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第二章

 やばい。

 奇怪で黒い塊のような生物が自分に飛びかかって来ているのにも関わらず、少年はまるで他人事のように冷静な感想を述べた。今の状況があまりにも非現実的で状況判断が追い付いていないせいなのかもしれない。仮定のような文章だが、裏付ける証拠として身体は避ける動作さえしなかった。

 噛み殺されるのか?

 大きな牙を見せつけるように口を開いている黒い塊が、どのような方法で自分を殺すのか想像するのは容易かった。虎に捕食される鹿やシマウマなどは殺される時、いつもこんな光景を目の当たりにしているのだろうか。

 そんな思いを抱きつつ、少年の脳裏に一つの疑問が浮かぶ。

 殺られる時とはどんな感触だろうか。

 長い痛みが続くのか、一瞬にして意識を失って痛みさえ感じないのか。少年にはそれが良く分からなかった。

 少年は目を瞑り、自分の身体を守るように両手で顔を覆った。無駄な抵抗ではあるものの、生きたいという意志の表れだろう。無駄に自分の両腕に力が入っているような気がした。

 ……

 ……

 ……

 ?

 何も起きなかった。痛みもなければ意識が飛んでいることもない。

 恐る恐る目を開けると顔をガードしていた手の指の隙間から意外な光景が飛び込んで来た。黒い塊が地面にのた打ち回って苦しんでいた。先ほどの凶暴な様相からは考えもつかない姿に少年は疑問を浮かべた。

 誰がこんなことを?

「素晴らしいです」

 呆然としていた少年の背後から穏やかな声が聞こえた。振り返ると、そこには長い黒髪を携えた青年が涼しい笑みを携えて立っていた。全身を黒い厚手のローブで覆い隠すように羽織っており、この気候では少々暑い苦しいように見えた。しかし、その姿はこの裏路地という場所において非常にマッチしていた。

「さすがは異物に対抗する『力』を持つ人。あっさりと済みましたね」

 何のことだ? 少年には長髪の青年の言葉が全くの無関係に聞こえた。

「立てますか?」

 男が差し伸べてきた手を少年は反射的に掴むと、ぐいっと引っ張られ、立ち上がった。

「……あんたは?」

 自身でも無愛想な問いかけだと思った。一見すれば、失礼にも値するだろうが、目の前の男は気にしていないようだ。逆に穏やかで、どこか親しみを感じる声色。だが、胡散臭さも感じる声で男は返した。

「僕は『オラクル』からの使いの者です。あなたの保護を頼まれました」


 ◆


 ここはどこだろう?

 これは意識が覚めた蒼炎霧夜が最初に抱いた感想だ。

 霧夜の目には少しだけ黄ばんだ白い平らなものが延々と広がっていた。それが天井なのだと理解するのに少々時間がかかった。それからして間もなく自分がベッドに横たわっているのだと気づいた。

「およー、きっくん、目が覚めたかい?」

 どこからともなく女性の声が聞こえた。ドタバタと床を駆けている音が段々と近寄り、声の主が霧夜の顔を覗き込む。その少女の表情には安堵したような笑みが浮かんでいた。霧夜の体内時間で、ついさっき別れたばかりの翁舞咲だった。

「翁舞、さん?」

「良かったっさー! 気がついたみたいだねっ!」

「ここは……?」

 周囲を見渡すと、そこは白い壁一色で構成されたワンルームの部屋だった。一人暮らしをするには充分なほど広く、奥には立派な冷蔵庫と台所が見える。大よそ学生が住むには少々値段の張りそうな物件だ。

 どんな人が住んでいるのだろうか、もしかして翁舞さんの家か、と霧夜が率直な感想を抱いた時、

「ここはきっくんの家っさ」

「えっ?」

 思わぬ言葉に思考が止まる。

(ここが俺の部屋?)

 じっくりと部屋を見渡す。ベッドの傍には小さな四脚の飾り気のない木製のテーブルが置かれており、机上には鉛筆や紙が無造作に置かれていた。部屋の隅には最近呼んだ形跡のない本が収納されている木製の本棚が鎮座していた。床には色とりどりなクッションの数々が無造作に置かれている。どれもこれも、自分の部屋を形成する置物。しかし、懐かしい雰囲気はしない。

「……ああ、そうですね」

 ようやく実感が湧き、霧夜はそう呟いた。

「もー、しっかりしてっさ」

「それよりも、どうして翁舞さんが俺の部屋に?」

「きっくんが寝てたから、連れて来たのっさ」

「寝てた?」

「そっだよ! たまたま公園に立ち寄ったら、きっくんがベンチで寝転がってたからね。起きないから、連れて来るついでに上がらせてもらったっさ」

「……すいません、迷惑かけました」

「ふふん、それじゃ、迷惑料として今日は翁舞さんスペシャル手料理を食べてもらうっさ!」

「俺が迷惑かけたのに、手料理を御馳走になるのはおかしいと思いますけど?」

「大丈夫っさ。今回は毒味だから」

 不敵な笑みを浮かべる翁舞に、霧夜は自然と微笑を浮かべた。全身から緊張が抜け、安堵感に包まれる。

「ところで、どうしてきっくんはあんなところで倒れてたのかな?」

「どうしてって……」

 はて、何故だろう。霧夜は気絶する前を思い返す。起きかけのせいか、頭が働かない。記憶はおぼろげで靄がかかったように不鮮明だ。一つ一つ、砂の中から粒上の宝石を取りだすように、慎重に記憶を掘り出し、一つに繋げていく。

 赤い空間に流れる光の奔流、黒い巨人、異物が集まった黒い海、それに特攻する自分、そして、

「そうだ、幻想使い!」

 喉に引っ掛かっていたものを無理やり取り出すように、霧夜は叫んだ。それ同時に記憶が鮮明になり、濁流のように一気に細かい記憶が思い返されていく。

「俺と一緒に女の子がいませんでしたか?」

「女の子かいっ? 私がきっくんを見つけた時には誰もいなかったっさ」

「誰も?」

 おかしい。あの光の奔流に巻き込まれたのなら、自分のように気絶しているはずだ。それとも、巻き込まれる前に脱出したのか、または自分より早く気絶から目覚め、一人だけどこかに行ったのか。霧夜には判断がつかない。

 霧夜は翁舞から網戸越しに見える外へと目線を移した。外はすっかりと陽が落ち、夜の帳が下り、赤色で彩られた公園での戦いから何時間も経過していることを悠然と物語っていた。

(今から行っても無理か)

 時計に目を移すと時刻は午後七時を回っていた。あれから約九時間以上は経過している。さすがに居るわけがない。諦めるしかないだろう。

「ところで、きっくん」

「何で、す?」

 思わず声が裏返った。変わらず横に居るのは翁舞だが、その顔に浮かぶ笑みが不自然に怖かったせいだ。

「今日、依頼があるって言ったっさね?」

 声の質が変わった。霧夜は背中に冷や汗が流れるのを感じた。

「……そうでしたね」

「学校も、どうしたのかな?」

「……体調不良でして」

「それでベンチで寝てたのっかな?」

「まあ、そうですね」

 苦しい言い訳だった。そもそも、体調不良で公園へと向かうより、自室へと戻った方が時間的に早い。

「きっくん?」

 有無を言わせない、威圧的な一言に霧夜はついに行動を移す。

「すみませんでした」

 ただ、平謝りするしかなかった。


 ◆


 翁舞咲が霧夜の部屋から退出したのは深夜の一二時を回った頃だった。霧夜の通う高校の寮の門限は一一時と決まっているので、一時間もオーバーしている。そもそも女子が男子寮で二人きりになっていること自体が問題なのだが、翁舞は大して気にしない様子で呑気に帰途へとついた。

(門限はなんとかなる、とか言ってたけど本当か?)

 彼女が居なくなった部屋で前のめりにソファに腰掛けながら、霧夜は一抹の不安と疑問を覚える。

(ま、翁舞さんなら大丈夫か)

 ソファの背もたれに深く寄りかかり、軽く息を吐く。身体に疲れが溜まっているのが分かった。公園の出来事に加え、翁舞に色々と付き合わされたせいだ。依頼を放棄したことに相当ご立腹だったのか、霧夜が起きてから休みなく、一緒に遊ばされた。トランプを使ったゲームの数々や、唐突に始まった部屋の掃除などだ。

「あんまり手つけてなかったもんな」

 部屋を一望し、適当な感想を述べると何気なくトランプのケースを手に取った。が、すぐにテーブルの上に放り投げた。ガン、と小さな音を立てた後、僅かにテーブルの上を滑る。

 滑るケースを目線で追い続けていると、ラップで包まれた皿が目に入った。翁舞が帰り際に作った、おにぎりと卵焼きだ。ケガ人に料理は作らせられない、と説き伏せられ、ついさっき作ってもらったものだ。人に遊ぶことを強要させたくせに何を言うのかと思うが、翁舞らしい行動だと、苦笑するに留めることにした。

 無言で皿を取ると、ラップを剥がし、白いおにぎりを手に取った。近くに置いてあった海苔を巻いてから僅かに口にする。

(……しょっぱい)

 作ってもらった手前、本人がその場に居なくても口からは出せなかった。二、三口で流し込むように一つを食べ終わると、壁に掛けてある時計に目をやる。何度見ても時間は一秒ずつしか変わっていない。

 右足が意志とは関係なく小刻みに動き始める。貧乏ゆすりだ。別に癖というわけではない。

「……落ち着かない」

 朝の奇妙な出来事。今の日常とはかけ離れた確かな異常。とても現実とは思えないが、その光景は頭にしっかりと焼きつき、数え切れない黒の塊と戦った記録が身体に染みついている。

「……結局、何だったんだ」

 何一つ分からなかった。あの出来事は状況が分からないまま、がむしゃらに生き延びるために戦った、という結果しか残していない。どうしてそうなったのか、その理由は不明瞭なまま霧の中に投げ捨てられたままだ。

(彼女は何か知ってる様子だったけどな)

 脳裏に焼きついたまま離れない一人の少女。

 今ではどこに居るのかすら分からない。常世は閉鎖された空間とは言え、一つの街だ。たった一人で探すのは骨が折れる、というより無謀に近い。

「どうするかな」

 とにかく説明が欲しかった。異常発生した異物や、赤い空間、謎の光のこと。何の説明もなく、突然巻き込まれてそのまま放置というのは気に食わない。

(一応、雨師に連絡を取るか)

 テーブルの上へと無造作に置かれた携帯電話を手に取り、数字の書かれたボタンに手を掛ける。しかし、一つの音のせいで中断させられた。


 トントン


 小さな音だ。

 玄関の戸が叩かれている。

(誰だ?)

 深夜に他人のお宅に訪れる人はそうそう居ない。そもそも、今の霧夜に深夜訪問をしてくる迷惑な知り合いはいないはずだ。

(学生寮なら普通なのか?)

 例え知り合いでなくとも、学生たちが一同に住まう学生寮ならあり得る現象なのかも知れないと考えつつ、霧夜は施錠されていないドアへと足を向ける。

 霧夜はドアの向こうに立つ人物について思考を始める。わざわざ深夜に訪れるような人物。もしかしたら、うっかり忘れ物でもして戻ってきた翁舞さんかもしれない。しかし、彼女の性格からして、扉の前で声を上げそうな気がする。

 ドアノブを回す。ガチャリと金属音が鳴った。ゆっくりと開く。

「……こんばんは」

 ドアの前に立つ人物を認識する前に、挨拶をかけられた。どこかで聞いたことのある、凛とした淡白な声色。誰の声か考える間もなく、霧夜は来訪者の姿を確認した。特徴的な緋色のポニーテールに桃色のコートが、どこか日常と隔離された人間だと示しているように思えた。

「お前は……」

 見間違えることはない。公園に姿を現した幻想使い。

 例の少女だった。

 霧夜が呆然としていると、その薄い唇が動いた。

「入って良い?」

「え、ああ」

 ボソボソと「お邪魔します」と呟き、少女は霧夜を半ば押しのけるように部屋の中へとずんずんと進んでいく。ヒラヒラと揺れる桃色のコートの背中を見送る霧夜の胸中は困惑で一杯だった。

(……展開に着いていけん)

 正直な感想だった。待ち望んだ来客だというのに、その展開は唐突さ丸出しで、こっちの事情をまるで汲み取ろうとしていない。

(ま、助かることは助かるけど)

 ここで全ての事情を洗いざらいに説明してくれるなら、安心して床に就けるというものだ。

 奥へと進んだ少女は、異性の部屋というものは珍しいものなのか、緩慢な動作で周囲を見回している。

「どうした?」

 思わず、霧夜は声をかけた。早く本題を切り出して欲しいという焦燥感の表れでもあったが、異性にジロジロと部屋を見られる羞恥心もあった。そんな霧夜の思いとは裏腹に少女は霧夜の言葉に反応を示さず、お構いなしに周囲を見渡す。三十秒が経過してから、ようやく見渡すことをやめた少女は振り返り、

「変な部屋」

 極めて失礼な言葉を言い放った。

「ッ! へっ、変なってお前なぁ……」

 そんなに変な部屋だろうか。家具は一通り揃っているし、置いて家具や小物に特別、変なものは置いていない。逆に少なすぎるぐらいだ。もしかして、そこが変だと思われたのだろうか。はたまた、異性から見る男性の部屋というものはそんなものなのだろうか。霧夜には見当もつかない。

 とりあえず、霧夜は今の言葉を頭の隅に留めておくことにした。

「それで、何の用だ?」

「あなたに話がある」

「それはこっちのセリフでもあるな。俺もお前に聞きたいことが山ほどある」

 霧夜は紅緋姫に座るように促すと、キッチンへと向かい、冷蔵庫から麦茶を取り出した。戸棚から取り出した不釣り合いな二つのグラスに注ぎ、テーブルの前で床に正座で座っている紅緋姫の前に差し出した。

 彼女はさっそくガラスのコップを手に取り、ゴクゴクと飲む。余程喉が渇いていたのか、入れた量の半分近くが無くなっていた。少女が一息吐き、それを見計らっていた霧夜は話を切り出す。

「とりあえず、互いの自己紹介からだな。俺は蒼炎霧夜。お前は?」

 霧夜はちょうど少女と真向かいになるように腰を下ろした。少女は淡白な瞳で霧夜を直視する。

「くひき、さくら」

「くひき?」

 こくりと肯定の合図を出した少女は徐に指でテーブルをなぞり始める。自分の名前の漢字を書いているのだろうか。指の動きは「紅緋姫桜」と読めた。随分と珍しい名前だ、と思いつつ、自分も大して変わらないと気付き、口に出すのはやめた。

「あー、質問したいんだが、俺からで良いか?」

「あなたで良い」

「単刀直入に言うが、お前は何者だ?」

「『幻想なき世界』から来た『幻想使い』」

「その『幻想なき世界』とやらは何だ?」

「幻想なき世界は幻想なき世界。ただそれだけ」

 これ以上は答えそうにない。霧夜はそう判断し、次の質問を思案していると、紅緋姫が口を挟んだ。

「先に、わたしの話を聞いた方があなたの疑問に納得を示せると思う」

「そういうなら、先に良いけど」

「まず、わたしがここに来たことを説明する。あなたは不思議な力を持っている」

 この発言に霧夜は大した驚きを覚えなかった。ほんの数回とはいえ、『力』を見せてしまったのだ。幻想使いならば、この『力』が異質だと気付くだろう。

「だから、あなたは手に入れてしまった」

「……何を?」

 唐突な話の展開に霧夜は思わず口を挟む。

 少女は気にした様子もなく、事務的な口調で告げた。

「アカシック・クロニクルのカギ、この世界の歴史を紐解く鍵を」


 ◆


 アカシック・クロニクル。


 その誕生の経緯は現在までよく分かっていない。研究者の推察では、『創造主』が創り出したとされているが、その証拠となるものは見つかっていない。だが、確かに存在しているものだということは判明している。また、どういった機能を持つ物なのかも判明している。


 アカシック・クロニクルは世界の記憶だ。『創造主』がこの世界を創造したその時から、この世界に存在する有機物、無機物、ありとあらゆるものの情報を収集、保管している巨大な図書館と言われている。だが、実際に目撃した者は誰一人としていない。この膨大な情報量を持つ図書館の『守護者』たちに認められたものがいなかったからだ。


 そのアカシック・クロニクルを閲覧するために創り出されたのが『アカシック・クロニクルのカギ』である。本来閲覧するためには多くの精神的負担を伴う作業を行うとされているが、このカギは精神的負担を九割ほど減少させ、閲覧するための一切の手順、全てを無視することができる。また、『守護者』たちの監視の目すら欺き、常にアカシック・クロニクル内の情報を閲覧することができる、とされている。


 本来、カギは神々と敵対したかつての支配者たちが、神々に対抗するための知識を得るのにアカシック・クロニクルを用いようとした際に製造された神話上の代物だ。幻想使いの間でも伝説上のものとされ、長らく実在するものとは思われていなかった。


 しかし、数年前にカギが現実に存在したとされる証拠が発見され、研究・調査の結果、この世界とは異なる『異界』と呼ばれる場所に漂流していることが推測された。


「それが、あの『人払い』での出来事。『人払い』はわたしたちの間でのみ使われる隠語。本来はこの空間とは異なる次元に存在する、もう一つの世界、『異界』と呼ばれる場所へと移動する方法、またはその場所を示している」

 紅緋姫の口は滑らかだ。淡白な声色であるせいか、霧夜の耳に程好く入る。

「『異界』はこの常世を三週間毎にそのままコピーする、幻想力によって構成されたもう一つの世界。生者も、死者もいない、未知の空間。わたしは『カギ』を回収し、その場で破壊することを目的としている」

 来訪した少女、紅緋姫の長々とした話を聞き終えた霧夜はだらしなく口を開けていた。日頃から半眼な霧夜の目はさらに細くなり、明らかに疑いの眼差しを紅緋姫に向けている。霧夜のそんな様子に素知らぬ顔で紅緋姫は目の前に出されたお茶に口をつける。

 霧夜が声を発したのは、それからたっぷり三十秒が経過した頃だった。

「……まず、一つ良いか?」

 こくりと紅緋姫は頷いて肯定した。

「その神話っていうのは、実際に起きた出来事なのか?」

 場違いな質問だったのだろうか。紅緋姫は目を僅かに細めた。疑っている、というよりは呆れたような目だ。霧夜本人としてはそれほどおかしな質問をしたわけではないと思っているが、紅緋姫の方は違ったようだ。

「……そうだけど」

 当たり前のような反応どころか、それが当然とでも言いたげな言葉に霧夜は少々戸惑ってしまった。ここでは常識なのだろうか?

(うーん、まあ、神様が実在するっていうのもあながちあり得ない話じゃないのかもしれないな)

 異物やら幻想使いなど、創作の中でしか現れないような力を持つ者たちが常識として知られている街だ。神様の存在ぐらい常識であるのかもしれない。

「それで、そのカギとやらを俺が持ってるのか?」

「そう」

 しかし、霧夜は首を捻る他ない。何せそのカギの存在に身に覚えがない。何気なく周囲を見渡してもカギらしきものは見当たらず、もしかして在り来りなカギの形ではないかと思い始めた時、紅緋姫のか細いながらも、はっきりとした声が霧夜の行動を止めた。

「視認できるものではない」

「……俺の周囲にでも漂ってるのか?」

「違う。ここ」

 緩慢な動作で紅緋姫は真正面を指さす。当たり前だが、彼女の目の前に居るのは霧夜だ。

「……ここ、ってどこだよ?」

「ここ」

 相変わらず紅緋姫が指さす位置は変わらない。まさか、と思いつつ霧夜は尋ねる。

「……まさか、俺の中?」

「そう」

「俺のどこにあるんだ?」

「恐らく、あなたの『力』の中に混在していると思われる」

 『力』。

 霧夜が持つ、異物を消滅させる謎の力。その力にカギが入り込んでいるとは、どういうことだろうか?

「そう言われても、全く分からないんだが」

 確認してみるものの、流れている『力』はいつもの通り。持っているなら、何かしら違和感を覚えても良いはずだ。実際、異物に『力』を使った後、奇妙な感覚を霧夜は覚えていた。

「流れを捉えて。あなたがその力を行使しているのなら、流れの中に別の力が混在しているはず」

 霧夜にとって力の流れを確認すること自体は容易いことだ。毎日のような異物相手に使用している状況下で、『力』の扱い方は既に慣れている。方法は単純で、『力』に意識を傾けるだけで良い。

 霧夜はさっそく試してみた。

「どう?」

 紅緋姫としては「ある」と答えてほしいところだろう。変わらない表情と淡白な声からは窺い知れないが、そうだろうと霧夜は感じていた。

 しかし、答えは紅緋姫が求めるものとは相反するものだった。

「何もなさそうだが」

「本当?」

「ああ」

 聞き返されたため、もう一度流れている力を確認するが、その中にいつもと違うものは感じられない。

「しかし、あの場の状況を考慮した結果、あなたの手にあるとしか考えられない」

「そう言われてもなぁ……。何か確証でもあるのか?」

「……確証、と言えるほどの証拠はない。ただ、あの場でカギは一度降臨したのにも関わらず、消えてしまった。そしてカギの力をあなたの方向から感知した」

「今はどうなんだ?」

「感知できない」

「それじゃあ、俺は持ってないんじゃないか?」

「けれど、あの状況下ではあなたが持っているのが妥当」

「でも、いつも通りだし、流れてる力もいつもと変わらないぞ」

 気まずい沈黙が二人を包む。紅緋姫の表情は変わらないものの、どこか落ち込んでいるように霧夜は思えた。霧夜自身のせいではないが、どこか申し訳ない気持ちになった。

「……そういえば」

 ふと霧夜は公園内で発した紅緋姫の言葉を思い出す。

「お前、この『力』について知ってるのか?」

 彼女は気を取り直したのか、落ち込む様子が消え、また淡白な声色で喋り始めた。

「詳しくは知らない。ただし、あの場の状況からいくつかは推察できる」と一旦言葉を区切り、「でも、その前にいくつか聞きたいことがある」

 霧夜としてはなるべく早く、彼女の推察とやらを拝聴したかったが、ここは紅緋姫に譲ることにした。

「あなたはこの街の人なのに、いくつか知らないことが多すぎるように感じる」

「そうか?」

「例えば、神話が実際に起きた出来事、なんて質問する人はいない。あなたはした。どうして?」

 この質問に霧夜は事実を返答するのに戸惑った。自分とは関係のない人物に身の上のことを話しても良いのだろうか。しかし、話を円滑に進めるためには言っておいた方が良いのだろうか。少しの間思案するも、意を決して事実を話すことにした。

 何でもないように、あっさり霧夜は言った。

「俺、記憶喪失なんだ」


 ◆


 自らを「うしのりょうもう」と名乗る男に従って、少年は路地裏から出た通りに止めてあった馬車に乗せられた。少年は馬車というものを実際に見たのはこれが初めてだったが、二頭の馬に繋がれている大きな箱は妙に模様や装飾品が凝っており、いかにも高級に見えた。

 雨師が少年の正面に座ると、手を後ろから見えるようにして上げた。合図だったのだろうか、箱は僅かに揺れ、動き出した。

「これから、近くの病院へと向かいます」

 一定のリズムで揺れる中、男が告げる言葉に少年はただ頷くしかなかった。

 雨師という男は自分がオラクルという団体に所属している、幻想使いだと語った。

 少年はその言葉を聞いた途端、不信感を覚えずにはいられなかった。

「幻想使いとか言ったか。奇術師か?」

「残念ですが、もっと幻想的ですね。心当たりはありますか?」

「いや。昔に読んだ漫画に出てきたかもな」

 雨師は苦笑いを浮かべ、少年から視線を外し、虚空に移した。何かを思案しているのだろうか。

「本当に知らないようですね。そうですね、普通の人間には使えない能力がある、と言えば納得いただけるでしょうか?」

 その言葉に少年の不信感はますます増大した。正面切って大真面目に語るには少々、いや、かなり幻想的すぎる。だが、少年は真っ向から完全に否定する気にはなれなかった。

「炎でも出せるのか?」

「生憎と僕はそのような、分かりやすい能力は持っていません」

 それじゃあ、何ができるんだと少年が問いかけると雨師は待ってましたと言わんばかりに、深い笑みを浮かべた。

「そう言うと思って、用意してきました」

 そう言って雨師が取りだしたのは、鉛筆と棒だった。

「これは鉄の棒です。丹念に確認して下さい」

 雨師が差し出してきたので、少年は鉄の棒を受け取った。軽く振った後、曲げて見ようとしたが、もちろんできない。

「これが何なんだ?」

「まあ、見ててください」

 鉄の棒を返すと、雨師は鉛筆で鉄の棒を強く叩いた。ポキリと鉛筆が折れ、上半分が反対側へと飛んでいった。自然なことだ。そして、もう一方の手にある鉄の棒の方は叩かれた部分を中心にして拉げていた。

「これが僕個人の持つ能力、『巨人の鉄槌』です」

「……どういうことだ?」

「物質に力――幻想力と我々は呼んでいます――を込めることで、破壊力を増幅させる能力です。まあ、今回は鉛筆が耐えられずに折れてしまいましたが」

「……どんな仕掛けがあるんだ?」

「説明した通りの仕掛けがあります。まあ、この話は置いておきましょう。あなたの話をした方が、あなたも興味が湧くでしょう?」

 少年の身体がピクリと揺れた。その先に語る言葉を気にならずにはいられなかった。

 裏路地で雨師はその場の状況について簡単に語っていた。曰く、黒い生物の名前は『異物』と言い、人間に危害を及ぼす生物であること。それを打ち倒したのは自分自身であると。にわかに信じ難い話ではあるが、実際問題、あの見たこともない奇怪な生物を実際に見てしまった今、少年にはそれを否定するための言葉が浮かんでは来なかった。

 しかし、自分が倒した、というのは腑に落ちない。自分は何もしていなかったではないか? その疑問を雨師は、事情は後で話すとだけ言って、路地裏でははぐらかされてしまった。

「手短に申し上げますが、あなたは記憶喪失です」

 やっぱりな、と納得すると同時に少年には疑問が浮かぶ。

「どうして、」

 知っている、と続けようとして、雨師が人差指で自身の唇を押さえた。黙っていろ、というサインだろうか。

「申し訳ありませんが、それについては詮索無用でお願いします」

「悪いが、詮索したくなるな」

 自分でも少し挑発的だな、という物言いに対して雨師は薄い笑みを浮かべた。それを見た瞬間、まるで相手の思惑に乗ってしまったような感覚に囚われた。

 嫌な予感がする。少年は直感的にそう思った。

「それは困りますね。では、取引と行きましょうか」

「……取引?」

 不信感を露わにした霧夜の言葉に、雨師は端正な顔を頷かせた。

「その代わりに我々が持つあなたの情報、差し上げましょう」


 ◆


「記憶喪失」

 紅緋姫は確認するように言った。

「その経緯から、あなたはオラクルと協力関係ということ?」

「まあ、そういうことだな」

 自身の境遇が分かったのはオラクルだからこそできた、というのは言い過ぎではない。

 オラクルと取引をしたことで自分の情報が手に入りやすくなったのは事実だった。普通ならば一週間はかかると言われている常世の住民情報保管庫と照会する作業を半日とかからず終えた。

「異物と戦っているのは? それも取引?」

「ああ」

 異物退治は取引から数日後、病室で暇を持て余していた時に雨師から持ちかけられた、さらなる取引だった。霧夜が異物を退治する手伝いをする代わりに、オラクルが記憶を蘇らせる手伝いをする、ある程度の生活資金をオラクルが支払う、という条件が提示された。

 霧夜はその条件をあっさりと承諾した。正直、異物に襲われた後にそいつを退治しろ、と言われても乗り気がしなかった。だが、異物を簡単に撃退する力を持つ自分には楽な話であったように思えたし、何より資金にバックがつくのは生活面では大助かりであった。何せ、驚いたことに自分の家には一銭の金もなかったのだから。

 最初の頃は不慣れなせいもあってか苦戦したものの、鈍った勘を取り戻すかのように順応していき、今ではどうしてあの程度の奴らに苦戦したのだろうかと疑問を抱くまでになっていた。

「納得はいってくれたか?」

 紅緋姫は霧夜の問いに即返答はしなかった。判断を決めかねている、というに見える。まだ、自身に疑問点などあるだろうか?

 しかし、紅緋姫は最終的に納得してくれた。

「ある程度は」

 完全ではなかったが。霧夜もその程度の認識で良いと思った。

「話を戻そうか。それで、俺の能力についての推察とやらは?」

 霧夜自身にとって興味があるのはその話題だった。

 オラクルと雖も、自分の持つ『力』の正体は分からなかった。一応調査をしているらしいが、人手不足で調査中の看板が下りることはない。半ば霧夜はどうでもいいと感じていたが、目の前に、推察であろうと何だろうと提示されれば興味が沸かざるを得ない。

「あの戦いの最中、わたしは対話を試みながらもあなたの使う力にも注意を向けてみた。特にあなたがホーギィッシュ・タイタンの右腕を落とした時――」

「ホーギィ、何だって?」

「あの異物の種類名。話を続けてもいい? 右腕を落とした時、あの符に異物の幻想力が流れ込むのを感じた。流れ込んだ幻想力はものの数瞬で、あなたの元へと辿り着いた」

 霧夜は異物との戦いを思い出していた。異物を消滅させた時に感じる違和感の正体は幻想力が入り込んでくるものだったのか。なるほど、合点が往く――

「待て、それって――」

 紅緋姫はこくりと頷いた。

「あなたの力は幻想力を吸収し、その力を体内に溜めこむ力」

「俺の体内に幻想力が溜まってるのか?」

「恐らく。わたしは確認できない。あなた自身にしか分からない」

「幻想力の反応が分かるんなら、俺の体内にあるのも分かるんじゃないのか?」

「幻想使いは幻想力の反応を認知できる。けど、あなたのはできない」そう言って、彼女は付け足すように「全て推論でしかないけど」と一言加えた。

 彼女の言う通り、これは全て推論に過ぎず、正解かもしれないし、間違いかもしれない。だが、霧夜としてはほとんど納得のいくものとして聞こえた。異物を消滅させた時に感じた妙な違和感の正体が、幻想力が身体に流れ込んでいるせい――説明がつく。

 しかし、そうなると霧夜は自分の身体に幻想力なる未知の力を内包していることになってしまう。今のところ異常はないが、何か副作用のようなものはないのだろうか?

「あなたは大丈夫」

 まじまじと霧夜が自身の身体を見ていたせいだろうか、紅緋姫が答える。

「幻想力は人間には有害。幻想使いにある『幻想回路』がなければ、回避できない。けれど、あなたの『力』が身体を守ってくれているかもしれけない」

 かもしれない、という部分に一抹の不安を感じた霧夜だったが、特にどうすることもできないので、無理やりにでも納得することにした。

 その様子を察したのか紅緋姫が説明を付け足した。

「幻想力の害は顕著に表れる。あなたにはその傾向が見られない」

「……そうか」

 と霧夜は安堵感に塗れながら言った。心配することがないのなら、彼はそれで良かった。

「それよりも、あなたはこれから気をつけなければならない」

「何に?」

「あなたが持つカギを狙って、異物が襲って来る」

 霧夜はぎょっとした。あの大群が再び狙ってくるのかと思うと、寒気しかしない。万全の態勢でも、あの数を全てさばき切れるか霧夜には自信がなかった。

「恐らく、そこまで大規模ではないと思う。二、三体程度の小規模。けど頻度は多くなるはず」

「今までよりも、か?」

 紅緋姫は小さく頷き、霧夜は溜息を吐くしかなかった。

 これよりも頻度が多くなる。今までは一日に一回あるかないか程度のものだったが、それが一日に二回とかになったりするのだろうか?

(くっそ、雨師に給料増やしてもらおうかな。いや、それよりも今回の事件は規定外の量だったから、まず臨時金を)

 などと意地汚い考えていると、やはり淡白であるものの、鋭い紅緋姫の声が飛んできた。

「平気そう」

 言葉の意味が分からず、霧夜は返答に詰まった。平気そうとはいったい何に対してだ? 自分のことを指しているのだろうか? などなど疑問が湧いてくるが、紅緋姫は言いたいことは言ったのか、言葉を続けなかった。仕方なく、自分のことだと仮定して、答えた。

「平気そうに見えるか? これから戦う頻度が増えて疲れる毎日が続くんだぞ? こっちは学校にも行かなきゃいけないしで、大変だっていうのに」

 ほとんど愚痴のようなものを溢していると、相手の雰囲気が変わったことに霧夜は気がついた。先ほどとほとんど大差がないように見えるが、僅かに、本当に僅かに変わった。

「あなたは今の状況が分かってない」

 淡白だった声色に感情が含まれている。喜色とした反応ではない。

「命を狙われている。それなのにあなたは――」

 そこで言い淀んだ。迷っている、そう感じた。言葉を選んでいるのだろう。霧夜は催促せずに、彼女が言葉を口に出すのをじっと待った。それから間もなく、紅緋姫は言い放った。

「あなたは、平和ボケし過ぎている」

 静かに、そして強すぎずに紅緋姫は断言した。


 ◆


 時計の針は深夜の一時を指そうとしている。それに気付いた霧夜は紅緋姫に帰るように促すと、彼女は素直に従った。

(時間も時間だしな)

 一六、七の少女が出歩く時間ではない。送ってくよ、と霧夜は言ったが紅緋姫は断った。

「こんな時間に一人で出歩くなんて危険だろ」

 無論、紅緋姫の実力を霧夜は理解している。だが、やはり見た目が其処らの少女と変わりのない姿をしていると、どうしても不安になってしまう。

「大丈夫。わたしが襲われる心配はない」

「そうじゃなくて、ここの治安は確かに良いけど暴漢とかに襲われるかもしれないんだぞ?」

「大丈夫」

 その一言は陳腐なものだったが、やけにしっかりとした言葉だった。雰囲気に押されてか、霧夜もそれ以上何も言えなかった。

 とりあえず、霧夜は学生寮の出口まで見送ることにした。紅緋姫もそれなら良いと答え、二人は互いに話をすることもなく、階段で一階へと降りる。

 手動の扉を抜けた時、紅緋姫が疑問の声を上げた。

「ここに管理人はいないの?」

 視線は管理人が顔を出す窓口へと向けられている。今は灰色のカーテンで締め切られ、中を確認することができない。光が漏れていないことから管理人がいないことを暗に示している。

「そういえばいないな。まあ、どっかで寝てるんじゃないか?」

 さすがに仮にも管理人という手前、学生寮にいない、ということはないだろう。既に門限の時間は遥かに過ぎている為、油断して自室か何所かで眠っているのだろう。

「そう……他の人は?」

「他の人?」

「ここは学生寮」

 紅緋姫の言おうとしていることを霧夜は理解した。学生が住む寮だというのに、人の気配が全くしないのだ。霧夜も他の学生に会ったことはなかった。考えると奇妙だ。ここは学校指定の寮だから、何人かの生徒とすれ違っても良いはずだ。それが一度もないというのはどういうことだろうか?

 疑問が氷解するわけもなく、霧夜は、

「うーん、俺は見たことないな」

 と返答するしかなかった。

「そう」

 紅緋姫は大した反応を見せず、短く答えた。

 外に出て、思わぬ冷気に霧夜の身体は震えた。春とは言え、外は身に沁みるほど寒い。

「綺麗」

 紅緋姫の声に霧夜は夜空を見上げた。雲一つないのか、黒を背景に多くの光が灯っている。

「ここは星が綺麗なんだな」

 思えば、最近は夜空をじっくりと見たことなどなかった。最後に見たのはいつだろうと、考えたが思えば記憶のない自分が覚えているはずがない。少なくとも、ここ二週間の間でにはない。

 紅緋姫に目を向けるとまだ夜空を見上げている。見ている方が首を痛めそうに見えた。

「本当に送っていかなくて大丈夫か?」

 声をかけると、紅緋姫は夜空から霧夜の方へと顔を向けた。

「大丈夫」

「そうか。んじゃ、またな」

「――待って」

「どうした? 忘れ物か?」

「違う」と即否定し、「最後に一つ。わたしのことやカギのことは他の人には話さないで。それと、あなたがカギを持っていることも」

「……どうしてだ?」

「どうしても」

 短く淡白で感情の揺れもない言葉ながら、有無を言わせない強制力がある。それに対して反抗しようかとも考えたが、霧夜は一言「分かったよ」と了承の返事をした。

「じゃ、またな」

「……また」

 淡白な声色でそう告げると、紅緋姫は明かりが灯る夜の街の中へと消えていった。

 紅緋姫の背中が見えなくなると、霧夜は夜空を見上げた。星を見たかったわけではない。その背景を見たかったのだ。まるで吸い込まれてしまいそうなほどに塗りつぶされた星の背景を。ただ、何も考えずに、黒だけを見つめ続けた。

 寒さに身体が悲鳴を上げようとしたところで、霧夜は夜空を見上げることをやめた。

 さっきの紅緋姫の言葉が頭の中で反芻される。

 平和ボケ。

「反論、できないな」

 自分なりに危機感は抱いているつもりだったが、どうやら彼女の目にはそうは見えないらしい。言われてみれば、そうも思える。もし、今から自分が部屋に戻った時、何か対策をするだろうか? しないだろう。いつものように寝て、いつものように朝を迎えるだけだ。そんな日常を過ごす人が『危機感を持っている』と言われても説得力の欠片もない。

(何故だろう)

 考えたことはなかった。もしかしたら、記憶を失う前までは平和な日常が当たり前だったのかもしれない。

 そんな考えをして、内心苦笑して―――驚いた。

(俺は今のような日常を送っていなかったのか?)

 その考えが自然だと考えている自分がいる。身の危険が訪れない、他人から平和ボケと言われてしまうほどの平和な生活を送っていた。その方が自分には妥当だと思える。しっくとりくる。それはおかしくないだろうか? 不思議な力を持つ幻想使いは一先ず話の隅に置いたとしても、異物のような生物が街に突然出現する街での生活が平和ボケを催すほどに平和なものになるのだろうか?

(分からん)

 情報不足と結論付け、霧夜は判断を後回しにした。とりあえず、自然と記憶が戻ってくることを今は期待するしかない。

 とにかく、今は風呂に入って寝るだけだ、霧夜は踵を返して自分の部屋に戻っていった。


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