋常ではなく、一種の狂気すらも感じる。
パキン、と飴玉を砕くような音が鳴った。その音源がどこなのか、霧夜には分からなかった。その一つの音は、一つ一つまた一つと増え、ついには隙間なく、音が部屋を包み込む。それと同時に霧夜は信じられないものを見た。
宙に、一つの亀裂が入り始めた。黒い線は蜘蛛の巣のように広がり、天井を、壁を、床へと浸食していく。
そして、一際大きくバキン、と音が鳴ると――。
「――え?」
霧夜は自分の身に何が起こったのか理解できなかった。一つ大きな音が鳴ったかと思うと、自分『ここ』に居た。
蒼炎霧夜は膝をついていた。だが、彼は確信を持って言える。自分は瓦礫で薄汚れた床に膝をついていたはずだ、と。にも関わらず、彼の膝は打って変わった光沢のある乳白色の地面に膝をついていた。
霧夜は周囲を見渡した。
ロバートは同じ位置取りで、何事もなかったように立っている。翁舞と雨師は目を丸くして、さっきと全く同じ位置取りで膝をついている。紅緋姫は目を瞑り、荒い息を何度も繰り返している。その顔は再び蒼白に染まり、額は汗で染まっている。四人は全くその場から動いていない。
しかし、周囲には劇的な変化があった。四角形の箱のような部屋に居たはずたったのに、今いる場所は円形で、両脇には幅広い廊下が奥へずっと伸びている。
光沢のある、乳白色で彩られている床は繋ぎ目がない。壁は光沢が控えめな黄金色で染まり、その上に何かが描かれている。その何かは延々と、廊下の遥か先まで続いていた。
全体的にこの部屋自体が一つの作品のような雰囲気を感じる。その中でも、一際目立つのがロバートの背後にある彩色豊かなステンドグラスだ。ステンドグラスは暗闇で染まる天井へと高く伸びている。あまりにも大きく、一番上を見るには首を目一杯上げなければならないほどだ。その先にあるはずの天井は明かりが届いていないのか、やけに暗く、天井は見えない。
ステンドグラスの両脇にはそれぞれ別々の女性が象られたブロンズ像が鎮座している。芸術品というものが良く分からない霧夜でも、このブロンズ像は美しいと感じた。
「……『人払い』じゃない?」
声を発したのは雨師だった。
「ああ。もうあそこからは抜け出したよ」とロバートが答える。
「馬鹿な! 『人払い』の空間から脱出したというのですか? そんな芸当が――」
「力技だけどね。多量の幻想力とちょっとした技術があれば、こういった芸当ができる。まあ、美しくない馬鹿みたいな手さ」
「そんな……馬鹿な」
声を荒げる雨師に、ロバートはあくまで冷静に、簡単そうに説明をする。雨師は納得がいっているように見えない。にも関わらず圧倒的な現実を見せ付けられ、心と頭が合致していない。そんな風だった。
「ここは……」
誰の呟きだったのか、霧夜には分からなかった。ロバートはその声に、満足げな反応を示した。
「そう。ここは秩序の塔の最上階だ」
「秩序の、塔?」
そんなはずはない。でなければ、翁舞の話と合致しない。秩序の塔はまだ最上階まで人が到達していない、未知の領域だ。それをこうも簡単に到達できるわけがない。
「何なら後ろから見ると良い。この街の景色をね」
そう言われて、霧夜は初めて後ろが吹き抜けのバルコニーになっていることに気がついた。その入り口には窓もカーテンもついておらず、不自然なことに風を感じない。秩序の塔は遥か天空へと延びている。この高さで風がないなど、あり得ない。
(罠、か?)
そうは思えなかった。ロバートが姑息な手段を用いてくるとは、先の戦闘から見ても、あり得ないと思われる。しかし、万が一ということもある。
「……翁舞さん」
「桜っ子は大丈夫っさ。またさっきと同じ現象が起きてるだけ。しばらくすれば、また落ち着くっさ。それより、きっくんは見てきて」
「……はい」
促され、霧夜はバルコニーへと足を運んだ。
バルコニーに出ても、風はなかった。やはり、ここは秩序の塔ではない――その考えを打ち砕く光景が視界一杯に広がった。
街だ。確かに自分の下には街が広がっていた。既に世界には夜の帳が降り、その暗闇の中で街灯や、建物の光が煌々と輝きを放っている。そのどれもがあまりにも小さい。さらに遠くには薄暗いせいではっきりとは見えないが、巨大な建造物が見えた。都市を覆う壁だ。
間違いなく、この街は常世だった。そして、常世をこの高さから一望できる施設を霧夜は一つしか知らない。
「本当に、ここは――」
秩序の塔。それしかあり得ない。逆にそうでなければおかしい。
遅れて、雨師もやって来た。景色を一通り見渡すと、愕然とした様子で後ずさった。
「信じてもらえたかい?」
「どうして」雨師が言った。「秩序の塔の最上階に――」
「『人払い』の中にある、唯一コピーでないあの場所は特別なんだ。つまり、秩序の塔の最上階に行ける裏口があるのさ。まあ、一部の人間は気づいていたんじゃないかな。例えば――」
そう言って、ロバートのうろついていた視線が固定された。誰を見ているのか、霧夜が視線を追おうと矢先にロバートは目を逸らした。
「まあいい。そろそろ、儀式を始めるとしようか」
ロバートは左の腰に右手を伸ばして何かを握った。それは剣の柄だった。黒色のローブのせいで、今の今まで同じ色の柄が全く見えなかった。それを腰から抜き去ると、黒色の刀身と装飾が鈍い光を放ちながら、ロバートの手の中でくるりと一回転した。ガン、という音と共に剣は地面へと突き立てられた。
間違いなく、アカシック・クロニクルのカギだ。
「させるとお思いですか?」
雨師が垂れ下がっていた剣の切っ先をロバートに向けた。
「あなたが都市に危害を加えた事実は変わりません。この場で拘束します」
「ま、待って!」
静止の言葉をかけたのは、倒れていた紅緋姫だった。今は翁舞に身体を支えてもらいながら、上半身を起き上がらせている。
「あいつはただアカシック・クロニクルを見るだけ。それだけで、もう都市に危害を加えない。だから、何もしないで。絶対に戦わないで!」
何か奇妙だと霧夜は思った。彼女の言葉は、彼女がロバートの協力者であるなら、一見して何ら変哲もない言葉に聞こえた。だが、彼女の様子は協力者として、雨師を止めようとしている風には見えない。寧ろ、危険なものに対しての警告に聞こえる。
「紅緋姫、絶対に戦わないでってどういうことだ?」
「それは――」
分からないのなら、彼女に直接問い質すしかなかった。しかし、彼女は口を閉ざす。言いたいけれど、言えない。そんなジレンマを抱えているように見えた。
「もういい、紅緋姫」
言葉を発したのはロバートだった。彼は一つ息を吐くと、しばらく黙り込んだ。これから何を言おうか、考えているように見えた。誰もが、ロバートが喋るまで喋ろうとはしなかった。
「知ってるかい?」沈黙を破ってロバートが話し始めた。「彼女は欠陥品なんだよ。優れた能力を持ちながら、活用する術を知らない哀れな人間さ。まあ、所詮は無理やり契約した結果というべきか」
「……無理やり?」と霧夜。
「ああ。そもそも彼女は平和で能天気な世界で暮らしてきたんだ。けれど、優れた能力を発揮して旧支配者と契約を結んだ。あまり、使い物にならなったけどね。しかし、今回の仕事振りは及第点だ。君は僕のことを漏らさなかった。けど、残念だよ。最後の最後で無下にするとは。旧支配者はさぞ悲しむだろうね。」流暢にスラスラと言葉を紡いた後、一拍開けて、「まあ、全ては予測済みさ。だから、紅緋姫。君には真実を語らなかった」
「……しん、じつ?」
その言葉がどういった意味を持つのか、紅緋姫には分かっていなかったようだ。
「そうさ。所詮君は不本意に操られている人形。どこかで必ずボロが出る。旧支配者はそれを見越していた。だからこそ、今回の真の目的を話さなかった」
ロバートはそそり立つ剣の柄を撫でる。
「これは、アカシック・クロニクルのカギなんかじゃないんだ」
「――え?」
紅緋姫から驚きの声が漏れた。いや、紅緋姫だけではない。この場にいたロバート以外の全員が、驚きに目を見張り、息を詰まらせた。
その様子にロバートは腹の底から意地の悪い、相手を小馬鹿にしたような笑い声を上げた。
「ねぇ 紅緋姫。僕がアカシック・クロニクルのカギを求めることに何の疑問も持たなかったのかい? 五年以上も付き添ったというのに。僕は無知も好む。無知から生まれるものがあることを知っているから。そして、無知はいつしか知識となる。知識とは経験をすることによって初めて、自分の物にすることができる。他者から教えられた実践なき言葉は現実かもしれないが、教えられた者にとって空虚な幻想の言葉でしかない。それが僕の思想であり、信念だ。だから、知識だけをそのまま提示するアカシック・クロニクルなどという、僕を否定する存在を自ら貪欲に欲しよう思うかい?」
「そ、それじゃ、その剣は――今までの目的は――」
「全く関係のない。アカシック・クロニクルとはね」
「――」
がくりと、紅緋姫の身体全体から力が抜け、彼女の身体は翁舞に寄りかかるように崩れ落ちた。
「それじゃあ、お前は何のために、今回の事件を起こしたんだ?」
当然の疑問を霧夜は口にした。アカシック・クロニクルが目的ではない。今まで前提にあった事実が全て白紙となる。結局のところ、ロバートという男は何がしたいのか?
「僕自身の復活」
簡潔な言葉でロバートは告げる。
その言葉が何を意味しているのか、霧夜には分からなかった。
再びロバートは自身が舞台役者だと言い張るかのように、大仰な手振りで自分を示した。
「今こそ明かそう。僕の名はペトータルレイ。旧支配者の一柱さ」
自然と、それが当たり前の事実だと雄弁に語るが如く、言い放った。
それがどういう意味なのか、ここにいる全ての人間は知っている。旧支配者、創造主が創り出したこの地を、かつて統治していた存在。封印された邪神たちの総称。その内の一柱が目の前に立っている。とてつもなく強大で、邪悪な神の一柱が立っている。
短い沈黙後、最初に言葉を発したのは雨師だった。
「何を言っているんですか?」
「そのままの意味さ。僕の名はペトータルレイ。賢者と呼ばれる知識の象徴。かつてこの地を支配し、哀れにも創造主に反抗し、無様に封印された神々。その内の一柱。それが僕」
「復活を遂げるって言ったさね? それは?」今度は翁舞が言った。
「それも言葉通りの意味さ。僕はここで復活を遂げる。悠久の時から、その身を解放する」
「馬鹿な! できるはずがない!」何もかもを否定するような口調で雨師は断言した。「この常世で儀式の準備ができるとでも!?」
「何か条件でもあるのか?」
霧夜が尋ねると、翁舞が答えた。
「旧支配者の降臨には、幻想力で形成した巨大な儀式陣と、それぞれの旧支配者に対応するアイテムがあるっさ。ペトータルレイは確か『輝きの管楽器』って呼ばれるアイテムっさ」
「この場所に、輝きの管楽器はありません。そもそも儀式陣を、この常世に形成できるはずがない!」
早口で捲し立てる雨師の言葉は最もだ。儀式を行おうにも、あらゆる前提条件が揃っていない。少なくとも、翁舞と雨師はそう信じている。その二人にロバート――いや、ペトータルレイは種明かしをするマジシャンのように、やはり大仰な手振りで剣を示した。
「これは肩代わりできるアイテムなんだ。僕が昔、信仰者を使って作らせた、ね。まあ、一回使ったら、効力を失って消えてしまうけどね」
「……そんなものがあったのは、驚きっさね」
「ですが、陣はありません。復活はできない!」
吠える雨師に、全てを嘲笑うかのようにペトータルレイは笑みを浮かべて答えた。
「ちょうどこの街は、円形だね」
誰にでも語るでなく、独り言のようにペトータルレイは言った。
「儀式陣にはちょうど良い」
◆
夜が訪れた街において、人々の活動は昼間に比べて急速に沈んでいく。一方で、夜の帳が降りた中で常時活動している組織は、もちろんある。例えば、この街の治安局や異能管理機関などがある。彼らは非常時において、すぐに活動をできる態勢を整えている。
第七地区において異能管理機関に所属している、とある少女も例外ではない。今日も夜間の勤務を任されていた。デスクワークが案外お気に入りの彼女にとって、ほとんど人がいない夜間の勤務は苦ではなく、むしろ楽しんでいた。しかし、それは異常がない限りの話だ。ここ最近は、異物の発生頻度が多くなってきていたので、夜間においても任務に駆り出されることが多くなってきていた。事務専門の彼女は現場にこそ急行しないものの、異物発生を現場担当に告げるのは彼女の役目だ。
彼女はもう何杯目になるか分からないコーヒーを啜ると、背中を思いっきり伸ばした。もう何時間も同じ態勢でいる。健康に良くないことは明白だ。彼女は少しの間、外の風に当たろうと思った。ちょっとの間、席を外しても構わないだろう。電話と異物発生を伝える地図を持っていけば、すぐにでも連絡をすることはできる。幸いなことに咎める人もいない。
暗い廊下を歩いて、何十段とある階段を昇って、彼女は外に出た。冷たいが、新鮮な空気と風におかげで、気分が良くなる。
ふと、彼女は見慣れない光があることに気がついた。街灯でも、室内の明かりでもない。遥か先、本来暗闇でなければならい場所に、今まで見たこともないような光が照っている。怪しく、不気味に光る紫色の明かり。一筋の光は両端に光の線を伸ばしていく。
何の光だろうか。注意を向ける光であることは間違いないと彼女は思った。報告をした方が良いと判断し、室内に戻ろうとした時。
紫色の線は一際輝く光を放った。
◆
秩序の塔の最上階。四人と一柱はその光を確認していた。
「あれは……そんな、どういうことですか」
誰に疑問を向けるわけでもなく、雨師は酷く渇いた声で呟いた。
「翁舞さん、あれは……」
紫色の線の正体が何なのか、全く分からない霧夜は翁舞に疑問をぶつける。
帰って来たのは答えではなく、狼狽した声だった。
「……しまったっさ。でも、どうやって――」
雨師と翁舞は驚愕の光景に他者の声が届いていない状態のようだった。この二人を狼狽させる状態とは、どのような事態だろうか。霧夜は二人の様子を見て、一つの答えを脳裏に浮かべた。
「そう」霧夜の答えを見切ったようにペトータルレイが言った。「儀式陣だよ」
「でも、どうやったっさ? どうやって、儀式陣を――」
「警備ゴーレムを覚えているかい? 空気中の幻想力を吸収して、動く人形たち。あれを壁の近くに張り巡らせて、お互いの身体を幻想力で繋げれば、ほら、一つの陣の完成だ」
「……警備ゴーレムの誤作動はあなたの細工のせいだったんですね」と雨師が言った。「ですが、誰にも気づかれずに壁に移動することなど――」
「そのために異物のゲートを大量に発生させたんじゃないか。君たちの注意をそっちに向けさせ、この都市全ての警備ゴーレムの移動から目を逸らすために。大変だったよ、ゴーレムに細工をするのは。何せ数が多いからね」
今までで見たどの表情よりも穏やかな笑みを浮かべながら、ペトータルレイの視線は紅緋姫の方へと映った。
「紅緋姫、今までありがとう」表情に負けないほどの穏やかな声だった。「君のおかげで計画は成功しそうだ。でも、まだ仕事が残っている。君の幻想力が必要だ」
「どういうことだ?」と霧夜。
「おや、気がつかなかったのかい? 僕がどうしてここまで移動できたのかを」
「……まさか」
「ああ。紅緋姫の幻想力を使ったんだ。体内の幻想力が急激に空っぽになれば、普通は死ぬ。でも、彼女はその恵まれた能力のおかげで死ぬことはない。まあ、能力の源がなくなるから、かなりの苦しみを味わうことになるけどね。言うなれば、外からのあらゆる障害から守る無敵の殻は、内からの衝撃には脆いってことさ」
紅緋姫の能力は外からの痛みに対して身体を守ってくれる。幻想力を急速に消費して発生する内部からの痛みに、彼女の能力は対応できない。
霧夜は紅緋姫を見た。未だに苦しそうに息を吐き、うなだれている彼女の姿を。
きっと、あれが初めてではないのだろう。長い間、ペトータルレイと過ごした何年もの間、何度もあったに違いない。その度に彼女はこうやって苦しんだのだ。
「お前は、お前はそうやって、ずっと紅緋姫を苦しませてきたのか」
身体が、顔が、手足が、全身が熱く滾っていく。同時に自然と拳に力が入っていた。自分の内側から迸る激流を、抑え込もうとしている姿だった。そう、感情と言う名の存在を理性で必死に抑える証拠だ。
これは、怒りという感情だ。
「ふざけるな、紅緋姫はお前のおもちゃなんかじゃない。一人の人間なんだ。お前みたいな奴が弄ぶ資格なんかない」
「怒っているのかい? この僕に対して」
「黙れ」
声を聞きたくはなかった。その飄々として、自信に満ち溢れ、少し人を小馬鹿にするような声を。いや、声だけではない。今、霧夜はペトータルレイの存在そのものを否定したかった。
「紅緋姫」
真っ向から来る敵意をペトータルレイは無視するように、少女に呼び掛ける。
「最後の仕事だ。これを取れ」
ペトータルレイはその手に持つ物を床に投げ飛ばした。華美な装飾が一切ない、シンプルな槍だ。神の槍、その名を冠するほどの強大な幻想力を、今この槍は持っていない。
「僕の幻想力を分けておいた。これを使って、彼らから僕を守れ」
「――」
出来る筈がない。紅緋姫は体調を崩している。立つことすらままならないほどに多量の幻想力を失っているのだ。三人を相手に、しかも防衛戦をすることなど無理に等しい。だが、ペトータルレイは許さない。冷酷に、紅緋姫に告げる。
「君の仕事を完遂しろ。僕の復活という名の計画を」
「わたしは――」
「できないという選択肢は残されていないよ。君は僕と契約を結んだものなんだから」
旧支配者と契約した者は契約主に逆らえない。紅緋姫はずっとペトータルレイと共にいたのは、それが一つの要因だ。ならば、紅緋姫は従うしかない。その身を動かし、槍を取り、ペトータルレイの儀式を完遂させなければけない。
しかし、彼女の身体は小刻みに震えるだけで動こうとはしない。槍を凝視し続けているが、それだけだ。
「紅緋姫」
彼女を呼ぶペトータルレイの冷たく、他者を圧倒する声が響く。
たん、と力強い足音がした。ペトータルレイの声をかき消すような、力強い音が。
蒼炎霧夜が一歩、前に踏み出た音だった。臆することなく、ペトータルレイへと近づくと、彼の前に転がっていた槍の場所で立ち止まると、足を軽く上げ、地面に転がっていた槍を後ろへと蹴飛ばした。
「……何の真似だい?」
「紅緋姫に、もうそんなことはさせない。紅緋姫はずっと寂しがってる。苦しんでる。悲しんでる。そうさせるのは誰だ?」
彼の感情に溢れる瞳が、ペトータルレイを見据えた。
「お前がいなくなれば良いんだ。ペトータルレイ」
「僕に勝つつもりかい? 無理な話だ。旧支配者の力は強大だ。君は虫けらと同意義だよ」
「だったら、変える。その腐った現実を俺が幻想に変える」
「――そうか」
柔らかい声だった。
「では、見せてもらおうか。僕の現実を、幻想に変える姿を」
ふわりとペトータルレイの身体がその手に剣を携えて宙に浮く。その身体は霧夜の上を通過し、三人の上も通過した。その身はバルコニーに出ると、ふわりと優雅に着地した。
「さあ、始めようか」
星一つない夜空と、人工の光が灯された街を背景にペトータルレイは、手の中の剣を地面に突き刺した。刀身から淡い紫色の光が放たれると、光は一つの球となり、刀身から地面へと雫の様に垂れて行く。さらに地面に転がると、機械的に地面に線を引っ張っていく。
「陣を描くつもりっさ!」
翁舞の言葉に反応して、即座に動き出したのは雨師だった。剣を両手で構えると、振りかぶって地面へと巨大な刀身を叩きつけた。ゴオッ、と刀身から白い光が現れ、地面を這うようにペトータルレイへと直進していく。しかし、白い光は展開された薄い膜によって阻まれ、瞬く間に霧散してしまった。
霧夜の反応も早かった。ポケットから符を取り出し、投げつける。幻想力に打ち勝てる『力』だ。一切の防御を無力化できる。
だが、剣から光が放たれると、白い光の球となり、符を迎撃するように向かっていく。符と球はぶつかりあい、符から『力』が解放され、瞬く間に地面へと落ちて行った。一度『力』を解放すれば、符に込められた『力』は全て失われてしまう。その点を突かれてしまった。
「くそ!」
「もう一度です!」
二人はさらに攻撃を加えようと、それぞれの武器を構える。
しかし。
「遅かったね。陣は完成した。さあ、ペトータルレイの復活だ」
ペトータルレイを中心として、円形の陣は確かにその形を成していた。
(――まだ、間に会う!)
霧夜の手には符が握られていた。その数は五枚。もう『力』は込められている。それをロバートに投げつけた。符は直進する。最大限の速度を一定に保って、向かっていく。だが、陣が発光したかと思うと、次の瞬間には陣から発生した黒い激流が縦横無尽に部屋へと放たれていく。符は呆気なく、その『力』を解放したものの、圧倒的物量の前に無惨にも呑みこまれていった。
「――」
同様に霧夜も、何をすることも出来ずに呑みこまれていった。
◆
蒼炎霧夜の視界は漆黒に染まっていた。純粋な黒ではない。あらゆるものが混じり合った不純物の混ざった黒だ。周りを見渡しても、同じ光景が広がっている。加えて音もなく、静かな世界が広がっていた。
呑みこまれている、と本能的に悟った霧夜は手足をバタバタと動かそうとした。そこで手足がやけに重いことに気がついた。どれだけ早く動かそうとしても、身体は全く言うことを効かない。
(『力』を――)
自分の手から『力』を放出しようとする。彼の手から放たれる『力』は異物にもほとんど効かない程度のものだが、この黒い世界も幻想力で出来ているのならば、何かしらのダメージを与えられるはずだ。そうすれば、元通りになるかもしれない。
ふと、何かが聞こえた。静かな世界で、とても小さな音が、確かに聞こえた。それは、少しずつ大きくなっている。しかし、何を言っているのか判然としない。どんなに近づいてきても、全く分からない。
さらに、一カ所からだった音は別の方向からも聞こえ始めた。さらに一つ、一つと音が出現していく。そのどれもが、何を言っているのか分からない。霧夜は音に意識を傾けた。すると、判然としていた音は徐々に言葉になっていく。さらに霧夜は集中して音を聞く。
「―――――」
音が言葉になった。
次の瞬間に、視界は元居た場所へと変化していた。紅緋姫は横たわり、その傍には翁舞がいた。雨師も剣を持ったまま立っている。変わらない、秩序の塔の最上階だ。
いや、一つだけ変わっている。
ペトータルレイがいたはずのバルコニーに、その姿はなく、剣だけが刺さっていた。
「皆――」
声をかけようとして、霧夜は三人の身体が震えていることに気がついた。そして、一方だけを見つめていることに。
それはバルコニーの外だった。一見して何もないように見えた。しかし、闇夜の中に薄らとした輪郭と、蒼い線のようなものが浮いている。
何かがいる。
その姿は――
「―――!」
その姿を見て、霧夜の身体は一瞬にして、手足の先から冷え上がり、震え上がった。特徴的なフォルムではない。その見た目は、顔と首しか見えないがまさしく竜だ。漆黒の身体の表面にははっきりとした青い線で飾られた模様が浮かんでいるだけだ。だが、霧夜は心の底から恐怖を感じた。人間の本能が突きつけた現実だった。
存在だけで、相手を威圧する、絶対的な恐怖を持つ者。
旧支配者の一柱、ペトータルレイ。
神の前に人はただ跪くしかない。それを体現するような力が、目の前の神にはあった。
『グウォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ』
それはただの叫び声ではなかった。身体の芯はもちろんのこと揺さぶられ、心の中にも響き渡る。そう、人間という存在に揺さぶりをかける方向だ。それは異物の比ではない。たった一つの咆哮だけで、その存在を否定する。
しかし、霧夜はそこでハッと我に返った。恐怖で染まっていた身体は、瞬く間に動くようになる。全身に活力が漲り、張り付いていた思考が動き始める。
(何だ、こいつ)
霧夜はペトータルレイの姿を見た。見るだけで戦意を失わせるほどの相手だと、さっきまで思っていた。しかし、今はどうだろうか。どれだけ姿を見ても、恐怖が湧き上がることはない。それは先ほどの咆哮のせいだ。本来なら、あれだけで人間の僅かに残っていた意志さえも挫くことが出来る。
だが、霧夜は違和感を覚えた。ペトータルレイは人々に知識を与えた、知識の象徴だった。その象徴が化け物のような咆哮をするとは、あまりにも似つかわしくない。その違和感が、あの咆哮をものともさせなかったのだ。
何かがおかしい。
巨大な顎が開く。その中も漆黒で染まっていた。とても生物とは思えない。いや、神は生物ではないのだろうか。しかし、今はそれどころではない。幻想力を感じ取ることができない霧夜でもはっきりと分かった。漆黒の口内で、力が渦巻いている。とてつもない、何かが。
口先は下へと向いていた。ちょうど、紅緋姫と翁舞がいる場所に。
(まずい!)
口内で溜まる巨大な力と言えば、定番だ。
「二人とも、逃げろ!」
しかし、霧夜の声に二人は反応しない。虚ろとした表情で翁舞はペトータルレイを見上げている。紅緋姫の方は完全に地面に倒れ込んでいた。意識を失っているように見える。
霧夜は二人の前に立ち、その両手をペトータルレイへと向け、『力』を放出し、『陣』を形成する。その直後に、視界が一瞬にして黒で塗り潰された。次いで衝撃が、霧夜の身体に圧し掛かった。
まるで身体全体にハンマーでも振り下ろされたかのような衝撃が襲いかかった。真っ直ぐと伸ばした手から衝撃が全身へと伝わり、身体を揺さ振る。その衝撃が間を挟むことなく、常に霧夜へと襲い続けた。
幸いにも、『陣』はブレスを受け止め、壊れる兆しは見せていない。しかし、『陣』が持ったとしても、霧夜の身体の方が持たない。時間が経てば身体は音を上げ、ブレスは三人を巻き込んでしまうだろう。
(どうすればいい。何か打開策は――)
周囲を見渡そうにも、前方はブレスによって完全に視界を遮られている。そもそも、目の前のものから注意を逸らせば、その身が呑みこまれてしまう。
(考えろ、思い出せ!)
ならば、記憶の線を辿って情報を引き出すしかない。二週間前から続く記憶の一つ一つが霧夜の脳裏を過ぎり、出来事を再生させていく。その中で、霧夜は一つの『ある場面』に注目した。
あの時の言葉、今のこの状況。完全に矛盾している。
(――そうか!)
ならば、チャンスはある。この神に打ち勝つ絶対のチャンスが。しかし、今の自分にはできない。ブレスによって、足止めをされている自分には。
「誰か、誰でも良い。剣を――」
◆
紅緋姫桜。
この名は彼女本来の名前ではない。今よりももっと長い、誰もが素敵だと言ってくれるような可愛らしく、美しい名前だった。
言語も、文化も、今とは全く異なるものだった。そのほとんどを彼女は忘れていた。自分がどんな言語を喋っていたのか、どんな文化の中に居たのか、良く覚えていない。どうでも良かったからだ。何故なら彼女にとって、大切なものはそんなものではなかったから。
家は裕福だった。どの家よりも大きい屋敷には、いくつもの部屋があり、柵の中には色鮮やかな花々が咲き乱れ、多種多様な美しい生き物たちが暮らしていた。加えて、そこからは一面緑豊かな草原と、息を飲むほど美しい山々が一望できた。彼女はその景色が大好きだった。暇があれば草原と山々を一望し、時には自ら足を向けたことさえあった。山は、さすがに無理だったが。
それ以上に大好きだったものがある。両親だ。少し厳しいが、いつも面白い話をしてくれる父親と、おしとやかで常に笑顔を絶やさなかった優しい母。
両親の特徴を表すエピソードがある。父が怒る度に紅緋姫は母親の影に隠れていた。いつも母は自分に味方をしてくれたからだ。その後に両親の口げんかが始まり、その姿に紅緋姫は、ボロボロと涙を流した。困った両親は口げんかをやめ、仲直りをする――。二人とも譲れないものがあり、いつも口喧嘩していたが、自分にはめっきり甘かった。
子どもの頃の自分は天真爛漫で、やんちゃなだった。勉強や稽古、作法などよりも、身体を動かし、外で遊びまわる方が好きだった。その姿に両親はいつも困った顔を浮かべていたのを、彼女は良く覚えている。
そんな彼女に両親はたっぷりと愛情を注いで、大切にしてくれた。
そう、彼女は幸せだった。この日々が永遠に続けば良いとさえ思っていた。そして、それは続くものだと信じていた。
あの日が来るまでは。
その日は、その季節にしては少し寒く、季節外れの雨が降っていた。その中を両親は『街に出かける』と言って朝から居なかった。広い屋敷で一人残された彼女は、自分を置き去りにした両親に文句一つ言いたいところであった。その日が自分の誕生日で、両親がプレゼントを買いに行ったとも知らずに。
雨は激しさを増し、いつしか外では雷鳴が轟いていた。最初こそ気にしていなかった少女だが、次第に音は大きくなり、ついには落雷のせいで停電が起きてしまった。その中で彼女は一人待っていた。いつしか怒りは治まり、寂しさが去来していた。早く両親と共に居たい――だから、扉が開いた音をした時、彼女は喜んで玄関へと向かった。
しかし、玄関に両親はいなかった。代わりに居たのは全身真っ黒で、ずぶ濡れの男が一人。見たこともない人に彼女は混乱と恐怖が湧き起こっていた。その中、男はドサリと床に何かを置いた。両方の手にはそれぞれに何かを持っていたと気づいたのは、その時が初めてだった。
一瞬、それが何か紅緋姫には分からなかった。
雷鳴が轟き、館の中を光が一瞬照らす。
その光が、男の置いたものを見せてくれた。いや、見せてしまった。
愛すべき両親だった。
彼女は男も気にせずに、無我夢中で両親に駆け寄った。握った父と母の手が冷たかったことを良く覚えている。何度も父と母を呼び、その身体を揺さぶるが、返事は無い。
「死んでるよ」
紅緋姫の頭上から、男の平坦な声がした。
「し……?」
無垢で純粋な少女は、これまで『死』という概念を良く理解していなかった。だから、男が最初に何を言ったのか、良く分かっていなかった。しかし、次の言葉で少女はこの状況を理解することになる。
「ああ。もう君の両親は戻って来ない」
戻って来ない。それは日頃から使う言葉。少女はその意味を理解していた。
もう自分の傍から、永遠に離れてしまったということ。
「あ、あ、あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
館に少女の絶望の叫びが木霊した。
「――」
男が何かを言ったような気がしたが、少女には関係がなかった。ただただ叫び声を上げ、それはいつしか嗚咽に変わっていく。その時、彼女の身体に変化が起こった。内側から起こる変化。内から何かが競りだしてくる。
少女はそれを抑えなかった。嗚咽と共に内から放たれた力は、暴風雨の如く暴れ続けた。それがいつ収まったのか、紅緋姫桜は知らない。
それから先のことを紅緋姫は良く覚えていない。どうやら、いつの間にか意識を失ってしまったようで、気づけば彼女は例の男と見知らぬ場所に居て、左腕に見たこともない痣があった。
「それは契約の痣」
男はそう説明した。そして、男は自分のことと、今の状況を説明した。
自分の親が死んだ。事故死だったらしい。
男はたまたま倒れている二人を発見し、近くの家まで運んだ。
少女は死んだ二人の姿を見て、幻想使いとなり、男は無理やり『契約』を交わした。
「それがある限り」男は少女の腕を指さした。「君は僕に逆らえない。逃げることもできない」
ぶっきらぼうに言う男の意味を少女は理解した。このわけの分からない男と、ずっと一緒にいなければならない。
少女はただ、自分に訪れた現実を受け入れるしかなかった。
それから、二人は旅をし始めた。当てのない旅だった。特に目的がなく、世界中を転々とする旅だった温い旅ではなかった。何日も食料に困ることもあったし、何度も死に掛けた。
自身をペトータルレイと名乗った男も、助けてはくれなかった。彼は両親のような温かさとは真逆の存在で、少女に冷たく当たった。情など存在しなかった。
その状況は少女にとって寂しくて、辛いものだった。少女には他人から、まだ愛情を受けなければならず、物理的な助けも必要だった。それを行う者が一人もいない。まさに孤独な世界だった。
それでも、少女は死ぬことはなかった。持つことになった力によって。
旅の中、同じ場所には居られなかった。傷を負うことのない身体は、ふとした拍子で他人にばれる。そうなれば、彼女は忌み嫌われた。便利ではあったが、現実の世に生きるには辛すぎる力だった。彼女に安住の地は存在しなかった。
「常世?」
何年も辛い旅をし続けた後、ペトータルレイは唐突に紅緋姫に告げた。
「そこは多くの幻想使いが住んでいる。もしかしたら、契約者でも受け入れてくれるかもしれない。もう僕は君に飽きた。常世に住めるなら、君との縁を切ろう」
願ってもいない言葉だった。
常世に行くための旅も、それほど温いものではなかった。険しい山を越えて、草原を踏破して、時には妙な怪物に襲われた。――常世に辿り着いたのは目指してから半年以上の月日が経った時だった。
その街の外観を見て、紅緋姫は嬉しかった。情の欠片もない、冷酷なこの男の呪縛から逃れて、女は新たな居場所で生活ができるからだ。
しかし、常世には住めなかった。
能力は障害ではなかった。幻想使いが普通に受け入れられる街だったからだ。だが、契約の痣はどうにもならなかった。一度結んだ契約が切れることはない。痣は永遠に彼女の腕に残り続ける。
ここもダメだった。
自分に安住の地はない。誰も自分を愛してくれず、大切に思ってくれる人もいない。
孤独な世界で、彼女は絶望することしかできなかった。
◆
気がつけば、紅緋姫は地面に横たわっていた。さっきまで静かだったが、急に辺りは騒がしくなっている。特に、自分の目の前が。
膨大な幻想力が圧縮されたブレス。それを放っているのは復活を果たしたペトータルレイだった。見るだけでおぞましい姿をしている。自分はその片鱗を何度も見て来たせいか、今更驚きを覚えない。
目を瞠るのは、自分を守るようにしてブレスを受け止めている一人の少年の姿だった。その姿は無謀に見えた。彼の『力』は驚きを紅緋姫に与え続けていた。神の槍を防ぎ、旧支配者のブレスさえ防いでいる。だが、彼の『力』が吐き続けるブレスを最後まで受け取る前に、彼の身体が持たないだろう。さらには彼の足元の床には亀裂が入り、時間が経てば崩落する危険性を秘めていた。
(やっぱり、無理だった)
旧支配者の力は強大だ。例え、神の槍を受け止めた『力』でも、打ち勝つことはできない。
これが現実。圧倒的な力の前に、人はただ頭を垂れるしかないのだ。
「誰か、誰でも良い。剣を――」
目の前の少年が何かを言っている。圧倒的な力の前でも、力強い声だ。
「剣を壊せ!」
剣? それに該当するものは一つしか思いつかなかった。彼女がカギとペトータルレイに偽られ、ずっと追っていた儀式のための剣のことだ。
視線をバルコニーに映す。
そこには、黒で塗り固められた剣が鎮座していた。
(……?)
おかしい。
確かペトータルレイはこう言った。
『これは肩代わりできるアイテムなんだ。僕が昔、信仰者を使って作らせた、ね。まあ、一回使ったら、効力を失って消えてしまうけどね』
もし、この言葉通りなら、儀式を完遂させたあのアイテムは言葉通り消えてしまうはずだ。にも関わらず、剣はまだそこにある。これは、どういうことだろうか?
(まさか、儀式は完遂していない?)
ならば、あのアイテムを壊すことが出来れば、旧支配者はその存在を維持できないかもしれない。蒼炎霧夜はそれに気がついた。だから、言葉を投げた。
ふと、床に着いた指が何かに触れた。目を落とすと、一本の槍が転がっている。
神の槍。幻想力のほとんどが失われているが、まだ武器としては役に立つ。その柄を彼女は握り、ふわりと立ち上がった。まだ万全の調子ではない。身体はふらつき、足元は覚束なかった。
この状態で彼女は槍を構える。狙いは、剣。旧支配者のこの世界に繋ぎ止める楔だ。その時になって、槍を持つ手がぶるぶると震えた。視界も霞み始めて、狙い撃つ剣が分散して見える。不意に、足に力が入らなくなった。膝がかくんと崩れ、身体が崩れ落ちる。
ダメだった――でも、諦めたくはなかった。そう思ったのは、何年ぶりだろうか?
一度、崩れ落ちようとした身体が、直前で踏み止まった。それでも、槍を投げる力はない。
(少しでも良い。槍を投げる力だけで良い。お願い――)
少女の想いとは裏腹に、身体は限界だった。再び、力が抜ける――だが、彼女の身体は立っていた。
紅緋姫は後ろから人の温もりを感じた。誰の?
翁舞咲だった。彼女は紅緋姫を抱くようにして、全身で少女の小さな身体を支えていた。
「頑張るっさ」
一言。その短い言葉は、紅緋姫の全身に活力を漲らせた。
今あるだけの力を込めて、彼女は槍を投げた。か細い一撃だ。軽く小突けば、簡単に失速して地上に落ちてしまいそうな儚さを感じる。しかし、その姿とは裏腹にしっかりと槍は突き進んでいく。
その動きを、塞ぐものは何もなかった。
剣に槍がぶつかる。
抵抗する様子はなかった。まるで、最初から降参の白旗を上げていたように思えた。
槍はその剣を、紙を引き裂くように打ち壊した。
そして、部屋一面が白い光に包まれた。