第三章-2
「ここじゃ少々都合が悪い。場所を移そうか」
ロバートは右手をポケットから取り出すと、指を広げたまま赤い空へと手を伸ばすと、ガシッと何かを攫むように拳を握る。
(何だ?)
この動作に霧夜は見覚えがある。紅緋姫が『人払い』へと移動する時に行ったものだ。だが、既に二人は『人払い』にいる。
不可解な動作だ。警戒心も露に、霧夜はすぐさま動けるように身構える。
すると突然、バキンと音が鳴った。発生源は特定できない。音は大小を繰り返しながら、徐々に間隔が短くなっていく。
刹那。
「――ッ!」
息を呑んだ。
商店街を模した空間から、全くの別風景が広がる場所へと移った。唐突な風景の移り変わりに、霧夜はその場所をすぐに特定はできず、ただ別の場所としか認識ができない。
「ただの空間転移だ」簡単そうにロバートは言った。「平たく言えばワープさ。それじゃ、始めようか。まずはこれぐらいでどうかな?」
ロバートの言葉と同時に、虚空から音もせずに何十もの白い球が彼の周囲一帯に浮かびあがった。幻想的に淡い光を放つ白色の球はピクリとも動くこと無く、まるで宙に接着剤でくっついたように静止していた。
(何だ、あれ)
幻想使いの戦闘は紅緋姫の戦い方のみ知っている。その時は剣を自由自在に操っていたが、ロバートの戦闘スタイルは全く違うようだ。魔法使いのようなもの、として幻想使いを認識している霧夜は、相手が異なるスタイルだとしても然程驚きはしなかった。
よって問題はそこではない。
霧夜が懸念しているのは相手の攻撃方法だ。霧夜がいくら幻想力に対抗する力を持っていたとしても、それを除けば一般人と変わりない。しかも、今まで『力』を行使したことがあるのは、幻想力で構成された異物のみ。
「行くよ」
軽い調子の言葉と共に静止していた白い球が動いた。
(なっ!?)
その動きに霧夜は驚愕の色を隠さなかった。それは白い球がピッチャーマシンから放たれる野球ボールのように、鋭い速度で霧夜へと放たれたからだ。その上、何十もの白い球は数が多く、広範囲に拡がった。まるで霧夜の身体そのものを消滅させようとしているかのようだ。
極端な話、符で防御するには数が多すぎる。
(防御できるか、こんなもん!)
ほとんど条件反射で霧夜は飛びこむようにして右方向の地面へと転がった。目標を失った白い球は空を切り、霧夜が居た場所を通過した。間もなく、鈍い音がしたかと思うと地面が震えた。
霧夜は振り返ると、その場の状態に戦慄を覚えた。行き場を失った白い球が近くの建物を破壊し、瓦礫の山を築いていた。
「……」
その光景を呆然と見ていた霧夜の口から言葉は出ない。代わりに血の気が引いた。
(これが、幻想使い)
幻想使いがとんでもなく無茶苦茶な存在だということは分かっていた。頭でも理解していたし、実際にこの目で見ていたから分かる。しかし、実際に対峙してみると新たな感情が噴き出す。
怖い。
圧倒的な攻撃。殺意が込められた攻撃。一切の容赦がない攻撃。躊躇なき攻撃。上げれば切りがないほど、彼に放たれた攻撃はそれだけの意味があった。
日常では絶対に体感できない恐怖。
それが放たれた一撃の意味であり、正体だ。
(くそっ)
地面に転がる身体も手足も思うように動けない。手足は動かそうとするたびにビクビクと痙攣するように震えているし、胴体は氷漬けにされたように固まっている。
「危ないよ、君」
「へ?」
間抜けな声を上げた途端、霧夜の身体全体を覆い尽くす程の影が差した。嫌な予感がしつつ、悠長にも霧夜は緩慢な動作で空を見上げた。
真横の建物の壁が落ちて来ている。
「おいおいおいおいおいっ!」
死に物狂いで身体を全開で動かし、これまた転がるように建物の瓦礫を避けた。耳元で破壊の音が鳴り響き、建物と煉瓦の破片が霧夜の身体を襲う。
「ちっ」
既にボロボロとなった身体に力を込めて霧夜は立ち上がる。既に恐怖で身体が動かないことはなかった。それよりも、今の目の前に起きる出来事に関心が向き、恐怖が和らいでいた。
「それにしても、ダメだね。避けられちゃ、データの収集にならないだろう?」
心底残念そうにロバートは言う。対して霧夜は皮肉気に唇の端を吊り上げた。
「それはご愁傷さま」
「それでも一つだけ分かったよ」
何? と霧夜が眉をひそめる。
「君の力は今の攻撃だと防げないんじゃないかな?」
「……だから何だ」
「分からないかい? 君は既に迎撃の準備を取っていたのに、態々それを使わずに避けた。それがどういうことか」
ようやく霧夜はロバートが言わんとする事を理解した。霧夜は『力』の範囲ではカバーできないと悟り、攻撃範囲から抜けた。
「推測するに一度に投げられる符は少ない……いや、あまりに対象が多すぎると、その紙は目標として認識できないんじゃないかな」
完全に的を射た指摘だ。
(こいつ……)
今、霧夜は目の前に立つ男が末恐ろしい人物だと認めざるをえなかった。たった一つの何気ない動作で、結論に及ぶ常識外れの思考。幻想使いとは、ここまで恐ろしいものなのか。それともロバートという人物自体の特性なのか。
「それじゃ、次はこれ」
ロバートは右腕をポケットから取り出すと、手のひらを霧夜に突きつける。
瞬間、カッ、と霧夜の視界が白い閃光に染まった。
「!」
ほとんど反射的に符を投げつけた。ロバートが行った攻撃は単純なものだった。手のひらから直径三メートルほどの球体上の白い球を霧夜に向けて投げつけたのだ。
白い球が符に衝突する。
同時に風が揺れた。
最初、霧夜の耳に聞こえたのは掃除機がゴミを吸い取るような激しい吸収音だった。幻想力で構成された白い球は徐々に形が崩れ、最終的には『陣』へと吸収され、跡形もなく消滅した。
霧夜の首筋に嫌な汗が伝う。ほとんど予想通りだったとはいえ、異物以外の幻想力を封印したのは初めてだ。未知なるものとの接触に緊張しないわけがない。
ロバートは感心したように声を上げた。
「今の攻撃に反応するとは、中々の反射神経だね。喧嘩慣れでもしているのかい?」
霧夜は答えず、ロバートを鋭い目つきで睨む。ロバート自身も返答を期待していなかったのか、軽い調子で言葉を繋ぐ。
「まあ、おかげでまた一つ分かったよ。君の力の範囲はその紙から発現する『陣』だけに適用される。また、高密度に圧縮され、一つの形として形成された幻想力の塊は全て封印してしまう、と」
一つ一つの事柄を確認するようにロバートは言った。その後、愉快そうに唇が釣り上がった。
「恐ろしい力だ。普通、高密度に圧縮された幻想力の塊はそうそう簡単に防げるものじゃない。あ、これは褒め言葉として受け取ってくれ」
「はっ」霧夜は鼻で笑った。「素直には受け取れないな」
「時には素直に耳を傾けるのも良い、と人生の後輩からのアドバイスだ」
「俺はお前の後輩じゃない」
「後輩でないにしろ、年上の言うことは素直に聞き入れるべきだと思うけどね。そうしないと、これから大変な思いをするだろう」
「何?」
「分かるだろう? アカシック・クロニクルのカギが手に入れば人知を超える知識を得ることだって可能だ。生半可な実力の幻想使いから、僕のような強大な力を持つ幻想使いも狙ってくる。君が『カギ』を持つ限り、ね。もしかしたら、もう接触しているかもしれないね」
「不安を煽るような文句を言って、素直に聞き入れると思うのか?」
「別に。聞き入れるか、聞き入れないかは君の自由だ。けど、さっきも言ったよね。後輩の忠告には耳を傾けるべきだ」
ふん、と霧夜は鼻であしらった。その様子にロバートは呆れたように肩を竦めた。
ロバートは右手を振るい、目線を手首にやった。
「おっと。結構時間を費やしてしまったね。まあ、『授業』に脱線はつきものか。効果範囲は判明したね。それじゃお次は――」
言葉が完全に紡がれる前に、ロバートは次の動作を開始していた。
彼が行った目に見える動作はポケットから出した右手を再び入れ直しただけだ。しかし、彼の頭上には異常が起きていた。小さな白い球が一つだけ虚空から生み出され、ロバートの頭上に配置されると周囲の『何か』を取り込んでいるのか、どんどんと肥大化していった。それが直径一〇メートルにまで肥大化したところで、膨張が止まる。
「量の限界はどこまでか、だね」
言葉が合図だったのか、頭上に浮かんでいた巨大な白い球は僅かにフワフワと上下に動きながら移動を始めた。その速度は遅い。強い風でも吹けば簡単に流されてしまう巨大な綿毛を連想させた。
その姿を呆けながら見上げていた霧夜にロバートは忠告の言葉を投げる。
「姿に騙されないようにね。これはさっき同じように幻想力を高密度に圧縮したものだ。だけど、比べ物にならないほどの幻想力が込められている。ここまで来ると形は中々崩れない。用途は幻想使いによって様々だけど、僕の場合は――」
カクン、と糸が切れたように突然球が高度を落とす。そのまま地面へと緩やかに着地した。ちょうど、ロバートと霧夜が挟むような形になる。
霧夜の位置からはロバートの姿は捉えられない。しかし、球の向こう側にいるロバートが笑ったような気がした。
「球転がしだ」
前振りは何もなかった。着地と同時に白い球は霧夜に向けて転がり始める。この道は坂道ではないが、何かの力が働いたのか、白い球は霧夜に向けて前進を始めた。
「おいおい!」
焦りで声が口から零れる。
(逃げるしかないだろ、こんなもん!)
霧夜が逃げ腰になるのも無理はない。直径一〇メートルの巨大な球の威圧感は凄まじく、目の前に立つ者を畏縮させるには充分だ。
幸いなことに白い球の速度はそこまで速くない。このまま背を向けて全力疾走し、途中の曲がり角でやり過ごせばかわせないことはない。
思わず足を一歩引くと、建物の破片を踏みつけたのか、ガリッと足元から音が鳴る。同時に盛り上がった地面を踏んだ霧夜はバランスを崩し、僅かによろめき、引っ張られるように首が曲がる。その時、視界にチラリと入ったのは、背後の光景だった。無残にも圧倒的な力によって破壊され、そのままお座なりに放置された街並み。その光景を見た瞬間、霧夜は逃走が不可能だと悟った。
(足場が……!)
道端には破壊された建物の破片が乱雑に捲かれ、極端に足場が悪くなっている。こんなところを走れば転倒の可能性もあり、何より迫って来る白い球に追い付かれてしまう。
(だったら――)
すぐさまポケットから符を無造作に取り出すと、白い球の斜め右下に向かって全て投げつけた。符はピタリと張り付いた瞬間に『力』を解放すると、綺麗な球体だった白い球は齧り喰われたように歪な形を残した。すると、球は右に逸れて建物を薙ぎ倒す。
「なるほど、それでは多くの質量を一度に封印することはできないようだね。面白い」
言葉通り、面白そうにロバートは笑う。身体は小刻みに震え、全身で自身の感情を表していた。
「時間もそうはない。さあ、次の授業に移ろうか」
ロバートはまたもポケットから右手を取り出し、漆黒で覆われた手のひらを宙に翳した。すると、白い小さな雪のような球が次々とロバートの手のひらに集まり、一つに固まっていく。
「あんまり、趣味じゃないんだけどね。昔、魔術師っぽい人が剣を使うのって、何かロマンがあるって言ってくれた人が居てね」
彼が構成し、握りしめるのは仄かに輝く片刃の白い剣だ。装飾はなく、刀身と柄の境界さえもない。手心地を確認しているのか、何度か軽く宙を薙ぎ、剣先を赤い空に向ける。
「次は実戦だ。君のその能力をフルに発揮してくれ」
「実戦?」
「ああ。次は殺すから覚悟してくれ」
「――何っ!?」
驚嘆の声をかき消すように、ロバートは虚空に剣を振るう。右から左へと流れた剣から三日月状の白い刃が水平に放たれた。
(早いっ!)
三日月型の刃の速度は恐ろしく早い。範囲も建物と建物の間に挟まれた道をギリギリで通れるように調節したのか、逃げ場がない。霧夜は三枚の符を投げ、三日月型の刃を迎撃する。
「そういう重要なワードをあっさり告げるな!」
「別に良いじゃないか」
軽い調子で返す。そして、今までとは違う冷酷な笑みを携えて、言葉を紡ぐ。
「僕からは見れば、人間一人の命なんてちっぽけなものだよ。そんなちっぽけなものに、イチイチ重い雰囲気をつけて言うことないだろ?」
「……そんなことを平然と言うな」
霧夜の声がたしなめる様な声色に変化し、静かに告げた。だが、ロバートは反省しない子供のように反感的で、どこか挑発的な口調で言い返した。
「文句があるのかい?」
「大有りだ」
「ふむ。やはり人間と僕の価値観は相いれないものだね」
瞬間、ロバートの身体を取り巻く様に何十もの淡く発光する白い三日月が出現し、直進してくるのに対して霧夜は符を投げて片っ端から迎撃を始める。だが、如何せん数が多い。第一陣を迎撃すると、すぐに左へ転がって攻撃範囲から遠ざかる。
(体勢を……!)
体勢を整えていたおかげか、転がった力を反動にしてすぐに立ち上がった。
「おいおい、二回目は通用しないよ?」
すぐ耳元で声がした。と同時に視界がぶれる。景色がぼやけ、はっきりと認識ができなくなった。次に感知したのは浮遊感。身体が揺れ、まるで無重力空間に居るような錯覚。
それが攻撃を受け、身体が宙に浮いたのだと気づいたのは、近くの建物の玄関扉に叩きつけられた後だった。
「がぁ……!?」
身体の骨、特に背中の骨がミシリと悲鳴を鳴らす。刹那、肺が押しつぶされ、呼吸が止まる。
「まだ、だよ」
遠くから耳に入る警告。しかし、霧夜はその声に届かない。それでも、霧夜は自分に襲いかかるものを見た。
単純な白い塊。
それが直撃ルートを通っている、と理解しても霧夜は反応ができない。ただ静観することしかできない。
霧夜の身体を受けた扉は、ものの見事に破壊された。何てことはない。霧夜が受けた攻撃を扉が受け止めきれず、粉砕されたのだ。そのまま霧夜の身体は地面に叩きつけられ、天井が低いの廊下を何メートルか滑る。身体が止まったのは廊下から抜け出し、高い天井が視界に入った時だった。
止まっても、すぐに立ち上がることはできなかった。意識が朦朧として視界が霞み始め、意識を失う――霧夜はそう悟ったが、コツコツと鳴り響いた足音が一気に覚醒を促した。
まだ、脅威は去っていない。
(ちっ)
足音に対し、ほとんど反射的に立ち上がると、ポケットから符を取り出して投げつける。が、すぐに白い球によって相殺されてしまった。くそ、と悪態を心の中で呟きつつ、霧夜は現在の状況を確認した。この建物の入り口には白い剣を持った漆黒の男が一人。廊下を挟んで霧夜が立っている。
(……チャンス、か?)
廊下はそれほど広くはない。少なくとも、道路よりは遥かに狭い。おまけに高さに制限がついているとなれば、それほど巨大な白い球を形成することもできないだろう。懸念があるとすれば、接近戦だ。
(なら、近づかせなければ良い)
それをするにはどうすれば良いか? 答えは一つしかなかった。
ポケットから無造作に符を取り出し、その全てに『力』を込めて、ロバートとへと投げつけた。さらに一拍間を置いてから、もう片方の手に握られた符を投げつける。
(大量の符を投げての力押し)
作戦も減ったくれもないごり押し戦法。それが霧夜の下した結論だった。この狭い空間ではロバートは大規模な攻撃を行うことは出来ない。必然的に細かい攻撃、または接近戦へと変わって行くだろう。ならば、霧夜は手数を多くし、ロバートを近づかせないようにすれば良い。
この攻撃に対してロバートは反撃する。彼の両肩の上に、仄かに白く輝く槍が形成され、浮かび上がると、迎撃するために符の集団へと向かっていく。
眩しい光が赤く塗られた薄暗い廊下を照らした。
その光に注意を向けることなく、霧夜はさらに第二撃を放つ。それはロバートとも同様だった。少し遅れて白い槍が形成されると、迎撃するために放たれる。
『力』を込めた符と白い槍の応酬。
このどの程度続いたのだろうか。恐らく何分も経っていないだろう。霧夜はこの戦いに変化が訪れていることに気が付いていた。
霧夜の符を大量に投げつける連続攻撃に対し、ロバートは着いてきている。いや、追い着いて抜かし始めている。霧夜は徐々に押され始めているのだ。簡単な話、符に『力』を込めて投げる動作よりも、ロバートが槍を形成するスピードの方が早いのだ。しかも、数は無限と来ている。時間が経てば、圧倒されるのは当たり前と言えた。
しかし、霧夜は符を投げる作業を止めることはできない。止めてしまえば、その間に槍が霧夜の身体に風穴を空けることだろう。
どうする?
(この状況を打破するには――)
考えようとしても、阻害するように槍はさらにペースをアップさせて放たれている。霧夜はそれに対応して、さらに符の投げるスピードを速めるが、それは思考を広げるには邪魔でしかない。
そして、この対応はいつかボロを出す。
ついに霧夜はミスを犯した。
天井近くから迫ってきた槍を迎撃する符が、天井に当たり、『力』を解放してしまったのだ。障害がなくなった槍は突き進むも、何とかは符を投げてカバーする。
だが、いらない手間を一つかけると、その後の状況に影響するのは明白だ。槍が形成される速度はさらに上がり、霧夜は対応しようと符を投げるが、ついに限界が来た。
槍に対して符は減少し、何本かの槍が霧夜へと到達する。そのどれもは致命傷ではなく、擦り傷を作る程度のものだが、霧夜は気づいてしまった。
無理だ、と。
自分はロバートの槍に押し切られる、と。
(もう)
駄目か。霧夜は本当にこの場所で『死』というものを覚悟した。
その時。
前触れは何もなく、唐突だった。目の前の廊下の天井、ちょうど霧夜とロバートの間辺りから、大きな塊が落ちたかと思うと、上から家具が雪崩れ込んできた来た。さらに天井には亀裂が広がり、家具が落ちてきた穴を中心にして天井を形成していたものが落ちてくる。
天井の崩落だ。
それを認識した霧夜はすぐに身を翻して駆けた。槍の猛攻もピタリと止み、ただ霧夜は走ることだけに神経を研ぎ澄ます。耳をつんざくような音が鳴り止んだのは、二階に進む螺旋階段を半分昇り切ったところだった。恐る恐る、階段を降りて入り口に戻る。
入り口は埃が舞い上がり、赤い世界が霞んでいる。それでも、惨状は目に入った。瓦礫が幾重にも重なり、山と化し、出入り口を完全に塞いでいた。
(……どういうことだ?)
突然の崩落。その前兆は何もなかったはずだ。まさか、符と槍の応酬が天井を崩したというのだろうか?
(まあ、今は幸いと受け取っとくか。それよりも、ロバートはどうなったんだ?)
周りは不気味なほど静かだ。霧夜以外の気配も特に感じられない。まさか、ロバートは天井の崩落に巻き込まれたとでも言うのだろうか? 可能性はなくはない、と霧夜は考えたが、すぐに振り払った。相手は幻想使いだ、何が起きても不思議ではない。
ならば、霧夜のすることは一つしかない。
(……準備でもするか)
入り口だったものに背を向けて、霧夜はこの建物の部を見渡した。
「ここは……」
初めて、自分がいる建物に気がついた。自分が暮らしている学生寮だ。特徴的なガラス張りの天井、一階から四階までが吹き抜けとなり、普段なら太陽の光が一階の広場を照らし、どこか美麗さを感じるのだが赤一色で塗りたくられた世界ではそんなものへったくれもなかった。
広場には中央に花壇が設けられてあり、木々と種類不明の花が何本か咲いていた。いつもの世界ならば色鮮やかに思えるのだろうが、この世界では元々が何色なのかは判断できない上、赤一色というのが不気味に見えた。
(こんなの咲いてたんだな)
思えば学生寮を見て回ったことなどなかった。連休中のほとんどは外出していたし、帰ってきても自室に直行するだけだった。不思議と新鮮な気持ちに駆られ、しばらく花を眺めていたが、ふと我に帰る。
(こんなことしてる場合じゃないな。なんとか、あいつから逃げ多さないと)
踵を返し、霧夜はその場から離れる。行く当てなどないが、今は寮で何かしらの準備をするのが最善の策だと思われた。このまま再度ロバートと対峙したところで、先ほどと同じような展開になるのがオチだ。
(でも、何を準備すれば良い?)
あの幻想使いに対抗ができる策など、あるのだろうか? ちゃちな罠は通用しないだろう。
ならば、と霧夜はたった一つの希望のために行動をするしかない。
(『時間があまりない。人払いは完全な空間移動技じゃない』)
なるべく足音を立てないように、だが速やかな移動を心掛けながら、霧夜は二階への階段を上がる。
(あいつは確かにこう言った。それがどれくらいの時間かは分からないが、少なくとも一〇時間とか、途方もない時間ってわけじゃないだろう)
そうでなければ、時間があまりない、などとは言わない。無論、嘘だという可能性も否めないが、今はその希望にかけるしかない。
(できれば『かくれんぼ』で時間経過を図りたいが……)
恐らく無理だろう、と霧夜は思った。どこに隠れようが、あの賢者は居場所を突き止めてくる。確証はないが、そう思わせる雰囲気を奴から感じる。
(となると……どうするか)
階段を昇り切り、自室のある二階に着いた。行くあてもない霧夜はとりあえず自室へと足を向けた。
「……!」
角を曲がろうとした時、床に影が差していることに気がついた霧夜は咄嗟に足を止め、壁に背をつけた。
(あいつか?)
人の気配は感じられない。意を決して廊下を覗き込み、その姿を視認した。
「こいつは……」
少なくとも、敵ではなかった。味方とも言えない相手ではあったが。
相手は寮を巡回する警備ゴーレムだった。ただし、電源が切れているのか機能が停止している状態だった。
少々肩すかしを食らった気分ではあるが、無害な相手であったことに霧夜は感謝した。壁から身体を出して、警備ゴーレムへと近づく。
(いつも巡回している奴か?)
ボディに貼ってある型番号を見る限りそうらしかった。しかし、違いが一つ。
(受信機があるな)
この寮を巡回する警備ゴーレムに付いている受信機は、霧夜が壊している。
紅緋姫の言葉が脳裏を過る。彼女はこの世界を元々の世界のコピーで、二週間毎に世界を更新すると言っていた。ならば、この受信機が壊れていないことは不自然ではない。
それから警備ゴーレムの姿を霧夜は何となく観察し始めた。これに何か突破口が見いだせるものがあるとは思えなかったが、この異質な世界で身近にあるものを発見できた喜びだろうか、何となく警備ゴーレムと一緒に居たい気分になっていた。
ふと、霧夜は見慣れないものを見つけた。
「何だ、これ」
警備ゴーレムの天辺には歪な六亡星が描かれていた。明らかに人の手によって描かれたものであり、指でこすってみるが消えなかった。
(俺が壊した時はこんなもの書いてあったか?)
日ごろから警備ゴーレムを観察しているわけでもないので、分からなかった。誰かの悪戯だろう、霧夜はそう結論を出し、考えるのをやめた。
数分後、霧夜は何となく名残惜しい気分になったが警備ゴーレムと別れを告げ、自室へと足を向けた。
自室のドアは現実と何の変化もなかった。無機質な部屋番号が部屋の主を出迎えている。部屋の中に入っても、一見して大した変化はなかった。
無意識に電気を点けようとスイッチを押したが、部屋の光量に変化はない。何度かカチカチ鳴らしてみたものの、変化は一行に訪れない。
(電気は通ってないのか?)
どうやらそうらしい。廊下を通って、リビングに入ってざっと見る。今よりも家具は遥かに少ないが、最低限のものは置いてある。
(妙な部屋だな)
偽りの部屋とはいえ、自室であることに変わりはない。それなのに部屋に帰って来たという安堵感はなく、懐かしい雰囲気もしない。どこかモデルルームのように整然とした佇まいがある。
この感覚に霧夜は覚えがある。
(俺が記憶を失って初めて入った時だ)
記憶を失い、病室で翁舞と出会った霧夜は学生寮の一室へと連れて行かれた。ここが霧夜の住んでいた部屋、と説明され、その言葉に従って霧夜はその部屋での生活を始めた。
しかし、今でこそ馴染んだものの、霧夜はどうにも自分が住んでいた部屋だとは思えなかったのだ。
その時の感覚と、今の状態が非常に類似していた。
(ま、いいか)
今は別のことに思考を回すべきだ。そう判断し、霧夜は意識を切り替える。とりあえず何か使える物はないかと部屋の中を物色を始めるも何もない。第一、この状況下で使えるものとは何なのだろうか。
(やっぱ、武器になる包丁とかか? でも、幻想使いには歯が立たないだろうし……)
あれこれと考えるが、どれも現状では役に立ちそうもない。下手すれば荷物にもなるし、ここは何も持たずにしておいた方が無難な選択だ。
次にベランダへと出た。いつもなら、心地よい風が身体を程良く撫でるのだが、完全に無風で室内と気温に差はない。寒くもなければ、熱くもない、何とも言えない気温。不快感もなければ気持ちが良いとも言えない。
学生寮の周囲には、この建物よりも高い建築物はなく、同じ高さか、それ以下の煉瓦で造られた家々で埋め尽くされている。そのおかげか、ベランダからは赤い世界がある程度見渡せた。普段ならば調和を持って活気に満たされる常世だが、この世界の常世は様変わりしている。あらゆる時の刻みが行われていない、『死んだ』世界だ。
(寂しい場所だな)
世界を一望して、霧夜はそう思った。温もりも、冷たさも全てを拒絶する世界。
そう考えた途端、焦燥感に煽られた。一刻も早く、ここから出たいと言う気持ちの表れだった。
「……出るか」
寂しそうに呟き、霧夜は自室から出ようと扉へと歩み寄る。この扉を開けたら、元の世界に戻れるかもしれない、などとあり得ないことを考えつつ、扉を開ける。
やはり、変わらない赤い世界が広がっていた。あるはずがないと考えていたが、少しがっかりとした。
(さて、これからどうするか)
ここに居るだけでは駄目だ、と判断して霧夜は次の階へと向かおうと歩き出す。
角を曲がったところで、
「別世界でも自宅というものが恋しいのかい?」
声を掛けられた。
「!?」
誰に声を掛けられた、という考えが頭へ行き届く前に、霧夜は『力』を込めた符を投げつけた。前方で白い閃光が走る。
白い閃光によって遮られた視界が晴れ、正体を現す。
「やっと見つけたよ」
霧夜から見て左方向にロバートが立っていた。漆黒に染まったコートに僅かな汚れがついているのは建物の損壊に巻き込まれた証だろう。だが、負傷した様子はなかった。
ロバートは世間話でもするような調子で霧夜に話しかける。
「君も大胆だね。まさか、建物の一部を崩壊させて僕を殺そうとするとは」
「何?」
「……そうか。君はこの世界の物質が何で構成されているのか、知らないんだね。と言うことは偶然の産物か。そうだね、考えてもみれば君が僕を殺そうとするとは思えないし――」
一人でぶつぶつと呟くロバートだが、その声は小さく、特に後半の方はほとんど聞き取れない。
「まあ、良い。この情報は教えない方が面白そうだ。さて、続きと行こうか」
「!」
再びロバートの身体が白い球で覆い尽くされる。一時的に浮遊した球は一直線に霧夜へと放たれた。霧夜は『力』を込めた符で撃ち落とす。それを何度か繰り返したが、不意に攻撃が止んだ。
(どうした?)
霧夜にとっては有難いことだった。白い球の一つ一つは大した威力ではないが、恐るべきは止むことのない弾幕だ。また、先ほどのように押し切られてしまうだろう。
「何故、君は向かって来ないんだい?」
唐突に切り出された話題に霧夜は首を傾げる。今この場において、全く意味のない質問だ。
霧夜が答える前に、ロバートは言葉を紡ぐ。
「大抵、こういう状況に置いて人間は二つの選択肢がある。一つは僕に戦いを挑むか、二つは僕から逃げるか。君はどちらかというと後者より選択だ」
だから、どうしたというのだ。人間である霧夜にもその理屈は通用する。
不思議そうな顔をしていたのか、ロバートは相手に理解させようと、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「おかしいとは思わないのかい? 幻想使いにとっての最大の脅威は自らの能力の無効化だ。それじゃ、完全とは言えないまでも幻想力を無効化する能力を持つ君は、幻想使いにとって最大の天敵。はっきり言えば、君は人間という枠組みからちょっとずれているんだよ。よって、僕が挙げた人間の行動に君は該当しない存在だ」
「何が言いたいんだ、お前」
「つまり、君はこの僕に向かって刃を向けるべきだ、と言いたいんだ。最大の脅威である『力』を持つ君は、幻想使いと肩を並べるべきだとね。どうして、そうしないんだい? 幻想使いの力に恐怖心でも覚えたのかい? あれだけ異物と戦っておきながら? 見る限り、今の君は僕に対してトラウマになるほど恐怖心があるとは思えない」
確かに、と霧夜はロバートの言葉に納得した。初撃では身体が動かないほどの恐怖を霧夜は覚えたが、今ではその恐怖心は和らぎ、面と向かって言葉を投げかけたり、恐怖心で身体が凍りついたように動かないなどと言った心理的不安とは皆無だ。
いったい、それは何故だろうか。霧夜自身にも分からなかった。
「それとも、傷つけながらも僕を説得しようと試みているのかい? それなら、やめた方がいい。僕は君の言葉に惑わされない」
「そんなこと、分かってる」
「だったら戦えば良い、蒼炎霧夜」
「悪いが、俺には――」
否定の言葉を告げようとした時、
「傷つくのを見たくない? 苦しむ姿を見るのは勘弁願いたい? それとも――戦う理由がない?」
「―――!?」
驚くほど澄んだ声だった。まるで心を打つような調子に、霧夜の身体はガクリと一瞬よろめいた。
ロバートはクククッと低く笑った。
「なるほどね。君が戦わない理由が分かった。けど、それじゃ困るんだよ。こっちには相応の戦う理由があるっていうのにね。だから、作ってあげるよ。君の戦う理由を」
綺麗に反った人差し指で、ロバートはある場所を示した。
「そこの非常口の扉。開けて見れば分かる」
(……罠、か?)
考えられる理由ではあったが、好奇心には勝てなかった。ジリジリとロバートに背を向けることなく、非常口の扉を背にすると、急いで振り返って扉を開いた。
最初に見えたのは赤に染まった常世の景色と、上と下に続く非常階段だった。色を除けば、特にめぼしいものはない。
変化があったのは地面だった。最初に気付いたのは元々は茶色であっただろう煉瓦の地面にばらまいてあった黒ずんだ赤い液体だった。それが血なのだと認識するのに大した時間はかからなかった。さらにその奥には何か大きな物体が転がっていた。その姿は人に見えた。緋色の髪に、桜色のコートに血飛沫がコーティングされている。
見覚えのある姿だった。
「なっ――」
霧夜は言葉を失った。
「く、ひき?」
見間違えることなどなかった。遠くからでも分かる特徴的な服装や外見など、霧夜の記憶には彼女しかいない。さらに言えば、この街中でそんな格好をした人も彼女しかいない。
紛うこと無き、紅緋姫桜――本人だった。
彼女はお腹を隠すように背中を丸めて倒れていた。間近で見ると、その惨状はひどいものだった。出血多量なのか、彼女を中心に血溜まりは今も広がり続けている。桜色だったコートには血飛沫が飛び、白い頬は真っ赤に彩られていた。
霧夜は力なく、膝を下した。
「ど、して、な、んで――」
うまく言葉が紡げなかった。
背後からロバートの声が赤い廊下に響く。
「疑問に思わないのかい? 何故、『僕がアカシック・クロニクルのカギを君が持っている』という情報を知っていたのかを。聞き出したに決まってるだろう。さて、問題はここからだ。僕はいったい誰に聞きだしたでしょう?」
この状況下で答えなどたった一つしかない。
「僕が何の情報も集めずにいたと思っていたのかい? 例えば君が二週間前から異物を退治し続けていたとか、誰がカギを狙っている人物なのかとか。ほとんどの情報を僕は得ているんだよ。情報というものは貴重だ。たった一つで物事の動きが変わることも珍しくない。それを手に入れることこそが重要なんだよ。だから、それを手に入れるためなら、僕はどんな手段でも使う」
凛とした声。
「さて、どうかな。戦う理由が少しはできたんじゃないか?」
戦う理由。
そんなもののために、一人の少女が犠牲になったというのだろうか?
「生きて、るのか?」
ほとんど絞り出すような声だった。
「紅緋姫は、生きているのか?」
「ああ、辛うじてね。ほとんどの虫の息の状態なんじゃないかな?」
「……そうか」
地面につけていた膝を離し、霧夜はゆっくりと立ち上がった。ロバートに振り替えるわけでもなく、独り言のように呟いた。
「さっさと、病院に行くしかないな」
この言葉にロバートは眉をしかめた。
「……この状況下で、そんなことができると本気で考えているのかい?」
「当たり前だ」
ここで初めて霧夜はロバートに振り替えった。強い決意を込めて、彼は言い放つ。
「お前をぶっ飛ばして、病院に行く」
言葉が合図だった。
ゴッ、と鈍い音が赤い廊下に響き渡る。
「ぐぅ……!」
唸り声をあげたのはロバートだった。
素早い拳だった。霧夜が言葉と同時にロバートとの間合いを詰め、一瞬にして懐に入り、拳の一撃を懐へと放ったのだ。驚くべきことに殴られた衝撃でロバートの身体がふわりと浮かんだ。さらに数十センチ後方へと身体は下がる。着地の際にバランスが崩れ、倒れそうになったが何とか踏ん張った。
その隙を見逃すほど、霧夜は甘くはなかった。
気づけば二撃目の拳は眼前へと迫っていた。一メートルもない距離。だが、安々と二撃目を食らうほどロバートも愚かではない。
ロバートの姿が後方へと下がる。軽い足取りのバックステップ。既に二撃目を放っていた霧夜の拳はその動きに対応しきれず、空を切った。ロバートの姿は目の前から消えようとしていた。左の角へと曲がりかけている。霧夜はその姿を追いかけ、同じように角を曲がり――
「角を曲がるときは注意した方がいい」
言葉が認識すると同時に、霧夜は目前へと迫って来ている物体を見据えた。
白い槍。仄かに発光するそれは、霧夜へと投げ放たれた殺人の槍。このままでは頭部に直撃する。当たれば致命傷どころの話ではない。即死だ。
その状況の中で霧夜は冷静に対処した。首を僅かに右へと傾かせ、槍の直撃を阻止する。風を切る音が耳音で鳴り、数秒の誤差で後方から壁が崩れる音が鳴り響くが、その音を意に介さず、霧夜はロバートに向かって直進する。
しかし、次の行動で霧夜は止まらざるを得なかった。
ロバートの足元から三日月形の白刃が放射線状に放たれた。咄嗟に右足を前に出し、ブレーキをかけた霧夜はすぐさま符を投げつけ、白刃からの攻撃を打ち消す。
霧夜は注意を目の前の空間へと向けた。
四方八方へと放たれ白刃の影響で左方の壁が崩れ、部屋が向け出しの状態となった。向かい側の部屋の壁も白刃の攻撃を受けたのか、遠くからガラガラと崩れる音が学生寮内に鳴り響いた。
衝撃の中心地となったこの場所には粉塵が舞う。ほとんど視界はシャットアウトされた状態と言っていい。
その様子を霧夜が静観するわけもなく、すぐに胸の前で手を交差させた。
同時に目の前の粉塵が吹き飛ばされた。
吹き飛ばした張本人のロバートは右足を霧夜へと突き上げ、飛んでいた。俗に言うジャンプキック。
漆黒に染められたブーツが迫る。十字に組んでいた腕で受け止めるが、その衝撃は大きかった。身体が受け止めきれず、霧夜の身体は宙を舞い、後方へと吹き飛んだ。視界がぐらりと揺らいだ。
(体勢を!)
地面に叩きつけられる。痛みが走るが、それに気を使っている暇はない。転がりながら下がって素早く立ち上がった。
「!」
眼前に、放たれていた光弾が霧夜に襲いかかろうと迫って来ていたが、符を投げる時間がない。この状況に対して、霧夜はポケットから符を即座に取り出して、自分の目の前で展開させた。
白い球による攻撃は防げたが、衝撃の方は防げず、霧夜は後方へと吹き飛ばされるしかなかった。
何メートルか吹き飛ばされ、床に背中を打ったが何とか地面を一回転して立ち上がることに成功した。その瞬間、右腕に痛みが走る。次に左足、右足、左腕。刃物に切り刻まれたように鋭い痛みに加え、傷口から灼熱のような熱さが伝わる。
光弾の嵐が終わった時、霧夜は片膝を地面に付くしかなかった。
「……意外だね」
言葉通りにロバートは呟いた。
「型は滅茶苦茶だが、動き自体は対人戦に慣れている。くくっ、てっきりインドア派かと思っていたんだけどね」
「……人を見た眼で判断するなって、教わらなかったか?」
「これは失敬。賢者ともあろう僕が先入観に捕らわれるとは……」
何かぶつぶつと呟いているが、霧夜はロバートの声を意識の外へと追いやり、自分の状況を確認した。手足からは白い球による傷がつけられ、動かす度に痛みが走る。だが、まだ許容範囲内だ。
「やめた方が良い」身体を動かそうとする姿を見ていたのか、ロバートの声が飛んできた。「その状態で僕に敵うわけがない」
その通りと言わざるを得ない。痛みは我慢できるが、傷のせいで動きが鈍くなるのは確実だ。もし自分が不穏な動きを見せれば、容赦のない攻撃が襲いかかり、霧夜はそれを交わすことができないだろう。
(くそ、どうすれば――)
霧夜は自分がどこにいるのかを確認した。斜め左後ろには動かないエレベーター、斜め左前には階段がある。しかし、階段の入り口に行くにはロバートに接近することになる。この状況下では見す見すやられに行くようなものだ。
考えようと、霧夜はこの場の状況をつぶさに観察するが、目の前の男はその時間を与えなかった。
「幻想使いの運動力は人間をはるかに凌駕する。そんな相手によく戦ったよ。称賛に値するね。しかし、」
ロバートが右手を宙へと上げる。
「これでチェックメイトだ」
◆
ガタン、とエレベーターが揺れた。どうやら、止まったらしい。扉が開き、霧夜は素早く降りた。それを見計らっていたように扉が閉まり、下に向かうことなく、動作を停止した。その様子を見守った霧夜は背中を壁に預け、座り込み、荒くなった息を整える。
(危なかった)
あの時。
爆発する白い球が迫る時、手負いの霧夜は動くことが出来なかった。階段から逃げるにも機を脱し、ただただ白い球が向かって来ることを静観することしかできなかった。
その時、突然エレベーターの扉が開いた。
何故、今まで動いていなかったエレベーターが突如として動いたのか、しかも、何故こうもタイミング良く開いたのか、疑問に思う点は多かったが、このチャンスを逃すつもりはなかった。無我夢中で転がり込み、ロバートの攻撃を避けた。自力でドアを閉めた覚えなく、動かした覚えもない。
(まあ、今は降った奇跡に感謝ってとこだな)
本当に奇跡なのかどうか脇に置くとして、重要なことは別にある。
(これからどうする?)
まだロバートは倒れていない。ただピンチを切り抜けたに過ぎず、予断は許さない。
一番の懸案事項は紅緋姫の容体だ。大量の血を流しているところを見ると、時間はあまり残されておらず、早急に病院に連れて行かなければならない。いっそのこと、応急処置だけでもしておくべきかと思ったが、紅緋姫の下に向かうのは危険過ぎる、と判断した。ロバートが待ち受けている可能性があるのだ。深手を負う紅緋姫をさらに危険下に置くわけにはいかない。
ロバートが紅緋姫を殺す、という状況も想定できるが、その確率は低そうに霧夜は思えた。奴は紅緋姫を霧夜の本気を出させるための餌にした。ならば、格好の餌を殺すわけにはいかないだろう。
(かといって、悠著にしてられないな。とは言っても、ここの時間制限はいつになったら切れるんだ)
そもそも時間制限という言葉自体、ロバートが発したものだ。もし、この発言自体が虚偽だったら、打つ手は少ない。
何が最善の手段なのか。考えて考えても答えは出ず、疑問の迷路に迷い込んでしまう。霧夜は段々とイライラしてきて、
「くそ!」
ガン、と壁を蹴る。足の甲が痛かった。
(冷静になれ。熱くなるな。考えろ)
何度か深く息を吸い込むと、強張った身体が解れ、滾った頭は急速に冷えて行く。リラックスはできた。それから霧夜は再び思考の渦へと突入した。この状況を打破するために、これまでのことを全て思い出して、一つ一つをチェックしていく。
(……そういえば、あの時)
学生寮の玄関口での戦い時、何故天井が崩落したのだろうか
通常、天井が崩落することなどあり得ないが、幻想力を使用した攻撃ならば可能だ。しかし、この世界で唯一行使しているロバートは天井を壊そうとはしていなかった。恐らく、あの賢者ならば崩落の危険性を理解していたのだろう。
ならば、何故天井は崩落した?
唯一、天井を崩落させる力を持つ人間が天井を壊さなかった。
では、誰が?
「……あの時」
どういった状況だっただろうか。奥へと逃げ込んだ霧夜。入り口に立つロバート。大量の符と白い槍のぶつかり合い。白い槍の多さに霧夜が押し負けようとした時、崩落した天井。
次々と浮かんでは消える記憶の断片を探り入れるが、決定的なものはない。さらに記憶のルートを進んでいく。
(そう言えば)
脳裏に浮かぶのは二階でロバートと遭遇した時。
あの時、ロバートは何と言いかけた?
――君も大胆だね。まさか、建物の一部を崩壊させて僕を殺そうとするとは。
――なに?
――……そうか。君はこの世界の物質が何で構成されているのか、知らないんだね。と言うことは偶然の産物か。
「……あ」
小さく声をあげた霧夜は符を一枚取り出し、『力』を込めて、壁に貼り付けた。
(俺の考えが正しければ)
拳を握りしめて『力』を解放する。青く輝く『陣』が符を中心に広がる。『陣』が終息すると、その部分の壁が消え去り、室内が垣間見えていた。
(やっぱりか)
今の実験で確証は得られた。
だが、この現象をどう活用する? 接近戦でもロバートには敵わないことは実証済みの今、この現象を活用するしか道は残されていない。ならば、中距離から符で攻撃するしかないが、光の弾を使われたら、防がれてしまう。
(……この現象を突破口に使うのは無理があるか)
何度か考えても、この現象を使うのは無理に思えた。
(くそ、ならどうする?)
銀髪の頭をわしゃわしゃとイラついたようにかく。
(落ち着け。別の手を考えろ)
こうしている間にも、ロバートが迫って来ていることは明白だ。霧夜の中には焦燥感が生まれ、思考を鈍らす。本人もそれを理解していたが、本人がどうこうできるものではない。
カサリ
まるでその音が霧夜に冷や水を浴びせたようだった。一気に焦燥感は消え去り、冷静な思考が戻ってくる。その音は自分のスボンのポケットの中からだった。どうやら、いつの間にかポケットに手を入れていたらしく、中に入っていたものを触っていたらしい。音からして紙のようなものだが、霧夜は何を入れたのか覚えていなかった。引っ張り出して見ると、それは茶封筒だった。
(そういえば、雨師から貰った封筒、まだポケットに入れたまんまだったか)
補充された符が入っていた封筒は既に空っぽだ。霧夜は何となく、それを開けてみた。そういった状況でないことは百も承知ではあったが、何かを得られるのではないかと希望的観測も持っていた。
(もう符は全部出したから、何も……あれ?)
良く良く見ると、符と明らかに違う別の紙が混じっていた。至って普通の一般用紙であり、四つ折りになっていた。開くと、そこには雨師からの異物退治に対しての簡単な労いの言葉が書かれおり、さらに読んでいくと、符の説明が書かれていた。
「……これは」
説明を読み終わり、霧夜は思わず微笑を洩らした。
絶望ではない、希望の笑みを。
◆
上階からガタン、というやや乱暴な音が僅かに聞こえた。エレベーターが止まった音だろう。急速に上がって行ったエレベーターの入り口を凝視していたロバートの表情は笑みが崩れ、驚愕に染まっていた。
(何故、動く?)
別段、ロバートはエレベーターを動かさないような工作をしていたわけでもない。そもそも行う必要性がない。エレベーターが動く、常世における日常の常識で言えば何ら不思議な現象ではない。だが、日常とかけ離れたこの世界では異常とも言える現象だった。
(『人払い』で移動した空間は幻想力によって、『形』だけが構成された世界。生物が存在しない世界でエレベーターが動くはずがない)
あり得ない現象。
しかし、現実にエレベーターは稼働し、霧夜を上階へと運んで行った。
エレベーターの昇降スイッチを何度か押してみるが、動く気配は微塵も感じられない。明らかに動作が停止している。
(人為的現象だ)
そう結論付け、ロバートはさらなる疑問と対峙する。
誰が動かしたのか。
確証はある。というのも、こんなことができる人物はそういない。『人払い』の空間において、気づかれないように世界に対して干渉する実力を持つ人物。そんな人物をロバートは一人だけ知っている。
「――最大教主」
この街の実質的なトップの名をロバートは口にする。
(君が直接手を出してくるとは……。やはり、見過ごしてはくれないようだね)
長年会っていないかつての友人の顔を脳裏に浮かべ、ロバートは思わず笑みを浮かべた。
(おっと、感傷に浸っている暇はないか)
時の流れは止まらない。こうしている間にも、ここにいられる時間は狭まって行く。
エレベーターから目を離し、隣の階段を上がろうとして、ロバートは自分が疲労していることを感じ取った。
(この姿というのは不便だね。肉体は幻想使いと同程度。空間移転には膨大な幻想力を必要とするなんて、この姿こそだ。まあ、僕は他の奴に比べたらマシな方だけど……)
少し休憩するか、とロバートは段差に腰を下ろし、この先の状況を考えることにした。
エレベーターが止まった階層を正確に把握できていないが、音から察するに上の階であることは間違いない。このマンションの階層は全部で四階プラス屋上となっている。無論、エレベーターまで行けるのは四階までであり、屋上に行くにはドアを開けなければならない。ただし、管理人室に置いてあるカギが必要だ。
(人払いの更新日は二週間ごと。屋上への逃走はなし、と判断していいだろう。彼なら無理やり開けられるけど、その事実にも気付いてない)
ならば、上の部屋のどこかに潜んでいる可能性が高い。それとも、罠を仕掛けて待ち構えているかもしれない。どの選択を取るか、行動を予測するほどロバートは霧夜という人間を把握していなかった。
(そろそろ行くか)
立ち上がると、ロバートは階段を昇る。
一階ずつ、軽く階の全体を見渡す。先ほどの行動から察するに、霧夜がロバートを見つければ殴りかかってくることは確実と言える。そのため、わざと大げさな動作をしたりするのだが、特にこれと言った反応はない。
ゆっくりとゆっくりと、急ぎもせずにロバートは階段を上っていく。螺旋階段ではないが、ほとんどグルグルと回りながら階段を上っていく作業はなかなか辛い。
階段を昇る短い単純作業は最上階となる四階へとたどり着くまで続いた。
「よう」
階段を登り終え、角を曲がると同時に声をかけられた。
その姿は廊下の遥か先に居た。特徴的な白髪に近い銀髪を持つ、メガネをかけた少年は堂々と、それでいて冷静な姿でロバートを見据えていた。
少々意外な姿に驚きを覚えたロバートだったが、表面に出すことはない。
「ようやく見つけたよ。この身体だと足腰が辛くてね」
「悪いが、お前の冗談に構ってる暇はない。紅緋姫を病院に連れて行かなきゃならないからな」
「冗談じゃないんだけどなぁ」
適当な返事をしつつ、ロバートは霧夜の変化に疑問を抱いた。
あの自信溢れ出る態度はどういうことだ?
先ほど殴りかかって来た霧夜を怒り狂った猛獣と表現するならば、今度は爪を研いで獲物を待ち伏せている鷹といったところだ。
(何か仕掛けたのか?)
可能性は高い。少なくともゼロではない。敗走した者が何も仕掛けずにあそこまで毅然とした態度でいるのには必ず理由がある。
(まあいい。追い詰められた獲物が、何をしでかすのか。僕に見せてくれ!)
ロバートは自身が高揚するのを感じた。
「それじゃ、こちらから行かせてもらうよ」
「いや、先手は取らせてもらった」
「何?」
よく見ると、霧夜の拳が握られている。
(符に込められた『力』を解放している? しかし、符は……)
疑問の答えはすぐに実証された。
突如視界が揺らぐ。加えて浮遊感。しっかりとした足場の感触が岩場のようなものに変化している。
(これは……)
足場に亀裂が走り、ロバートの身体は落下しかかっていた。
完全に崩落する前に後ろへと跳ぶ。ロバートが元々居た場所には、歪な穴がぽっかりと覗かせていた。
「どうやら、気がついたようだね。この世界が何で構成されているのかを」
ここの世界の構成物質。それは全て幻想力だ。この世界における不思議な出来事、それは全て幻想力による物。ならば不思議な街が幻想力によって構成されているのは自明の理とも言える。目の前の少年はそれを知らなかったようだが、どうやら自力で見つけたようだ。
「ヒントを与えずにいたつもりだったが、どうやら口が滑ってしまったらしい。独り言が習慣になっている僕に隠しごとは難しいようだ」
そう言って、ロバートは壁に手をつく。やはりこの姿では疲れが取りにくい。
「しかし、どういうトリックだい? 君の符は遠隔操作ができないと思ってたんだが」
「そこまで言えるなら、もう気づいてるんだろ? 因みに遠隔操作は初使用だ」
霧夜の言葉通り、ロバートは地面に穴が開いた理由を見抜いていた。この世界が幻想力によって構成されているのなら、『力』で簡単に構成を崩せるということだ。
霧夜は下の階であらかじめ天井に『力』が込められた符を貼りつけており、ロバートが立った位置で『力』を解放したというところだ。下の階を見回っていたロバートが、気がつかなかったのは階段からは見えない位置、例えば照明の周囲などに貼り付けていたからだろう。
中々奇抜で面白いアイディアだ――内心では霧夜の戦いに賛辞を送っていた。
「しかし、これだけでは僕には勝てない。まさか、今の落とし穴が最大の手というわけじゃないね?」
霧夜はロバートの言葉を無視して答えた。
「そこ、気をつけた方がいいぞ」
「何?」
再び身体が揺らぐ。今度は視界が斜めになり、手から壁の感触が消えていた。
(今度は壁面か!)
しかし、今度は半ば予想していた範囲だった。すぐに体勢を立て直して地を蹴る。この姿とはいえ、たったの一蹴りで霧夜との距離はぐんと近づく。後、数歩というところで着地して――足場が崩れ落ちた。
(ここにもあったか)
これも予想の範囲内だ。今度は後方へと飛びずさり、着地する。が、ぐらりと世界が斜めになる。
(ここにも? 着地地点を全て予測していたのか?)
しかし、自問自答してあり得ないと結論付けた。他人がどこに着地するのか、そんな計算を人間である彼に出来るはずかない。となると、答えは自ずと一つしかない。
(……この階の渡り廊下全てに符を貼ったのか!)
霧夜はさらに三回拳を握りしめる。どうやら、一つずつに『力』の解放を指示しなければならないらしい。観察しているのと同時にロバートは悠著に構えていられないことに気がついていた。今解放した『力』がどこの符に向かっているのか。
その答えを出すかのように廊下に次々と亀裂が走る。
(この廊下を全て破壊する気か!)
そうなればロバートは下の階に叩きつけられる。
(随分と大胆は戦い方を……)
霧夜は一番奥の扉の中へと消えていった。
追いかける。ロバートは即座にその判断を下した。
低く跳躍し、残る奥の壁に接した足場へと着地したが、ほぼ同時に亀裂が入る。最早逃げ道は目の前にしかない。迷わず、扉の中へと飛び込み、廊下を駆け抜けて――すぐに後悔した。
一室の壁面に一杯に符が貼られていた。
その中で、冷静にロバートは周囲を見回す。
(彼は……)
いない。しかし、彼はロバートが部屋に入ったことには気が付いていたようだ。その証拠に貼られていた符は淡く発光し、それぞれが円を形成し、『陣』を発生させる。天井を支える壁と支柱がどうなるか。その結果は目に見え、すぐにやってくる。
◆
上の階から轟音が鳴り響く。天井から埃が落ち、振動で周囲の物が揺れて、細かいものは床へと散乱した。
(うまくいったか)
途端に安堵感が広がる。是非とも寝転がりたかったが、すぐに移動しなければならない。
(あれだけで倒れる奴なら良いんだけど……)
入口の崩落からも助かった奴だ。あの程度では足止めにしかならないだろう。霧夜は急いで部屋から出た。向かうは次の罠を仕掛けた場所だ。符の枚数制限のせいで、二カ所にしか設置できなかった。
「逃がしはしないよ」
聞き慣れた声が後ろから聞こえた。背中に悪寒が走り、符を構えて振り返った。
真後ろにはいなかった。それよりも上空。ロバートは宙を飛んでいた。彼の周りには白い槍が四本、帯同するように浮かんでいた。四本の槍は同時に発射されるが、霧夜も同じく四枚の符を投げつけた。
相殺。一瞬の白い閃光が視界を遮る。
ロバートは何事もなかったかのように地面へと着地した。
「罠を抜けたのか」
これは霧夜の予想外な事態だった。いくらなんでも足止めを突破するのが早過ぎる。
「大胆な手を使ったね。殺さない主義だったんじゃないのかい?」
「死んでも死なないだろ」
「おや、信用されているようだ」
「その言い方には問題があるように思えないか?」
「そうかい? 敵味方とは言え、構築された一種の信頼関係と言える」
「俺はこんな信頼関係はごめんだね」
「いつか築くことになるだろう。否応にもね」
「そうかい!」
その言葉を皮切りに霧夜は二枚の符を投げつける。ロバートは即座に反応し、光の弾を形成して発射、符にぶつけた。
「段々と君の攻撃の防御方法も分かって来たよ」
やはり正面からの攻撃では通用しない。それを悟った霧夜はロバートに背を向けて走った。次の罠の場所へと向かわなければならない。
「逃がしはしないと言った!」
白い槍が霧夜の背中へと放たれる。
(一本なら!)
身体を前へと転がす。槍は上を通過していくことを確認して立ち上がると、すぐに階段を駆け上がった。屋上にはカギか掛かっていたが、既に『力』を使って解錠済みだ。
駆け上がりながら、霧夜は背後に目をやった。ロバートの姿はない。それどころか階段を上って追ってくる気配すらない。
(どこから来る?)
扉を開いたら既にいるとかいう展開は勘弁してくれと願いつつ、霧夜は屋上の扉へと辿り着き、扉を開けた。
扉の先は変わらずに赤い空が不気味に立ち込めていた。
この学生寮の屋上に霧夜は一度も足を踏み入れたことがなかった。
(……予測通りだ)
それでも、大体の構造は霧夜の予想した通りだった。この学生寮は一階から四階までが吹き抜けとなっており、屋上にはガラス張りの天井が貼られている。そのため、屋上の中央は人が通らないように柵で囲まれているのだが、おかげで人が入れる場所が中途半端になっている。この設計のせいか罠を作るのには戸惑った。
本当ならばここに来る予定はなかった。まさに、最後の手段のために用意していたものだ。
(時間稼ぎはあいつに通用しない。だったら、ここであいつを倒す)
できるのだろうか。いや、することしか、自分と紅緋姫の生き残る道はない。それが、霧夜の戦う理由だ。ロバートによって無理やり造られた、戦う理由。
ふと、 先ほどロバートが言った言葉が浮かんだ。
(……信頼か)
これは大間違いだ。霧夜はロバートが死なない信頼など、一ミリたりとも感じていない。
恐怖。またはそれに近いものと言える。自分と同じ人間の姿をしているのにも関わらず、霧夜はロバートに勝てる気がしない。奴が幻想使いだからではない。もっと根源的なものが違うような気がする。常人の考え方ではないが、本能がそう告げている。
だからこそ。
(終わらせよう。ここであいつを倒す)
霧夜は、その力をもって勝てる気がしない相手に、勝利を勝ち取ろうとしていた。
◆
ロバートは階段をゆっくりと昇っていた。最初こそ全速力が駆け上がろうとしたが、途端に疲労が全身に沁み渡り、何となくやる気をなくさせてしまう。
(本当にこの身体は不便だな)
文句を言ってもどうしようもない。一つ一つの段差を昇り、ようやく屋上の扉にまで辿り着く。案の定、両開きの扉は開かれていた。扉を観察するまでもなく、扉の鍵がある部分には不自然な穴が空いていることが分かる。その部分を入念に見て、ロバートの背筋に悪寒が走った。
施錠のシステム自体が消滅していた。『力』を使ったのだろう。
(つくづく恐ろしい力だ)
正直な感想をロバートは抱き、その『力』を持つ人物が待っているであろう屋上への扉を開いた。
屋上への入り口から離れた位置に蒼炎霧夜は立ち、こちらに目を向けていた。
「屋上だというのに風が吹かないね。元々ここはそういう場所だけれど」
この言葉に霧夜は合わせて来なかった。軽口を叩く暇がないのか、自分に合わせるのが面倒になったのか、ロバートには分からなかった。本題へと進めた方が良いだろう、と判断してロバートは話題を変える。
「自ら袋小路の場所に行くとは、観念する気にもなったのかい?」
「まさか」
たった一言に自信が満ち溢れている。やはり、この場所にも何かを仕掛けていると考えて間違いないだろう。
「もう時間は残り少ない。検証の時間も終わりだ。アカシック・クロニクルのカギを渡してもらおうか。さもなくば死ぬか」
「間を取って、お前を倒すにしてもらおうか!」
彼があらかじめ指に挟んでいた六枚の符が投げた後、霧夜はすぐに横の柵を乗り越え、ガラスの床へとロバートから離れて行く。奇妙な行動に注意を向ける前に、まずロバートは向かってきた符を白い球で相殺させた。特に何もない。
ロバートは霧夜に再び注意を向けると、立ち止まって符をその手に掴もうとしていた。対して、ロバートは素早く白い槍を三本形成させると、間髪なく放つ。さすがに霧夜の方に槍を迎撃できる時間はあったようで、符を投げて槍を相殺させようとする。
パッと光が走る。二本は確実に消された。
(いつも同じ手で行くと思うかい?)
槍の一つが符に当たる直前に、ロバートは同列に並んでいた槍の一つの速度を意図的に遅らせ、再加速させた。これにより、符は一瞬目標を見失い、その間に槍は符を通り過ぎる――ロバートがこれまでの戦いで得た、一種の攻略法だ。この読みは当たり、槍の一本が霧夜へと向かっていく。
焦った様子もなく、霧夜は符を一枚投げつける。
「甘い」
符を投げつけたと同時に一本の槍を五本の矢へと変貌をさせる。目標を失った符は目的をなくし、地へと落ちる。
彼は防ぎきれるだろうか? その考えは杞憂だったようだ。霧夜は姿勢を低くして新たな符、四枚を手に持ち、『力』を発動させながら前に進んだ。盾となった符は一、二本の矢を打ち消し、彼の身体を守り抜いた。
矢は残念なことに自動追尾でない。残りは赤い世界へと吸い込まれていった。
(意表をついてみたが、難なく冷静に対処するとはね)
しかし、霧夜の攻撃方法は全くと言っていいほど変わっていない。ただ単調に符を投げるだけだ。気になるとすれば、こちらが放つ槍の数以上に符を使うことだ。あんなに枚数を使っていると、すぐに切れてしまう。彼は自らが傷つくことを恐れ、無駄に符を使うという発想に行ってしまったのか?
可能性はあり得なくもない、というのがロバートの感想だった。
しかし、それでは面白くない。ロバートは挑発することにした。
「やり方に進歩がないな。生物は進化を重ねるものだ」
「それじゃ、俺の進化の形を見せてやろうか」
意外な返答がやってきた。
霧夜はポケットから無造作に符を取り出す。何枚かは分からない。全てに『力』を注ぎこみ、投げつけられた。一〇枚以上の符は集団となり、自分の方へ向かって来るが、やはりその動きは単調で、ギリギリまで符を引きつけてから左へと飛ぶと、符は方向転換できずに、地面へと落ちた。
「数打ち当たる方式かい? 悪いけど――」
そこまで言いかけてロバートは符の動きが変化したことに気がついた。当たらなかった符が再び宙へと浮かび上がると、突如として自分を囲むように素早く動いて、地面へと落ちた。
(これは――)
この時点で、ロバートは霧夜の意図を掴んだ。
符はロバートを狙ったわけではなく、本来の狙いは足場だ。ロバートを囲むように置かれた符は『力』を発生させると、瞬く間に足場に亀裂が走った。間もなく、この足場は崩れると判断し、ロバートは足場が完全に崩れ去る前に、前方の柵を飛び越えて危機を脱する。しかし、着地の瞬間にできる隙を霧夜は見逃さず、さらなる符が投げられる。
狙いはロバートではなかった。
その下にある、ガラスの床だ。
蒼炎霧夜がこの場所を戦いに選んだ意味をロバートは理解した。この屋上は遮蔽物がなく、開けた空間のため意表をつく攻撃などができない。また、距離を充分に取ることが出来る。つまり、遠くから相手を攻撃することができるということだ。
それよりも、重要なのはこの屋上が巨大で奥深い穴になる、ということだ。このガラスの床下は一階まで何もない。ここから落ちれば確実に死ぬ。
蒼炎霧夜はそれを狙っている。
(穏便な意見を言う割に、やることはえげつないね)
傷を負った紅緋姫を見せたことが発端だったのだろうか。ならば、方法は正しかったのだ、とロバートの心は満足な気分に浸った。
しかし、ロバートはこの状況を打破できることを確信していた。彼はこの攻撃方法の弱点を知っている。それは相手に見破られることだ。そもそも罠というものは相手が知らないことで成功率が上がる。ロバートは霧夜の作戦を見抜いた。つまり、成功率は格段に低下してしまったのだ。もちろん悠長にしていると足場が消え、ロバートは落ちるしかなくなる。
だから、早急に行動する。
(蒼炎霧夜を素早く組み伏せる。それが最善の手だ)
素早く白い槍を五本形成して、自分の周囲に浮かばせると、ロバートは蒼炎霧夜の元へと駆けた。一直線にではなく、ジクザグに、時には宙へと飛び上がり、槍を霧夜へと放つ。そうなると、霧夜の方は足元を狙うどころではなくなった。槍の方に対処するために、意識がそちらへと向いてしまう。その間にロバートは別の場所へと移動して、槍を放つ。
この行動に霧夜は機敏に動こうとするが、顔に焦りの色が出始めた。
(頃合いか)
霧夜は気づいていない。ロバートが、近づいてきていることに。
ロバートは宙に飛び上がって槍を一本、霧夜から見て斜め後ろから放つ。彼は前に放った槍に注意が向いており、気づいた時には槍は至近距離にまで接近していた。だが、すぐに振り向いて手に持った符から『力』を解放して打ち消した。
素晴らしい反応だ、とロバートは素直に感心したが次の行動には反応できない。
彼が槍に注意を向けた隙にロバートはすぐさま彼の死角へと移動し、急接近。彼の身体を掴んで、押し倒した。驚くべきことに霧夜は反応を示したが、ロバートの方が一足早く、彼の手と襟を掴み、足払いをすると、呆気なく霧夜はガラスの地面に背中を付けた。
「人間にしては素晴らしい反応だったけど、残念だったね。さあ、カギを渡してもらおうか。さもなくば、死ぬか」
「断る」
はっきりとした声で霧夜はその言葉を口にした。
「状況が分かっているのかい?」
ロバートは白い槍を形成し、宙に滞空させた。切っ先を蒼炎霧夜の顔に向けて。
「完全に僕が主導権を握っている。君に拒否権は――」
ここでロバートは言葉を止めざるを得なかった。突然霧夜の首元が淡く発光したからだ。それは間違いなく符から解放された『力』だ。
ガラスの地面にポッカリと穴が空いた。
(どういうことだ? いったい何の意味があって――)
ふと、ロバートはそこで新たな疑問を抱いた。さっきまで霧夜の首元に符など置かれていなかった。にも関わらず、そこには符があり、『力』を解放した。これはどういう意味だ? 考えられることとすれば、ガラスの天井の『下』に符があったということだ。
これが意味するころは何だ?
ロバートは空いた穴の奥を見た。遠く下には赤で彩られた花壇と床――そして、白い紙が一枚。
(あれは――)
霧夜が使用している符だ。それが何故、一枚だけあんなところに? だが、今それを考える場面ではない。考えるべきは符がこっちに向かって接近しているよう見えることが気のせいか、ということだ。否、気のせいではない。確実に向かって来ている。
(まずい)
このままの体勢でいれば、あの符はロバートへと直撃する。しかし、避ける動作をすると霧夜を解放することになる。迎撃するために、ロバートは宙に浮かべた槍を放とうとして――
「無駄だ」
霧夜の言葉を聞いて、槍から青色に淡く発光する『陣』が浮かんでいることに気がついた。
(馬鹿な――彼は身動きが――符を投げられるはずが――)
不意にロバートはさっきまでの霧夜の姿を思い浮かべていた。やけに大量に符を投げる霧夜の姿を。もし、その何枚かが迎撃をする『フリ』をして、自分の役割が来るまで配置されていただけだとしたら。
(これは、本格的に――)
まずい、自分は窮地に立たされている。そのことに気づき、ロバートは早急にその場から離れようとして――離れることが出来なかった。手を霧夜から離した瞬間に、彼の手が自分の腕と襟首を掴んだのだ。
「くそっ!」
振り解こうとするも、意外に霧夜の掴む力が強い。身体が微動だにしない。その間にも、符はぐんぐんと迫ってくる。
(ああ、もう――)
ロバートは自分がどうなるのかを悟った。
僅かな衝撃を伴って、符がペタリとロバートの額へと張り付いた。刹那、符から淡い光が漏れ、『陣』を形成する。
「あ、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
痛い。それも生温いものではない。炎で直接焙られるような鋭い激痛が目を、鼻を、口を、ついには脳へと浸食し、ロバートという存在の柱を崩そうとしていく。
一瞬、ロバートは完全に全ての感覚を失った。残るのは意識だけだが、考える思考はなく、まるで世界から切り離された様な気分を味わった。
全ての感覚が戻った時、ロバートの視界には赤い空が映っていた。上を向いた記憶はない。加えて、知らない内に自分は立ち上がっていた。
何故、自分はこんなところにいるのか? その考えは淀みなく流れてきた記憶によって判明し、彼は急いで蒼炎霧夜の方へと顔を戻した。その視界に映るのは――蒼炎霧夜が自分に拳を放とうとしている姿だ。
避けることはできなかった。
視界は拳一杯に埋まり、感触と痛みが同時に襲い、次に身体が宙へと浮かぶ感覚がやって来る。ドサリ、と音がして背中に鈍く重く苦しい痛みが走った。
再び視界には赤い空が広がった。
(蒼炎霧夜――)
視界の隅に青い光が見える。今度は身体中に激痛が走り、言葉すらなくロバートの意識は、間もなく深い闇の底へと消えていった。
◆
ばたり、と地面に倒れたロバートの姿を見降ろして、霧夜は全身の力が抜けて、ホッと息を吐いた。
(何とかうまく成功したか)
全ては霧夜の練った作戦通りに事が進んだ。
ロバートをこの屋上に誘い込み、符を使ってガラスの地面に誘導させる。さらにロバートに『屋上から落とす』という手段を霧夜が用いると錯覚させて早期の決着をする行動を取らせる。うまい具合にロバートは霧夜を押さえつけ、あらかじめ一階に配置させていた符をロバートに叩きつける。怯んだところにロバートをここまで追い込む時にこっそり地面に配置させた符でロバートを倒す――大体の作戦の概略はこんなところだ。少々運が絡んだ方法だったが、ロバートの方が霧夜の予測した通りに動いてくれたおかげで、なんとか成功した。
(しっかし、予想外の効果だったな)
たった一枚に込められた『力』だけで、あの苦しみようはさすがに予測の範囲外だった。まあ、いいかぐらいの軽いノリでさらに符を使用したが、今では完全に気絶している――ように見えるが、本当は死んでいるのかもしれない。確かめたいが、なるべくなら近づきたくない。
「……倒したはいいけど、これからどうしようか」
目の前の脅威は去った。しかし、問題は紅緋姫の容体だ。この世界から抜け出し、病院に運ぼうと思っても、この世界から抜け出す方法が分からない。時間制限とやらもいつ来るのか分からない。
(とりあえず、応急処置だけでもするか)
そう思い立って、霧夜は屋上の出入り口に足を向けようとした時、
「う、うぅ」
と、うめき声が聞こえた。ロバートの声だ。
目を向けると、その漆黒の身体は今まさに起き上がろうとしていた。まずい、と霧夜は符を使おうと思ったが、すぐに別の考えが脳裏を過ぎり、ロバートの襟首を掴んで地面に叩きつけた。
その衝撃でおぼろげだった彼の目の焦点が、一瞬にして合った。
「……おや、僕は危険な状態にあるようだね」自分の状況を理解して、ロバートは間を空けることなく答えた。「それで、これはどういう真似だい?」
「この世界から出してもらおうか」
「それほど危機迫る状況にいないというのにその発言は――ああ、彼女のことで焦っているのか」
「無駄口はいい。出せ」
「おお、怖い怖い」
おどけた調子で喋るロバートに対して、霧夜は地面に貼り付けたまま符を引き寄せ、自分の周囲に浮かばせた。すぐにでも、ロバートに当てることが出来るよう、態勢を整える。
これで完全にマウントポジションを取った。そのはずなのに、ロバートはチーズのような濃厚な笑みを浮かべているに過ぎない。それが、霧夜に引っかかりを覚えさせた。
「……何がおかしい?」
「一つ忠告しよう」短く簡潔な言葉をロバートは紡いだ。「君は身通しが甘い」
言い終えた瞬間だった。何の前兆もなく、突如として『それ』は蒼炎霧夜の身に襲いかかった。
ガラスの地面が一瞬にして割れた。耳を劈くような轟音が霧夜の聴覚の覆い尽くしたかと思うと、次には浮遊している感覚が伝う。驚くべきことに、同じ浮遊状態を味わっているロバートは黒い足を霧夜へと伸ばした。空中で避けることは適わず、ほぼ無抵抗で腹に鈍い痛みを受ける。
「が――」
致命的な一撃ではない。だが、この状況ではそんなことはどうでも良いことだ。下には障害物もなく、一階へと一直線だ。このまま落下に身を任せれば、確実に死ぬ。
(どうすれば――)
考えろ、と意識を研ぎ澄ます。
だが、目の前の男はそうはさせなかった。
同じく落下しているロバートは不思議なことに霧夜の上に居た。自分の周囲に槍を配置させ、落下――いや、向かって来る。
(くそ)
悪態を吐き、ポケットの符に伸ばしたが、中々うまく掴めない。そうしている間にもロバートはグングンと近づいてくる。
霧夜は横目で階数を数えた。
三階、二階――もう地上はすぐそこまで迫って来ている。
不意に頭に痛みが来た。ゴン、と鈍い音もした。赤色で埋まっていた目の前が暗い。
ああ、死んだのか。霧夜はそう悟り――意識は深淵へと消えて行く。