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第四章-1

 背中に冷たい感触がじんわりと広がり、遠くからしっかりとした猫の鳴き声が聞こえ、蒼炎霧夜は意識を取り戻した。閉じた目の裏から少し離れたところに光があることに気づきつつ、霧夜は瞼を開く。光の正体はガラスの天井から降り注ぐ陽光だった。

 はっきりとしない意識の中、霧夜は緩慢な動作で起き上がる。

(ここは……)

 周囲を見渡すと、見慣れた学生寮の光景が広がっていた。そこには赤で彩られたものは何一つとしてなかった。そこで急に現実味が湧き、意識が明瞭になって来た。

「……生きてる?」

 言葉にして、次に手足が動くことを確認する。ちゃんと動いた。自分の頬に手を当てると触れる。試しに軽く頬を抓る。痛かった。

「生き、残ったのか」

 そう思うと、急に安堵感が全身を駆け廻り、息を一つ吐く。

「戻って来れたのか?」

 どうやら、周囲を見る限りそうらしかった。しかし、ガラスの天井から落下したにも関わらず、身体にこれと言った痛みはない。加えてロバートとの戦いで、身体のあちこちに傷が付けらたにも関わらず、その形跡は何一つとして見当たらない。夢かとさえ思ったが、ポケットに入っていたはずの大量の符は少なくなっている。戦いは現実に起こったのだ。

(どういうことだ?)

 本当にここは学生寮なのかと周囲を見渡し、何気なく隣に目を移すと、

「……紅緋姫?」

 桃色のコートに身を包んだ少女が横たわっていた。紅緋姫は二階の非常階段に居た。どうして学生寮一階の地面に横たわっている?

 何から何までおかしい。霧夜は疑問に思ったが、そんなことは些細な出来事でしかない。

(今は――)

 紅緋姫の方が先だ。顔色は傷を負った人間にしては良いが、血溜まりができるほどの出血を負ったことは事実だ。手首に触れると、肌は冷たいが血の通っている感触が伝わる。まだ、生きている。

 まずは救急車だ――霧夜はポケットから電話を取り出そうとした。

「きっくん?」

 聞き慣れた声に、霧夜は顔を上げた。

「翁舞さん?」

 見慣れた彼女は以前会った時と変わりない服を着て、手には買い物袋をぶら下げているところを見ると、買い物帰りのようだ。そう言えば、昼飯の約束があったな、と霧夜は思い出していた。

 霧夜の様子に気がついたのだろうか、翁舞の表情に困惑が浮かぶ。

「どうしたっさ? ……その子、何してるっさ?」

 その言葉に霧夜はハッと我に返り、

「救急車を!」

「救急車?」

 翁舞は鳩が豆鉄砲を食らったような表情して、しばらく固まっていた。その姿は言葉の意味を理解しかねているように見える。

「いや、だから、救急車を――」

「私の部屋に運ぶっさ! 救急車より速いっさ」

 何を言っているんだ、霧夜はそう言いたかった。救急車より速く病院へ行ける手段が、学生寮の一室にあるというのか? 翁舞が冗談を言っているようには見えない。霧夜は翁舞に従うことにした。

 意識のない人間を肩に乗せて運ぶのは二人掛かり、体重の軽い女性とはいえ、重かった。動くエレベーターがあったのが幸いだった。ここで霧夜は、漠然と今いる場所が女子寮だということに気がついた。

 翁舞の部屋は四階にあった。中はどうやら霧夜の部屋は大した差のない間取りだ。普段の霧夜ならもっと観察しているところだが、今はそれどころではない。血塗れの紅緋姫をリビングの床へと横たわらせて、霧夜は部屋を見回した。明らかに救急車を呼べるようなものはない。まさか、ここで治療を行うとでも言うのだろうか?

「台所に救急キットが置きっぱのはずっさ。持ってきてっさ!」

 どうやらそのようだ。翁舞は紅緋姫の服を脱がしにかかっている。

「翁舞さん、それよりも……」

「早くするっさ!」

 気迫に押され、霧夜は台所へと向かう。今は翁舞を信じる他ない。

 救急セットはすぐに見つかった。ダイニングの上に蓋が開けられたまま、白い箱が無造作に置かれている。箱の周囲には包帯や塗り薬と思われるものが数種類、散乱している。それらを無造作に詰め込んで、すぐに戻る。

「持ってきましたよ、おう、ぶさん?」

 様子がおかしい。翁舞の背中からは先ほどまでの緊迫感や焦燥感が一切ない。最悪の予想が霧夜の脳裏を過ぎる。

「翁舞さん?」

 もう一度呼びかけ、翁舞はぎこちなく振り返った。彼女の表情は驚きと疑問が浮かんでいるように見える。

「き、きっくん、見て」

 幾分か震えた声に釣られ、翁舞の指さす場所を覗き込む。そこには血に塗れた紅緋姫の姿がある、そう思っていた。

「……え?」

 しかし、予想とは大きく違っていた。確かに彼女は血塗れだった。その純白の肌も、彼女の服も。しかし、めくられた傷を負っているはずの部分。そうでなければならない部分。そこには傷跡などなく、場違いのように赤黒い血しかなかった。


 ◆


 霧夜は翁舞の部屋から出て、彼女の部屋の玄関口に寄りかかっていた。雨師から電話が掛かって来たためだ。どうやら何度も掛けていたようで、電話に出た途端、焦燥感に駆られた一声が出て、すぐに安堵の声へと変化した。

『雨師です。今どちらに? 大丈夫ですか? ……大丈夫のようですね。安心しました』

 といった具合である。霧夜は不謹慎だと思いつつも、今までにない雨師の面を見ることが出来て、少し愉快な気分になった。

 雨師は既に霧夜が『人払い』へと転移したことを知っているようで、その詳細を知りたがっていた。霧夜は掻い摘んで――紅緋姫の話題は避けて――話した。

『その話が本当でしたら、事態は非常に悪い方向へと進んでいるようです』

「どういうことだ?」

『『人払い』への転移は幻想使いならば誰でも出来ます。しかし、同意なしに他者と共に転移、しかも他の幻想使いに一切気付かれないまま……。お恥ずかしい話ですが、あなたが転移したことに気がついたのも、先ほどのことなんです』

「いつかの異物発生の時も、一方的だったぞ?」

『あれは極めて稀なケースです。膨大な力が空間に掛かり、こちらと『人払い』の境界が曖昧になっていましたから。誰かが『人払い』をすれば、周囲の人々も巻き込まれます。加えてもう一つ、実は何人かの幻想使いから短時間、『人払い』ができないといった報告を先ほどから受けています。異常な事態です』

「『人払い』ができないことがそんなに?」

『ええ。異物の件といい、今回の件といい、ここ数年間なかった異常なことばかりです。何か大きな力が働いていると考えた方が良さそうですね』

「大きな、力?」

『そうですね。例えば』雨師は躊躇したのか、一瞬言葉を止めた。『旧支配者、などでしょうかね。あまり考えたくはない話です。ですが、可能性としてはあります。どちらにしろ、黒服のロバートと呼ばれる幻想使いには注意した方が良いでしょう。これから、今回の事件についての会議が始まります。それまでバイトはお休みということで。くれぐれも気をつけてください。それと、無茶はしないように』

「ああ、分かった」

 二人の会話はそれで終わった。電話をポケットに入れると、部屋に戻り、一直線にリビングへと進む。

「どうです?」

「寝てるっさ」

 一つしかないベッドに紅緋姫が寝ていた。霧夜は翁舞の横に座り、紅緋姫の顔を覗き込む。『人払い』で見たような青白く、苦痛に染まった痛々しい顔ではなく、可愛らしい、年相応の寝顔だ。

「……何も聞かないんですね」

「きっくんじゃなかったら、聞くところっさ」

「何ですか、それ」

「ふふ」

 翁舞は楽しそうに柔らかい笑みを浮かべるだけで答えなかった。霧夜にはそれが何よりも有難かった。今、自分の身に起きていること、紅緋姫のこと、全てに説明を求められても答えられる自信がない。霧夜本人にも分からないことだらけだ。

 特に気にかかるのは紅緋姫のことだ。

(いったい、どういうことなんだ?)

 ベッドで寝ている紅緋姫に視線を戻す。『人払い』で彼女を発見した時、彼女は血塗れだった。血溜まりは短い時間でも増え続け、呼吸も荒く、白い肌は目を反らしたくなるほど青くなっていた。

 ――そうだったはずだ。

 しかし、現実はどうだろうか。目の前の少女は特に異状もなく、健康体そのものに見える。

(他人の血だったのか? だとしたら、誰の?)

 あのロバートとかいう、ふざけた黒服の男の血だろうか。それは考えにくい。戦っている時のロバートは多量に出血をしている風には見えなかった。そもそも、血溜まりが出来ている時点でロバートのものではない。

 とりあえず分かったのは、分からない、という単純な結論だった。

(とにかく、今は――)

 どうするべきか、霧夜は一つの考えがあった。

「翁舞さん、この後の予定があったりします?」

「特にないっさ。何かあるっさ?」

「できれば、彼女のことを見ていてほしいと思って」

「それぐらいはお安いごようっさ。それできっくんは?」

「図書館で、調べ物をしようと」

 珍しいものを見る目で翁舞は霧夜を見た。本人も柄ではないと思っている。

 翁舞は何も聞かず、近辺の図書館を何カ所か霧夜に教えた。


 ◆


 霧夜はいくつかある図書館の中から、最も大きい図書館を選んだ。少しばかり遠いが、調べ物をするには適切だと考えての選択だ。移動には列車が不可欠で、霧夜は初めて列車に乗った。少々切符の買い方が記憶にあるものと違い、少々戸惑った以外に問題はなかった。

 駅のホームで列車を数分待っていると、お世辞にも速くない速度で列車がやって来たが、あまりにも見慣れない形をしていることに驚いた。やってきた列車の形は蒸気機関車そのものに見える。煙こそ出していないものの、その黒びやかに光る装甲と筒のようなフォルムはまさしくそれだった。まるで一昔前のヨーロッパに来たような気分に霧夜はなっていた。

 中に入ると、内装はかなりレトロで、壁は全て木製のようだった。広告類の類も一切なく、まるで博物館にでも来たような錯覚を覚える。

 ともかく列車の端から端まで繋がった木製の椅子に落ち着かない気分で座り、霧夜は列車が動き出すのを待った。

(……何だ、この異和感は)

 周囲を見渡す。乗客は少ないながらも老若男女、様々だ。見覚えのある光景ではなかった。

 列車は間もなく発車した。ゆっくりと走る列車に揺られること一時間弱、図書館最寄りの駅で降りた。霧夜以外には誰も降りなかった。

 駅の名前は『第六地区図書館前』。その名の通り、降りたすぐ目の前、橋の向こうに図書館が建っていた。駅全体はレンガで造られ、古風な佇まいがあった。列車が走り去り、周囲が静かになると水の音が微かに聞こえた。駅とマッチするように設計されたであろう橋の下は川が流れていた。穏やかな川で、底が見えるほど透き通っている。こんな川を霧夜は見たことがなかった。

 図書館も負けず劣らず、趣があった。それ自体が芸術品のように設計された建物は八階建て、全てが茶色の煉瓦で造られている。駅と一体で造られたのかもしれない。

 中へ入った途端、年若い女性――霧夜よりは年上だ――が市民証明書を拝見すると言ってきた。何のことだと疑問に思ったが、雨師から貰ったものだと思い出し、財布から取り出して見せた。女性は市民証明書を見るだけという簡単なチェックを済ませ、霧夜を通した。

 図書館の中は平日の午後にしては人が居た。

(さて、どこにあるかな)

 霧夜は早速、パソコンを探したのが、見当たらない。館内案内を見たが、パソコンを扱える場所はなかった。レトロなやり方に拘っているのだろうか。仕方なく、図書の分類表を見て探すことにした。

(旧支配者の項目はどこだ?)

 それこそが霧夜の目的だった。きっかけは雨師の電話、もし旧支配者が絡んでいるとすれば、自分はあまりにも無知すぎる、少しでも知っておかなければという思いがあった。

(もう……)

 脳裏に過る、血塗れで倒れる少女。苦しそうな荒い息を継ぎ、青ざめた顔をする少女。

(あんな場面はごめんだ)

 意気込んで霧夜は分類表を見つめた。

 しかし、その気を削ぐかのように、すぐさま難題にぶち当たった。旧支配者の項目が見当たらないのだ。八階あるこの図書館はそれぞれの階が一つの分野の書物を置いている。その中に旧支配者が分類されているであろう項目、例えば神話などの項目から、さらに細かい分類を見ても旧支配者の文字はない。念のために全ての分類を見ても旧支配者の文字はなかった。

(どうするか……)

 紅緋姫の話を聞く限り、旧支配者は世界創造神話と関連がありそうだった。霧夜はその書物から読めば載っているだろうと考え、該当する階へと行き、関連する書物を片っ端から手にとって読み始めた。

 二時間ほど経過したが、大した成果はなかった。旧支配者という言葉はあるものの、詳細な記述となると皆無だった。最終手段として、霧夜は司書に尋ねることにした。一階へと戻り、カウンターにいる三十代程度の女性に声を掛けた。

「あの、すみません」

「はい、何か御用ですか?」

 穏和そうな表情に合う、少し間延びするおっとりとした声だ。

「旧支配者について記述されている本を探しているんですが……」

 すると、穏和だった司書の表情は崩れ、まるで何か悪いものでも見るような表情へと様変わりした。

「申し訳ありませんが、そのような記述がされていものは置いておりません」

 声も早口になり、堅い。明らかに態度が変わっている。それでも霧夜は会話をやめが、再度質問をした。

「ないんですか?」

「ございません。お引き取り下さい」

「……本当ですか?」

「はい、ございません。お引き取り下さい」

 頑なな言葉だ。確かに、この図書館にはないのかもしれない。しかし、妙なのは司書の態度だ。旧支配者の言葉を出しただけで変わる表情、やっかいなものを追い払うかのような言葉。加えてその中には嫌悪感が混じっているような気がしてならない。気がかりであったものの、霧夜は早々と会話を終わらせて去る方が賢明だと判断した。

「それじゃ、旧支配者の本がある図書館はどこですか?」

「ございません」

「はい?」

「そのような本が置いてある図書館は、この常世にはございません。お引き取り下さい」

「それじゃ、調べる方法は?」

「そのような方法はありません。お引き取り下さい」

「それじゃ、どうやって旧支配者のことを知るんだ!?」

 その言葉が引き金となったのか、女性の目は完全に敵対者を見るかのように変化した。

「そのようなものを知ってどうするのです? あなたのような危険思想の人がこの街にいるとお思いですか!?」

 怒りの声が階全体に響き渡る。周りの人々も何事かとざわついている。

(何だ、この反応は?)

 思いもよらなかった。それほどまで旧支配者の言葉は禁句なのだろうか? 女性はまだ強く、霧夜を罵る言葉を反論する隙間もなく、浴びせ続ける。

「旧支配者について調べるなんて、堕ちるところまで堕ちた人間が行う悪しき所業です。虫よ、いえ、虫以下よ! どうせあなたは悪しき魔女のように汚らわしい心と残虐な性格の持ち主なんだわ!」

 訳の分からない罵詈雑言を喚き散らす女性にどうしたものかと霧夜が思案していると、しわがれた声がこの状況を終わらせた。

「どうかされましたか?」

 良く耳に通る声色だった。女性の言葉はピタリと止まり、二人は同時に声のした方向へと顔を向けた。小柄な老人が一人いた。年は六十から七十といったところか。前面から頭頂部にかけての髪はすっかりなくなってしまったが、代わりに後頭部から肩にかけてもっさりと白い髪を携えている。

「館長!」

 罵詈雑言を浴びせていた女性が声を上げた。彼女は足早に館長へと近づき。やや興奮気味で、今までの経緯を説明した。ところどころ彼女の脚色が入り混じったもの――旧支配者を復活させる悪しき所業を行おうとしているやら、汚れた心を持つ悪しき魔女のような人物だとか――だったが。

 館長と呼ばれた老人は最後まで話を聞き、霧夜の方へと顔を向ける。

「そうなのですか?」

「いえ、全く。ただ必要なことを調べようと思っているだけです」

「調べようとしてどうするというです!? 悪しき行いをするだけでしょう!」

 再び始まりそうな罵詈雑言を、館長は手を上げて制した。彼女は不満そうではあったが、従った。

「私でよければ案内しましょう」

「館長!」

 女性の憤る声を、館長は再び手で制止させた。

「こちらへ」

 館長は霧夜に背を向け、歩き出した。霧夜はそれについていった。二人は一階の階段を下り、地下へと向かった。地下にも一般に開放されている図書があるが、館長はそれらに目を向けず、右へと折れた。その先には休憩室と書かれた部屋だった。中は新聞と椅子が置いてあるだけの簡素な内装だ。

 館長はドアにカギを掛ける。

「これで大丈夫でしょう」

 館長は腰かけることを進め、従って。館長も膝に座りながら、椅子に座った。

「彼女の代わりに謝らせていただきます。先ほどは申し訳ありませんでした」老人は深々と頭を下げた。「ですが、許してやってください。彼女は敬虔なオラクル信者でして。旧支配者のことになると、感情的になってしまいまして」

「あの、旧支配者のことは、ここでは禁句なのでしょうか」

「そういうわけではごさいませんが、あまり良い言葉ではございませんね。我らの母、創造主に害を与えたものですから」

「それで館長さん……」

「おや、申し遅れました。私の名前はゼペットと申します。本業の傍ら、この図書館の館長をやらせていただいております。お若い方、是非とも私のことはゼペットとお呼び下さい。館長の名は少々堅苦しくて」

「僕は蒼炎霧夜と言います」

「蒼炎霧夜……良い名ですな」

「あの、ゼペットさん。旧支配者の本はどこに?」

「申し訳ありません。旧支配者について記述されたものは、オラクルの本部、それも一部の人にしか公開されていません。この老人のしがない話しか、ここにはございません。何か知りたいことがあれば、私に問いかけてください。他の者より多少の知識がございます」

「では」さっそく霧夜は尋ねた。「旧支配者とは何です?」

「旧支配者は我らの母、創造主が作り出したこの世界を統治するものでした。しかし、ある時、創造主に反旗を翻しました。その時はアカシック・クロニクルの守護者たちにより、旧支配者たちは各地に封印されたましたが、創造主は三つに分割され、その意志を失いました」

「たち? 複数いるんですか?」

「はい。ですが、その数ははっきりとしません。四人とも七人とも言われておりますし、もっといるかもしれません。はっきりと分かっているのはカルトハー、ハット・チャアグ、ペトータルレイ、アツァーリの四柱です。カルトハーは海、ハット・チャアグは火、ペトータルレイは知識、アツァーリは大気を象徴しているとされます。彼らはその象徴通り、人々の暮らしを助けていました。カルトハーは人々に海の資源を与え、航海を助けていました。ハット・チャアグは人々に火を与え、時には道を示しました。ペトータルレイは人々に生きるための知識を与えました。アツァーリは世界に風を流させ、進化させていきました。彼らは創造主の期待通り、世界を発展させていきましたが、結果として反旗を翻しました。一説にはペトータルレイが他の旧支配者を嗾けたとされています」

「旧支配者は封印されたままなんですか?」

「ええ。ですが、消滅したわけではありません。自分の配下、異物と呼ばれる悪しき者たちを――時には人間さえ――使って、時には自身で行動して復活を画策しているされています」

「旧支配者自身が動くんですか?」

「もちろん、全盛期ほどの力はありません。そうですね、幻想使いについてはご存知ですね?」

「はい」

「幻想使いに匹敵する程度、と言って置きましょうか。その程度に力が抑えられていますが、行動は出来ます」

「それって―――」

「ええ」館長は頷いた。「彼らは人々を嗾けて復活をするのに人間の形を取ることが多いです。もしかしたら、我々の生活に紛れ込み、行動しているかもしれません。ですが、見極められる者も存在します。旧支配者と正統な契約を結んだ、契約者と呼ばれる人です。彼らは契約の証として左腕に、旧支配者の象徴ともいえる痣が刻印されます」

 館長は袖口を捲り上げ、その位置を指差した。肘から手首にかけての、ちょうど中間の位置だ。

「この痣だけは隠しきれません。疑わしい人物が居れば、腕を捲ることが早期発見に繋がるでしょう。形はそうですね……鳥のような形をしていますよ」

 捲り上げた裾を元に戻すと、館長は途端に哀しげな表情を浮かべた。

「契約者の刻印は」声は物悲しかった。「永遠に残り続けます。そうなれば、この世界で生きることは難しい。だから、私はいつも思うのですよ。ここまでして、契約者は何を手に入れたいのか、とね」


 ◆


 ようやく終わった。雨師は堅苦しい会議が終わったことにほっと息を吐いていた。今回はオラクルの中でも上位の階級の人たちとの、異物に関して今後の対策を練る会議のはずたったが……。

(上層部は事態の重要性を理解していないのでしょうか?)

 三時間以上に及ぶ会議ではあったが、本来はここまで長く時間を取る予定はなかった。原因は上層部と各地区を担当している現場指揮官の見解の相違にあった。上層部は現状維持、異能管理機関、警備ゴーレムによる警備の徹底を指示、それに反対する全地区の現場指揮官が不満を訴え、その舌戦が二時間半以上に及んだわけだ。

 結局、指示は変わらなかった。

(もっと踏み込んだ対策をしなければ。異物の発生源はほとんど特定できているというのに)

 もう一週間も前になるだろうか、業を煮やした一部の者たちが調査隊を編成し、異物の発生源とされる場所を特定、殲滅しようと考えたのだ。特定自体は簡単に済んだ。しかし、殲滅するには余りにも不利な条件が多いことも同時に判明してしまったため、放置され続けている。

 いっそのこと、自分一人で掃討してしまおうかと雨師は考えたが、すぐに取り消した。今の自分にはあまりにも無謀すぎる。質では遥かに自分が勝るが、量には勝てない。加えて、別の条件が付随してしまっている。自分ではどうしようもないものだ。

 いや――問題はそれほど単純ではない。異物の発生源を叩いても、そう事件は簡単に終わらない。そんな予感を雨師は抱いている。

 雨師は照明のついていない廊下を――どうやら壊れてしまっているらしい――を歩き、奥のドアを開けた。光が溢れる。暗闇に慣れてしまった目には眩しい。

 異能管理機関第七地区部。雨師が所属する組織の部署だ。

「お疲れ様です」

 白い木製の机の前座る、一人の少女が言った。三つ網に丸い眼鏡をかけた少女だ。年は恐らく十五~十六歳程度だろう。予測なのは雨師が彼女の正確な年齢を知らないからだ。

 全て白で装飾された部署――このような施設ではかなり珍しい色合いだ――は彼女以外誰にも居ない。恐らく、警備で全員出払っているのだろう。ここ数日では珍しくない光景だ。

「どうでした?」と少女が言う。

「以前と変わりませんよ。現状維持です」

「またですか?」呆れたように彼女は言った。「上層部はどんな判断しているんですかね」

「彼らは状況を理解していないようですから」

「そう言えば、例の彼はどうなりました? 襲われたという情報しか聞いてませんけど」

「彼ですか? 何とか危機は脱してくれたようです。いやはや、素晴らしい働きぶりです」

 雨師にとっては予想以上だった。最初に出会った時、記憶喪失の彼を見た時、面倒事を押しつけられたと思ったが、今では彼がどこまでやってくれるのか、少々楽しみになっている。

「早く記憶が戻ると良いですね―」 

(記憶ですか)

 ふと、時々思う。蒼炎霧夜が本当に記憶喪失なのかと。というのも、彼がここの常識を知らないせいだ。当たり前とも言えることに、彼は驚きを見せる。抜け落ちている記憶は自分に関する記憶だけだ。常識すらも抜けおちてしまったのだろうか。それは明らかに変だ。

 変と言えば、彼の市民登録証もおかしかった。良く手が込んでいたが、小さな点で一カ所明らかに偽造した形跡がある。保護を指示した上層部に一応報告はしたが、関連した指示はない。行動を起こした様子も見られない。

(そもそも、何故上層部は彼を保護したんでしょうか?)

 幻想力に対抗する力は確かに希少だが、身体能力を強化できる幻想使いとは戦闘面で大きく差が出る。もし幻想使いと一対一で戦えば、苦戦は必至と言えるだろう。しかし、上層部は彼に何か期待しているように見える。何に期待しているのだろうか?

 考えられるとすれば、今回の騒動の解決だろう。しかし、彼だけで解決できる騒動とは思えない。彼ができるのならば、この街にいる幻想使い一人でこと足りる。

(分かりませんね)

 雨師は頭を掻いた。あまりにも分かっていることが少ない。何か情報が欲しいところだ。

(掴められると良いんですが)

 自分の机の前に腰かける。あまりものが置かれていないデスクには、二つの封筒が置かれている。

 この都市の出入り口についている監視カメラの写真だ。今回の事件は外部犯の可能性もある。雨師は誰か外から都市に侵入したものがいるかどうか、確認したかった。

 本来、こういった写真のチェックは雨師の仕事ではない。それを友人に依頼して、肩代わりさせてもらったのだ。友人は快諾してくれた。ここ二週間、騒動の対応に追われ、この膨大な写真をチェックする暇がないのだ。加えて、写真には大抵何も映っておらず、一枚ずつチェックするのは退屈極まりない。

 中の封筒を開き、机へと広げる。大量の写真が出て来た。ここ二日間、合間を縫ってチェックしているが、二週間分の写真はさすがに多い。その数は裕に千枚を超える。それでも、残りは二日分だ。何も起こらなければ、今日中に終わるだろう。

 一枚ずつチェックしていく。どれも似たような写真が続いていき、さすがに途中から飽きてきた。合間に自分でお茶を入れ、再度写真と睨めっこする。それが何度か続き、三〇分が過ぎたあたりで一日分が終了した。

「熱心ですね」

 まるで図ったかのように、少女がお茶を持ってきた。お礼を言い、茶を啜る。自分で淹れたものより、遥かにおいしい。

「何の写真ですか?」

「監視カメラのですよ」

 そうなった経緯を一通り説明すると、彼女は感心した様子で頷き、声を上げた。やはり、彼女もこの仕事の苦痛さが分かっているのだろう。

「あと、どれくらいなんですか?」

「もう一日分ですよ。これで何もになかったら、骨折り損ですね」

「中を見ても?」

「ええ、構いませんよ」

 そう言って、彼女は封筒の中から写真を取り出す。彼女の一枚ずつ見ていく表情が段々と変わってくる。失望しているのが、すぐ見てとれた。

「どれも同じですね……」

「そんなものですよ」

 この二週間に以内に都市に出入りしたものはいない。同じ写真が続くのは当たり前なのだ。

 やはり骨折り損の草臥れ儲けで終わるのか、と雨師が思った時、

「あれ?」

 突然、少女が声を上げた。

「どうしました?」

「これ、何か映ってますよ」

 そう言って、彼女は写真を雨師へと手渡す。

 注意を払うほどでもなかった。確かに映っている。今までと違ってはっきりと、『それ』が写っている。

(手に入った。情報が一つ)

 ようやく、一歩進めた。

 その思いに水を差すかのように、警報音が室内に広がった。

 少女は自分の机へと駆け寄り、机上に置かれた紐で丸められた古い紙を広げた。雨師は彼女の後ろから古い紙を覗き込む。紙にはこの街の地図が黒い線で描かれていた。その一カ所に赤い点が浮かんでいる。

「ゲート発生! 場所は第七地区創立記念公園です!」

「また、ですか」

 ゲートとは通称名であり、本来は長ったらしい名前が付いているのだが、雨師は覚えていなかった。ゲートは異物が異界から出てくる際に発生する通路のことである。異能管理機関はこの発生を察知、加えて異物の反応を確認して初めて対処のために行動する。

「異物の反応はありますね?」

「はい。一体だけです」

「なら、さっさと終わらせて来ましょう」

 足早に出て行こうとした時、ふと思いついた。

(そうだ)

 雨師は出入り口へと反対の方へと身体を向けた。行き先は転送装置が設置してある部屋だ。何度も霧夜の前に現れる際、この装置を使っている。中々不気味な演出ができるので、雨師はいたく気に入っていた。

「あ、今修理中ですよ」

 ピタリと雨師の動きは止まった。確かに彼が向かおうとしたドアには『修理中』という張り紙が貼ってある。

「誰かさんが面白がって、試験中のを壊してしまいましたから」

 からかっている声色に、雨師はただ笑みを浮かべて踵を返した。


 ◆


 図書館を出たのは午後七時を過ぎ、すっかりと太陽が沈んでしまった頃だった。思ったより時間がかかったが、有意義な話が聞けたと霧夜は満足だった。

「良い目をしていますね。また立ち寄ってください」

 別れの挨拶の時、館長にそう言われ、再び来ることを約束して、霧夜は駅へと向かった。

「しかし……」

 列車を待つ途中、霧夜はこれまでの話を思い出して妙な気分になった。まるで聞いたことのない、一見すれば陳腐とも言える神話。紅緋姫はこの街の人間なら誰でも知っていると言っていた話だが、ここで生活していたはずなのに、何も思い出すものがない。

(何故だ?)

 この疑問に霧夜は一つの考えが浮かぶ。

 本当に、本当に自分は―――

 考えを断ち切るようにズボンのポケットから小さな、それでいて素っ気ないコール音が鳴った。

『ごめん、きっくん!』

 出ると、思った通り翁舞だったのだが、突然の謝罪の言葉を述べるのは訳が分からなかった。加えて、声には焦燥感と申し訳ない気持ちが入り混じりになっている。霧夜は戸惑いながら返事をした。

「ど、どうしたんですか?」

『彼女がいなくなっちゃったさ!』

「彼女? 彼女って――」

 思い当たる人物は一人しかいない。

 紅緋姫桜が、翁舞の部屋から姿を消した。


 ◆


 紅緋姫桜は公園のベンチで一人座っていた。長髪の女性の目を盗み、何も言わずに抜けだしてしまったが、特に行くあてなどなく、第七地区の――異物の大群と対峙した――公園に戻って来てしまった。

(どうしよう)

 これからのことは考えていない。手元にあった金銭のほとんど使ってしまい、食費どころか寝床を確保すること自体が困難だ。そもそもこれほど長くこの街に滞在する予定ではなかったのだ。最初の予定の七日間、それを一週間もオーバーしている。何とかヤリクリしていたが、もう限界だ。

 既に夜の帳は落ちている。公園を照らすのは、人工的な明かりが一つ。この暗闇の中ではか細い光ではあるが、紅緋姫にはそれだけでも充分有難かった。この人工的な明かりは、帳が下りている間、ずっと輝き続ける。それだけで安心出来る気がした。

 しかし、身体の方はそうもいかないようだ。温かい季節とはいえ、さすがに夜は肌寒い。長時間、公園に居たせいもあってか、既に手足の先は冷え切っている。お腹も空いている。死ぬことはないが、苦しい。

 ポツリと自分の頬に一粒の雫が垂れた。遥か上空の漆黒のカーテンからだ。雫はまた落ち、次々とその数を増やしていく。

 雨だ。急激な天候の変化と言えた。通り雨だろうかと考えながら、紅緋姫は螺旋状の滑り台へと急いだ。螺旋状の滑り台は一つの建物のように見え、全長は建物の二階分に相当する。その中に空洞があり、そこへと避難した。

 彼女は砂で汚れた地面に身体を丸めて座り込んだ。天井は幼児向けに合わせて作られているせいか、あまり高くなく、立つこともままならない。そのせいか、妙な圧迫感を覚える。加えて、中で反響している雨音も増長させていた。

(雨は嫌い。雨になると外に出られない。部屋で一人ぼっち)

 脳裏に浮かんでくる記憶たち、思い出したくもない記憶たち。この場が否応なく思い出させてしまう。

 雨の日。一人ぼっちの部屋。その場にいた彼女は、ただただ不安な気持ちを一杯にして待っていた。来るべき希望の光を抱いて、ただ待っていた。

(パパ……ママ……)

 もう眠くなってきた。もう寝てしまおう。それでも問題はない。自分を待っている人も、自分を待ってくれている人もいない。彼女はそっと瞼を閉じた。

 視界は完全な暗闇で染まり、雨音だけが耳に入る。それだけの時がどの程度経ったのだろうか。意識が朦朧としている中で、雨以外の音が入り込んできていることに気がついた。鈍い音だ。その音は止むことなく繰り返され、段々と大きくなっている。

(近づいてきてる……?)

 分からない。気になることは確かだった。外の様子を見ようと決めたその時、ひと際大きな音が聞こえた。さらに別種の大きな音に彼女はびくりと肩を震わせた。何かが破壊されたような音だ。その場から外を見ると、煌々と灯っていた明かりが消えている。暗闇でほとんど分からないが、元々の場所にぼやけているが、輪郭線が見える。それはもぞもぞと動いている。

 ぼやけていた頭は一気に覚醒し、警戒する。三つある空洞の出入り口、ちょうど目の前に雨粒と夜の中から黄色い不気味な、見慣れた眼光が姿を見せる。

 異物。それも普通のタイプではない。その姿は驚くほど人間に似ている。

 それは『ホイーギッシュ・ヒューマン』と呼ばれている。ホイーギッシュ・タイタンと同じく、ホイーギッシュ・レギオンの上位個体だ。

 それが何故こんなところに? 紅緋姫は武器をすぐに用意できるように準備した。長身なその異物はゆったりと、覚束ない足取りで空洞の入り口までやってきた。長い胴体を曲げ、中を覗き込む。頭の触覚をクルクルと回すと、その黄色い瞳を紅緋姫に向ける。

 異物に視力はあまりない。視力の悪い人の様にぼやけて世界が見えている。この暗闇では人を人と認識するには難しいと言える。しかし、異物はその不気味な口の両端をつけあがらせた。紅緋姫の存在を完全に認知している。

 紅緋姫は『対話』を試みた。しかし、相手からの返事はない。

(違う)

 紅緋姫は武器を取り出した。

 大丈夫、紅緋姫は自分に言い聞かせた。これよりもひどい状況を自分は経験し続けている。だから、できる。今更恐怖を覚えることなどない。

 少女は切っ先を異物に向ける。異物はそれが何か理解しているはずだ。だが、気付かない振りでもしているのか、ただ単に無視を決め込んでいるのか、それとも脅威だと感じていないのか、何の素振りも見せない。上半身だけを空洞の中に入れたままだ。

 少女は剣を構えた。この剣を向ければ、すぐに終わる。

 戦い、と呼ぶには相応しくない。異物はその頭に剣を刺され、呆気なく消滅した。対話のきかない相手――知性なき獣など、こんなものだ。

 何がしたかったのだろう。

 異物も淋しかったのだろうか。

 街灯は消え、公園から完全に光が消えてしまった。少し心細くなったように彼女は感じた。彼女は再び身体を丸め、眠りへとつくことにした。

 しかし、状況は彼女を容易く眠りにつかそうとはしなかった。しばらくしない内に、新たな音が耳に入る。

 雨音の中に足音が聞こえた。走っているようだ。その音が通り過ぎるのを彼女は待った。しかし、音が遠くなることはない。寧ろ近づいてきている。起き上がり、姿勢を低くして外へと目を向けた。彼女はその姿を確認した。暗闇ではっきりとはしないが、小柄ではない。異物でもなさそうだ。その者は一度立ち止まると、周囲を見渡しているようだ。何かを探している。何を?

 彼女の警戒度はその考えに行き渡った時、最高潮に達した。最悪の予感が脳裏を過ぎる。

 ピタリとその者は動きを止め、首を後ろへと捻った。疑問に思う間もなく、紅緋姫の耳に新たなる足音が聞こえた。段々と近づいてきているが、余りにも小さい。しかし、程なく新たな人影が前の人影に並んだ。何か話しているのだろうか、二つの影は動かずに時々身振り手振りをしている。しばらくそうしていると、前から居た影がこちらに向かってきた。まずいと、紅緋姫は奥へと引っ込み、身体を丸めた。

 音が聞こえる。静かな足音は近づいてくる。気配である程度の距離は分かる。彼女は外から出て逃げれば良かったと、今更判断ミスを嘆いた。

 突然コール音が鳴り響いた。一瞬、自分の物かと思い、心臓が跳ね上がったが素っ気ないコール音は自分のものではない。良く聞くと、外から聞こえてくる。同時に近づいてきた足音も止まった。微かに話声が聞こえたが、すぐに終わった。

 気配は離れていく。彼女は武器に手を掛け、目を外へと向ける。

 いない。

 影はいなかった。入口付近に、という限定付きではあったが。

 彼女は身を乗り出して、外を確認した。二つあった人影は一つに減っている。良く見ると、二つあった影の内、一つは奥の方に見えたが、どんどんと小さくなり、ついには視認できなくなった。

 彼女はもう一つの影を注視した。嫌なことに残った人影は近づいてきている。今度こそ逃げるべきだろう、右方向の出入り口へと向かった。


 ◆


 雨が降る予報などなかったはずだ。霧夜はいい加減な天気予報士に怒りをぶつけたいところだった。しかし、それ以上に彼の関心を動かすものがある。

 翁舞から連絡が入り、なるべく急いで帰ってはきたものの、向かう時間と帰る時間が同じなのは、列車なら当たり前で結局八時を回ってしまっていた。とりあえず学生寮へと戻ろうとした時、雨が降り出してしまい、既に霧夜はずぶ濡れとなっていた。当然、傘など持っていない。

(どこから探す?)

 既に戻るという考えを霧夜は放棄し、捜索に当たろうとしていた。しかし、これといって探すべき場所が思いつかない。

(何だかんだいって、それほどあいつのこと分かってないんだよな)

 当然と言えば当然だ。紅緋姫と会って、まだ二日目だ。彼女のことなど、ほとんど知らない。どこに泊まっているのかも知らないのだ。連絡先も交換していない。

「まあ、なるようになれかな」

 恐らく翁舞も探している、それでいて連絡がないということは何の成果も上がっていないのだろう。霧夜はとりあえず、紅緋姫と初めて会った公園へと向かった。その場所しか、思いつかなかった。

 公園の入り口に着くと、霧夜は不振に思った。

 暗い。あまりにも入口が暗すぎる。小さな公園にすら、明るい外灯が煌々と辺りを照らしているというのに、入口の奥深くは暗闇で埋め尽くされている。異様とも思える光景に霧夜は咄嗟にポケットの符を取りだそうとして、やめた。いや、できなかった。

「雨の中じゃ、使いものにならないな……」

 符は紙だ。雨の中で使える代物ではない。武器がないまま、霧夜は異様な場所に足を踏み入れなければならない。

「なるようになれ、か」

 そう自分に言い聞かせて、霧夜は足を踏み入れた。

 奥へ進み、足元を注意していると、この暗闇となってしまった要因が分かった。外灯が立っていたであろう場所に、その姿はなく、無惨にも水浸しの地面に横たわっていた。どうして壊れたのか、暗闇の中では判別のしようがない。老朽化などの要因なら、まだ安心できるが、そうでなかったら困る。霧夜は慎重に歩を進めた。

 広場には複数の外灯があるはずだが、やはりなかった。全て壊され、倒れているのだろう。

(……誰かいる?)

 暗闇の中、人影が見えた。ぼやけているが人間の輪郭が見える。それだけしか見えないところを考えるに、この雨の中、傘は差していないようだ。どこかで見覚えのある輪郭だった。

 霧夜はその影に近づいてみた。

 徐々に目は暗闇に慣れ、完全とは言えないまでもその姿は、はっきりとした情報を霧夜に与えていった。

 相手もこちらに気づいたのだろう、その長髪を揺らしながら振り返った。

「……何だ、お前か」

「少々残念な表現ですね」

 雨師龍望は残念そうに、だがどこか穏やかな表情を霧夜に向けた。

「傘も差さないで、どうしました?」

「傘を差してないのはお前もだろ」霧夜は息を吐く。「ちょっと落し物を取りにな。お前は?」

「ここで異物の発生を確認しました。それで急いで来たんですが……」

「いなかったのか?」

「いえ、形跡はあります。貴方も見たでしょうが、入口と広場の公園灯が一つずつ破壊されています。残りの二つは調べていませんが、恐らく同様でしょう」

「じゃあ、どうして異物はいないんだ?」

「……ここから移動したか、誰かが倒したか。あまりない事例ですが、『人払い』の空間に戻ったということもあり得るでしょう。とりあえず、ここを捜索します。ついでに貴方の捜索物も探しましょう。何を落としたんですか?」

「えーと、財布だな」と適当な嘘を述べる。

「おや、大変なものを落としましたね。骨が折れそうな捜索です。確か革製の小銭入れでしたよね?」

 そう言いつつ、雨師は巨大な建物の方へと足を向けた。暗闇で、その全貌は見えないがその場所には螺旋状の建物二階分に匹敵する滑り台がある。雨宿りには最適な場所だ。

(しかし、こうも暗いと……)

 霧夜の周囲は昼間とは打って変わって暗闇が広がる光景しかない。足元も見えないこの暗さでは、たった一人の少女を探すのは困難と言える。そもそも、彼女がここにいるという確証すらない。

(……さすがに冷えて来たな)

 春とはいえ、雨粒は冷たい。濡れ続ければ、自然と体温を奪っていく。既に手の先は冷えきっていた。加えて服がベッタリと身体に付着する不快感も増していく。

(あいつは、雨宿りしてるかな)

 そう考えた途端、目の前の滑り台の存在が気になった。確かあの場所は中に空洞が広がっていて、雨宿りには最適な……。

 霧夜は不安になった。

 もしあそこに紅緋姫がいるとすれば、雨師と鉢合わせになる。それだけは避けたい。いや、避けなければならない。

(いや、待て。そもそもあいつがここに居るとは限らな――)

 そこまで考えが行って、先ほどの雨師の言葉が蘇った。異物の反応があったにも関わらず、今この場にはいない。その理由を雨師は何と言っていただろうか?

 居る可能性が高まる。何とかして雨師を止めようと、霧夜が踏み出した瞬間、コール音が遠くから鳴り響いた。素っ気ないコール音は霧夜の持つ携帯と同じだが、明らかに遠い。誰のだ?

 コール音は途切れ、時間が流れる。持ち主が手に取ったのだろう。だが、雨音のせいで会話は聞こえない。

 少しすると、雨師が戻って来た。手には霧夜の持つ電話と全く同じ型のものが握られていた。

「別の場所で異物が発生したようです。近場なので、これから向かわなければなりません」

「そ、そうか」

「すみませんが、財布の捜索には御同行できないようです」

「いや、大丈夫だ。それにこんなに暗いと、どうせ見つからないだろうし」

「そうですか。では、また後ほど」

 雨師には珍しく、短い言葉だけを残し、駆け足で去っていった。その後ろ姿を見送り、霧夜は少し安心した。少なくとも、雨師と紅緋姫が鉢合わせする可能性は避けられた。

(今度は俺の出番か)

 滑り台へと足を向ける。あまり期待はしていないが、一応確認だけはしておこうと考えた。もし居ないとしても、残念だった、の一言で済まし、一旦学生寮に戻って準備を整えてから捜索に戻ろう―――そう考えた時、霧夜は自身の目を疑った。

 何かが居る。

 もう入口の目の前に来ていた。その中で影が動いている。人がどうかは分からないが、確かに動いた。影は三つある出入り口の内、左手の方へと動いている。

「紅緋姫?」

 咄嗟に呟いた言葉に影は動きを止めた。こちらの方を向いたような気がした。

「紅緋姫なのか?」

 再度問いかける。

 すぐに返事はなかった。

「どうして、ここに」

 いつか聞いた平坦な声色は、紅緋姫そのものであった。霧夜は彼女が見つかった安堵感に包まれたが、同時に妙だと感じた。彼女の声色が感情を押し殺しているように聞こえたからだ。

「ここしか思いつかなかったからな。お前が居そうな場所なんて」

「……」

「傷はもう大丈夫なのか?」

「……」

「こっちはずぶ濡れだ。一旦、家に来ないか? ああ、近いなら宿泊場所に――」

「無理」

「えっ?」

 明確な拒否の言葉に、霧夜は戸惑った。

「私はあなたの傍には居られない。居てはいけない」

「……どうしてだ?」

「どうしても」

「理由を言ってくれないか。こっちも簡単に帰るわけにはいかなくてな」

「……」

 彼女から言葉は生まれず、沈黙が返答の代行となった。段々とその沈黙に嫌気が差してきた霧夜は一歩、紅緋姫へと近寄って――目を丸くした。

 暗闇に慣れてきた霧夜の目には少女の姿を先ほどよりも鮮明に映し出しており、その姿はどこか――

 自分でも驚くほど自然に霧夜は紅緋姫へと手を伸ばし、途端に小さな手で払われた。

 霧夜の手に鋭い痛みが瞬時に走る。思いのほか、力が強かった。

「帰って……お願い」

 そう呟く少女の声は平坦で淡白だったが、酷くか細い。

(……どうする?)

 このまま帰るわけにはいかない。彼女を連れて帰らなければならない。その想いが一層強くなっている。それはさっき彼女の姿を見てしまったせいだ。まるで桜のように儚く散ってしまいそうな彼女の姿を。

 ならば、意味を確かめなければならない。

「なあ、紅緋姫どうして――」


 ぎゅるるるる


 雨音がひしめくこの場でも、霧夜の耳にははっきりとその音が聞き取れた。この音が何を示しているのか、分からない者はいないだろう。紅緋姫は顔を俯かせた。この暗闇では表情は窺えない。

「とりあえず、飯でも食ってくか?」

 こくり、と小さく頷く姿を霧夜は見逃さなかった。


 ◆


 残念なことに二人とも傘は持っておらず、加えて傘を売っているような店などはなかった。仕方なく、雨に打たれながら、家路についた。

 学生寮につくと、霧夜は一安心だったが、嫌な思い出が蘇るのは気分が良いものではなかった。別物とはいえ、この場所とそっくりなところでで命を賭けた、しかもかなり派手な戦いをしたのだ。そう易々と拭えるものではない。

 二階へと上がり、自室へと向かった。ドアノブを回すと、違和感を覚えた。

(開いている?)

 部屋から出る時、ちゃんと鍵をかけたはずだ。にも関わらず、ドアが開いているということは……。大体予想できた霧夜はドアを開けると、やはり予想通りの人がいた。

「おや、おかえりー、きっくん」

 翁舞咲だ。彼女はリビングに当然の如く座っていた。さらに玄関の位置からは見えにくいが、何故かテーブルには皿が並べられ、食欲をそそる美味しそうな匂いが鼻孔を擽る。この匂いはクリームシチューのようだ。

 翁舞は霧夜を見るや否や駆け寄り、その手に持っていたタオルを手渡した。

「ずぶ濡れっさねー。傘ぐらい持ち歩かないといけないっさね!」

 予報が雨を告げていないのに、折り畳み傘など持ち歩かないのが常の霧夜は、次からそうしてみようか、などと考えた後、自身の疑問をぶつけた。

「紅緋姫を探していたんじゃ……?」

「残念だけど、私は彼女に関しては専門外っさ」

 つまりは探していなかったらしい。

「きっくんが連れて帰ってくるって、思ってたからね。だったら、私がやることはその後のことだけっさ」

 そう言うと、もう一つ、タオルを霧夜に手渡した。

「彼女のぶんっさ。おかえり、紅緋姫さん。もう体調は良くなったっさ?」

 そう言って、彼女は霧夜の後ろを覗き込む。同じくずぶ濡れの紅緋姫は、突然話しかけられ驚いたのか、少し肩を揺らして小さく頷いた。その様子に翁舞は満面の笑みを浮かべた。

「着替えは用意してあるっさ。まずはお風呂からかな? どっちが先に入る? きっくん、紅緋姫さん? それとも二人一辺?」


 ◆


 浴室から出た霧夜は、見慣れない私服に戸惑いながら、席へと付いた。既に紅緋姫は正座で待機している。彼女はテーブルに並べられた食事と部屋の中を交互に見つつ、時々台所に立つ翁舞を見ている。霧夜が座ると、彼の方にも視線をやった。

(どうしたんだ?)

 明らかに挙動不審だ。料理に目をやっていることから、早く食べたいのだろうと察し、先に食べることを勧めたのだが、彼女は頑なに拒否した。同じテーブルで食べる人がいる中で、自分が先に食べるのは失礼だと感じているらしい。

 紅緋姫は、それ以降も怪しい動きを続けていたが、霧夜は分からず、思い切って聞いてみることにした。

「どうしたんだ? さっきから様子がおかしいぞ?」

「何でも、ない」

 少し歯切れが悪かった。

「言いたいことがあるなら、言ってくれよ」

「……後で」

 そう言われると、引き下がるしかない。霧夜は聞き出すことをやめた。

 翁舞は電話ぐらいしてくれれば良かったのに、などと霧夜に言いつつ、台所から皿を持って現れた。二人が家に着くだいぶ前から食事の準備をしており、すっかり冷え切ってしまっていたので、温め直したのだ。

 それぞれの真向かいに置き、翁舞も席へとついた。ようやく、夕飯の時間となる。色々と状況が重なり、昼飯を食いあぐねていた霧夜も、紅緋姫と同様に夕飯を楽しみにしていた。

「それじゃ、さっそく――」

「待つっさ。夕飯を食べる前に、しなきゃいけないことがあるっさ」

「……何かあるんですか?」

 翁舞は視線を移した。紅緋姫へと。

「紅緋姫さん、言いたいことがあるっさ?」

 話を振られ、紅緋姫は翁舞を一瞥した。その後、霧夜の方へと視線を投げる。紅緋姫はその場から、少し後ろへと下がると、霧夜と翁舞の間に位置するように身体を向けた。

「ごめんなさい」

 そう言って、彼女は頭を下げた。

 何に、と霧夜が言う前に、紅緋姫は言葉を紡ぐ。

「勝手に抜け出したりして」

「別に気にするようなことじゃ――」

「あなたには助けてもらった恩がある。もちろん、」と言って翁舞へと向き直り、「あなたにも」

「私は別に当然のことをしただけっさ。けど、きっくんはあなたのことを助けたいと思ってるっさ。その思いを無下にしちゃいけないっさ」

「……」

 紅緋姫は特に答えず、沈黙した。

「さて、遅くなったけど、食べよっさ」

 行儀よく手を合わせた三人は「いただきます」の合図で、ご飯へとありついた。


 ◆


 翁舞の作ったクリームシチューは絶品と呼べる代物で、ついつい霧夜と紅緋姫は二杯目に手を出し、あっという間に平らげてしまった。

「もっと作った方が良かったさね」

 と食器を片づけ、台所に立つ翁舞は二人に聞こえるように言った。彼女の見ている底の浅い鍋の中はすっかりと空っぽになっていた。

 霧夜は彼女の意見に同意だった。というのも、霧夜の腹はもう充分に満たされているが、紅緋姫の方は言うと食べっぷりからしてまだまだ満ち足りていないようだったからだ。今も表情こそ変化はないものの、心なしか至福の時にあるように見えると同時に、もっと欲しいと思っているようだ。

 満足してくれて何よりかな、と霧夜は紅緋姫の様子に、とりあえずの安堵を抱き、壁に寄りかかる。

 徐に紅緋姫が立ち上がった。

「そろそろ帰る」

 驚いて霧夜は立ち上がった。

「どこに帰るんだ?」

「宿」

「嘘、だろ」

 霧夜の断言する言葉に、紅緋姫はこれといった反応を示さなかった。

「宿泊場所があるんなら、公園なんかにいるはずないだろ?」

「……雨宿り、してた」

「雨宿り、ね」

 明らかな嘘だ、と霧夜は確信していた。理由はない。ただ、漠然としたものだが、彼女が本当のことを言っている風には見えないし、聞こえない。

 霧夜は一つ溜息を着いた

「どうして、そこまで拒むんだ?」

「どうしても」

「……公園で言った言葉の意味、説明してもらえるか?」

「それはできない」はっきりとした声だった。「わたしは事実を言うだけ。あなたとは一緒にいられない。結果的に、あなたに被害が及ぶ」

 またしても意味の分からない言葉を述べる紅緋姫に、霧夜は釈然としない。何故紅緋姫と一緒にいると、自分に被害が及ぶのか? 新たな疑問に対して、紅緋姫の返答は素っ気ない。

「答えられない」

 淡白な瞳で彼女は霧夜を正面から見た。対して、霧夜も視線を逸らさず、ただ彼女の視線を受け止めた。

 二人の睨み合い。互いに動かず、喋ろうともしない。緊迫の糸が紡がれつつある。

「まあまあ、落ち着くっさ、お二人さん!」

 その糸を真っ二つに切り裂くように、二人の間を翁舞が割り込む様にして滑りこんできた。

「二人とも結構頑固っさね。こういう二人が話し合っても物事は解決しないものっさ」

「……どうするんです?」

「真剣勝負で決めるしかないっさね!」

 そう言って翁舞が取り出したのは、長方形の鮮やかに彩られたものだった。カードのようで、バラバラにならないように紐で結ばれている。霧夜はそれを見て疑問を覚えた。見覚えのあるものだったが、どうしてこの場に出てくるものなのか、分からなかったからだ。

 翁舞は恒星のように眩しい笑みを浮かべた。

「ババ抜きっさ!」


 ◆


 どこか美術作品を思わせる三階建ての建物の屋上にロバートは居た。

 既に常世の街は小さな発光する点が描かれた黒いベールによって覆われているが、対抗するかのように地上では煌々と人工的な明かりが街中を照らしている。

 ロバートにはそれが儚いものに思えて仕方がなかった。人が作り出したものなど、時が経つに連れていずれかはなくなる。その一方で神々が作り出したこの大地が消えることなど、それは神の終焉と同じ意味であり、あり得ない出来事だ。神は決して消えない。それほどまでに力が大きい存在だからだ。誰も対抗する術など持たない。

 あの少年を除いて。

 少年、蒼炎霧夜は戦い慣れている点を除けば、ただの一般人に思える。しかし、幻想力をその身に封じ、無力化してしまう異質な能力を持っている。あまりにも強大で危険な力だ。

(僕の様な存在にとってはね)

 思わず笑みが零れた。

(しかし、それはそれで好都合だ。僕の計画に大いに貢献してくれる)

 ロバートはポケットを弄ると、電話を取り出した。毎回電話を使う度にロバートは思うのだが、『電話』という名称はおかしい。電話は音声を電気信号に変換し、電話回線を通って離れた場所に送ることで相互に通話する、人間の英知が造り出したツールだ。

 これはそんな無機質なものではない。

 どうでも良いか、とロバートは頭の隅に追いやり、番号を押した。しかし、相手は出ない。何度か試してみるが、繋がることはなかった。

(まあいい)

 下準備は既に済ませてある。いつでも計画は遂行可能だ。少しばかりの休憩時間をとっても支障はない。

(彼に受けた傷もまだ完治していない)

 そういって、額を摩る。別に額だけが痛いわけではない。彼の『封印の力』で受けた傷はほぼ全身に渡っていた。もしもっと『力』を受けていたら、ロバートはその存在ごと消え去るところだった。そう思うと、さすがに背筋に嫌な汗が伝う。

 ロバートはもう少し寝た方が良いだろうと考え、踵を返す。

(楽しみだ)

 漆黒の体躯は暗闇へと混じり合い、消えていった。


 ◆


 ババ抜きによる決定に、紅緋姫は特に何のアクションも起こさず、霧夜は小さく溜息を吐くだけだった。これ特に反論がないと判断した翁舞は適当にシャッフルして、トランプを配った。しかし、驚いたことに紅緋姫がルールを知らなかった為、教えながらゲームを一度だけ行った。ルール自体は簡単なため、紅緋姫はすぐに理解した。

「上がりっさ!」

「……相変わらずの強さですね」

「……」

 二度目、本番となるババ抜きが始まってから五分足らずで、翁舞は揃ったスペードとハートの三を二枚、テーブルの上へ落とした。こういった勝負となると、翁舞は途端に強くなる。勝負強さ、といったところか。

(さって、どうなるかな?)

 翁舞は観戦に努めることにした。紅緋姫の表情は相変わらず、真顔で感情が読めない。一方の霧夜も余り感情豊かではないが、紅緋姫よりは動いている。

 こうして見ると、互いの手は対照的だ。紅緋姫はどのカードを取るか全く迷わずに即断する。一方で霧夜は相手のカードに手は伸びるが、どれを取ろうかかなり迷いを見せて、長時間取ろうとしない。

(きっくんらしい手っさね)

 内心霧夜の手の内を熟知している翁舞は、彼の手がありありと見てとれた。

 戦いは佳境へと近づいた。紅緋姫の手には二枚、一方の霧夜は一枚持っている。霧夜がここで紅緋姫の持つジョーカーでないトランプを引けば、彼の勝ちとなる。両者共に妙な気迫がある。それだけ、お互いに譲れないものがあるということだろう。

 霧夜は紅緋姫の持つカード二枚に手を近づけると、カードの前で右往左往し始めた。迷いを見せている証拠だ。紅緋姫の表情は翁舞から見て、何も変わっていない。ほとんど運の勝負に近い。

 時間は刻々と過ぎていく。

「まだ?」

 しびれを切らしたのか、紅緋姫が声を掛ける。

「ああ、待て。……こっちにしようか」

 そう言って、霧夜は右の――霧夜から見て――トランプに手を掛ける。そのままカードを抜き取ろうとして――

「あ、やっぱやめた」

 と言って、左のトランプへと手を移し、すっと抜き取る。その手に握られているトランプは――ハートの7、ジョーカーではなかった。

 紅緋姫は感情を露わにしていないが、落胆しているのだろう。じっと手に持つジョーカーを見つめている。

 勝負は決した。

「俺の勝ちだな。こっちの条件を呑んでもらうぜ」

「……」

 仕方ないと観念したのだろう。紅緋姫は頷いた。その時の彼女は傍目から見ても、落胆――というよりは不貞腐れた子どもの様に見えた。

「ささ、時間も時間っさ。二人とも寝る支度をするっさ!」

「それだと俺もここで寝るように聞こえますよ」

「私は別に構わないっさ。紅緋姫さんは?」

 話を振られた紅緋姫は、ぴくりと肩を揺らしたが、戸惑うように霧夜と翁舞の顔を見るだけで答えなかった。

 霧夜は一つ深い溜息を吐く。

「翁舞さん、紅緋姫を困らせるようなことはやめてください」

「むー、しかたないっさね」と唇を尖らせる。それをやめてから紅緋姫に顔を向け、「じゃ、紅緋姫さんはここに泊って行くっさね」

「……」

 尋ねてはいるが、紅緋姫に拒否権はない。彼女が何の言動も表さなかったのは、最後の抵抗だろうか。

「紅緋姫。せめて明日までは居てくれ。それから、あー、出来ればその後のことは一緒に相談したい」

「……そう」

 完全な同意、と呼べるかは分からないが、紅緋姫は返事をした。一応の了承、ということだろう。

「それじゃ、俺はお暇します」

「おやすみっさ、きっくん」

「……おやすみ、なさい」

「おやすみ」

 軽く手を振ると、霧夜は自室へと足を向けた。


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