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第五章-1

 宙へと浮遊していたロバートは、ゆっくりと着地した。その風貌は、昨日と何ら変わりもない。全身黒ずくめの格好で、両腕をコートのポケットに突っこんでいるそのスタイルもだ。

「やあ、昨日振りだね」

 ポケットから手を出し、軽く振る。相変わらずその手は黒の革手袋で染められ、肌の露出は一切ない。

 ロバートは雨師の方へと向き、

「そちらは初めてかな。ロバートだ。よろしく」と挨拶をすると、彼の目に興味の色が差した。「……へぇ、竜殺しの魔剣か。中々良いものを持っているね」

「……この人は?」

 戸惑い気味に雨師が霧夜に訪ねる。突然の横やりに拍子抜けしているのか、戦闘態勢を解いている。

「人払いに俺を連れ去った奴だ」

 雨師は一瞬驚きの表情を浮かべると、納得したように眼前の男に目を向けた。一度は降ろした剣の切っ先を、ロバートへと向けた。

「何の用だ?」と霧夜。

「なに、簡単なことさ。そろそろアカシック・クロニクルのカギを渡してもらおうかと思ってね」

「……アカシック・クロニクルのカギ?」

 言葉を一つ一つ確かめるように雨師は呟く。それを横目に霧夜はただ、溜息を吐くしかない。

「渡し方すら知らないんだ。どうしろっていうんだ?」

「何、君の身体をバラバラにすれば、何とかなるさ」

「何だと?」

 昨日とは打って変わって過激な発言に、霧夜は驚いた。

「方針の転換さ。ちょっと僕も急がなくてはならなくなった。君には悪いが、とっと行かせてもらう」

 言うが早いか、ロバートの周囲には五つの白い球が形成される。容赦なく放たれた弾は、霧夜へと一直線に向かった。霧夜もただ黙っているだけではない。すぐにポケットから符を取り出し、投げつけようした時、目の前に人影が現れた。

 雨師だ。彼は一振りで全ての弾を文字通り、切り裂いた。

 クルリと大剣を軽々と一振り、肩に背負う。

「あなたが何をしようと勝手ですが、この街に被害が及ぶのなら、容赦はしません。そして、ここの住人に手を出そうものなら、尚更です」

 チラリと雨師は後ろを見やる。

「ここは一つ、休戦です。目の前の厄介事から片付けましょう」

「同感だな」

 一歩前に出て、霧夜は雨師と肩を並べる。その様子にロバートはククッと笑い声を洩らした。

「勇ましい仲間を見つけたようだね」

 そう言うロバートの様子はどこか面白がっているようだった。何が面白いのか、霧夜には分かるはずもなく、雨師も同じようで表情一つ変えなかった。

「さて、始めようか。今回は最初から立派な殺し合いだ」


 ◆


 雨師が前に出る。霧夜はその場から動かずにポケットから符を取り出し、ロバートへと投げつける。

 霧夜と雨師は知り合いとはいえ、阿吽の呼吸で動ける仲というわけではない。戦闘能力に関しても、お互いの力量が確認できたのは先ほど戦闘だけだ。お世辞にもコンビで戦うには圧倒的な経験が不足している。

 しかし、先ほどの戦闘だけでも理解できたことはある。つまりはお互いの戦闘におけるポジションである。大剣を持つ雨師は明らかに前衛のポジションだ。一方の霧夜はオールラウンダー型と言える。符を使った中距離からの攻撃及び、接近戦における格闘といったところだ。

 二人はそれぞれの特性を生かすことにした。雨師を前衛に押し、霧夜が後ろからの援護射撃だ。

 ロバートは白い球を形成して打ち出す。目標は雨師だ。雨師は剣を動かさない。片手に持ったまま、颯爽と駆ける。弾は雨師へと迫るが、着弾することはない。代わりに受けるのは、霧夜が放った符だ。

 雨師の行く手を阻む白い球は、霧夜が全て撃ち落とす。それが霧夜の役割だ。

 雨師は既にロバートへと急接近している。白い球は全て霧夜が撃ち落とした。ロバートは完全な無防備だ。雨師は片手に持った剣をロバートに目掛けて横へと薙ぐ。

 ガキンと、音が走った。

(これは……!)

 防がれた。右から放った重い一撃は、簡単に防がれたのだ。

 雨師には防がれた理由が、一瞬分からなかった。一撃を防いだものの形が成していなかったからだ。どうやら、視認できない薄い膜がロバート全体を包み込んでいるようだ。

 すぐにロバートからも反撃が来た。正面に白い球が一つ。

(防御!)

 防がれた剣を引き戻し、自分の身体を守るために剣の平面にする。間もなく、ドスンと重い衝撃が全身に伝わる。衝撃が止むと、攻撃に転じようとして剣を構え直そうとしたが、すぐに辞めざるを得なかった。

 白い球は再度、形成されている。それも一つではない。ロバートの身体を視界から遮ってしまうほどに白い球は形成されている。それらがふわりと空に高く舞い上がると、まるで手からボールを放り投げるように、落ちてきた。

(……?)

 雨師には不可解な動きに見えた。何せ、白い球をそのままぶつけてきた方が効率的に思えるからだ。態々このような方法を使う意味はない。ならば、何故?

 防御をするか、攻撃に転じるか。ほんの短い時間悩んでいると、自分の上を何枚もの符が通過していった。弾を迎撃するために霧夜が放った符だ。

(ならば……!)

 自分は攻撃に転ずるべきだ、雨師はそう判断し、剣を構えなおそうとした時。

 ぐにゃり、と白い球が変形した。

 ゴムのように縮んだり伸びたりすると、一つ一つの弾の形が一気に無数の針に変化、いや、分散したと言うべきか。迎撃に向かった符は針によって無惨にも切り裂かれ、内包した力が流出する。それだけでは、全ての針は消せない。

 針のシャワーが、地上へと降り注ぐ。

 この『面』による攻撃に対し、雨師は己の幻想力を剣に込める。

「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

 剣を横に一閃。膨大な幻想力が剣から放たれ、細かい針が全て薙ぎ払われる。

「ほお」

 感心したような声をロバートは上げた。

「あの針を全て打ち消す幻想力か。中々の手練のようだ。君にも少し興味が――」

 そのお喋りを阻害するように、雨師の後ろから符が縦に一列になって向かっていく。ロバートはふうと困ったように息を一つ吐くと、白い球を形成し、符の列に向かわせた。

 光が爆ぜる。

「僕の話を拝聴するべきだと思うよ、蒼炎霧夜」

「悪いが、お前のお喋りに付き合っている暇はないな」

「それは同感ですね」

 さらなる攻撃の為に雨師は剣を振る。周囲の幻想力を吸収し、剣に付加させたのだ。防御膜を破るほどの力を得るために。

「僕の援護、お願いします」

 後方へと言葉を投げる。返事を待たずして、雨師はロバートへと駆けた。

「おやおや、もう一度同じ手かい?」

 何とでも言うが良い、雨師は心の中で言い捨てた。

 ロバートは迎撃の為に何個かの白い球を形成し、雨師へと向けて放たれる。雨師は見向きもせずに、ただ直進した。

 白い球が眼前へと迫った時、後方から符が飛来し、『力』の解放によって視界が開ける。

 目の前にいたはずのロバートの姿は見えなかった。いや、新たな白い球によって遮られていた。

 次の符は間に合わない。雨師は直感的にそう判断し――白い球の集団に向かって、突っ込んだ。遠くで「おい」という声が聞こえたような気がしたが、雨師は無視した。

 白い球が自分自身の身体に着弾する。

(さすがに――!)

 弾が当たる度に痛みが走り、身体を大きく揺さぶる。

 一つ一つの白い球を形成している幻想力の量はこの大きさにしては詰められている。やはり、生身でそのまま特攻するには、少々無茶だった。

 それでも、雨師はその歩みを止めない。減速もしない。反対に速度を上げようと、足を動かそうとする。

 視界が開けた。

 何かが身体に着弾する感触は伝わらない。雨師はあの白い球の集団から抜け出したのだ。

(急げ)

 傷ついた自分の身体に鞭を打って動かす。その度に身体のあちこちから痛みが雷鳴のように貫く。加えて、何かが肌の表面を伝っていくのが分かる。それは明らかに血だ。その全てを雨師は意識の外へと飛ばした。目指すべくはロバートへとただ剣を振り下ろすことのみ。

 気づけば、もうロバートは眼前だった。構えていた剣を右から左へと水平に薙ぐ。

 刹那、ロバートの身体を中心に薄い膜のようなものが球体状に展開された。雨師の一撃を防いだ防御膜だ。視認できるのは、その時よりも幻想力が多いからだろう。

 雨師にそんなことは関係ない。そんな壁は打ち破って見せる。ただただ自信を持って剣を横に薙ぐ。

 ガキン、と再び音が走る。

 その瞬間に、雨師は自身の能力を発動した。

 『巨人の鉄槌』。あらゆるものを破壊する、幻想使いである雨師にのみ与えられた固有の力の一つ。

 ロバートを守る盾を破壊するために、雨師は己の力を使う。

 ガチッ

 卵の殻が割れるような音が耳に入った。

 防御膜が『巨人の鉄槌』の前に破壊された音だ。

(よし)

 そのまま雨師は剣を力一杯、横に払い――

 ガキンと、再三聞こえた音が鳴った。

「―――な、馬鹿な!」

 雨師の剣はロバートに届かなかった。

 防御膜は破壊した。現実に膜はなくなっている。代わりに雨師の剣を防いでいるのは、一本の白く発光する棒だ。

 見れば、ロバートの手はポケットの中から飛び出し、いつの間にか外へと出ていた。その手から白い光が線となって延び、棒を形成している。

 幻想力によって構成された棒だ。驚くべきは、棒に込められた幻想力は白い球の比ではないということだ。近くに居る雨師だからこそ分かるが、棒を形成する幻想力のせいで強い圧迫感を覚えた。

「無茶する幻想使いだね」

 呆れたような声をロバートは雨師に投げる。

「美しくない手だ。でも、その猪突猛進さには称賛を――」

 雨師は最後まで聞かなかった。一度剣を棒から離し、再度『巨人の鉄槌』で棒ごとロバートの身体をへし折ろうと、剣を構え直す。

「悪いが、そうはさせない」

 その言葉を合図に目の端で何かが光った。

 ロバートの右手に白い球が形成されようとしていた。それを見て、雨師の身体から一斉にして血の気が引いた。一見して、頻繁に使っている白い球に見えるが、込められている幻想力の量はこれまでの比ではない。棒よりも、膨大な幻想力だ。それが形を成し、自分に向かって動き出そうとしている。

 攻撃は出来ない。あれを食らえば、雨師の身体の方が持たない。

 そう判断して、雨師はすぐに剣の表面を前に出し、防御の体勢を取った。

 間もなく、先ほどとは比べ物にならない衝撃が全身に走る。

 白い球はそれだけでは終わらない。雨師の身体は白い球によって、後ろへと押され始めた。体勢が少し不自然だったのだろうか、雨師は自分でも不思議なほど身体が砂埃を巻き上げながら、下がって行く。

(くそ、この身体では――)

 無理があったか。そう思った時、自分の横を何かが通り過ぎた。その背中には見覚えるある銀髪が揺らめいていた。


 ◆


 蒼炎霧夜はロバートに向かって走り、一定の距離のところで足を止めた。彼の両手には符が何枚も握られている。まずは右手の符を一斉に投げつけ、踊り子のようにくるりと身体を回転させて、左手の符を投げつける。

 それだけでは終わらない。さらにポケットから符を取りだし、くるくると回りながら次々と符をロバートに向けて放つ。対して、ロバートの方も黙ってただそこにいるだけではない。白い球を形成して、符を迎撃する。

「雨師! 二人でやるぞ!」

 ようやく白い球が消え、自由を取り戻した雨師に向かって、霧夜は言葉を投げる。帰って来た声色は少々困惑していた。

「どういうことです!?」

「二人で一気に押す!」

 詳しいことを話さず、霧夜は端的に告げた。

(間違っていた)

 霧夜は符で白い球を迎撃し、ロバートに向かって符を投げながら強くそう思った。

(雨師は強い。だが、ロバートとの相性が悪い)

 雨師の剣を使った戦い方は確かに強い。実際に霧夜も圧倒されたと言わないまでも、決定打を与えられなかった。ロバート相手ならば、自分が学生寮で戦った時よりも善戦するかと思ったが、そうもいかなかった。

 決定的に雨師とロバートは相性が悪いのだ。彼の岩のように頑固な攻撃は、ロバートの波のように揺れ動く戦い方の前に、受け流され、時には止められてしまう。

 ならば、戦い方を変えるしかない。

 雨師を前に出し、霧夜が補助をする。この戦闘スタイルを変更する。変え方は単純だ。

 霧夜が前線に出る。それだけだ。

 徐々に霧夜は符を投げながら、ロバートへと近づいていた。弾の数は非常に多い。それと違って、霧夜の符は有限だ。ポケットに手を突っ込む度に、軽くなっていくことが分かる。

 もう何度目か分からない白い球が来る。再びポケットに手を入れ、符を掴み取る。

「――な!」

 はらり、とポケットから符が地面へと滑り落ちた。彼の手には符がない。掴み損ねた。

 白い球は迫っている。符を取って迎撃するか、回避行動を取るべきか、霧夜は一瞬迷った。しかし、その時間は戦闘において致命的だ。状況は刻々と変わってくる。気づけば、白い球はもう目の前まで来ている。

 ドォン! 白い刃が白い球にぶつかり、轟音が耳に響き渡る。確認するまでもなく、霧夜は雨師の援護射撃だ、と確信した。

(ありがとな、雨師)

 心の中で礼を言い、霧夜は走る。目の前に霧夜を妨げる障害はない。ポケットから符を取りだし、『力』を込める。ロバートは白い球を形成しようとしていた。だが、今度は雨師の時とは違う。確実に打ち破れる『力』が霧夜にはあるのだから。

 千載一遇のチャンス。これを逃すわけにはいかない。

 霧夜を投げる構えを取り、その手から符を投げつけようとして――

 横から雨師の声がした。

「危ない!」

 焦燥に満ちた警告の声だ。考える間もなく、霧夜は後ろに跳んだ。

 瞬間、霧夜がさっきまで居た場所に『何か』が来た。それを確認するまでもなく、爆音が鳴り響き、地面が揺れ、派手に土が抉られて砂埃が高く舞い上がる。視界は完全にシャットアウトされた。

「遅い」

 ロバートの声がする。誰かに話しかけているようだ。

 声はしない。相手からの返事はなかったようだ。

「まあいい。一仕事してもらおうか。指示はさっきの通りだ」

 砂埃が多少晴れて来た。そのおかげで二つの人影が確認できる。長身の影はロバートだろう。その隣に小柄な人影が一つ。この砂埃を起こした人物だろうか? その小柄な人影はまるで子どものように見える。

 強烈な風が右から来て、砂埃が一瞬にして晴れた。見ると、雨師がその手に大剣を持っている。彼の剣が起こした風圧の力なのだろう。

 前を見る。

「―――え?」

 そして、絶句した。

 目の前に広がる光景、それは到底信じられないもので――

 わけが分からない。どうして、こうなっている?

「どういうことだ? どうしてそいつの隣にいる、紅緋姫!」


 ◆


 あり得ない。

 一言でそう説明できる光景が、蒼炎霧夜の目の前に広がっている。

 ロバートと紅緋姫桜が、隣同士で立っている。それはあり得るはずのない、絶対にない光景だと霧夜は思っていた。いや、この光景があるということを想像していなかった。これまでの経緯から考えても、全く想像できない。

 幻想だ。この目の前の光景は夢まぼろしだ。そう思い込んでも、現実の光景は変わらない。ロバートと紅緋姫桜は肩を並べて立っている。

「どういうことだ――」

 口から洩れる問いに答えるものはいなかった。

「さあ、ちょうど二対二だ。再開しようか」

 何事もなかったように、ロバートは白い球を再度自分の周囲に展開する。

 紅緋姫桜も、地面をタンと一つ音を鳴らすと、六本の剣が競り上がって来た。

(そんな――)

 あり得るはずがない、と霧夜は思っていた。。紅緋姫が自分に剣を向けようとしている。ロバートの呼びかけに応じて、自分を異物から助けてくれた六本の剣を。

 こんな光景が現実であるはずかない。でも、けれど、しかし、だが――紅緋姫はその手に一本の剣を握りしめた。

「―――」

 すぐ後ろから誰かの声が聞こえたような気がしたが、言葉が判然としない。いや、判然としない原因は自分の耳だ。それに気付いたのは、ロバートが何か喋っているようだからだ。しかし、口をパクパクとさせているだけで、音が全く聞こえない。その内、周囲の音すらも聞こえなくなった。

 完全なる静寂。それが霧夜にだけ訪れた。

 紅緋姫が剣の切っ先を向ける。

 攻撃が来る。それが分かっていても、霧夜の身体は全身から力が抜けて動かない。というよりも、霧夜は動こうとしなかった。その気力が湧き上がらない。

(どうして、どうして――)

 もう霧夜は戦えなかった。

「待つっさ!」

 静寂に包まれた霧夜に一つの声が響き渡った。それは聞き慣れた先輩の声だ。声のした方に目をやると、公園の入口には緑色の長髪を揺らして、一人の女性が立っていた。

「翁舞さん?」

 珍しく息を切らしている。しかも、何かを両手で抱えていた。それはかなり大きく、全長は翁舞よりも頭一つ分大きい。白いシーツだろうか、それで覆っているようだ。

 しかし、何故彼女がここに? 戦いとは無縁の場所で暮らす翁舞にとって、明らかにこの場所は彼女の居るべき場所ではないにも関わらず、彼女はさも当然のように自然とこの場に立っている。

 誰もが翁舞へと視線を注いだ。

 息を整えた翁舞は、腕に抱えていた白いシーツに包まれている『何か』を、両手で持って突き出した。

「カギはここにあるっさ」

 ――え?

 その時、この場にいた誰もが言葉を失った。きっと誰もが言葉を理解するのに時間がかかったことだろう。

「カギ?」

 最初に言葉を発したのはロバートだった。

「そうっさ。これがアカシック・クロニクルのカギっさ」

 彼女は白いシーツを剥ぎ取った。ふわりとシーツが揺れ、翁舞の手から離れ、宙へと舞い上がる。

 姿を現したシーツの中身は妙な代物だった。カギと言われれば、納得するだろうが、とても初見では分からない。その見た目はほとんど剣だ。まず目を引くのは、その不気味な装飾だ。黒を基本とした表面には凝ったデザインが彫られている。特に柄の部分には何かの生物をモチーフとしたらしき顔が付けられて、非常に不気味だ。刃の部分には中心部分に交差する輪が一つある。二つの輪にはそれぞれ球体が二つずつ、線に沿って運動している。全体的に気味の悪いデザインだ。

「いや――」

 しかし、と霧夜は自分自身に反論する。確かに装飾全体は気味が悪い。だが、それ以上に気味が悪いのはその雰囲気だった。装飾全体が生み出している雰囲気ではない。見てくれではなく、その存在自体が発している雰囲気と言うべきだろうか。

 その感触に非常に強く似たものを霧夜は覚えがある。

「そうか、君が持っていたのか。それで、君はそれを持ってどうするんだい?」

「これを渡すっさ。その代わり、きっくんたちには手を出すなっさ」

「良いだろう」

 考えるような素振りを一切見せず、ロバートは即答した。

「紅緋姫」

 その呼びかける声は普段の声色とは違って、どこか高圧的な声に応じて、紅緋姫は従順に翁舞の下へと歩き出す。二人は特に会話をせず、翁舞は黙ってカギを手渡した。見た目通り、重いのだろうか、受け取った紅緋姫の身体がよろめく。

「どうした? 早くしろ」

 冷たい、叱咤の声が紅緋姫に浴びせられる。紅緋姫はまるで無視しているのか、特に反応を見せずにロバートの近くに戻り、カギを渡した。受けとったロバートは刃の側面を撫でると、満足げに笑みを浮かべた。

「本物の様だ。しかし、何故君が持っていたんだい?」

 翁舞は答えない。代わりに鋭い目つきでロバートを睨みつけていた。霧夜は今までにこんな翁舞の姿を見たことはなかった。

「まあいい。条件は整った。行くか」

 ロバートの指が宙を撫でるように縦に裂く。すると、裂け目が生まれ、黒い空間が広がった。

「さらばだ、蒼炎霧夜」

 軽く手を振り、ロバートは裂け目へと入っていく。

「待て!」

 雨師の声がする。霧夜の視界に駆ける姿が見えた。剣を片手に持ち、二人纏めて攻撃する気が感じられる。

「ダメっさ!」

 その雨師の前に翁舞が立ちはだかった。珍しくイラついた様子で雨師は声を荒げる。

「何をするんです、どいてください!」

「最大教主からの指示っさ。今、この場では手出し無用っさ」

「な――」

 雨師の口から驚きの言葉が漏れた。その次の言葉は生まれない。

 霧夜は視線を黒い空間へと戻した。もうロバートの姿は見えなくなっている。

「――紅緋姫」

 緋色の少女が、霧夜に背中を見せていた。

「紅緋姫、何故だ! どうして――どうしてこうなってる!?」

 絶叫に近い叫び声は紅緋姫の耳に届いているはずだ。にも関わらず、彼女は答えない。背中を向けたまま暗闇の空間へと足を進める。

「答えてくれ――紅緋姫!」

 再度の問いかけに、霧夜を救い、霧夜が救いたかった少女は。

 答えることなく、黒い空間へと姿を消した。


 ◆


 翁舞はロバートと紅緋姫が公園から去ると、すぐに電話を取りだして相手先を呼びだした。相手は最大教主、オラクルのトップだ。掻い摘んでこの場の状況を説明して伝えると、電話の先の相手は「わかった」とだけ言って、通話を切った。連絡を終え、電話をしまうと、翁舞は公園を見渡した。

 公園に残された三人の行動は、一つに纏まらずそれぞれの考えに沿って行動していた。

 雨師は電話を取りだして、相手先を呼び出しては大目に見ても、冷静ではなく、ほとんど怒声に近い声でこの場の状況と、厳戒態勢の要請している。

 翁舞は雨師と直接の面識はないが、伝えられた話からは程遠い姿をさらけ出していた。滅多なことでは動じず、状況判断が優れている。まさに沈着冷静を表したような人物と評判だった。その雨師が感情を隠そうともせず、その一つ一つの動作に表している。

 仕方ないだろう、と翁舞は同情する。何せ、今回の件は各支部を抑圧し過ぎていた。上層部は全く動こうともせず、現状維持を貫き通してきた。それも、全く理に敵わない説明を建前として、だ。そんな理不尽な命令に対していつ爆発が来てもおかしくはない。

 逆に怒りどころか、何のアクションも起こさない人は、次にどういった行動を取るのか、予測ができない。

 翁舞は雨師の先を見た。一人冷たい木製のベンチに座り、手持無沙汰にしている蒼炎霧夜を、だ。

 明らかに翁舞の行動は霧夜から見て、全く意味不明なことだったはずだ。にも関わらず、何の説明を求めずにロバートと紅緋姫が去ると、ふらふらと覚束ない足取りでベンチに座り込んでしまい、それ以降ずっと黙り続けている。何かを見ている様子も、している様子もない。

「とりあえず、厳戒態勢の要請だけはしておきました」

 電話を終えた雨師が言う。

「これで良いんですね、翁舞さん」

「オッケーっさ」

「個人的に言えば」明らかに不満そうな声で雨師は言った。「増援を要請して討伐隊を組み、今すぐにでも彼らを追跡するべきかと」

「最大教主の伝達係に言われても困るっさ。それに最大教主の命は絶対っさ」

 何か反論があるのだろう。口を開きかけた雨師だったが、思い止まって口を閉じた。

「それに、追跡しなくても居場所はもう判明してるっさ」

 そう告げると雨師は目を丸くする。

「と、言いますと?」

「そっちに異物の発生場所の情報は渡ってるっさね?」

「ええ、ですが、そこには入れない報告を受けています。それに大量の異物が確認されていますが」

「今から、このメンバーだけで、そこを叩くっさ」

 雨師は絶句した。

「無茶です。近辺には大量の異物が確認されています。報告書をご覧になりましたか? 加えて、見えない壁が周囲を取り囲み、中への侵入は不可能です」

「そういうのを破るのが得意な、適任者が一人居るっさ」

 翁舞は雨師の後ろを覗き込む。釣られて雨師が振り向くと、霧夜の姿があった。

「確かに彼なら、突破できるかもしれませんね。しかし、大量の異物はこれだけのメンバーで対処できません。大体、それなら幻想使いを総動員して叩くべきです」

「それは無理な話っさ。いくつかゲートが開きかけているからね」

「いくつですか?」

「一地区に大体五つから七つってところっさ」

 雨師が驚きで目を見開いた。これまで同時に確認されたゲートは、最大でも二個が限度だった。その回数も少ない。それを遥かに上回るゲートの多さは、完全な異常事態だ。

「まだ異物の反応は確認できないけど、予断は許されない状況ってことさ。完全にあの黒服の幻想使いの行動と見て、間違いないと思うっさ」

「他の幻想使いは全て身動きが取れないと?」

「出て行って、その入れ替わりに動かれたらたまったもんじゃないっさ。全部の異物が本拠地にいるとは限らないっさね。それにゲートがどこに繋がってるかもわからないっさ」

 だからこその少数による中心部への叩きだ。

「……彼も連れていくんですよね?」

「もちろんっさ。何か問題があるっさ?」

「個人的な意見ですが、僕は反対です。彼の今回の行動は、常世に危険をもたらしました」

 翁舞は雨師の言いたいことは分かっていた。どういった理由があったとしても、霧夜は紅緋姫を匿っていた。加えて、治安を守る異能管理機関の人間に対して行いだ。その事実は変わらない。治安維持の人としては、今すぐにでも霧夜を拘束したいのが本心なのだろう。

(でも、それはいけないっさ)

 霧夜はオラクル、いや、この街にとって重要な人物だ。雨師はその点を知らない。

 翁舞は霧夜に目を向けた。相変わらず、ベンチに座り込んで虚空を見つめている。時々、思い出したかのように空へと顔を向けている。傍目から見れば、生気が抜けているように見える。

「きっくんは連れていくっさ」

「それも最大教主の命ですか?」

「オラクル全体の総意、ってところっさ」

「……どういう意味です?」

 それを答えるわけにはいかない。翁舞は答えずに、霧夜へと歩み寄った。


 ◆


 霧夜は考えていた。ずっとベンチ座り、考えていた。

(どうしてこうなった?)

 紅緋姫と出会い、色々と事情があって自分は彼女を救いたいと思った。しかし、その顛末は予想もしない方向へと逸れていった。

 ロバートと紅緋姫が仲間だった。そんな関係は全くと言っていいほど、予想ができなかった。予想ができるはずもない。そもそもロバートは紅緋姫を襲ったはずではなかったのか? 敵対する紅緋姫を、その手で葬り去ろうとしたのではないか? その両者が何故、共にして闇の中へと消え去った?

 分からない。

 襲われた時は仲間ではなかったのか? その後に自分の知らないところで関係の変化が起こったのか?

 分からない。

 疑問しか浮かばない。そして、その疑問の答えはここに存在しない。

 だからこそ、霧夜はただ現実を受け入れ、疑問を浮かべることしかできなかった。

「きっくん」

 誰かに声を掛けられたような気がした。聞き覚えのある声の正体が翁舞だと気づくのは、少々時間がかかった。ゆっくりとした動作で翁舞に顔を向ける。

 翁舞の顔は暗い。どこか後味が悪そうである。

「わたしはきっくんに謝らなきゃいけないっさ」

 何を? と霧夜は疑問を浮かべて、さらに疑問が湧きあがる。そういえば翁舞はアカシック・クロニクルのカギを持っていた。自分の腕にあったなどと勘違いされた代物を、実は彼女が持っていたのだ。何故持っていたのだろうか?

 翁舞は話を続ける。

「ずっときっくんに隠しごとをしてたっさ。アカシック・クロニクルのカギ、桜っ子のこと、きっくんの立場。全部、知ってたっさ」

「……え?」

 知ってた? 全てを?

 心に一つ、ぐさりと突き刺すものがあった。

「……どういうことです?」

 条件反射のように紡いだ言葉は極々当たり前のものだった。

 その問いかけに、翁舞はただ首を振った。

「今は……」少し間を置き、「アカシック・クロニクルはただの偶然っさ。最大教主から連絡を受けて、拾ったっさ。ただそれだけっさ。桜っ子のことを知ったのは、きっくんが桜っ子を家に運んだ時が初めてっさ。これも最大教主からの連絡を受けてっさ。それから私なりに調べて、彼女が今回の事件の一枚を噛んでるって知ったっさ。きっくんの立場は……これは最初から知ってたっさ」

「……」

 言葉が出ない。口から急速に水分が失われ、逆に身体全体に汗が噴出した。全身から血の気が引いていき、一瞬眩暈がした。力が入らず、身体が左に傾いたのが分かった。左手を支えにして、何とか姿勢を保つ。

 翁舞は喋らない。霧夜は尋ねたいことがたくさんあった。しかし、言葉が出ない。

「どうして」

 口を動かし、何とか出した声は自分でも底冷えするほど低い声だった。

「どうして、教えてくれなかったんですか」

「きっくんには自分で思い出してほしかったっさ。それにロバートからの追跡は、そっちの方が巻きやすかったからっさ」

 ロバート。その名が翁舞の口から出てくること自体に違和感を覚える。

「それも知ってたんですか?」

「誰かがきっくんを狙ってるってことは知ってたっさ。それが誰かは分からなかったっさ。きっくんが襲われるまではね」

「巻きやすいっていうのは」

「あいつはずっときっくんを追ってたっさ。だから、きっくんには極力情報を与えないようにしてたっさ」

 最後の言葉の意味が分からない。何故、ロバートが追いかけてくるのを巻くために、自分に情報を与えないようにしたのか。それを問うと、翁舞は心配な声で、

「だって、教えたらきっくんは自分がオトリになって、ロバートと戦うことを選ぶっさ」

「そんなことしませんよ」

「するっさ。実際に記憶を失う前のきっくんは、そうだったから」

 どういうことだろうか、記憶を失う前の自分は全てを、この事件の概要のほとんどを知っていたのだろうか。

「知ってたっさ。大体のことはね」

「……」

 その発言に最早驚きを覚えなかった。湧き上がる感情は哀しみと落胆だ。もし、知っていたら何かが変わっていたかもしれない。そう思わずにはいられなかった。

「それと、実は……」翁舞は少し言い淀む。「まだ、秘密にしてることはあるっさ」

「何ですか?」

「ごめん、まだ言えないっさ。でも、時が来たら必ず話すっさ」

「いつですか」

「……いつか、っさ」

 霧夜は溜息を吐いた。その様子に翁舞はバツが悪そうに囁くような声で「ごめん」と呟いた。

 許せない、という感情は湧かなかった。確かに自分に情報を隠し、素知らぬ振りをしてきた翁舞の全てを容認できるわけではない。一つぐらい、文句を言いたかった。しかし、それには時と場合というものがある。

 今は、優先するべきことがある。

「翁舞さん。とりあえずその話は置いときましょう。それよりも――」

「分かってるっさ。行くんだよね? 桜っ子のところに」

「もちろん」

 力強く頷く。翁舞の後ろで雨師が苦笑いを浮かべたような気がしたが、無視することにした。


 ◆


 翁舞から目的地の状況説明を受けた霧夜は、さすがに顔をしかめた。

「大量の異物?」

「そうっさ。正確な数は分からないけど、一千匹ぐらいはいるって話っさ」

「一千――」と呟く霧夜。

「二日前に公園で確認された異物の反応を遥かに上回っていますね。行けそうですか?」

「いける、いけないの問題じゃない。行かなきゃいけないんだ。そこに紅緋姫がいるんならな」

 何か小言を並べるかと思ったが、雨師は小さく溜息をするに留めた。

「ですが、問題が一つあります」

「問題?」と霧夜。

「ええ。お二人は『人払い』に行く方法がないということです」

 『人払い』は幻想使い特有の能力だ。一般人の翁舞や、特殊な力を持つものの幻想使いではない霧夜は『人払い』に行く手段を持っていない。

「ん? それなら、解決ずみっさ」

 簡単な調子で翁舞が告げた言葉に、雨師は眉を潜めた。翁舞は答える代りに行動で示した。

「今からその場所に行くっさ」

「……行く?」

 三人は翁舞を先頭にして公園から出た。外に出ると、何人かの住民とすれ違ったが、激しい戦闘があったにも関わらず、慌てふためいている様子はない。相当肝が据わっているのか、素知らぬ振りをしているのか、はたまた本当に気づいていないのか、霧夜には測り兼ねた。

 行き交う人々をじっと観察していたせいか、雨師が耳打ちをしてきた。

「どうやら、あの幻想使いは周囲に人を寄せ付けなかったのでしょう。加えて、あの周囲はこの時間帯に人は居ませんから、好都合だったのでしょうね」

「この時間帯に人がいないって、どういうことだ?」

「言ったでしょう? 学業地区ですから、この時間帯は学業に勤しんでいますよ」

 雨師と戦う前にそんなことを言っていたことを、霧夜は思い出していた。何故、翁舞は休日などと嘘を吐いたのだろうか? 紅緋姫と出かけるための方便だったのだろうか?

 三人は五分程度歩き続けた時、翁舞がピタリと足を止めた。

「ここっさ」

 着いた場所は、この都市では珍しくもないレンガ風の住宅が並ぶ、どう見ても住宅街にある道路の真ん中だった。

「……ここ、ですか?」

 霧夜が周囲を見渡す。霧夜の目にはただの住宅地にしか見えない。何かカモフラージュでもされているのだろうか。

 横にいる雨師が声を上げた。

「……まさかとは思いますが、異物のゲートを通って?」

「その通りっさ」

「待って下さい。ゲートがあるということは、その先には異物が待っている可能性もあります。加えて、人体にどのような影響があるか、分かったものでは――」

「確かにその意見はごもっともっさ」

 翁舞はあっさりと認めた。

「けど、人体への影響はないっさ。これだけは保障するっさ」

「まさか、翁舞さん。試したんですか?」

 霧夜が会話に入る。翁舞は悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「どうやって、私がカギを手に入れたと思うっさ?」

 それだけで霧夜と雨師は全てが理解できた。アカシック・クロニクルのカギは『人払い』の空間に降臨してきた。それを翁舞が持っていたということは、そういうことなのだろう。

「さて、早く行こうっさ。えーと……ここら辺かなっ?」

 そう言って、翁舞は宙を何かに沿うように指を縦に動かした。すると、何もなかったはずの宙に黒い線が生まれ、まるで目を縦にしたような黒いものへと変形した。それはロバートと紅緋姫が入っていったものに酷似していた。

 これが『ゲート』と呼ばれる、異物がこの世界に現れるための通路だ。

 翁舞はさっさと闇の中へと入り込んでしまう。雨師もやれやれといった調子で、頭を左右に振り、溜息を吐きつつ、翁舞へと続いた。二人とも身体が闇の中へと吸い込まれるようにして、消える後ろ姿を見送った霧夜は喉を鳴らした。

(ここを通るのか……)

 不安がないわけではない。先ほどの雨師の言葉もそうだが、従来人間というのは暗闇を好ましい場所とは思わない。その場所に真っ向から入るのはやはり抵抗がある。

 しかし、通らないわけにはいかないのだ。これしか『人払い』へと向かう方法はない。自分の意志を固め、いざゲートを潜ろうとした矢先、間抜けな声が後ろから聞こえた。

 振り向くと、そこには猫が居た。赤い首輪が特徴な、見慣れた三毛猫だった。再び「ニャー」と鳴き、右前足を顔まで上げ、左右に動かす。まるでその姿が自分を見送っているようで、少しおかしかった。霧夜は手を振り返し、今度こそゲートを潜る。

 入った瞬間、世界が暗闇に染まった。夜よりも暗い、まるで黒だけをペンキでぶちまけたような空間だ。自分の足音すら聞こえない。聞こえるのは呼吸する音と、心臓の音だ。空間から音は発せられていない。ただ静寂だけがひっそりとその場を支配している。

 霧夜は最初こそ歩いていたが、終わらない暗闇にさすがに不安になり、走り始めた。

 方向感覚が段々と麻痺してくる。自分は真っ直ぐ走っているはずだが、本当に合っているのか不安になってくるが、確かめようもない。

 ただ走り続けた。どれ程の時間が経ったのか分からない。まだ視界に光が見えてくることはない。

(くそ、まだか!)

 終わらない暗闇に頭が狂いそうになってくる。

 突然、視界に光が溢れた。何の前兆もなく、視界を光が覆う。その眩しさに思わず立ち止まって目を閉じ、片手で手を覆った。

 光はものの数秒で収まり、霧夜はそっち目を開け、げんなりした。目の前に広がるのは先ほどまで居た場所に酷似しているが、赤い空が世界を覆っていた。

 また来たのだ。

 赤い世界、『人払い』へと。


 ◆


 先に入った翁舞と雨師は、ゲートから少し離れた位置に立っていた。

「異物は?」と二人に駆け寄って霧夜は尋ねる。

「見ての通りです。居ませんね」と雨師が返す。

 霧夜も周囲を見渡したが、確かに異物の姿はない。それどころか、異物の気配すらしない。ここにはいないということだろう。

「それで、目指す場所はどこなんです?」と霧夜。

「あそこっさ」

 翁舞が宙へと指を差す。その先を視線で追うと、そこには――何もない。ただ単に翁舞は宙に指を差しただけに霧夜は見えた。何の目印も見当たらない。困惑する霧夜は質問をしようとした矢先。

「あそこは」と雨師が割り込む。「僕たちの世界ではある物が建っている場所です」

「ある物?」

「ええ。あなたも何度か見たことがあるかと」

 もう一度、霧夜は翁舞が指差した場所を見た。確かに言われると、そこに何かがあったような気がしてならない。しかし、霧夜はそれが何か分からなかった。

「『秩序の塔』っさ」

「……秩序の塔?」

 聞いたような、聞いたことがないような、そんな感覚だ。

「いつか話したっさ。まだほとんどが未解明な、謎の古代遺跡」翁舞が霧夜に近づき、耳元で囁く。「謎の予言書が置いてあるっていう噂がある場所っさ」

 そこまで言われて、ようやく霧夜は思い出した。秩序の塔と呼ばれる、謎の古代遺跡。自分がバベルの塔と揶揄した、あの塔だ。

「でも、それはおかしくないですか? ここの空間は都市のコピーのはずじゃあ――」

「ええ。基本的にはそうです。ですが、唯一秩序の塔の付近だけは違います」

「どうしてだ?」

「分からないっさ」答えたのは翁舞だ。「何か関係があることってことは察しがつくけど、確証はまだっさ」

 翁舞は両手を上げ、お手上げのポーズを取る。

「さ、こんなところで無駄話も何だから、行こっさ! 結構距離あるから、少し急ぐっさね!」

 翁舞の号令の下、三人はその場から動きだした。


 ◆


 翁舞の言う通り、目的地までは中々距離があった。元々、本来の秩序の塔がある部分は、ゲートの位置からでは実際の都市でも距離がある。馬車などの交通手段があれば、一〇分と経たないが、生物が存在しないこの世界では、無理な手段だ。

 一〇分程度歩いた。街並みは変化し、霧夜は覚えのない地域に入った。翁舞によると、ここはまだ中間地点には程遠いらしい。

「どれくらいで着くんです?」

「そうっさね。残り一時間ってところかな」

 一時間。一刻でも早く着きたい時に、その時間はあまりにも長く感じる。

「まあ、乗り物がありませんから、仕方ありませんね」

「電車はどうなんだ? あれならやり方さえ分かれば動くんじゃ」

 そう言って、この世界には電気がないことに思い出した。発電所も結局は人が動かしているものだ。動かすものがいなければ、発電所が動くわけがない。

 しかし、二人の反応は霧夜の予想しなかったものだった。

「電車?」

「電車?」

 と二人が揃って疑問符をつけて言った。

「何ですか、その、電車というのは?」

 雨師が言っていることを霧夜は一瞬理解できなかった。電車は電車だ。日本どころか世界中で使われている主要な移動手段。通学でも、通勤でも、旅行でも使う、生活の中では必ずお世話になる代物だ。それが分からないはずがない。

 しかし、雨師は冗談を言っているようには見えない。本気で、霧夜に問いかけている。

「いや、その――何でもない。気にしないでくれ」

 そう促し、霧夜は今の話を畳むことにした。この場で議論するべきことではない。雨師は疑問に思っているようだが、今は急ぐことを優先したのか、そのまま話は終わった。

「あ」

 すっとんきょんな声を上げたのは翁舞だった。

「そうっさ。路線沿いに進んでいけば、もっと早く着くっさ」

「路線沿い?」と霧夜。

「なるほど」と勝手に雨師は納得していた。

「きっくんはこの街の路線図を知ってるかい?」

 駅を利用したことがあるので、路線図は覚えている。何せ、この街の路線は円形なのだ。縦横無尽に広がる東京の路線図とは覚えやすさの点では雲泥の差がある。

「そういえば……」

 東西南北に位置する駅から円の中央に向かって伸びる線が、路線図には描かれていたはずだ。そこまで思い出し、霧夜は合点がいった。あの路線は各駅から秩序の塔へと行くためのものなのだ。

 そう伝えると、翁舞は満面の笑みを浮かべた。

「最短距離で行けるってことっさ」

「なら、すぐに駅へ向かいましょう。ここからなら近いですよ」

 三人は駆け足で駅へと向かった。


 ◆


 無人の駅は不気味でしかない。

 人がいない駅というのは、どこか寂れた印象を与えるものだが、『人払い』の駅にはそんな様子は見られない。それもそのはずだ。そこには歴史がなかった。寂れていく過程が発見できない。まるで建物自体がポッカリと一定の時間で止まっている、そんな奇妙な感覚が味わえる。

 三人はそんな駅を横目に、降りることのない遮断機を通り過ぎて、路線へと足を踏み入れた。列車が通る場所を歩く機会など、そうそうない。霧夜はもちろんのこと、雨師と翁舞も同様に新鮮な気分で歩いていた。

「本当に真っ直ぐなんだな」

 霧夜の言う通り、駅から目的地へと延びる路線は、一直線だった。この場所からなら、都市では秩序の塔が一望できそうだ。残念ながら、この場に秩序の塔はない。

 三人は路線をただ歩き続けた。なるべく急いだ方が良いのは事実ではあったが、この先は激戦が予想されている。なるべく体力温存のため、比較的ゆったりとしたペースで進んでいた。

 最初は物珍しい雰囲気で歩いていた三人だったが、時間が経つに連れて雰囲気が変わって来た。霧夜は険しい顔で目的地を睨んでいる。雨師は無表情だが、周囲を見渡して落ち着きがない。両者とも一刻も早く目的地に着きたいという焦燥感の表れだ。

 対極的に翁舞は鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気だ。このゆったりとした行進を提案した本人だからだろう。霧夜と雨師はその案に難色を示したものの、翁舞の意見は最もだったので、賛成したのだ。

 同じ道が続く中、霧夜が声を上げた。

「あとどれくらいですか?」

「うーん、三〇分ってところかな?」

「まだ、かかりますね。それでも、大幅な時間短縮です。都市は道が曲がりくねっていますから、時間がかかります」

「……そうか」

 常世という都市は建物の位置においては、全く整備されていない。もちろん地区にもよるが、曲がりくねった道多く、慣れない人には迷路のように思えるだろう。

「……疑問に思うのですが」と雨師は前振りをして「今回の騒動はいったい何のためにあったのでしょうか」

「どういうことだ?」

「彼らの目的はカギを使って、アカシック・クロニクルを見るということでした。ならば、異物を都市に差し向ける意味が分かりません」

「確かに……」し霧夜は納得の声を上げる。

「何か関連があるって考えた方がいいっさ。こっちは情報不足だからねっ」

「そもそも」と雨師が話を続ける。「アカシック・クロニクルのカギというもの自体が眉唾ものの代物ですからね。誰も確認したことがない、記録上にだけ存在するものです」

「記述自体も曖昧っさね」と翁舞が雨師の言葉を足し繋いだ。

「曖昧って、どういうことです?」

 霧夜が尋ねると、翁舞は苦笑いを浮かべた。

「簡単にまとめると、カギは旧支配者が作ったもの、アカシック・クロニクルを見るための面倒なプロセスを省けるもの。それだけっさ」

「それだけ? たった二つしか記述がないんですか?」

「そうっさ。しかもその記述は、名称不明の誰かさんが、遺跡に書いてあったものをメモに写し取ったものを第三者が発表したってだけの代物。信憑性はゼロに近いっさ」

「じゃあ、カギ自体は存在するってことですか?」

「それも、どうでしょうか」

 答えたのは雨師だ。

「本物じゃないってことか?」

「ええ。彼らが勘違いしている可能性もあります。というより、勘違いと断言した方が良いでしょう」

「根拠は何だ?」

「通常、ああいった伝説級の幻兵装はその中身に大量の幻想力を内包しています。僕たちのような幻想使いは、幻想力を感知できるので、あの幻兵装にどれだけの幻想力があるのかがある程度、分かります。ですが、あれにはほとんど幻想力がない」

「……だから、眉唾ものってことか?」

「確証はありませんが、ほぼ確実と言っても良いでしょう。とにかく、僕にはあれが世界の全てを知るアカシック・クロニクルを開くカギとは到底思えません。周囲を圧倒するような幻想力を秘めていてもおかしくはないはずのポテンシャルはあるはずですから」

「だそうですけど、翁舞さんもそう思いますか?」

「私も大体同じ意見っさ。けど、何か重要なアイテムなのは間違いないっさ。オラクルの庇護を受けている街に喧嘩を売るぐらい重要な代物が、っさ」

 会話はそこで終わった。再び三人は黙々と目的地まで進んでいく。

 それから数十分に及ぶ歩みが唐突に終わったのは、雨師が足を止めたからだった。霧夜と翁舞も足を止めて、雨師の方に振り替えると、周囲をキョロキョロと見渡し、最終的に後ろへと振り返った。明らかに挙動不審な動きだ。

「どうした?」

「……気づきませんか?」

「? 何が――」

 そこで霧夜は気がついた。

 三人の視線の先には、今まで歩いてきた、変わらない景色がある。それ以外は何もない。しかし、三人は確実に何かが変わっていること気づいていた。

 目に見えるものではない。背筋が凍りつくような、気持ちの悪い感覚が、スッと背後から近付いて来ている。

 元の色彩に赤い色が薄く塗られた路線の遥か先、水平線上に位置する場所において、色彩の変化が現れる。まるで黒い波のようなそれは、徐々に徐々に近づいてくる。三人にとって見覚えあるものだった。

「異物……! それもなんて数だ」

 吐き捨てるような霧夜の言葉が全てを物語る。押し寄せてくる異物の大群は、数こそ不明なものの、一目見ただけで物凄い数だと分かる。

「よほど僕たちの目的地には行かせたくないみたいですね」

「ここは逃げるが、勝ちっさね」

「いえ、いずれは追い付かれるでしょう。ならば……」

 たん、と雨師が地面を叩くと足元が割れ、大剣がにょきっと飛び出して来た。

「……どうするつもりだ?」

「僕がしんがりを務めます。その間にあなた方は目的地へ」

「無茶だ。あれだけの数を相手に無事で済むと思ってるのか?」

「あなたは無事で済むような戦いだと思っているんですか? 戦いに無事などあり得ません。必ず何かしらのケガを負うでしょう。もちろん、ケガでは済まないかもしれませんが」

 足元から出て来た剣の柄を握り、くるりと回転させて肩に背負う。

「もちろん、僕はケガで済む自信があります」

 あっさりと告げる雨師の言動は自信に満ち溢れている。自分の言葉も行動も絶対に間違ってはいないと、という圧倒的な自信。

「早く行かれてはどうですか? あなたはあの場所に行かなければならない。そうでしょう?」

「……行くっさ、きっくん」

 翁舞が促す。

 霧夜は二人の考え通りに行動するしかない、と悟り、雨師に背を向けた。

「ちゃんと戻って来いよ」

「当然です」

 いつもの柔和で人畜無害を他者に訴える、しかしどこか胡散臭い笑みを雨師は浮かべた。

 

 ◆


 二人の背中が遠くへと消える。ついに見えなくなったところで、雨師は異物の大群へと目を向ける。

「戻って来い、ですか」

 無論そのつもりだ。目の前に控える戦いはそこまで絶望的ではない。自分にはそれだけの力がある。そもそも入れない壁さえなければ、自分一人で本拠地を叩くつもりだったのだ。戻って来い、という言葉は雨師には無用とも言える。

 しかし、それが心地よかったのは何故だろうか。

(思えば、そんなことを言われるのは久しぶりですね)

 自分は強かった。対人戦もできるが、特に異物などの人ならざる者などには滅法強かった。そのせいか、昔はオラクルが都市の外に出る際には、護衛役として良くついていったものだ。

 戦いは常に一人だった。一人の方が何かと気楽だったのもあるが、雨師なら大丈夫、という雰囲気があった。自分に任せてくれと言ったら、誰もが気楽に了承の返事をしたものだ。

 揺るぎのない安心感と信頼感。それが異能管理機関における雨師が持つ、絶対的な特徴だった。

 だから、心配されることなどなかった。しかし、今は違った。

 自分は弱くなったのだろうか?

(いえ、彼は僕の力を見誤っている。公園での戦いでは遅れを取りましたが、それ以降も戦闘していれば、勝っていたのは僕だった)

 雨師はそう結論付けた。蒼炎霧夜が自身の実力を測るには、あの公園の戦闘だけでは不完全だ。例え霧夜が勘違いしていたとしても、自信は揺るがない。

 それでも。

(たまには心配されるのも良いものですね)

 自分が自然と笑みを浮かべていることが分かる。

 しかし、彼はすぐに表情を引き締める。

(駄目ですね。彼はまだ要注意人物です。これくらいで絆されては……)

 雨師龍望は蒼炎霧夜を疑っていた。

 彼の行動は表面から見て単純で明快だ。紅緋姫桜という少女を救いたい、その一点だ。公園で彼の語った言葉、その後の行動は理にかなっている。しかし、ある別の見方をすれば彼の行動は一八〇度変わる。

(紅緋姫桜及びロバートの仲間の一味ということ。その彼女を救いたいということは、彼も仲間の可能性がある)

 確証はない。しかし、疑うべきではある。

 本来、雨師の考えは異端に近い。彼は翁舞を伝って、最大教主に必要とされ、オラクルから多大な援助を受けている。つまり、オラクルのトップが認めた人物だ。それを異能管理機関の人間である雨師が疑ってはいけない。

 それでも引っかかるものが、雨師にはあった。

 元々、雨師は『霧夜が敵である』という考えを持っていなかった。前述の通り、蒼炎霧夜は実質的にオラクルの人間だからだ。この都市に住む、少し不思議な力を持った一般市民。その『現実』に疑問を覚えたのは、彼の市民登録証に小さな偽造の箇所があったことだ。

 そして、もう一つ。

 雨師はポケットから封筒を取り出した。監視カメラの写真だ。ここには本来映っていないはいけないものが写っている。時期は二週間前、紅緋姫が写っていた写真とほぼ同時期だ。蒼炎霧夜に見せるべきか迷い、結局見せなかったもの。

 写真には人物が一人。

 被写体はぼやけていて、はっきりとは確認できない。しかし、その人物の特徴は分かる。

 銀髪。メガネを着用。

 その姿に見覚えが、雨師にはあった。

 蒼炎霧夜。

 ずっと都市で暮らしてきたはずの少年が、出入りした形跡がない二週間前の監視カメラの写真に映っている。記録上あり得ない写真。しかし、それが実際にこの手元にある。これが蒼炎霧夜を疑うべき最もな理由である。

 出来れば、疑いのある蒼炎霧夜を翁舞と一緒に行かせたくはなかった。状況が状況のため、仕方ないと言えば、仕方ない。

(今は目の前のことだけを考えますか)

 前を見据える。黒い波ははっきり異物と確認できるところまで来ている。

 雨師は両手で剣の柄を握る。久しぶりの狩りに、失礼ながら高揚感を覚えざるを得なかった。


 ◆


 霧夜と翁舞は出来うる限り全力で走った。後ろを見ずに、前を見てただただ走った。路線は果てしなく続くかと思うほど、終わりが見えてこない。目印となるものがなく、本当に目的地に近づいているのかさえ分からなくなってくる。だが、それでも二人は必死に走り続けた。

 ほとんど全速力だった二人に疲れが見え始めた時、急に景色が変わり始めた。

「もうそろそろっさ!」

 隣で翁舞の声が聞こえる。しかし、まだ到着地は見えない。それでもゴールが近くにあるという確証は、霧夜に気力を与えた。遅くなった速度を上げる。あっという間に翁舞と差がついた。

(……見えた!)

 プラットホームがその目に飛び込んでくる。もうゴールは目の前だった。

「あ、きっくんストップ!」

「え?」

 その言葉の意味を理解する前に、霧夜はその身を持って知ることになる。

「あべし!」

 何かが顔面にぶつかった、というより霧夜自身が何かにぶつかった。突然の衝撃に準備をしていなかった霧夜はその場に背を向けて倒れた。

「大丈夫っさ?」と翁舞が霧夜の顔を覗き込む。

「ええ、まあ……」

 口ではそう言いつつも、さすがに痛い。自然と唇を噛み、目を固く瞑り、両手で顔面を覆って、痛みを何とか和らげようと意識する。しばらくは起き上がる気にすらならなかった。

「ここがちょうど、入れない壁の部分になってるっさ」

「……なる、ほど」

 痛みが引いてきたので、自分の手を顔から離すと翁舞がすぐ傍に立っていたことに気がついた。。スカートの中が見えそうだったので、素早く起き上がる。

「もう大丈夫っさ?」

「はい。それより、この見えない壁を破れば良いんですね」

「よろしくっさ!」

 ポケットから符を取りだし、『力』を込めて宙へと投げつける。ピタリと符は見えない壁に張り付いたようで、宙にプランと垂れた。

「何だか、奇妙な絵ですね」

「よくあることっさ」

 こんなことがよくある日常など、出来れば避けたいものだと霧夜は思いつつ、『力』を発動させる。

 ミシミシと軋む音がする。宙には蜘蛛の巣のような白いひび割れが、上下左右、無数に広がった。その後、ガラスが割れたように音がしたかと思うと、貼ってあった符が形を崩した。

「……これで良いんですか?」

「大丈夫っさ」

 翁舞が前出る。彼女は軽々と符が落ちている場所を通り過ぎた。

「もうすぐ目的地っさ。行こっさ!」


 ◆


 第一地区。ホームの看板にはそう書かれていた。

 まるで駅のホームは別世界の様だと、霧夜は感じていた。これまでの道に立ち並ぶ建築物は赤い色彩で覆われていたものの、元々は白、茶、灰を中心とした彩色に、煉瓦で作られた美しい一軒家が立ち並んでいた。日本ではあまり見かけることのできない景色だ。

 打って変わって、ここのホームは、やはり赤い色彩で覆われているものの、元々は白い煉瓦のみで構成されていることが予測できた。床や柱には汚れ一つ見られない。赤い空間でなければ清潔感溢れる、居心地の良い場所だっただろう。

「こっちっさ」

 翁舞が先を歩き、霧夜はその後ろに着き従った。

 ホームは第七地区より遥か大きい。天井がそこまで高くないため、解放感よりも圧迫感があるが、居心地は悪くなかった。ケチを付けるとしたら、何の装飾もないことだろうか。同じような景色ばかりが続いている。これで迷路のような道だったら、確実に迷うこと間違いなしだ。この駅は幸いにも、人に優しい構造となっているようで、歩きながら何となくこの建物の構造を霧夜は理解し始めていた。

 同じような景色が唐突に終わりを告げた。

 角を曲がると、開けた空間が目の前に広がっていた。霧夜はその光景が奇妙なものに感じた。景色の変わりようが異様なのだ。目の前に広がる光景は清潔感が漂う白い世界とは一八〇度違う。地面は舗装されておらず、岩肌が剥き出しとなっており、どこか陰鬱とした雰囲気を感じる。

「翁舞さん、これは?」

 霧夜が示したのは中央にポッカリと覗かせている巨大な穴だ。穴の幅はかなり広い。近寄って見て、その大きさが実感できる。穴の奥は暗闇に染まり、どこまで続いているのか分からない。壁面はやけに人工的で、鈍く光る鉄が穴の壁面に現れている。壁面にはところどころに四角い穴が開いている。

「この下に、桜っ子とロバートがいるっさ」

「分かるんですか?」

「ただの勘っさ」

 その勘に霧夜はかねがね同意だった。

 近く階段から二人は穴の中へと降りて行く。

 穴の壁面の内側は部屋になっていた。緩やかな曲線を描いている部屋だ。元々は灰色らしきコンクリートで塗り固められていたようで、柱や床を触るとやけに冷たい。埃も被っていた。照明や装飾品の類は一切なく、あるのは無機質さと不気味さだけであった。

 四角い穴はガラスのない窓になっており、そこから下を覗くことができた。しかし、一階分降りただけでは穴がどこまで続いているのか分からない。

「……不気味な場所ですね」

「……そうっさね」

 二人は奥へと進んでいくと、さらに下へと続いていく階段があった。降りると、その先には上の階と変わりのない部屋が続いていた。

 下へ、下へ、ただ降りていく。

「ここ、何階ですかね?」

「地下、うーん、一〇階ぐらいっさね」

「それ本当ですか……?」

 階数の表記はない。同じ部屋が続き、機械的に降りて行くだけの作業なので、もう何度階段を下りたのかから分からなくなってくる。

「しかし、本拠地だっていうのに、何もありませんね」

「確かに奇妙っさね」

 二人の言葉通り何もない。何の道具もなければ、罠のような物も見当たらない。一番警戒していた襲撃者もいない。てっきり異物が大量に待ち構えているものかと思っていたため、肩すかしもいいところだ。

「もしかしたら、本拠地じゃないのかもしれないっさ」

 最悪の予想を翁舞は軽々と言った。

「本拠地じゃないって、どういうことです?」

「もう一度、話をまとめて見るっさ。まず事件の発端は二週間前から大量に現れ始めた異物っさ。その原因とみられるのが、カギを狙っていた桜っ子とロバートっさ。それで本拠地だって断定したのは、大量の異物がここにいるからっさ」

「そうですね」

「でも、異物と二人の間に何もなかったら、どうするっさ?」

「え?」

「もしそうだと仮定した場合、ここは本拠地でも何でもなくなるっさ」

 確かにその通りだ。紅緋姫とロバートが異物を操っているという前提がなくなれば、まるで意味を成さない。

「でも、翁舞さんは関係があるから、ここが本拠地だと仮定したんですよね」

「そうっさ。二人が公園から姿を消すより少し前に、ゲートが確認できたからっさ。でも、それがたまたまだったら、って考えると、少し出来過ぎな気がするけど、無関係ってなるっさ」

 翁舞の推察は間違ってはいないが、どこか腑に落ちないものがある。そう思えるのは、紅緋姫と異物は『対話』ができるということを霧夜が知っているからだ。

「ま、杞憂な気がするっさ」

「勘、ですか?」

「情報から裏付けた勘っさ」

 結局は勘じゃないか。突っ込もうかと思ったが、やめておき、苦笑するに止めた。暗闇のおかげで翁舞は気づかない。

「でも、きっといるっさ。ずっと下になると思うけどね」

「下……」

 窓越しに穴の奥を見る。まだ暗い。肉眼では穴の奥を確認できそうにない。そもそも、この穴に終わりがあるのかどうかさえ不明だ。しかし、今は降りていくしか道がない。

 二人はまた一つ階段を降りていく。

「いったいどれだけ続くんでしょうね」

「うーん、ここって実際には秩序の塔がある場所っさね? 仮定の話だけど、もし秩序の塔の反対だとしたら、かなりの階数になると思うっさ」

「……あの塔って、何階あるんですか?」

「調査中っさ」

 翁舞の話では、調査隊は一〇年近くの歳月を費やして、まだ全貌が未解明という話だった。もしかしたら、最深部まで行くのには同等の年月が必要なのではないか。暗闇が広がる穴を改めて見直すと、そんな考えが一気に頭の隅にまで浸透し、現実感が増す。

「ま、なんとかなるっさ」

 この場所には似つかわしくない、太陽のような笑みを浮かべて翁舞は言った。陽気で、若干投げやりな言葉だが、この場では心を落ち着かせる魔法の言葉に聞こえた。不思議と活力が湧いてくる。霧夜は自分が笑みを浮かべていることが分かった。ここに来てから、初めての笑みだった。


 ◆


 この部屋の構造は、階段を下り、さらに穴に沿って建築された部屋を半周すると、次の階段が見えてくる。単調で変わらない移動の繰り返しに変化が起きたのは、二人が相当な数の階段を下りた時だった。

 次の階段から光が漏れていた。それも微細な量ではない。はっきりと光と確認できるほどの光量だ。初めて、誰かがいるような気がして霧夜はならなかった。

「……うーん」

 その階段を見ながら、横に居る翁舞が顎に片手を置いて、唸っていた。

「どうしたんですか?」

「いやいや、きっくんはどうするつもりなのかな、って思っただけっさ」

「どうする? 何をですか?」

「きっと、この下には桜っ子――もしかしたら違うかもしれないけど――がいるっさ。そしたら、きっくんは桜っ子をどうするつもりっさ」

「それは――」

 言葉に詰まる。思えば、特に考えずにここまで来てしまった。とりあえず紅緋姫に会いたい、話を聞きたい、その思いだけで来てしまい、その後の具体的な案は一つもない。そもそも、こちらの話を聞いてくれるだけの時間が向こうにあるかどうかさえ分からない。即交戦という事態もあり得る。

「……とりあえず、話をしたいです。どうしてこうなっているのか、こっちにはまるで分かりませんからね」

 偽りなき本心を伝える。

「その後はどうするっさ」

「その後は――」

 再び言葉に詰まってしまった。

 どうする? 連れて帰るか? ロバートとの協力関係を断ち、都市に戻ってくるように説得するか? けれど、もし彼女が拒否した場合、どうなるのだろうか? やはり、戦うことになってしまうのだろうか?

 そもそも、どうして彼女はロバートと一緒に――

(いやいや待て)

 考えを打ち切るように霧夜は首を振った。

 公園の時に散々繰り返した、解けることのない問いかけだ。何の情報もないというのに、考えることは愚の骨頂と言える。

(紅緋姫)

 霧夜の脳裏に紅緋姫の姿が過ぎる。自分が救いたいと願った、寂しそうな少女。

 思えば、どうして紅緋姫はあんなに寂しそうなんだろうか。

 霧夜は紅緋姫と会ってから、ずっと彼女を見て来た。桜の様に儚げで、少しでも目を離すと消えてしまいそうだったからだ。翁舞と会話をしている最中はどうだっただろうか? その時の彼女は少し楽しそうに見えたが、ふとした拍子に寂しさを垣間見せる。

 考えてみると、彼女から寂しさが消えることは一度もなかった。楽しさや嬉しさの感情を見せることは非常に分かりづらいものの、確かにあった。しかし、その感情は急速に冷やされて、ついには消え去り、代わりに寂しさが滲み出てくる。まるで、芯の底から寂しさで染まっているかのようだ。

 何故だろうか。

 分からないのならば、その答えを求めるしかない。

「とりあえず、話を聞きます。それから、決めます」

「ぶっつけ本番っさね」

「こっちは情報不足ですしね」

「それじゃ、一番バッター行ってみるっさ!」

 翁舞は霧夜の背後に周ると、トン、と軽く背中を押した。先に行け、ということだろう。

 霧夜は光が溢れる階段を下りる。暗闇に目が慣れてしまったせいか、あまりの光量にしばらくの間、手で光を遮らければならなかった。

 手で光を遮りながら、霧夜は部屋を見渡した。そこは照明がある点を除いて今までの部屋と違いはない――第一印象はそうだったが、光に目が慣れ、改めて見ると曲線を描いている壁にアーチ状の入り口があった。その向こうには部屋からは、ここほどではないが光が漏れている。

「見るからに怪しい部屋っさね」

「行きますよ」

 霧夜を先頭に、二人は進む。

(この先に紅緋姫はいるのか?)

 分からない。居るかどうか、その目で見なくてはならない。


 刹那。


 飛んで来た。それを霧夜は視認できなかった。ただ、『何か』ということだけしか分からない。その『何か』は二人に対して飛んできたわけではなかった。二人の位置よりも僅か上だ。

 部屋と部屋を区切る壁だ。

 それだけで、霧夜は自分が取るべき行動が分かった。

 すぐ後ろにいる翁舞を後ろへと突き飛ばし、自分は前に転がり込む。一拍の間もなく、後ろから轟音が鳴り響いた。

 霧夜は瞬間的に世界から切り離されたような感覚を覚えた。崩れ去る音のせいで耳は塞がり、目の前は暗闇に染まる。身体は横たわっているのだろうが、その感触がないように思えた。

 この場から轟音が無くなり、静寂が来ると、霧夜は自分が生きているんだなと実感した。どうやら自分は床に横たわっているらしい。一呼吸すると、咳き込んでしまった。舞い上がった粉塵のせいで、空気が淀んでいるのだ。手足を動かすと、思い通りに反応があった。どうやら、千切れたりはしていないらしい。痛みもないので、特に外傷はないようだ。

 立ち上がっても、特に痛みはない。代わりに身体中は瓦礫の破片と塵のせいで薄汚れていた。

 振り返る。

 元々入り口だったところは天井の崩落のせいで、瓦礫の山と化していた。原型は伺えない。

「……翁舞さん?」

 翁舞の姿が見えない。一瞬焦った霧夜だったが、そう言えば自分が突き飛ばしたのか、ということを思い出して平静さを取り戻す。

「翁舞さん、翁舞さん、大丈夫ですか!」

 喉を振り絞り、瓦礫へと叫ぶ。

 返事はタイムラグもなく来た。

「大丈夫っさー!」

 いつもより、控え目だが陽気な声。翁舞の声だ。声量が小さいのは、瓦礫のせいで向こうの声が聞こえ辛いのだろう。

「そっちは大丈夫っさー?」

「何とか。それより、翁舞さんはこの後どうしますか?」

「とりあえず、私は別の入り口を探してみるっさー!」

「……分かりました」

 たったっ、身軽そうな足音が遠くへと去って行き、ついには聞こえなくなる。

 霧夜は初めて、部屋を見渡した。

 そこは今までの部屋とは違った。壁や床の材質は同じだが、その広さが違う。見上げると、天井がかなり高いことが分かる。しかし、天井に照明がなく、薄暗い。照明は壁面に掛けられていた。驚いたことに、何本もの蝋燭に火が灯っているだけだった。

 そして、その部屋の中央に。


「よう、紅緋姫」


 無感情で、淡白な少女の姿があった。

 返事はなかった。ただ、その紅色の両目で霧夜を見つめている。

「お前が、あれをやったのか?」

 親指で後ろの瓦礫の山を指し示す。

「……彼女は?」

 答えではなかった。実質的な答え、と言っても差し支えはないかもしれない。

「翁舞さんのことか? 無事だ」

 そう答えると、心なしか紅緋姫の雰囲気が少しだけ変わったような気がした。張り詰めていた緊張の糸がほぐれたような、そんな感じがする。もしかしたら、翁舞が安全だったことに安堵したのだろうか。

 それが、霧夜には少しだけ嬉しかった。完全な悪人ではない、という証拠だったからだ。

「いくつか聞きたいことがあるんだが」

 反応はなかった。構わずに霧夜は言葉を紡ぐ。

「ロバートとはいつから、協力してた?」

 一番の疑問。最難関の疑問。解けない疑問。それがこの一言に集約された。

「ずっと」

「俺がお前と会った時より前から?」

「そう。ずっとずっと昔から」

 ずっと昔から。その言葉がどれだけの期間を表しているのか、霧夜には推測できない。

「なら、どうしてあいつはお前を襲った? あの寮で、お前は襲われたんじゃなかったのか?」

「作戦」

「作戦?」

「そう。あなたを本気にさせるため。あいつはそう言ってた」

「俺を、本気にさせる?」

「理由は、良く分からないけど。あいつはそう言ってた」

 本気にさせる。確かにロバートの言っていたことと合致はする。あいつは自身の知識を深めるために、知らない霧夜の力を知りたいと言っていた。ならば、その『本気』を見るために、手段を用いたということだ。

 紅緋姫という『餌』を使って。

 それが効果的な演出であったことに間違いなかった。

「どうして、そこまでしてあいつに協力する? 自分の身体を傷つけてまで、協力する相手なのか?」

「……幻想使い一人一人に、能力があることは知ってる?」

 話が唐突に切り替わった。

「見せて、あげる」

 言葉と共に、彼女の足が地面を叩く。彼女と邂逅した公園と、さっきの公園で見せた、あのサイズがマチマチの六本の剣が競り上がって来た。地面から現れた剣は彼女を囲むように突き立ち、その中の一本を無造作に少女は右手で取った。剣の中でも特に刃の短いものだ。

(何を……)

 何をしようとするのか霧夜には皆目見当もつかず、成り行きを見守るしかいない。

 次に、霧夜は信じられない光景を目撃することになった。


 紅緋姫はその刃を自身の腕に振り下ろした。

 

 何の躊躇もなく、その腕に刃が振り下ろされる。刃は少女の手首に喰い込む。

 呆気なく、その手首は地面へと落ちた。ぽとりと、小さな音を立てて、手首は一度だけ地面を跳ねると、二度と動かなかった。

 鮮血が舞い、少女と地面が赤黒い色で染められていく――。

「――え?」

 そうなるはずだった。しかし、現実はどうだろうか?

 紅緋姫の左手はそこにあった。あるべき場所、彼女の左腕に。

 目の錯覚だろうか? それを否定する事実が彼女の足元に転がっている。先ほど切られた手首。生々しいまでの事実が、そこに転がっている。

 紅緋姫は確かに自身の腕を切り落としたのだ。その証拠もある。だが、彼女の腕はその存在を保っている。否定する証拠もある。矛盾している。

「これが、わたしの力」

 淡白な、抑揚もない声で彼女は告げた。

「『不死の身体』。寿命が尽き果てるまで、永遠に傷つくことも、痛みを感じることも、死ぬこともない身体。外からのあらゆる障害から身体を守る無敵の殻。それが、わたしの力」

「それじゃ、あの血は? お前の血じゃなかったのか?」

 『人払い』で倒れていた紅緋姫の身体は血に染まっていたはずだ。加えて床にも血が流れ、血溜まりが形成されていただ。今の紅緋姫の能力を見る限り、傷は自動的に治ってしまう。

 その答えを示すかのように、紅緋姫は剣で手のひらの皮膚を薄く裂いた。今度こそ、赤い血がその手を流れる。しかし、瞬きする間もなく、その傷は何事もなかったように消え去った。

「基本は自動。でも、自分の意志で調節できる」

 霧夜はただ驚くことしかできなかった。いつか、雨師が見せた鉛筆で鉄の棒を拉げさせて、能力を見せた例は、確かに人間技ではなかったが、どこか常識を感じさせるものだった。

 しかし、目の前の少女は最早規格外だ。

「あなたは、帰って」

 淡白な声が室内に響き、霧夜は我に返った。

「あいつは都市に危害を加えるわけじゃない。カギでアカシック・クロニクルの中を見るだけ。それだけ」

「まだ俺の質問に答えてないぞ。お前の説明通りなら、あの時の血溜まりは本物ってことだ。出血するまで、お前は能力をオフにしてたってことだろ? 出血量もかなり多かったはずだ。それまでの間、痛みがあったってことだろ? とてもじゃないが、そんなことをやるなんて、よっぽどのことじゃないとできない」

 文字通り、それは生き地獄のはずだ。痛みが続くものなど、ほとんどの人間は避けたいし、自ら行おうともしないはずだ。その行為を紅緋姫はやった。尋常ではない。

「お前は、ロバートとの間に何がある?」

「約束をした」

「約束? なにを?」

「わたしはずっと一人だった。行き場がなかった。だから、この仕事が終われば、縁を切って、この街で別れる。そう言った」

 すらすらと淀みなく紅緋姫は言葉を紡ぐ。

「でも、それは幻想でしかなかった」

 徐に紅緋姫は持っていた剣を床に突き刺すと、左手首を掴んで、裾を降ろした。袖が捲り上げられ、綺麗な白い肌が露出する。いや、そこにあるのは白い肌だけではない。場違いに何かがある。紫で彩られた模様だった。

「それは――」

 霧夜は見覚えがあった。つい最近、どこかで見た記憶がある。記憶を掘り返すと、それは昨日見たばかりのものだった。図書館で、ゼペットと名乗った、気の良い館長に教えてもらったものだ。

 思い出した言葉を、霧夜は知らず知らずの内に呟いていた。

「――旧支配者の刻印」

 悪しき神として、この都市から一切の情報が取り除かれている邪神たち。知ろうとすれば、非難を受けるであろう冒涜の神たち。その悪しき神の刻印が、目の前の少女の腕にある。それはどういう意味だったか?

 契約者。旧支配者と契約をした者の証。

「……意味が、分かった?」

 紅緋姫が喋る。

「あいつは約束した。この都市に住ませてくれるって。でも、この都市はこの痣を憎む。痣があるだけで、暴力が振るわれる。なのに、本物の痣を持つわたしは、この都市に住めない。だから、わたしの居場所はあいつのところしかない。こんなものを気にする必要がない、あいつのところに」

 抑揚のない、ただ機械的に彼女は言葉を紡いで、霧夜に告げる。

 その姿はあまりにも悲哀に満ち溢れていた。

「もう一度言う。帰って」

 再度、紅緋姫は告げた。

「アカシック・クロニクルを見れば、全てが終わる。異物も全て元通りになる。都市は平和になる。だから、帰って」


 ◆


 霧夜はその場に立っていた。先ほどまで驚きに目を丸くして、ただ茫然と突っ立っていた少年は、今は顔を俯かせている。そのせいで、表情は伺えない。

 紅緋姫は言いたいことを全て告げた。自分の状況と、契約者であること、この二点を伝えれば彼は自ずと理解してくれるだろう。

 旧支配者はこの世界を憎んでいる。自らが統治していたこの世界から自分たちを追い出し、封印した神々を信仰する者たちがいる、この世界を。契約者とはその世界を憎んでいる旧支配者と協力する者だ。言うなれば、世界の敵。反逆者。

 それは目の前の彼にとっても、同じだ。この都市に住む人間は全て、オラクルの信徒なのだから。

 自分から背を向けて、踵を返して、ここから出て行ってくれれば――。

「断る」

 一言。しかし、はっきりと少年は拒絶した。

 その言葉を紅緋姫が理解することに、時間がかかった。

「……どうして?」

 彼の口から紡がれるべき言葉ではない。少なくとも、紅緋姫はそう思っていた。この都市に住む者は誰でも契約者に対し、憎しみを向ける。それが現実だったはずなのに、目の前の少年は憎しみを向けて来ない。

「お前は、このままで良いのか?」

「……どうすることもできない。この痣がある限り、わたしは憎まれ続ける。恨まれ続ける。知っている人からも、知らない人からも。ずっとずっと、永遠に」

「俺が、お前を憎むっていうのか?」

 予想外の言葉に紅緋姫の思考は一瞬、完全に停止した。

「そんなわけあるか。そもそも俺はオラクルの信徒になった覚えはない。記憶を失って、ただここに住んでるだけの、平凡な高校生だ。旧支配者のことなんか知らない。オラクルの事情なんかも知ったことじゃない」

「……意味が分かっているの? 旧支配者は世界を憎んでいる。この世界を壊そうとも思っている。そんな奴と契約した契約者は、旧支配者と同じ考えを持っているということ」

「そうかもしれない。じゃあ、『お前』はどうなんだ」

「持っていなくたとしても、わたしは旧支配者の手から逃れられない。それが、契約。逃れられない、束縛の印」

 契約者は契約を切ることはできない。契約をしたその時から、契約者は旧支配者に縛られ続ける。その命が尽きるまで、永遠に、ずっとずっと。それが絶対的な決まりである。自分がどうしようが、どう思おうが、どう願おうが、ちっぽけな人間の意志など関係がない。

 言うなれば、運命。逃れることのできない定めだ。

「じゃあ、俺は――放っておけっていうのか」

「あなたがどうこうするものでもない。そもそも、どうにかできるものでもない」

 彼はこれで分かってくれただろうか。彼女はもう一度、告げる。

「帰って」

 だが、霧夜は左右に首を振った。

「帰らない。帰るなら、お前も一緒だ」

 紅緋姫は混乱の極みに達しようとしていた。彼は何を言っているのだろうか。もう自分は都市に行けないことは散々説明したはずだ。

「わたしにはこの痣がある。無理――」

「だったら!」

 霧夜の言葉が、紅緋姫の言葉を遮る。

「どうして、そんな寂しそうにしてるんだ」

「――え?」

 寂しい? そんなはずはない。まさか、表情に表れていたのだろうか? いや、それもあり得ない。今の自分は無表情のはずだ。長い年月によって培われてきた、変化に乏しいこの顔を自分は良く分かっている。感情が表に出ることなどない。悟られることなどない。

 ハッタリ、一言そう切り捨てたかった。けれど、紅緋姫には出来なかった。彼、蒼炎霧夜の目を見ると、どうしてもできなかった。

 真っ直ぐと、自分を見つめる目。

 紅緋姫はその目が、何を意味するのか分からない。どんな思いで自分を見ているのか分からない。ただ、その目には引きつけて離さない『何か』があった。

「わたし、寂しくなんかない」

 精一杯の反論は思いの外、消えてしまいそうなほど小さな声だった。

 実際、紅緋姫桜は寂しそうかった。やっと契約から解放され、自由が手に入る。その希望を胸に抱いて、この街へとやってきた。その希望があっという間にすり抜けた。それは自分の居場所が消えてしまったことを意味する。寂しくないはずがない。

 できれば言いたかった。叫びたいほど、今のこの思いを吐露してしまいたかった。

 だが、この思いを悟られるわけにはいかない。きっと、知ってしまったら、彼はついてきてしまう。気に掛けてしまう。

 翁舞の言葉が、紅緋姫の脳裏に浮かんだ。あの言葉通りだとしたら――どうして、そこまでするか分からないが――自分を助けようとする。

 それだけは、絶対に避けなければならない。


 しかし、紅緋姫桜は忘れていた。考えれば、簡単に分かることだったにも関わらず、彼女はそこまで考えることをやめていた。確かに蒼炎霧夜は紅緋姫の感情を知れば、それが消えるまで、その身を費やすだろう。紅緋姫にとって、それは避けなければいけない事態だ。

 だが、翁舞は何と言っただろうか? あの時、二人しかいない霧夜の部屋でアルバムを見た時、翁舞咲はこう言った。

『きっくんは、あなたを見て助けたいって思ってるっさ』

 何故、霧夜はそう思ったのだろうか?

 それは、彼が紅緋姫の感情を既に見抜いているからに他ならない。


「嘘だ」

 霧夜は否定した。彼女がついた嘘を、力を込めて否定した。

「お前は、ずっと寂しがってた」

 彼にはその理由がこれまで分からなかったが、今この場で事情を知り、全てを理解した。

 望んだものが手に入らなかったための、寂しさ。

 彼女は是が非でも手に入れたかったもののはずだ。だからこそ、霧夜の願いは今までよりも一層強くなる。

「だったら、俺が手伝う。お前が望むものを手に入れるために、俺は手を貸す」

 それが紅緋姫の感情の深い意味を知った、霧夜の選択。紅緋姫桜を救いたいという思ったその時から、ずっと変わらない不動の選択。

 少年が助けたいと願った少女は首を振った。縦ではなく、横に。

「無理。あなたにはできない」

「俺だけで不安なら、もっと呼んでくる。お前を助けたいと思ってる人を――」

「違う!」

 叫び声に近い紅緋姫の言葉に、思わず霧夜は自身の言葉を紡ぐことができなかった。

「そうじゃないの、あなたじゃなくてもできない。あなたの力があっても、どうにかできるものじゃない。その意味が分かる?」

 紅緋姫を助けるということ。それはつまり、彼女の腕に浮かぶ痣から解放されること。それが意味すること、それは旧支配者と対決するということだ。

「旧支配者には勝てない。戦いの場すら与えてくれない。ただ、一方的に蹂躙される。勝てるはずがない」

 考えて見れば分かることだ。神話が事実に基づいているのなら、旧支配者はかつてこの世界の統治者であり、人間から見れば創造主に近い存在だった。まさしく、それは王であり、神である。人から見れば絶対的な存在だ。いくら幻想使いが常人を遥かに超える力を有していたとしても、神の立場と力には敵わない。

 それは、霧夜にも同じことが言える。いくら旧支配者が作り出した異物に打ち勝つ『力』を有していたとしても、神から見ればあまりにも矮小すぎる存在だ。

 紅緋姫は、その意味を含めて問いかけている。その問いには、絶対的な事実が含まれている。

 どうにかできるものではないと。

 そして、蒼炎霧夜は答える。

「分かってるさ」

 全てを理解した上で、紅緋姫に伝える。

「それでも、俺はお前に手を貸す。どんな奴が相手だとしても、お前のそんな顔は見たくはない」

「―――!」

 変わらない答えだった。シンプルで、真っ直ぐな答え。

 この想いが揺らぐことはきっとないのだろう。それほどまでに力強く、頼りがいのある答えだった。だが、願いだけでは人は救えない。行動に移しても、絶対的に超えられない壁はどこにでも存在する。

 だからこそ、哀しみと寂しさに浸る少女は、行動に移さなければならなくなった。彼女を囲むように地面に突き立てられた六本の剣。そのうちの一つを手に取り、切っ先を目の前の少年に向ける。

「帰らないなら――わたしが帰らせる!」


 ◆


(こうなったか)

 自分に剣を向ける紅緋姫の姿に、霧夜は嘆いた。出来れば、戦いは避けたかった。穏便に事を済ましたかった。しかし、今やそれは叶わない。意志と意志のぶつかり合いに、互いに妥協する点はなかった。

(だったら、やるしかない――)

 霧夜も己の意志をぶつけなければならない。ポケットから符を取りだし、『力』を込める。

 先に動き出したのは、紅緋姫だった。地面に突き刺さった全ての剣がふわりと宙に浮く。霧夜の脳裏に異物と対峙した公園での戦闘が浮かぶ。初めて、そして唯一見た紅緋姫の戦闘方法。あの時と同じように、剣の全てが重力から解き放たれた。

 剣が一直線に自身に襲いかかる。その速度は異様、と言えるほどに早い。霧夜はこれまで、こんな速度で動く物体を見たことがなかった。ぼうっとしていると、串刺しになる。

 ドンと後ろから音が鳴り、部屋全体に小さな振動が伝わった。

 壁に剣が刺さっていた。それも刃の半分以上を喰い込ませている。

 急激な目標の動きに、方向転換が効かなかったせいだ。余りに早すぎる速度が仇となった。予測通りの結果に霧夜はほくそ笑んだが、壁に刺さった剣は三本。まだ、半分もある。

 残りの剣はギリギリのところでぶつからずに、霧夜の方へと向かってくる。その点を霧夜は織り込み積みだ。すぐに反転して、符を投げつける。三枚ずつを二回。短い風を切る音がしたかと思うと、一度目に投げた三枚の符は、ピタリと向かってくる剣の表面に張り付いた。

 それを確認してから拳を握りしめて、『力』を発動させる。表面から青白い光が符から発せられた。

 カラン、と乾いた音が一つ鳴ると、続いてカラカラカラと連続して鳴り、室内に響いた。三本の剣が失速し、地面を滑ったのだ。

 予測通りの結果に霧夜はほっと息を漏らした。雨師が持っていた幻兵装、紅緋姫の武器もその類のものだろうと考えての行動だった。幻想力で動くのならば、こちらには無力化する手がある。

(後は――)

 壁に刺さった剣目掛けて放った符も、順当にそれぞれに張り付いていた。壁から抜け出そうと動いているが、『力』を発動させると、ピタリと動きを止めた。

 これで、全ての剣は無力化した。

 霧夜は走る。紅緋姫の下へと。自由自在に動く剣がない今、絶好のチャンスだ。

 しかし、その足を霧夜は止めざるを得なかった。

 目の端から何かが来るのが見え、本能的に急ブレーキをかける。刹那、すぐ足元の地面が砕かれた。床の破片が舞い上がり、霧夜は即座に後ろに下がった。

(紅緋姫の剣――どうしてだ?)

 地面には紅緋姫の剣が刺さっていた。しかし、それはおかしい。剣は無力化したはずだ。

 考える間もなく、霧夜は行動を移さねばならなかった。左手から、新たな剣が二本迫って来ていた。二つとも、先ほど無力化したはずの剣だ。

 幸いにも、剣の攻撃は読みやすい。二つの剣を軽々と避けると、あらかじめ取りだしていた符をそれぞれの剣に投げつける。後は同じだった。『力』によって、剣は再び地に落ちる。

「無駄!」

 激しさで彩られた声が発せられると、その言葉を証明するように、地に落ちた二つの剣が宙に舞い上がった。

「あなたの力は、この幻兵装から一時的に幻想力を吸い取る。なら、わたしが再び幻想力を与えれば、動く」

「……わざわざ塩を送るような真似して大丈夫か?」

「塩?」

「情報のことだ。対峙する相手に、自分が不利な情報を渡すのは、得策じゃないと思うが」

「わたしは言った。あなたを帰らせる。そのためなら、どんなことでもする」

「今の情報で俺が帰る気になるとでも? 残念だけど、全く帰る気にはならないな」

「わたしは死なない。あなたの攻撃も効かない。どういう意味か分かる?」

「勝ち目がないって言いたいのか?」

「勝つ手段がない」紅緋姫は力強く訂正した。「どうやって、わたしに勝つつもり? あなたの攻撃はわたしに効かないのに」

「それはどうかな?」

 自然と口に出た挑発的な言葉に、紅緋姫は眉を吊り上げた。そういう動きもするんだな、と霧夜は場違いな感想を抱いた。

「一つの仮説がある」

 霧夜はそう前置きし、

「お前の『不死の身体』は幻想力を使ってるんだよな? ってことは、再生する箇所に対して俺の『力』を使い続ければ、再生能力を封じられるってことにならないか?」

 理論的にはそうなる。紅緋姫の能力が幻想力を使用するならば、その幻想力を霧夜の『力』で封じ続ければ、紅緋姫は能力を使うことはできなくなる。

 だが、実行するには色々と問題点がある。紅緋姫もさすがにその点には気づいていた。

「理論的には可能。でも、非現実的。あなたは符を介してのみ、『力』を発動できる。制限付き。いつかは息切れする」

 符の枚数は有限だ。紅緋姫の言葉通り、符を介してのみ『力』を発動できる霧夜の能力は、幻想力を封じ続けることはできない。

「一応の忠告さ。それに、俺はそんなことはしない」

 紅緋姫の表情は変わらない。驚いているのか、呆れているのか、疑っているのか、その端正な顔立ちからは分からない。結局のところ、彼女はこう返す。

「じゃあ、どうやって勝つつもり?」

 霧夜が前述の手段を用いないのなら、議論は最初に逆戻りになる。結局、霧夜の勝つ手段はない。

「勝ち負けっていうのは、別に相手を叩き潰すだけじゃない。色々とあるんだよ」

 一拍の間を置いてから、霧夜は喋る。

「お前が俺を帰らせないようにする。とりあえず、このステップからだな。このままじゃ、二人一片を相手にしないいけなくなるかもしれないからな」

「……わたしが、そう思うと?」

「そう思わせるようにするってことさ。だから――全力で来いよ、紅緋姫。俺がその全てをへし折ってみせる」


 ◆


 戦いは紅緋姫の三本の剣が霧夜に襲いかかったことを合図に再開した。三本の剣はそれぞれ編隊を組んで、霧夜に剣先を向けて突進する、これまでと変わらない戦い方だった。一方の霧夜は剣の攻撃を交わすことに精一杯になっているようで、突撃してきた剣を交わして、符を持つまでは良いが、その間に再び剣が迫り、反撃できずに交わす――この繰り返しを続けている。

 ここまで、紅緋姫の思惑通りだった。霧夜は反撃できず、その場に止まっている。その様子を横目に紅緋姫は別の作業に集中していた。

 壁に刺さった三本の剣を引き抜く作業だ。思いの外、深く刺さってしまったせいで、中々抜けない。

 この六本の剣、『イヴァルディ』は六本全てを紅緋姫の意志で動かしているため、六本全てを同じ作業を当たらせるのが基本動作となる。別々の作業をするのは、彼女の集中力が散漫となり、逆に剣の動きを阻害する可能性がある。

 だが、それぞれの剣はある程度の学習機能が備わっている。例えば、紅緋姫が『特定の対象を攻撃しろ』と命令すると、ある程度は勝手に攻撃してくれる。しかし、細かすぎる指示だと動きが遅くなる。結局のところ、使用頻度が高いのは、さっきのように『霧夜を襲え』という単純なものだ。

 ならば、単調な動きしかできないのか、と言われると、そうでもない。例えば、『霧夜を襲え』、という命令に『三本はそれぞれ別方向から』という付加物をつけると、遅い速度――と言っても、普通の人間から見れば中々早い――でしか動けなくなってしまうものの、敵を攻撃する。が、やはり弱点はあり、指示は一定時間を過ぎると解消されてしまう。そのため、彼女は一定で指示を剣に与え続けなければならない。

 彼女は今、前述の作業の真っ最中だった。

 同時に、壁に刺さった剣を抜く作業もしなければならない。(本当に面倒な剣)

 そもそも六本も剣を操るというのが、常識外れなのだ。今でこそ慣れてしまったが、この剣を操るには並大抵の集中力では無理だ。操るだけでも一年、戦いながら操作するには、四年以上の歳月を費やした。

(……もうそろそろ)

 壁に刺さった半分の刀身が、見えてくる。六本の剣が揃えば、あとはどうにでもなる。

(もう少し、もう少し)

 じっと壁に刺さった剣を視る。剣は少しずつ姿を見せる。

 少しずつ、少しずつ。

(あと、もう――)

 ガシャン、と音がして、紅緋姫はハッと我に返り、音した方向を見た。

 霧夜に襲いかかっていたはずの剣、そのうちの二本が床に転がっていた。残り一本の剣も、ふらふらとまるで酔っ払いのように動いている。速度も遅い。案の定、刃の側面に蹴りを入れられ、遠くに吹っ飛ばされてしまった。

 しまった、と紅緋姫は嘆いた。壁に刺さった剣ばかりに注意を逸らしてしまい、剣への指示が終わりかけていたことを見逃してしまったのだ。そのせいで、速度は落ち、霧夜が反撃できる隙を与えてしまった。

(ダメ!)

 霧夜を防ぐ障害物はなくなり、彼は動き出そうとする。それを阻止するために、注意を床に散乱している剣に向ける。三本の剣はすぐに反応を示し、霧夜へと襲いかかった。

「おっと!」

 さすがに霧夜の反応も早い。ほとんど間一髪、二本で構成された編隊を避けた。後から来た残りの一本も軽々と避けている。

 とりあえず、霧夜の足止めは成功した。ほっと一安心した時、ガラガラと小さな音が鳴った。 

 壁に刺さった剣がその全ての刀身をさらけ出していた。

 これで戦力は整った。 

 後は、

(……どう攻めよう)


 ◆


(決めた)

 短い時間の思考の後、攻撃方法を決めた紅緋姫は、合流した剣の一本の速度を最高速にして、霧夜を襲わせた。

 イヴァルディは一瞬にして、秒速九十キロを叩き出す。この速度は弓矢の瞬間最高速と同じだ。その値を維持して、剣は標的へと襲いかかる。

「!」

 別方向から来た剣を、霧夜は間一髪で避けた。腹部を掠ったのか、少しだけ破けていた。肌が露出しているようには見えない。

 この戦いで、初めてできた傷だ。

 今の攻撃は刃が霧夜を貫かないように、当てる瞬間に少し剣の位置をずらした。刃の側面を当てるように試みているのだ。だが、素人に交わせる攻撃ではない。

 そもそも、これまで霧夜が無傷で剣を交わしきっていること自体が、紅緋姫には驚きだった。先ほどの三本による剣の攻撃は、速度をあえて緩めておき、霧夜が交わせるようにしむけていた。ある程度のケガはしょうがないと考えていたが、彼は今の今まで無傷だった。

 長い時間、戦いという場所に身を置いてきた紅緋姫から見て、霧夜の身体能力は称賛に値した。

(とても、素人とは思えない。あいつの話は嘘だった)

 ロバートと霧夜の戦いの一部分を紅緋姫はロバートから聞いていた。曰く、自分が本気を出せばいつでも倒せる程度だった、らしい。しかし、実際の霧夜はそうは見えない。戦いに慣れた一人の戦士に見える。

 もしくは言葉遊びだったのだろうか? 確かにロバートが本当に本気になれば霧夜など跡形もないだろう。だが、今の彼にはそれができない。つまり、今は出せない本気を出せば倒せる、ということだったのだろう。何故、そんな言葉遊びをしたのか、紅緋姫は考えない。ロバートの考えなど読めた試しがないのだ。

(やめよう)

 今はロバートのことを頭の中から振り払い、目の前の少年に目を向けた。

 何度も思うが、霧夜の戦闘能力は驚異的だ。もしかしたら、と一筋の希望を抱いてしまうだろう。だが、現実はそう簡単にはいかない。

 だから。

(わたしが思い知らせる。わたしが勝って、彼を帰らせる)

 そのための策はある。

 彼女は壁に刺さっていた剣の内、もう一つを最高速度にして霧夜に放った。今度は別の方向からだ。霧夜はそれを難なく交わす。今度は切り傷がない。完全に避けられた格好だ。

 それでも、紅緋姫は構わなかった。残りの一本も、別方向から放つ。

 霧夜は避ける。

 もう一本。

 霧夜は避ける。

 残りの三本も同じように、別々の方向から襲わせる。

 一本、一本、また一本。

 その全てを、霧夜は避ける。

「どうした紅緋姫? これが全力か?」

 全てを避けきり、無傷と言っていいほどの姿で、霧夜はその場に立っている。一般人と変わらない身体能力を持つ霧夜と遥かに上回る力を持つ幻想使いの紅緋姫。両者には歴然とした差があったはずなのにも関わらず、霧夜はほとんど無傷だ。全力、とはほど遠いと思われてもしょうがない。

 だが、戦いが全て力押しで決まるわけではない。

 そう、紅緋姫はチェックメイトをかけていた。

「周りを見て」

 言われるがままに、霧夜は周囲を見渡し始めた。

 紅緋姫が操る、全ての剣が地面に突き刺さっていた。

 霧夜を囲むように、ぐるりと。

 紅緋姫が手をかざす。呼応するかのように、剣は宙に浮かび、ピタリと静止した。全ての剣先を霧夜に向けた状態で。

「あなたは囲まれた。逃げることはできない。最後通告。帰って」

 秒速九〇キロによる多方向からの一斉攻撃だ。今まで避けて来た霧夜と雖も、この攻撃を避けることはできない。紅緋姫には自信があった。

 この状況に対して、霧夜は不敵な笑みを漏らした。

「言っただろ。帰る気はない。それに、これで絶体絶命とも思わない」

 ポケットに手を突っ込みながら、彼は言う。全く引く気のない言葉だった。臆する様子もなく、いつもと変わりがない。この状況を回避できると思っているのだろうか? それともただのハッタリか。

「……」

 だが、どちらにせよ、やるしかない。彼を帰らせるためにも。

「これで、終わり――」

 剣は放たれた。全ての剣が同時に、霧夜へと一直線に。速度は緩めない。最高速度に指示している。刃が彼を貫かないように、少し位置を調節している。打撲、最悪骨折もあり得るだろうが、彼が引かないのなら、そうするしかない。

 彼はどう出るだろうか?

 霧夜の行動は早かった。剣が放たれる直前に、ポケットに突っこんでいた左手を勢いよく出した。その手には、符が握られている。それも一枚ではない、数え切れないほどの多量の符だ。無造作に取り出したのか、握りしめられている符はしわくちゃになっている。

 彼はその全てを投げつけた。

 全てを一カ所に。

 彼から見て、左手の方向に。

 その方向に一つの剣。最高速度で迫ってくる剣を符はあっという間に取り囲むと、光を放つ。

 ガシャンと、剣は失速して剣先を地に向けた。

(しまっ――)

 一角を潰すことによる、包囲網の突破。予見するべき行動だった。

「でも――」

 大丈夫だ。もう剣は霧夜へと迫っている。霧夜が動き出す前に、剣は彼を打ち倒す。問題はない。そのはずである。


 それでも、それでも――紅緋姫は不安だった。

 何が彼女の胸中に不安をもたらしているのか、紅緋姫はすぐに気がついた。もう絶望の淵に、絶体絶命の危機にいるはずの彼が――。

 蒼炎霧夜が、笑っていたからだ。

 それは何故だろうか?

 その答えを、少女はすぐに知ることになる。


 もうすぐ、剣が彼に届く。その剣先が、彼の身体に触れようとする。

 その時、霧夜の顔が視界から消えた。本当に一瞬だけ、消えたのだ。

 彼は屈んでいた。

 そう認識した刹那――

 ガシャン、とひと際甲高い音が室内に鳴り響く。

「――え」

 霧夜を包囲していた剣は一瞬目標を見失った。だが、すぐに剣は、紅緋姫は反応できない。指示されたままに最大速度で霧夜が『居た』場所へと突進する。

 互いの進路上には、剣があるだけとなった。

 互いの刃が、互いの身体を傷つけ合う。

 全ての剣がもつれ合い、互いが互いを弾き飛ばす。

 そうして、剣は床へと散らばった。

「そんな――」

 万全の態勢だったはずだ。絶対に避けられない攻撃だったはずだ。にも関わらず、目標を見失った剣は互いにぶつかり合い、その力でお互いを弾き飛ばしてしまった。

 同志討ち。最悪の結果だ。

 茫然とする紅緋姫をしり目に、霧夜は動く。その両手は大量の符を握っている。

 その姿に紅緋姫は我を取り戻した。茫然としている暇はない。両手に大量の符を掴んでいる霧夜が、次にどういった手を打ってくるか。

(防御を――)

 自分を狙ってくる。今の自分は無防備で、格好の的になっている。

 しかし、紅緋姫の予想とは裏腹に、霧夜はその全てを上へと向けた。彼の両手から大量の符が、天井へと向けて昇っていく。

 全くもって予想外の行動に、紅緋姫は虚を突かれた。あらゆる行動が一時的に止まってしまう。

 その隙に、蒼炎霧夜は駆ける。紅緋姫桜の下へと。

「あ――」

 それに気がついた時、もう霧夜はもう目の前に立っていた。後、数メートルも行けば、手が触れてしまう、その位置まで。

「終わり、じゃなかったな、紅緋姫」

 紅緋姫が課した障害、その全てをほとんど無傷で突破し、蒼炎霧夜は彼女の前に立つ。

「まだ――」

 剣が残っている。一度避けられたとはいえ、動かせる。幸いなことに、剣はそれほど散らばっていない。この位置ならば、背後から霧夜を狙える。

「悪いが、そうはさせない」

 そう言う霧夜は、自身の手を握りしめた。符の力を発動させるためのモーション。その対象となる符はどこに?

 咄嗟に紅緋姫は天井を見上げた。天井には符が規則正しい円形に成って、張り付いていた。その全てから光が溢れている。

「まさか――」

 紅緋姫は知っている。この世界がどんなものによって構成されているのかを。

 符に込められた『力』によって、天井が歪な形で切り取られる。重力の法則に従い、巨大な塊となったかつての天井は地に落ちる。その先は霧夜の身体が邪魔で視認できない。しかし、紅緋姫は覚えている。その先に――六本の剣があることを。

 これまでの一連の動きを今、紅緋姫は理解した。

 蒼炎霧夜は紅緋姫の武器を奪うつもりだ。

 阻止しなければならない。まだ間に合う。時間的に一度しかできないが、適当に剣をその位置から移動させるだけで良いのだ。すぐに終わる。

「そうは――」

「させない」

 グッと霧夜は左手の拳を握った。その動きに紅緋姫は疑問を覚えた。

(符は――)

 もうない。そのはずなのに。

 だが、今は気にしている暇はない。一刻も早く、剣を崩落する天井の部分から追い出さなければならない。彼女はすぐに幻想力を使って、剣に指示を飛ばした。ほとんどのタイムラグもなく、剣はその場から四散する――。

「あれ、あれ?」

 そのはずだった。そうでなければならなかった。いくら指示を出しても、霧夜の後ろにあるはずの剣が動く気配はない。

 もう一度、指示を飛ばそうとする。だが、時間の制約はもう過ぎていた。


 天井が地面に落ちる。


 耳を劈くような衝撃音の後、床と身体が振動する。膨大な砂埃が襲いかかり、視界を埋めていく。その衝撃に紅緋姫の身体は後ずさる。目を覆うように腕をかざした。。

 その必要はなかった。

 この衝撃と砂塵の中で、霧夜は立っていた。彼が壁となり、紅緋姫は防護する必要がなかった。その姿を紅緋姫はただ見つめるしかなかった。次第に彼女の目には彼の姿しか映らなくなっていた。

 衝撃は収まり、砂塵は短い時間で消え去った。

 部屋は変わり果てていた。部屋の明かりであったろうそくの火は砂塵と衝撃で消え失せている。天井の一部が崩落したせいで、床にはその瓦礫が、大小様々な姿で転がっていた。

 その中に、紅緋姫の剣は見当たらない。剣があったはずのところには、代わりに巨大な瓦礫が鎮座している。

「――!」

 剣を引き寄せようとする。剣の感触は感じられる。しかし、いくら手繰り寄せようとしても、彼女の下に現れようとはしない。

「あれだけの瓦礫だ。そう簡単に剣は出てこない」

「そ、そんな――」

 突きつけられた現実。紅緋姫は武器を失った。長年使ってきた、相棒というべき武器を。

「な、何をしたの」

 あの時、一度だけイヴァルディに指示をするチャンスがあった。その一度のチャンスに剣は反応を示さなかった。イヴァルディは頑丈な剣だ。互いにぶつかった程度で故障などするばずかない。自身からの指示も間違っていなかった。

 イレギュラーとなる要因は紅緋姫にはなかったのだ。にも関わらず、剣は反応を示さなかった。

 そうなると、霧夜の不可解な符の発動モーションに、疑いを向けるしかない。

「簡単な話さ。剣に貼り付けてあった符の『力』を発動しただけだ」

「剣に、張り付いていた? 嘘。張り付いてなかった」

 事実を言うのなら、確かに剣には符が張り付いていた。だが、それは全て使用済みのものだったはずだ。最初の攻撃の時に、張り付けられたものしかなかったのだから。

「符の上からさらに符を張り付けたんだよ」

「いつ、張り付ける時があった?」

「お前がずっと三本で攻撃した時があっただろ? あの時、避ける瞬間に一枚ずつ張り付けた。残りの三本は、すごいスピードで襲いかかって来たときに、すれ違いざまに貼り付けた」

「―――」

 言葉が出ない。最初の三本の理屈は分かる。速度もかなり減退した時もあったため、容易ではあった。だが、残りの三本はそれとは話が違う。一度きりしかなかったチャンス、しかも困難なチャンスだ。

 幻想使いですら、できるかどうか分からない。少なくとも、紅緋姫には自信がなかった。あの戦いの最中で、そんなことを考え、実行する自信が。

「お前にはもう武器がない。勝負はついた」

「勝負……」

 もう紅緋姫の手からイヴァルディはなくなった。自分が振るうべき相棒は瓦礫の中だ。

(勝つ手段が――)

 なくなった。紅緋姫はそう感じていた。

 紅緋姫は幻想使いだ。霧夜とは身体能力に差がある。そう思っていた。はっきりとした情報があるのだ。だが、目の前で見せた霧夜の技巧が彼女に不安をもたらす。

 いくら身体能力が高かろうと、霧夜と戦って自分は勝てるだろうか?

 今までなら、自信を持って言えたはずだ。だが、今はない。

(待って。ここから逃げるだけならできるはず――)

 しかし、考えている最中に彼女の腕が握られた。

 気づけば、霧夜がいた。この腕を握れるほどの距離まで、近づいていた。左腕を、その無骨で、どこか繊細さを持ち合わせた、温かみのある手で握っている。

「帰ろう、紅緋姫」

「帰る――」

 言葉の意味を咀嚼して、紅緋姫の脳裏に一瞬だけある情景が浮かんだ。自分がこのまま常世に帰り、暮らしていく情景だ。できることなら、それは現実であってほしかった。彼女が望んだ形なのだから。

 でも。

(それだけはいけない。帰ってはいけない。あの街には住めない。契約がある。わたし住めない。わたしの居場所じゃない。わたしだけじゃない。彼にも、その周りの人も困る。だから、帰れない。帰らさなきゃ。でも、でも、でも、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば、どうすれば――)

 ふと、その右手が固い物に触れていた。いつの間にか、無意識に触れていた。自分の腰につけている物。すっかり忘れていた。まだ、自分には勝つ手段がある。

 この右手には。

 最後の武器が握られている。


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