第四章-2
翌朝。
どうして翁舞が朝一番に電話をしてきて、今日の予定を告げるのか、疑問に思っていた。彼女は朝起きて、その場で予定を決めているのだろうか? そんなことはないと思う。なら、どうして前日に予定を伝えてくれないのだろうか?
朝早く、時刻が八時になる前にかかってきた翁舞からの電話を取り、一通りの会話をした後、そう考えていた。
「見て回れって言ってもな」
行動については疑問に思うが、怒りが込み上げてこないのは自分がお人好しだからだろうか。それとも翁舞の気質なのだろうか。答えを出す気のない疑問を考えつつ、霧夜は朝食の準備をし始める。昨日と違って、トーストだけの簡単なメニューだ。
掛かってきた電話の要件は部の依頼内容ではなく、それにしたら簡単な内容だった。
『紅緋姫と一緒に街を見て回ってほしい』
翁舞が提案したのか、紅緋姫が自発的にそういったのかは知らない。しかし、こちらは拒否する理由もなく、二つ返事で答えた。唯一気にかかるとしたら、学校の件だが、サボっても構わないだろうと考えた。
甲高く短い音が鳴り、トーストが焼けた音が鳴る。付けるジャムはどうしようかと思案して、オーソドックスなイチゴにすることにした。冷蔵庫にはイチゴジャムの横には、いつかの試作品として安めに販売していた桜ジャムが鎮座していた。入れた覚えはない。翁舞が入れたのだろうか? 少し考えて、桜ジャムに再チャレンジすることにした。
テーブルの前に座り、皿の上に乗せたトーストにジャムを付ける。香ばしい匂いと、慣れない妙な匂いが混じり合う。
時計を見ると、ちょうど八時を時計の針が差している。約束の時間まではまだ三時間も余裕がある。それまでの間、昨日の疲れを癒そうと思った。
一口齧る。
前と同じように苦かった。しかし、悪くないな。霧夜はそんな感想を抱いた。
◆
「おはようっさ、きっくん!」
「……おは、よう」
待ち合わせの時間一〇分前に、学生寮から出ると二人は既に待っていた。うっかりうたた寝してしまった霧夜は目を擦りながら、小さな声で答える。翁舞はいつもの通り天真爛漫な笑みを浮かべ、一方の紅緋姫は無表情だが、少し眠そうに見える。
「今日は学校なかったんですか?」
「休みっさ。あったら、こんなこと言わないっさ」
翁舞は制服ではなく私服だったが、霧夜は見慣れているので特に感想もなかったが、隣の紅緋姫はいつもの服ではないことに、少々驚いた。
彼女の着る服は一目で『可愛い』と形容できるもので、紅緋姫が元々着ていたものよりも、お洒落な印象を受けた。それは白いワンピースで、彼女の細い身体にちょうど良くフィットしている。他にも色々と装飾が付いており、中々凝った造りをしている。さらに足元を見ると靴が黒いキトンヒールに変わっていた。
「翁舞さんのですか?」
「そうっさ! かわいいでしょ? ま、桜っ子自身が可愛いから何着ても可愛いっさ」
「桜っ子?」聞き慣れない言葉に霧夜は首を傾げた。
「ニックネームっさ。それで、どう? 可愛いっさね?」
「よく似合ってるな」
単純に思ったことを霧夜はそのまま述べた。
「……そう」
淡白な声で答えた彼女は、服装以外いつもと変わりは無かった。霧夜はその様子に人知れず笑みを浮かべた。表情と声の淡白さが服装の可愛らしさと比べて、いまいちマッチしていないのがおかしかった。まるで、七五三に慣れない礼服を着る子どものようだ。
「それで、今日の予定は?」
「街中、ブラブラめぐりっさ」と言ってから翁舞は付けくわえるように、「予定があるから、そんなに見て回らないっさ」
◆
翁舞の言葉通り、旅は短いものだった。三人は列車に乗って、第七地区から少し離れた地区、通称『芸術地区』と呼ばれる場所へと向かった。芸術都市は一般の人々が住んでいない代わりに、美術館や歴史館などの所謂芸術品の展示、販売に特化している場所で、観光地と化している。建物はたの地区よりもより装飾の凝ったものになり、ちょっとした看板や道の模様には、一風変わったものが多く、人を飽きさせない。初めて足を踏み入れた霧夜は元より、紅緋姫もこの景観には驚きを隠せない様子で、歩きながらキョロキョロと、一見すれば不審者と勘違いされそうな動きをしている。
「最初は美術館に行くっさー!」
とツアーガイドの真似事なのか、近くの露天で買った旗を振り回しながら、翁舞は言った。
美術館は、この常世が輩出した芸術家たちの絵が展示されているところだ。絵の説明や配置によると、絵の様式毎に分けられているようだが、霧夜にはどれも西洋画にしか見えなかった。絵描きの名前も、どれも聞いたことのないものばかりだった。早々に飽きてしまった霧夜だったが、紅緋姫の方は興味津々といった風で、熱心に一枚ずつ絵を鑑賞している。特に彼女が興味を示したのは、『邪神と人』と命名された画だった。
「これらは」と翁舞がずらりと並んでいる画に手を翳して「旧支配者がどんな風に人と関わってきたかを描いているっさ」
「でも、旧支配者の情報は常世から排除されているんじゃありませんでしたっけ?」
「うーん、結構その基準は曖昧で、一応教訓になるものならオッケーってことになってるっさ。ま、認めない人もいるけどねっ」
画を見ると、巨大な黒い塊――解説によると旧支配者らしい――によって、奈良の底へと落ちて行く人々、燃やされて人々などなど多種多様に人々が苦しい目に合っている。
「翁舞さん、これは?」
その中で一枚、旧支配者の傍らに人間が座り込んでいる画があった。どう見ても、酷い目にあっている人々には見えない。
「それは契約者じゃないっかな? 旧支配者と契約をした人」
その言葉は先日、図書館で耳にしたばかりだった。
隣の絵は、契約者と思われる人物が光る剣を持った女性によって身体を切り裂かれ、苦痛に顔を歪めている。女性の服のマークから察するに、オラクルの人間のようだ。
「これは神から力を授かった人が、契約者を打ち倒す画っさ。結局、旧支配者はの力を借りても、アカシック・クロニクルの神々には勝てないことを示しているっさ」
「へえ」と呟く霧夜はただただ翁舞の説明を受け入れるだけで、特に興味を覚えなかった。ふと気になって、横に居る紅緋姫に目をやると、色のない眼差しでこの絵画を凝視している。
「さ、美術館見学はそろそお開きっさ。次の場所に行くっさ!」
「次はどこに行くんですか?」
「露店巡りっさ」
美術館を出て、五分ほど歩いた先に円形の広場があり、そこは無名の画家や小説家、つまり作品を生み出す人々が自分の作品を売り出している場所だ。売っているものは一見すればヘンテコなものや、至って普通のものなど様々だが、霧夜にとってはどれも購買意欲をそそるものではなかった。
一通り商品に目を通すと、霧夜は紅緋姫の姿を探した。彼女は翁舞と二人で隣の露天に居た。こっそりと近寄り、様子を窺うと、翁舞は既に購入を決定しているようだが、どれにしようか迷っているようだ。一方の紅緋姫は商品の一つ一つを熱心に見ており、その目はいつもと変わりのないようだが、物珍しそうに見ているのは気のせいではないだろう。
その内、ある一つの商品に目を止めた。それは兎の形を模した缶バッチだ。
「欲しいのか?」
背後から声を掛けると、彼女の身体がピクリと揺れて、振り返った。驚いたのだろうか。
「……」
彼女はじっと霧夜を見るだけで、何も言わない。てっきり、何か言うものかと思っていた霧夜は咄嗟に言葉が出ず、
「買えばいいんじゃないか?」
「……ない」
「……何が?」
「お金」
「財布、忘れたのか?」
「……そう」
今にでも溜息を吐きそうな様子の紅緋姫を見た後、霧夜は彼女が熱心に見ていた商品の値札に目を通した。こういった商品の相場は良く分からないが、安いことは確かな値段だということは分かった。霧夜は商品を手に取って、
「すみませーん、これください」
近くに居た絵具で汚れた作業着を着こんだ男に声を掛けると、震えた声色で返事をし、神経質そうな動きを隠そうともせず応対した。
「ほれ」
買った兎を放り投げ、放射線を描いて紅緋姫の手にすとんと収まった。彼女は手の中のものをじっと見つめた後、顔を上げる。見慣れた淡白だった目に、今は色がついている。
「欲しかったんだろ。まあ、助けてもらったお礼ってことにしてくれ」
「……」
霧夜と手の中の兎を交互に見て、紅緋姫はペコリと明確に頭を下げた。
「決めたっさー!」
一際大きな声が発せられ、その方向を見ると翁舞が何やらデカイものを抱えて、会計をしている。
「良い買い物したっさー!」
「……何です、それ」
「ふっふーん、竜の木彫りっさ。結構高かったっさねー」
会計を済ませてこちら来た翁舞の手には、彼女の言う通り木彫りの西洋竜があった。台座に付けられた値札には、一瞬仰け反ってしまうほどの値が書かれていたが、値段の割に造形は見事といったところだ。
「……」
紅緋姫も感心しているのか、じっと木彫りの竜を凝視している。
「桜っ子も欲しいっさ? 結構値が――あっ!」と突然すっとんきょんな声を上げると、「もうそろそろお暇する時間っさ!」
「まだ、十一時ですけど」
広場中央の時計台で時間を確認した霧夜はそう言った。
「お昼の買い出しがあるっさ!」
「……お昼? 昼ごはんは家で食べるんですか?」
「そうっさ! ささっ、街巡りツアーは終わりっさ! 駆け足で戻るっさね!」
◆
足早に第七地区へと戻ってきた三人は、翁舞指示の下、食料雑貨店へと足を踏み入れた。霧夜も何度か訪れたことのある店だが、未だにここの買い物システムに慣れていなかった。店内はスーパーなどと比べると小ぢんまりとして、昼時だというのに買い物客の姿はない。品物は店内に並んでおらず、手書きされたスケッチのみが飾られている。
品物を買う手順も、少々妙だ。客は入り口にある紙で品物の名前を書き取り、カウンターで暇そうにしている店員にメモを渡して品物を受け取る、というシステムになっている。スーパー、というよりカードショップのようだ。
店の雰囲気もスーパーとはかけ離れ、本当に雑貨店と呼べるものだ。スケッチが置かれた棚は手触りのよい木製の棚で、壁は白で装飾されている。照明は明るすぎることなく、暗すぎることのない、それがシックな雰囲気を醸し出していて、妙に居心地がよい。
目の前の翁舞は、そんな雰囲気もお構いなしに、まるで暴走機関車を体現したような元気さで店内を駈け廻っている。幸いにも、店内に人は少なく、迷惑はかけていない。困ると言えば、足早に先頭を突っ走る翁舞の背を追いかける霧夜と紅緋姫だろう。少し目を離すとどこかへ翁舞は行ってしまうのだ。
「……あの、翁舞さん」
「何っさ?」
次々と迷わずに翁舞はディスプレイされたスケッチの食材や、調味料に目を付け、メモ用紙に書き込んでいる。
「これ、お昼の食材を買いに来てるんですよね?」
「当たり前っさ! う、野菜がちょっと高くなってるっさー。野菜に影響があるニュースなんてあったっさかね?」
「そんなことより」と翁舞の持つメモ用紙を指差して「どう見てもすき焼きですよね、これ」
「そうっさ」
「いや、おかしいじゃないですか。真昼間からすき焼きって」
「たまにはそういう珍しさも必要っさ、きっくん。常識ばかりに囚われると、いざという時、足元をすくわれるっさ」
「それとこれとは関係ないですよね」
「それに、昔はすき焼きっていうのは、仕事を終えた人たちがお昼休みに食べていたものっさ!」
「平然と嘘をつかないでください!」
「まあまあ」と唐突に翁舞が飛びかかるようにして霧夜の肩に手を回すと、グイッと顔をほとんど互いの頬が当たる距離まで近づけてきた。
「何ですか」
「実は」その麗しい唇から洩れる声は非常に小さかった。「桜っ子が珍しいもの食べたいって言うからっさ」
「紅緋姫が?」
チラリと霧夜は後ろにいる紅緋姫へと目を向けた。紅緋姫はその淡白で純粋な瞳で、店内をキョロキョロと見ては、スケッチを凝視している。その姿は珍しいものに興味深々な子どものように見える。
「それだったら、三人でわいわいできるものがいいっさと思ってね」
「まあ、いいですけど……って、別にすき焼きじゃなくても良いですよね、それ!」
「あっはっはっ、ばれちゃったっさね!」
愉快な笑い声を上げる翁舞に、霧夜は肩を落として、深い溜息を吐くしかなかった。翁舞が一度決めたことを変えるは至難の業であり、霧夜は結局のところすき焼きを了承するしかなかった。
◆
食料雑貨店を出た途端、翁舞が手に持った荷物を全て霧夜へと差し出してきた。
「えっと、これはどういうことですか?」
「まだ、食材が足りないっさね。市に行って来るから、先に帰っててっさ」
こちらが答える間もなく、翁舞は風の如く「じゃねっさー」と言ってあっという間に後ろ姿は人ごみの中へと消えて行った。両手で買い物袋を持った霧夜は、一つ小さな溜息を吐いて
「……行くか」と促すと、
「待って。公園に寄っていい?」
公園と聞くと、一カ所しか覚えがない。例の第七地区有数の巨大な敷地を誇る公園だ。
「どうしてだ?」
「忘れ物」
公園に忘れ物、それは落し物というのではないかと霧夜は思いつつも、口に出さずに二人は公園へと向かった。ここから公園はそう遠くない。
美術品のような建物が犇めく、まるで迷路のような間隔の広い道を歩くと、ここが日本ではなく、イギリスのロンドンにでも来たような気分になる。
(そういえば、ここって信号ないんだな)
数台の馬車の列が通り過ぎ、人が一斉に動き出して霧夜はそんなことを思った。
この場所どころか、霧夜は街中で信号というものを見たことがない。周囲の空気に取り込まれていたせいか、余り疑問に思わなかったが考えて見れば妙なことだ。日本で、しかも街中に信号がない場所など、霧夜は覚えがない。ここはそこそこ交通量もあるというのに、どういうことだろうか?
一〇分もすると、公園の入り口が見えて来た。
公園の入り口の外灯は、まだ修復されておらず、傷跡が生々しく残っている。さすがに破片は回収されており、黄色いテープが損壊した外灯への道を阻んでいる。中の外灯も同様なのだろう。
二人は公園へと入った。
「どこに落としたんだ?」
「ひ――違う。忘れ物」
「……忘れ物はどこだ?」
「広場だと思う」
「そうか。どんな――」
どんな形何だと聞こうとした時、二人は足を止めた。広場には三人の先客がいた。小学生だろうか、幼さが残る顔立ちと服装だが、体格ががっしりとしている。もしそれが傍から見て微笑ましく、遊んでいるだけだったら、二人はそのまま通り過ぎただろう。しかし、その三人の輪の中心に倒れている子どもが見える。中心に居る子どもは立ち上がろうとすると、周りの三人が蹴り倒す。それのくり返しを黙って見ることができるだろうか?
少なくとも、蒼炎霧夜はできなかった。
「おい、何やってる!」
怒声が公園に響く。その声に暴力を奮っていた子どもたちは、びくりと身体を震えさせ、その動きを止めた。
「え、あの……」
「あーとえーと」
三人は口をパクパクと動かし、互いに顔を見合わせている。
霧夜が近づくと、三人は飛び上がるようにしてその場から離れようとする。
「逃げるな!」
その声に逃げようとした三人は身体をビクリと震わせて、足を止めた。
「大丈夫か?」
「は、はい……」
手を差し伸べた霧夜の手を取り、倒れていた少年は立ち上がる。ポンポンと服に着いた砂煙を落とす。見るところ、擦り傷は目立つが、それほど大きな傷はなさそうだった。尋ねても大丈夫、とだけ小さな声で言った。
「お前ら、どうしてこんなことをしてた?」
霧夜が三人の少年を睨む。それだけでビクリと少年たちの肩が震えた。
「だ、だって――」
身体が細く、一目見てひょろそうな身体の少年が、隣の一目見てガキ大将と分かるの少年の顔を見る。すると、弾かれたようにガキ大将の少年が言葉を紡いだ。
「そ、そうだ。仕方ねぇじゃん! こ、こいつ――」
暴力を受けていた少年のある場所を指差しながら、答える。
「痣があるんだぜ!」
シーン、という擬音が聞こえるかと思うほど、静寂が公園に訪れたものかと、霧夜は思った。
「……は?」
「だ、だから、痣だよ、痣! 腕に痣があるんだから、仕方ないだろ!」
そう言って、ガキ大将の少年は周りにも同意を求めるように、「な、な!」と声を掛けている。ガキ大将の言葉から、いじめられていた少年の腕に痣があることは分かる。しかし、それが何だというのだ? 霧夜には全く意味が分からない。
だが、いじめっ子たちの様子を見る限り、その言葉を本気で発していることは間違いない、と霧夜は思った。
ちらりと、隣の少年を見る。俯いている少年の服は長袖なので、その腕がどうなっているかは伺えない。
「なあ、良ければその痣っていうのを見せてくれないか?」
霧夜が尋ねると、少年はビクリと肩を震わせた。その姿に霧夜を驚きを禁じ得なかった。先ほどまで冷静だった少年が怯えている、たったそれだけの言葉で。
いや、と霧夜は考え直した。何か事情があるのかもしれない。それを深く突っ込み、聞くのは野暮だろう。
「見せたくないんだったら良いんだ」
相手を不安にさせないようになるべく優しく声をかける。それが功を奏したのかは分からない。少なくとも、霧夜が意図したことではなかった。少年は考えを一八〇度変えて、左腕の裾を掴み、捲り上げようとした
「良いのか?」
「……うん」
少年は裾を捲り上げた。前腕の表面が赤色に変色している。驚くことに痣は手首から肘に掛けて広がっていることだ。それを除けば、何ら不思議なことはない、至って普通の痣だ。
「これが、何だって言うんだ?」
「あ、痣がある奴は、わ、悪い奴だって、みんな言ってるし」
「痣なんて普通にできるもんだ。お前だって、俺だってな」
「あ……」
そんな当たり前のことに今更気がついたのか、ガキ大将は驚きの声を漏らした。
「ほら、謝れ」
「あ、う、うん」
おずおずとガキ大将の少年がいじめられていた少年の前に出ると、それ続いて残りの二人も前に出て、三人同時に「ごめん」と頭を下げた。頭を下げられた少年は一拍間を開けると、小さな声で一言「いいよ」と答えた。
少々ぎこちなかったが、いじめていた三人といじめられていた少年は和解に成功したようだ。最後に痣ぐらいでいじめるのはやめろ、と霧夜は釘を差すと、四人はガキ大将の威勢の良い掛け声とともに、四人揃ってこの場を去って行った。どうやら、あの四人は仲の良い友達同士だったようだ。
とりあえず、一件落着と言えるだろう。
「さ、紅緋姫、こっちの用事を……どうした?」
今まで一言も発さなかった紅緋姫は、去って行く四人の少年たちを凝視していた。その目に淡白な様子は見受けられない。どんな眼差しで見ていたのか、霧夜が確認する前に紅緋姫はいつも目へと戻ってしまった。
「何でも、ない」
ただ一言、やはり淡白な声で答えただけだった。
◆
財布は滑り台の建物の中にあった。どうやら、昨日そのまま置き忘れてしまったらしい、というのは本人談だが、霧夜には不注意で落としてしまったようにしか思えなかったが、口に出すのはやめておいた。
(何だったんだろうか)
学生寮へ帰路についた霧夜は、横に並んで歩く紅緋姫の姿をチラリと見た。公園での紅緋姫は明らかに様子がおかしかった。考えられる一つの要因は、いじめの現場を見たことだろうが、それが紅緋姫にどういった影響を与えたのか、不明だ。
思い切って聞いて見ても、
「なあ、紅緋姫。何かあったのか?」
「……何も」
と答えるだけで何も語らない。何度か話してみるように勧めて見たものの、逆に彼女は口を閉ざして行ってしまい、今は怒っている、ように見えるのは霧夜の気のせいだろうか?
とにかく、聞き出す手段はなくなり、二人は会話もなく、寮へと足を進めるだけだ。
寮の前では、翁舞が一人、待ち惚けを食らったようにして立っていた。彼女が霧夜と紅緋姫に気づくと、頬を膨らませてずかずかと近寄って来た。
「もう準備できてるっさ!」
第一声は怒声、というより拗ねている子どものような声だった。
「いえ、ちょっとハプニングがあって」
公園での事情できるだけ詳しく話していくと、翁舞の怒り顔は徐々に変化していき、憂いを帯び始めた。話し終えた後も、翁舞はその場に立ち尽くして、言葉を発さない。呼びかけようかと霧夜が考え始めた時、ようやく翁舞は力なく口を開いた
「部屋に行きながら話すっさ」
そう言って翁舞は二人に背を向けて歩き始める。向かう先は女子寮――翁舞の部屋なのだろう。既に紅緋姫を運んだ際に、訪れたことがある。
「旧支配者の痣を、きっくんは知ってるっさね?」
「ええ」と答えてから、霧夜の脳裏にパッとあるものが浮かんだ。「って、まさか――」
「そうっさ。多分、その子はただの痣を旧支配者の痣と勘違いされたっさ」
エレベーターのボタンを押すと、すぐに扉は開いた。三人が中に入り、翁舞は数字が書かれたボタンを押した。そこには『4』と表示されていた。
「この街で旧支配者は恨まれてるっさ。信仰してる神に反抗した、敵対者だからね。その旧支配者に協力する人たち、契約者も同様に憎むべき敵っていう扱いになってしまうっさ。本人が望もうと望むまいと、ね」
エレベーターはゆっくりと動く。いつもより、遅いように感じられた。
「痣は契約の証。それはすぐに判別できる象徴っさ」
「でも、痣ははっきりとした形があるはずじゃ――」
「形は決まってるけど、痣という言葉だけで人々は振り回されてしまうっさ。どれだけ理解させようとしても、人は細かいところにまで気が回らないっさ。たった一言、痣って言葉で振り回されるっさ」
ガコン、と音が鳴る。いつもより荒っぽい止まり方だ。扉が開き、三人は外へと出る。
「子どももそうだけど、時には大人も痣だけで反応してしまうっさ。特に熱心なオラクル教徒は、痣という言葉だけでも軽蔑の想いを抱くっさ。オラクルはどうにかしようと頑張ってるけど、中々うまく行かないっさね」
ははっと翁舞は笑い声を洩らしたが、あまりにも空虚な声に聞こえた。
「ま、だいたいはそういうわけっさ」
「……そうですか」
何と答えれば良いのか霧夜は分からず、ただそう返答したに過ぎなかった。
どこにでも偏見や差別というものは存在する。そして、それは根絶しようとすればするほど広がり、放っておけば増長していく。それは、どれだけ防ごうとしても、理解させようとしても、なくなることはないということだ。残酷だが、それは幻想ではなく、間違いのない現実だ。
「ほら、暗い話は終わりっさ! これから翁舞すき焼きスペシャルを楽しみにしててっさ!」
いつもの調子に戻った翁舞は、軽い足取りで廊下を歩く。長い深緑の髪がふわふわと上下に揺れている様は可愛らしい。しかし、霧夜にはそれがやせ我慢をしているように見えたのは、気のせいなのだろうか?
とん、と自分の背中に誰かが触れた。
「……紅緋姫?」
それは後ろから着いてきた紅緋姫以外にあり得ない。どうしたことかと、首を捻って後ろを除くと、彼女は自分の背中に片手を置いていた。
「どうした?」
「……何でもない。早く」
「あ、ああ」
促されて、霧夜は歩き出した。
エレベーターから大して離れていないところある翁舞の部屋の扉には木製の表札がかけられており、黒いフォントで『翁舞咲』と書かれている。
「ささ、上がってっさ」
お邪魔します、と言ってから霧夜と紅緋姫は上がり、廊下を渡ってリビングへと着くと、霧夜は改めて、この部屋を見回した。
翁舞の部屋は霧夜の部屋と構造は全く一緒だったが、やはり個人の特性が強く現れている。部屋の中央に置かれた机はガラスのテーブルではなく、炬燵になっている。本棚は二つあり、どちらも黄緑色で、側面には花柄の模様がついている。カーテンは丸模様のついた青色だ。地面にはウサギや熊の可愛らしくデフォルメされた人形が転がっている。物が多い割には片付いている、といった印象を霧夜は受けた。
炬燵の上には、既にすき鍋が置かれており、材料も投入されていた。もう準備をし終わっているのか、ぐつぐつと音をたてて、後はもう食べるだけ、といった状態だ。
「あ、お皿がないっさね。ちょっと待っててっさ」
そう言って、翁舞は台所へと姿を消す。その後、「座っててっさー」という声が聞こえたので、二人はそれぞれ炬燵の前に腰を下ろした。机の上に食器はなかったが、箸は既に置かれており、さっそく紅緋姫が箸を握っていた。待ちきれないのだろうか。
「紅緋姫、箸の持ち方が違うぞ」
「?」
紅緋姫の持ち方は二本の箸を握って食べる、いわゆる握り箸という持ち方になっていた。指摘された彼女は自分の手と霧夜の手を交互に見ると、さっそく直し始めが、中々うまく行かないようだ。
「ペンを持つようにして持ってみろよ」
「……こう?」
さっそく持ち方を直し、紅緋姫はその手を霧夜に見せてきた。アドバイスが功を奏したのか、見せてきた持ち方はしっかりとしている。
「ああ。大丈夫だ」
箸の持ち方講座が終わると、翁舞が食器を持って現れた。彼女がすとんと腰を下ろしたところで、霧夜はふと疑問が浮かび、口に出した。
「そういえば、翁舞さん。あのー、下に敷かないんですか?」
「敷く? 何をっさ?」
「えーと、なんて言うんですか。温める奴ですよ」
霧夜が言っているのは、卓上型の電磁調理器のことだ。今、すき焼きは鍋敷きの上に置かれているだけで、いつかは冷めてしまうだろう。いつも霧夜はこういう鍋の時は敷くものだということを覚えていた。
最初こそ、翁舞は霧夜の言わんとしていることが分からず、首を傾げているだけだったが、何度か説明を繰り返し、詳細な部分を話すと、理解したようだ。
「うーん、私は持ってないっさ」
鍋は持っているのに、それは持っていないとは珍しいな、と霧夜は思いつつも「そうですか」の一言で済ませた。
「ささ、それよりもすき焼きの方は出来上がってるっさ! きっくん、ちょっと味見してっさ」
と皿を渡す翁舞からお達しがあったので、早速霧夜は鍋の中に箸を伸ばし、肉を一つ皿の中に引き入れ、一口で口に入れた。
「どうっさ、翁舞スペシャル味は?」
「ええ、おいしいですよ」
どこが翁舞スペシャルなのか、イマイチ良く分からない霧夜だったが、おいしいことに変わりないのでっ、そのままの感想を伝える。これに気を良くしたのか、翁舞の表情はパッと恒星の如く明るく輝くと、彼女も鍋の中の食材に箸をつける。
霧夜が野菜や肉を二、三口ほど口に入れた時、紅緋姫の皿の中が綺麗になっていることに彼は気がついた。彼女は箸を持ち、構えてはいるが、動かそうとはしていない。
「桜っ子、どうかしたっさ?」
真向かいの翁舞が声をかけ、ようやく紅緋姫はその手を鍋の中へと伸ばす。すき焼きの主役となる肉に箸をつけるが、その動きがぎこちない。プルプルと腕が震え、箸の動きはぎこちない。やはりと言うべきか、なかなか肉を掴める気配はない。
しばらく挑戦し続けている、ようやく肉を一つ掴むことに成功した! が、その箸と腕は相変わらずプルプルと震えている。彼女は、まるで高級なダイヤモンドを運ぶような慎重さで肉を皿へと運んで行く。
いつの間にか、霧夜と翁舞は固唾を呑んで見守っていた。
ようやく鍋の範囲外から箸が抜けようとした時、するりと箸の間を肉が滑り落ち、ポチャンと鍋の中へと落下した。
何とも言えない空気が、この食卓に訪れた。
「……ほれ」
霧夜は鍋の中の肉を掴むと、紅緋姫の皿の中へと放り込んだ。
「箸、使い慣れてないんだろ? 慣れるまで無理するなよ」
「きっくんは優しいっさねー」
言葉を投げる翁舞の頬は緩みきっており、何か、こう、妙な眼差しを霧夜へと向けていた。そのせいか、霧夜は急に恥ずかしくなった。
その姿をぼうっと見ていた紅緋姫だったが、弾かれたように身を奮わせると、ぎこちない動きで箸を動かし、皿の中の肉を掴む。口に持っていくまでの道のりも不安定なもので、何度か落としかけたが、何とか口まで運んで行った。
咀嚼して、呑み込む。
「どうっさ?」
「おいしい」
感想は紅緋姫らしい、簡潔なものだった。
◆
紅緋姫は皿の中に入れられていく肉、野菜、豆腐、しらたきなどの食べ物を次々と口の中へと放り込んでいく。紅緋姫も自力で取ろうとするが、中々うまく行かず、結局霧夜が運んできてくれたものを食べることしかできなかった。
しかし、そのどれもが美味だった。昨日のクリームシチューもだが、彼女の作る料理はどれも絶品だ。これほど美味しい物を食べたのは、何年ぶりだろうか?
紅緋姫は黙々と食べながら、霧夜と翁舞の二人をじっと見ていた。さっきから翁舞は捲し立てるように話題を振り撒き、霧夜が相槌を打つ、というスタンスを崩さず、鍋の中の具に手をつけようともしていない。一応、箸だけは持っているが。
何故、二人とも食べないのだろうか?
聞いてみたい気もしたが、翁舞が嬉々として喋っているところを邪魔したくはなかったので、自分で考えることにした。
話す翁舞と、聞く霧夜。
二人を交互に見ていると、ふと紅緋姫はこの姿がとても懐かしいものであるように感じ、疑問に思って記憶を掘り返して、合点がいった。何せ、その『懐かしいもの』とはずっと昔の話なのだ。自分が『こうなる前』にあった、平凡な日常の一ページ。
家族の団欒。
紅緋姫と両親の三人でテーブルを囲んだ食事の風景は、目の前で広がる光景と全く同じものだった。そう考えた途端に、紅緋姫は嬉しい気持ちで一杯になった。失って久しいものが、自分の下に戻って来た! これほど嬉しい物はない。例えそれが、一時の儚い幻であろうとしても、彼女は嬉しかった。
「あ」
突然、会話を中断させて、すっとんきょんな翁舞の声が小さな部屋に響く。その手には空っぽになったビンがあった。
「タレが切れちゃったさ。悪いけど、きっくん、買ってきてくれる?」
「俺ですか」
返事をした霧夜の声は既に諦めているように聞こえた。
「ババ抜き一位から二位への指示っさ」
深い溜息を吐くと、霧夜はゆっくりと立ちあがった。
「わたしも――」
「いや、紅緋姫は待ってろ。俺だけで十分だ」
と言って、手で静止の合図を示す。
「それじゃ、ゆっくりと行きますか」
「お願いっさ」
上着を羽織ると、霧夜は出て行った。ドアがパタンと音を立てて閉まり、完全に霧夜の姿が見えなくると、素早く翁舞が立ち上がり、本棚へと向かった。見計らったような行動に紅緋姫は戸惑い、彼女の動きをじっと見る。翁舞は本棚から分厚いファイルのようなものを取り出すと、紅緋姫の傍に座った。
手に持っているのはアルバムだ。綺麗な淡い緑の表紙には英語で何かが書かれているのだが、フォントが金色だったせいで、光に反射して良く見えない。
「桜っ子に見せたいものがあるっさ」
そう言うと、翁舞はアルバムを開ける。さっそく写真があった。可愛らしい姿の翁舞と、見知らぬ女性が何人か映っている。今よりも幼く見えるのは、もう何年も前の写真だからだろうと予想した。
「きっくんがいると見れないからね」
彼女は気恥かしそうに言った。
ページは次々と捲られていく。やはり恥ずかしいのか、一ページずつ丁寧にめくりながらも、そのスピードは早い。その中でも紅緋姫には充分に写真が見えていた。かわいらしい姿で写っているものもあれば、周囲の人と同じ服を着ているものもある。その写真では茶色の地面に、白い天井、同じ机と椅子が何個も並んだ奇妙な部屋で映っているものが多い。
似たような写真が何枚も続いていくが、その中でもやはり変化はあった。どんどんと翁舞や周囲に映る人物が成長している。それはページを捲るごとに年が進んでいるのだろうから当たり前なのだろう。
もう一つ変化がある。写真は多かれ少なかれ一定の人物が写っていたが、ある時を境に一人増えている。いつも写真から顔を背けて、顔は分からない。しかし、妙なことに紅緋姫は見覚えがあるような気がしてならなかった。
ページは後半へと移り、捲る速度は早くなっていく。さすがに紅緋姫も全ての写真を確認できなくなった。ところどころ見えるものは味気ない部屋ではなく、色取り取りな外の風景が映っているもの増えて来た。
「ああ、最後にあったっさ」
彼女の手が止まる。残りの1ページ、このアルバムの最後のページだ。そこには横に引き延ばされた写真が貼ってあった。
集合写真というのだろう。同じような格好をした男女が三列に並び、台か何かが乗っているのだろう、後ろの列もよく見える。前列の両端と中央には大多数とは違った服を着た大人がいる。それが上下二枚ある。
「入学式の時と卒業式の時っさ」
「入学式、卒業式」
「そっさ。学校のね」
体験したことはないが聞いたことはある。確か学校という施設の儀式の一つだ。
「これを見て」
翁舞が写真を指差す。上の写真、中央一列の右から四番目にいる男性だ。その人物を見た途端、紅緋姫は自身の身体がビクリと震えたことに気付いた。
その人物の眼光のせいだ。その目は鋭く細い。それでいて冷たい眼差しだ。こんな冷たい眼差しを紅緋姫はあまり見たことがない。
「見たことないかな?」
紅緋姫は見覚えがないと即座に答えようとしたが、妙に引っかかりを覚えた。どこかで見たことがあるような気がしてならない。
「……誰?」
しばらく考えたが、結局結論は出なかった。
横で翁舞はクスクスと笑った。
「気づかないっさね。これはきっくんっさ」
驚き、紅緋姫はよくその人物を見た。なるほど、確かに言われれば納得できる。しかし、今受ける印象とは随分とかけ離れている。細かいところから見ればメガネの有無、癖っ毛だらけのボサボサの髪に差異が見られるが、何年も前の写真ならば変わっていたとしても許容範囲内だろう。しかし、何より違うのはその表情だ。今の霧夜の表情は温かみがあるが、写真の人物はまるで仮面をつけているように冷たい。
「この頃のきっくんはすごく荒れてたっさ。人に対しては完全な拒絶、授業には出席しない、毎日服は切り傷だらけ、喧嘩をしない日はなかったさ。しかも大人顔負けの強さでね、誰もまるで歯が立たなかったさ」
再び驚きで紅緋姫は翁舞を見た。信じられないというのが正直の感想だ。今の姿では全く想像がつかない。
「でも、根っこのところは全然今と変わってないさ」
そう言って、翁舞はアルバムを閉じた。
「私はその頃のきっくんに助けられたっさ。今から二年前っさ。黒くて薄暗い路地で三人組の黒服の男に追い詰められて、私は危ういところだったっさ。もうダメ、と思った時、そこにきっくんが現れたっさ。
当時のきっくんは、学校どころか街では結構な有名人で、同じ学校の私も彼の実力は知ってたっさ。けど、大柄な男相手、しかも三人相手には勝てないと思ったっさ。
戦いはすぐに終わったっさ。気が付いたら、三人の男は地面に横たわって、きっくんが立っていたっさ。それから何も言わないでそこから離れて行ったっさ。それまで私はきっくんは危ない人で、出来れば避けておきたい人だと思ってたけど――ちょっと違うのかなって思ったっさ。それから、興味が湧いて調べ始めたっさ。
調べたら確かにきっくんは、無愛想で喧嘩ばっかりしてたけど――正義感が強くて困ってる人がいたら放っておけない人だって分かったっさ」
翁舞はそう言い終わると、その目をアルバムから離して、遠くを見つめた。当時のことを思い出して懐かしんでいるだろうと、紅緋姫は思った。しばらく翁舞はそうしていると、途端に表情が沈み始めた。
「きっくんは孤独だったっさ。自分からそれを好んだっさ。それは自分の身を少しずつ削っていって、どんどんボロボロになっていったっさ。私はそれを助けたかったっさ。それで、多分――私はきっくんを助けて上げられたと思うっさ」
そう言って、彼女は顔を綻ばす。
しかし、紅緋姫に一つの疑問が残る。
「どうして、突然?」
態々、話題の中心である霧夜を追い出し、自分に彼の昔話をした理由。
何故、今こんな話を?
翁舞は紅緋姫を見た。真剣な眼差しで、その顔に笑みを浮かべて。
「きっくんは、あなたを見て助けたいって思ってるっさ」
「わたしは別に――」
否定の言葉を口にしようとして、翁舞は左右に首を振って否定した。
「ババ抜きした時、ハートの7を取られた時のことを覚えてるっさ? きっくんは一度桜っ子のジョーカーに手をかけたけど、すぐに取り換えてハートの7を取ったっさ。どうして変えたか分かるっかな?」
「……気分?」紅緋姫は分からず、適当な答えを口にした。
翁舞は首を左右に振った。
「違うっさ。きっくんは桜っ子を見て変えたっさ」
その言葉に紅緋姫は驚いた。あの時は無表情を貫き通し、完全にポーカーフェイスだったはずだ、と紅緋姫は自負していた。そのことを伝えると翁舞は、
「確かに桜っ子は無表情だったっさ。私も分からなかったっさね。でも、きっくんは読み取るっさ。どんな人でも気づかない、微細な反応を。だから、桜っ子が今どんな気持ちでいるか、きっくんは分かってるっさ」
そう言うと、翁舞は誇らしげに笑みを浮かべた。
「目の前で苦しんでいる人を見捨てることなんて、きっくんにはできないからね」
紅緋姫は今日の公園での出来事が頭に浮かんだ。見知らずの、助けが必要だった人物を何の躊躇も無しに、その手で救った。
「だから、桜っ子は頼って良いと思うっさ。もし、もし、頼れなくてもその気持ちだけは無下にしちゃいけないっさ」
◆
外へ出て霧夜が驚いたのは、買い物で出かけた時よりも、遥かに寒くなっていることだった。手の指先はすっかりと冷たくなり、吐く息は白い。余計に冷たくなった風が、顔に貫くように吹いてくる。
少し歩き、いつか雨師と猫探しの際に訪れた公園へと訪れた。昨日の雨のせいだろうか、桜の花びらは地面へと落ち、木を見るとほとんど散ってしまっている。周囲を見回しても、今日も誰もいない。さすがにこの寒さには、誰もが堪えるのだろう。道中、すれ違う人物は片手で数えられるほどしかいなかった。
霧夜はベンチへと腰かけた。幸いなことに濡れていなかったが、ひんやりとした感触が伝わり、飛び上がりそうになる。じきになれるだろうと我慢しておいた。
公園の時計を見ると、時間は三時を少し過ぎた辺りだった。
(さて、どれくらい待つか)
翁舞はゆっくりと言っていた。一〇分から二〇分で充分だろうか。
(俺のいない場で話たいこと、か)
女性同士の話し合いに文句を言うつもりはないが、仲間外れにされた気がして少々へこむ。
(何の話なんだろうな)
考えてみたが、女性同士の話に男が口を挟むのは野暮だろう。気にしないでおいた。
白い息が口から零れる。空は相変わらず曇っている。思えば、記憶を失ってから、快晴の青空というものあまり見たことがない。いずれも雲が邪魔している。まるで、青空を見せまいとヘソを曲げているように見える。
ぼうっと、空を見上げた後、何気なしに入口へと目を向ける。
いつの間にか見慣れた男が立っていた。以前ここに来た時とは違い、制服ではない。膝まで届く、黒いコートを羽織っている。
「どうも」
もう見飽きた笑みで、雨師龍望が声をかけてきた。
◆
紅緋姫は廊下の先のドアを見た。蒼炎霧夜はまだ帰って来ていない。彼女の記憶では、タレが売ってそうな店は、この近くにはない。少し歩いた先の商店街ぐらいだろう。一〇分程度では戻って来ない。
(……もしかして)
あれは翁舞の嘘だったのだろうか? 自分に昔の蒼炎霧夜のことを話すための口実に過ぎなかった。彼はそれに気付いていたのだろう。だから、ここに居ろなどと言った。
紅緋姫は台所にいる翁舞に目を向けた。新たな具材を入れ、冷えた中身を温め直している。その様子は今か今かと食べられるのを待っているようだ。
羨ましい。
単純にそう思った。互いに通じ合っている関係というのは、中々構築できるものではない。
ふと昼間に出かけてた時の彼の姿が浮かぶ。あの時の彼は自分と居た時と比べて、変わっていただろうか? 自分と居た時より、良く笑っていたように思う。それにリラックスをしていたようにも見えた。
(羨ましい)
再度、そう強く思う。そして、自分に問いかける。自分にもそんな関係が築けるだろうか?
無駄な問いかけだと自分で思って、気分が暗くなる。あり得ない。自分にそんな関係が築けることなど永遠に――
ポケットの中のものから、音が鳴った。音のリズムを崩した奇妙な音楽。人を不安定にさせる、奇妙な旋律だ。これは昨日、彼女がうっかりと公園に財布と共に落としてしまった電話からだ。
「少し良い?」
「どうぞっさ」
紅緋姫は立ち上がり、廊下へと向かう。照明はついておらず、暗い。玄関からの隙間風だろうか、やけにこの場は冷たい。ポケットの電話はずっと音を鳴らし続けている。そっと取り出し、呼び出しボタンを押した。
耳に当てる。
『時間だ』
たった一言、紅緋姫はそれで全てを理解した。
◆
「調子は良さそうだな」
「おかげさまで」
適当な挨拶を交わすと雨師は遠慮なく霧夜の隣に腰を掛けた。
「さて、昨日の件ですが、結局異物は確認できませんでした」
霧夜は唐突な話題の振り方に少々たじろいだ。
「元々居なかったかもしれないだろ?」
「いえ、あり得ませんね。としたら、残る可能性はいくつかありますが、僕個人の意見としては、自発的に消えたという件は、ないと考えています。ということは、必然的に一つしか残りません。しかし、そうなると疑問が浮かびます。誰が異物を倒したか、です」
雨師は霧夜を見た。
「あなたではありませんね?」
「いや、俺だ。お前がいなくなって、財布を探してたら、偶然な」
自分でも驚くほど流暢に口から言葉が出る。出まかせだが、自然な言い方だと自分でも思った。
「嘘ですね。雨の中で、あなたは能力を発揮できませんから」
しまった、と霧夜は自身のミスを嘆いた。霧夜の符は雨師たちが製造しているのだから、その弱点を知り得ているはずだ。持ち出してはいけない話題だった。
「誰かいませんでしたか? あの近辺に居たとするならば、あなたが会っている確立は高い」
「……誰にも、会ってないな」
即答ではなく、少し考えるような素振りを見せた答えた。その答えに雨師が納得していないのは、傍から見ても明らかだ。雨師は小さく息を吐くと、徐にポケットから茶封筒を取り出し、その中身を出した。長方形の白い紙に見える。それが一枚だ。
「何だ、それ」
「この都市の出入り口には、防犯用のカメラがつけられています。それが撮影したものです。本来は外部へ持ち出した厳禁ですが、今回は特別に」
無言で、雨師は写真を差し出した。受け取ろうとした時、ひょいとその手を引っ込めた。この行動に霧夜は眉を潜める。
「失礼、これを見る前に一つ前提があります」
「何だ?」
「この写真が撮影された時刻、この都市へと“正式”に入ったものはいません。つまり、その写真の人物は不法侵入ということです」
「人物? 不法侵入? 誰か映っているのか?」
「見れば、分かると思います」
再び雨師は写真を差し出す。
いったい、この写真が何だというのだろうか。疑問に思いつつも、霧夜は受け取り、裏返して写真を見た。
「これは……」
写真はトンネルの内部に見える。やけに薄暗く、全体像ははっきりとしない。しかし、ただ一つ、はっきりと霧夜が確認できるものがある。もう見慣れた姿だ。特徴的な緋色の髪に、桜色のコート。
紅緋姫桜。
紛れもなく、その姿は紅緋姫桜だった。
この写真を見て、霧夜は「ああ、不法侵入なのか」ぐらいしか感想が浮かばなかった。彼女がここの住人でないことは、これまでの言動から何となく分かっていたからだ。今更、衝撃でも何でもない。しかし、一つ理解できないことがある。
(どうして、雨師はこの写真を見せた?)
何の意図があって? 何か自分から紅緋姫の情報を引き出そうとしているのだろうか? ならば、ここは慎重に言葉を選ばなければならない。
「それで、こいつに会ったかどうかってことか? 別にこいつに見覚えはないぞ?」
雨師はその言葉を無視した。
「その人物が侵入したのは二週間前、その時期からこの都市に妙なことが起きていることはご存じの通りです。異物の大量発生、警備ゴーレムの不具合、それに『人払い』への侵入を果たした幻想使い――」
成程、そういうわけか。霧夜は合点がいった。
雨師は疑っている。この写真に映る人物が、今回の騒動を引き起こしていると。
「これは偶然でしょうか?」
偶然。そう言いきるのは容易い。しかし、それはあまりにも――。
「関係があるっていうのか?」
「そう考えるのが妥当でしょう」
雨師の言葉に霧夜は遇の字も出ない。確かに偶然と言うには、あまりに恐ろしいほど時期が重なっている。
霧夜はもう一度写真を見た。ここに写っているのは確かに紅緋姫だ。それは間違いない。表情は見えないが、類似点が多過ぎる。
(紅緋姫が関わってる)
そう考えると合点がいかなくもない。例えば、彼女が他の人に自分のことを話さないでと、念押ししたこと。もし、あれが今回の騒動に自分が繋がっていることが、ばれてしまうことを避けての言動だとしたら。そう考えれば――。
「正直」
雨師の言葉に、霧夜の思考は打ち止められた。
「僕は今回の事件に関して、何か嫌な予感がしてなりません。まるで――じわじわと追い詰められているような、そんな印象を受けます」と言って、雨師は次のように言った。「確か、あなたには最近知り合った幻想使いがいたはずです。今度こそ、紹介してもらいましょうか」
◆
「服、ある?」
用事が済み、廊下から出て来た紅緋姫はたった一言、翁舞にそう告げた。ちょうど翁舞は少なくなった具を足し入れ、温め直しに台所へと戻っていた。
「服って、桜っ子の着てた服っさ?」
僅かに髪が前へと垂れた。良く見なければ分からない程の頷き方だ。翁舞は特にその理由を聞こうとはしなかった。黙って立ち上がると、部屋の隅に畳まれていた服を持って、紅緋姫に差し出す。
服を受け取った紅緋姫は、その場で服を脱ぐと、受け取った服に着替え始めた。
「無理、させちゃったっさ?」
「そんなことはない。嬉しかった。違う服が着れて」
言い回しは妙だったが、つまるところ可愛らしい服が着られて嬉しかった、ということだろうと翁舞は解釈した。何せ、元々着ていた服はこの年頃の女性にしては、あまりにも簡素で地味だった。
紅緋姫は着ていた服を畳むと、翁舞へと差し出した。丁寧な畳み方、というにはあまりにかけ離れていたが、特に翁舞は文句をつけなかった。何せ、服の畳み方が完全に間違っている。知らない証拠だ。
「少し、出かけてくる」
「わかったっさ。けど、ちゃんと帰って来てっさ」
紅緋姫は特に反応を示さず、身を翻して再び廊下へと消える。間もなく、ドアの開閉音が聞こえた。
部屋には、翁舞一人が残された。
彼女は鍋の中を見る。まだ、具材は残っている。さっき入れたばかりなのだから、当たり前だ。残りは朝ご飯にでも利用しようと翁舞は考え、早速冷蔵庫に保存する作業に取り掛かった。
火を消し、鍋を持ち上げる。少し、重い。それもそうだろう。元々鍋は重く、三人共それなりに食べるせいもあってか、少し入れ過ぎてしまったからだ。
もう、この重さを感じることはなくなってしまうのだろうか。そう思うのは、これからのことを予感したからかもしれない。
「始まるっさね」
◆
「関わりがあるっていうのか?」
再度、霧夜が問いかける。
「可能性です。ここの住人は全て顔写真が登録されています。まずは、その照合でしょう。それから事情聴取といったところでしょうか。判断はそれからです」
その『判断』がどういったものなのか。元々ここの住人ではない紅緋姫が、どういった運命をだとるのか、想像するのは容易い。
「恩と約束があると言いましたね」
雨師は唐突に話題を転換させた。
「正直、僕はあなたのことがよく分かりません。ですが、この二週間で色々とお付き合いさせていただいて、僕なりの人物像が見えてきました。あなたは一見面倒くさがり屋に見えて、真面目で正義感の強い人です。そう結論づけると、あなたが、どうして多くの人々を危険に晒すかもしれない人物を匿うのか、理解できません」
それが短い期間ながら、雨師から見た霧夜像だった。確かに蒼炎霧夜というのは傍目から見て、そういう人物に見えるかもしれない。いつも面倒事には溜息を吐き、やる気のなさそうな雰囲気を出している。だが、一方で街の平和を脅かす異物に対しては愚痴を呟きながらも、真面目に掃討へと参加している。正義感の表れと考えても良いだろう。だからこそ、雨師が疑問に思うのも当然と言える。
「お前は間違ってるよ、雨師」
その『思い込み』に対して、霧夜は反論を口にする。
「記憶を失って、自分の思った通りに俺は行動してきて分かったが、俺は本当に面倒くさがり屋で翁舞さんや、お前がいないと、どうしようもない奴だよ。正義感が強いわけでもない、と思う。ただ俺は――」
言葉を区切る。次に何を言おうとしようか、迷っているようだ。
「俺の知り合った幻想使いはすごく寂しそうなんだよ。確かに俺はそいつに助けられた、約束もある。けど、そんなことより俺は――寂しそうなあいつを救いたいだけなんだ」
紛うこと無き、霧夜の本心が雨師に向けて伝えられる。
公園で初めて会ってから、紅緋姫とは大きく関わり続けてきた。いつも淡白な瞳と、微動だにしない無表情を貫いている少女は、時にその感情を垣間見せることが合ったが、まるで散ってしまう花弁のようにすぐに消えてしまう。
それに気がついたのは、雨が降る中、彼女が公園に一人いた時だろう。今まで彫像と並べても大して差がなかった彼女が、初めて感情を表に出した。その時に霧夜は彼女が桜のように儚く散ってしまう、寂しい存在だと思ったのだ。
だからこそ、放っておけなくなった。何が何でも、あの寂しさを拭い去ろうと、心の底から思ったのだ。
「なあ、雨師。ここは俺に任せてくれないか?」
「良い、と答えると?」
「思ってない。だから、これはお願いだ」
「もし、僕が拒絶したらどうするつもりで?」
「もちろん」そう言って、霧夜は立ち上がり、「お前がそれなりにするなら、俺もそれなりにやる」
それがどういった趣旨の発言なのか、雨師は理解している。それが霧夜にとって、どれ程不利な発言なのかも理解している。彼は今、自分の立場を捨てようとしている。下手をすれば、牢屋に入れられるだけでは済まないかもしれない。
雨師はなるべくなら、霧夜を独房の中に放り込む真似などしたくはない。
二週間という期間は長いようで短い。それでも、雨師は霧夜に対してある種の情を抱いている。それが友情に類するものなのかは分からない。だが、失ってしまうと哀しいと感じるほどの存在であることは確かだ。今、霧夜は自分から自分をこの都市から失わせようとしている。
避けたい。
だが、雨師には立場がある。自分の信念の下に選んだ立場が。
「無理です。あなたに守らなければならないものがあるように、僕にも守らなければならないものがあります」
「そうか、じゃあ仕方ないな」
二人は揃っベンチから立ち上がり、一歩引く。二人は正面からお互いの顔を見た。どちらの目も強い光を放っているが、少しばかり寂しさが宿っている。どらちも想いは一緒だが、本人たちが気づいているのかどうか、分からない。
「交渉は」
「決裂ですね」
一瞬の静寂が公園を包み終え、戦いが始まる。
◆
「本来、幻想使い同士においての戦いは『人払い』を使用して行うのですが……」と周囲を見渡し、「幸いなことに今日は平日です。ここで戦っても、気付かれないでしょう」
「今日は休日だろ?」
「この時期に休日がある学校などありませんよ」
(……どういうことだ?)
翁舞が言っていたことと違う。彼女が勘違いしていたのだろうか?
(まあ、いいか。それよりも)
集中するべきことが眼前にある。考えを振り払い、雨師を見る。
タン、と雨師が地面を足で叩いた。すると、雨師の足元がパックリと割れた。中は漆黒の裂け目で、何もない。しかし、すぐにぞろりと何かが競り上がって来た。
(……剣?)
飾り気のない、地味な片刃の剣だ。しかし、そのサイズは規格外だ。雨師が完全に割れ目から出て来た大剣の柄を握ると、それがいかに規格外かが良く分かる。剣の全長は長身の雨師よりも大きい。幅も雨師の姿をすっぽり覆ってしまうほどに広い。
それを雨師は軽々と振り回して、肩に背負った。規格外は剣だけではないようだ。
「どういう身体してるんだよ、お前」
「おや、知りませんでしたか? 幻想使いは一般の人よりも身体能力に大きな差があるんですよ」
「知ってるよ」
「これは失礼。因みにこの剣もただの剣ではありません。『幻兵装』、と呼ばれるものです」
「げんへいそう?」
「幻想使いが使用する特殊武器と言いましょうか。元々、これだけの重量を幻想使いと雖も、片手で持つことなど出来ません。幻兵装は、幻想力を込めることで特殊能力を発揮します。あなたの符もこの仕組みを応用して作られたものですよ」
ふと霧夜は公園で紅緋姫が使っていた、宙を飛んだ剣のことを思い出した。あれも、幻兵装と呼ばれるものだったのだろうか?
「僕の場合、この幻兵装の能力の一つが、重量の軽減といったところでしょうか」
「他にもあるってことか?」
「まあ、あることにはありますが、あまり使う機会はありませんね。今回もそういった機会です」
その言葉は真実だろうと霧夜は受け取った。何だかんだ言って、自分と接してきた雨師は誠実だった。相手を騙す、卑怯な戦法を使うとは到底思えない。
「さて、無駄話はこれでお終いとしましょう」
突然だった。雨師の言葉が終わると同時に、彼は霧夜へと駆けだした。
「……!」
霧夜はバックステップをする。次の瞬間、霧夜が居た場所に大剣が振り下ろされ、地面が裂ける。さらに、雨師は剣を地面に立て、その勢いで宙へと舞い上がる。
踵落としだ。バックステップしたばかりの霧夜はその場から動けず、両腕を上げて受け止める。
重い。骨が軋む音がした。
さらに雨師は宙へと舞い上がる。霧夜の真上へと飛翔した雨師は、その場で一回転すると――その手には大剣が握られている――剣を霧夜へと振り下ろす。
「おわっ!」
右に僅かに身体を動かす。大剣は霧夜の身体をスレスレで地面へと突き刺さった。
それを確認してから、霧夜は再びバックステップをする。すると、自分の身体を切り裂こうと剣が横薙ぎに払われていた。思いっきり、身体を反らせる。剣の切っ先が僅かに服に触れたが、切り裂かれはしなかった。
(くっそ、普通に強いじゃねぇか)
何というまでに規格外なのだろうか。大剣を軽々と振り回すさまや、その身体能力はまるで曲芸を見ている気分になる。それでいて、雨師は対人戦に慣れている。
「逃げるだけでは、終わりませんよ!」
分かってる、そう心で毒づきながら、霧夜はポケットから符を取り出し、五枚投げつける。その内の三枚は雨師へと直進していく。が、その単調な攻撃は簡単に剣の平面で防御された。
しかし、狙いはそっちではない。投げた五枚の内の二枚は両脇から、雨師を狙っている。
雨師はどう出るだろうか? 符には追尾機能がある。自ら逃げ場をなくす宙へ舞い上がることはないだろう。ということは――。
突進してきた。切っ先を向け、それも恐ろしいまでの早さでだ。符の速度が追い付けない。対象を一瞬見失った符は雨師を後ろから追いかけているが、余りに速度が遅い。
剣が、迫る。
(それを見切る!)
ギリギリまで剣が自分の身体に迫る。それを僅かに身体をずらして避ける。雨師との幅が少なくなり、その空いた懐に拳を叩きこむ。完全なカウンター、それが霧夜の狙いだ。
ほとんどギリギリであったが避けれた。剣が自分の服に擦れる感触が伝わる。
入った、霧夜の拳は雨師の懐へと向かう。
しかし、拳は空を切った。
(!?)
雨師の身体がふわりと視界から消えた。いや、宙へと浮き上がっていた。しかし、どうやって?
(しまった!)
その意図を察し、霧夜は前へと転がりこむ。後ろから風を切る音がした。急いで立ち上がり、振り返る。
雨師が地面に突き立った剣の横に、着地した。砂埃が、僅かに舞い上がった。雨師は霧夜が避けると、剣を地面へと突き立て、先ほどと同じように宙へと舞い上がり、剣を中心に一回転して霧夜の後ろから蹴りを入れようとしたのだ。
「見くびっていたようです」
ようやく追いついた符を掴み、真っ二つに切り裂いた雨師は感嘆したように言った。あれだけ激しい動きをしたというのに、息を吐く様子が見られない。
「あなたがそこまで、僕の攻撃に反応するとは。戦いが長引きそうですね」
「誉められてるのか、残念がってるか、どっちなんだ」
「両方、ですよ。この手であなたを倒すのが、惜しいくらいです」
「倒される気はさらさらないけどな」
雨師の言葉に返しつつ、次の手を考える。今の戦闘を見るに、雨師の体力はかなりのものだろう。お世辞にも、霧夜は雨師並みに体力があるとは言えない。長期戦になれば、こちらが不利になる。
(一撃。とりあえず、一撃を入れないとな)
腹か、顔。現実的には懐に拳を叩きこむことだろう。その隙を作らなければならない。
雨師が剣を地面から引き抜く。もうすぐ次の行動を開始するだろう。時間はない。
(よし)
脳内で作戦を整え、霧夜も行動に移す。
ポケットから符を取りだし、投げつける。今度は七枚。横に一列に並んで、雨師へと向かっていく。それと同時に霧夜は駆け出す。その様子に雨師は訝しげに眉をひそめたが、目の前の障害を先に片づけることを選んだようだ。
横に剣を薙ぐ。たったそれだけの動作で前方から衝撃が来た。
「こいつは……!」
幻想力を行使した技、といったところだろうか。生憎と原理は分からない。
幸いなことに幻想力であるなら対処はできる。拳を握りしめ、符に込められた力が解放される。五つを解放すると、ピタリと衝撃が途切れた。
「なっ」
雨師の口から言葉が漏れる。予想外だったのだろう。
残りの符は二つ。両脇から雨師へと向かう。攻撃パターンはさっきと同じだ。雨師はどう出るだろうか?
その場を動かなかった。左から来る符を掴むと、そのまま握りつぶし、右から来た符はその剣で叩き落とした。
見事だと霧夜は思った。決して符の速度は遅くない。飛んでいる虫を手で掴むようなものだ。自分にはそんなことできないし、出来る奴を見たこともない。しかし、その優秀さが隙を生む。走り続けた霧夜は既に雨師の懐に飛び込んでいた。
「おらぁぁぁぁ!」
単純な右ストレートを叩き込む。固い皮膚に自分の拳がめり込む感触が伝わる。
「がっ……!」
ふらりと、雨師がよろめく。
決まった、と完全に霧夜は確信した。
その瞬間、自分の腹に衝撃が走った。肺が押しつぶされ、一瞬呼吸が完全に止まった。さらに浮遊感、自分の身体が浮かんでいると気づくのに、時間はかからなかった。しかし、いったい何が起こっている?
(っ! なるほどっ)
蹴り上げられたのだ。あの一撃を受けた状態から。
浮いた身体はすぐに地面へと叩きつけられた。すぐに後転をして立ち上がる。
大剣を構えた雨師が見えた。大きく振り上げ、自分へと振り下ろそうとしている。
(これはまずい!)
自分は今、態勢が整っていない。自分の拳や蹴りで反撃はできない。後ろへ下がっても、今の状態では無様に地面へと転がるだけだろう。
どうする?
決まっている。霧夜は拳を握った。
光が雨師の頭上から放たれる。刃の表面に付けられた符が放つ光だ。幻兵装は幻想力が宿ることでその特殊能力を発揮する。それが符によって奪われたらどうなるだろうか?
雨師の動きが一瞬止まる。元の重さが戻ったことで、戸惑いを覚えたのだろう。その隙を見逃す筈がない。
柄を握る雨師の手首を掴み、足払いをする。二人が一斉に地面へと転がる。剣が雨師の腕から零れ落ち、遠くへと転がった。
霧夜は雨師の両手首を掴み、マウントポジションを取ろうと抗うが、思いのほか雨師の力が強い。そのまま押し込もうとするが、無理だった。手は振り払われ、おまけに腹にひざ蹴りを入れられる。やはり、重い一撃だった。
その隙に雨師は立ち上がると、転がっていた剣を手に取った。
(っ、しまった!)
その姿を見届けるしかなかった霧夜も急いで立ち上がり、ポケットに手を突っ込み、符を取り出す。
二人は睨み合う。戦いは振り出しへと戻った。
どうするか、霧夜が次の行動を練っている時、
「悪いけど」
唐突にそれは訪れた。
「そっちの勝負は後回しにしてくれないか? こっちは急いでいるんでね」
聞き覚えのある声が聞こえる。それはどこからだろうか?
空からだ。霧夜は見上げる。灰色の空に漆黒の影が浮いている。声と同じく、見覚えのある姿だ。できることなら、もう二度と見たくはなかった姿だ。
ロバートと名乗った幻想使いがそこにいた。