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第一章

 生温かい風が自分を包みこむように吹いている。

 どこから来る風だろうか、前か、後か、はたまた横か。薄く目を開くと薄汚れた石畳の地面が見えた。その時、ようやく自分がうつ伏せで横たわっているという事実に気がついた。緩慢な動作で立ち上がり、周囲を見渡すと、今が夜だと分かった。街中なのだろう、例え夜だとしても意外と明るい。ただし、それは路地裏の先に見える通りの景色のことだ。今居る場所では周囲の建物――煉瓦で出来た家だろうか? とにかくヨーロッパにでもありそうな建物だ――が人工の光を遮っている。おかげで後ろに広がる細い道の先は視認できない。

 何故、自分がこんなところにいるのか?

 思い出そうにも頭に霧がかかったかのように、判然としない。どうして自分がここに居るのか、ここはどこなのか全く分からなかった。周囲を見渡しつつ、色々と考えを巡らせている内に、少年はあることに気がついた。

 俺は誰だ?

 名前は、年は、家族構成は、どこの出身か。

 その全てが少年には分からなかった。

 すぐ横のゴミ捨て場で無造作に置かれた割れた鏡で自分を確認したところ、見る限り、自分は思った通りのどこにでも居そうな普通の少年だった。服装は至ってオーソドックスな味気ない黒い長袖のTシャツに、青いジーンズ。少々特殊と言えば銀髪であるところか。何か自分に関する情報がないかと、ポケットや地面を探ってみるが、メガネが落ちていたこと以外、所有物らしきものはなかった。財布すらなかった。

 とりあえず、メガネをかけて少年は路地裏から出て見ることにした。前方に広がる明るい通りに向かって一歩踏み出す。

 ……?

 が、すぐにその足を止める。後ろから気配を感じたためだ。しかも、ただの気配ではない。背筋が凍るような、不気味な感覚だ。恐る恐る振り向くと、奥に広がる暗闇から光輝く点が見えた。

 恐怖という感情が少年に湧き起こるが、あれが何か確かめたいという好奇心には勝てなかった。

 怖々と少年は光の点に手を伸ばし――

 瞬間、少年の景色は黒い塊で埋め尽くされた。


 ◆


 嫌な一日になりそうだ。

 周囲を外壁で覆われた都市、常世の学生寮の一室で蒼炎霧夜は確信に近い予感を抱いた。というのもベランダへと繋がる網戸を開けた瞬間に視界に入ったものは、人の気分を滅入らせる、黒々とした空模様だったからだ。昨夜の天気予報では九〇パーセントの確率で晴れを告げていたのだが、大嘘吐きの戯言にすっかりと騙されてしまったようだ。

 一つ溜息を吐き、霧夜は両手で抱えるように持っていた毛布をベッドに放り投げる。雨が降りそうな空だというのに毛布を干す必要はない。

 霧夜は薄暗い室内に踵を返して戻ると、木製のテーブルに置いた小皿に乗っかっている食パンを持ち上げ、一口齧る。だが、すぐに苦虫を潰したような顔をすると、すぐに小皿の上へと戻した。

(試作品はやっぱダメだな)

 小皿の傍に置いてあった、桃色のジャムが詰められたビンを手に取る。ビンに貼られたラベルは桜の季節ともあり、桜ジャムと工夫もないネーミングが書かれていた。このジャムは近くの商店が試作品と称して、安売りしていたものだ。他の商品よりも半額以下の値段だったので、不安がありながらも物珍しさに買ってしまったのだ。

「泥がついた木の根っこをすり潰したような味なんだよなぁ」

 再び溜息を吐く。僅かに目を細め、ジャムのビンを睨みつけると、床に置かれている山のように積まれたクッションの上へと投げ捨てた。

 時計に目をやるとは午前八時を指している。霧夜は面倒臭そうに白いVネックのTシャツと黒いジャージを脱ぎ、学校指定のグシャグシャになったワイシャツと灰色のズボンを着る。

 次に洗面所へと向かい、顔を洗うついでに置いていた紺と金色で彩られたネクタイを手に取る。もう何度も見ているが、相変わらずセンスを疑う配色だ、と思いつつ、首に回す。

 まだ身体が寝ぼけているのか、手がうまく動かず、何度も巻いては解くという作業を繰り返し、それが二桁に突入したところでようやく様になるようにネクタイを結ぶことができた。

 霧夜は再びリビングへと戻り、無造作にテーブルに置かれていたVネックの紺色のセーターを緩慢な動作で着込む。

 トボトボ、と表現するほどの緩慢な速度で玄関へと向かい、途中の廊下に置いた紺色のバッグを肩に担ぐ。それだけで身体がよろめいた。やはりまだ寝ぼけているようで、玄関先へ向かう渡り廊下でもふらふらと少し覚束ない足取りだったし、運動靴を履くのに何度も身体のバランスを崩してよろめいてしまい、時間がかかった。

 玄関の段差に座り、ようやく履き終わった霧夜は立ちあがって、ノロノロとドアノブに手を掛け、扉を開ける。

 ドンッ

 まだ半分も開けていないうちに、何かが扉にぶつかったのか、金属音が響き、手にかけたドアノブにまで振動が伝わった。

(……また、か?)

 霧夜は僅かにドアを内側に引っ込ませる。すると、何かがドアの前で音を発しながら、通り過ぎて行った。霧夜は『それ』が去っていくのを聞き届けると、閉めたドアを再び開ける。

 開けた先の地面には、小さなアンテナのような部品が転がっていた。

「……あー、しまった」

 困ったように頭を掻く。だが、その言動とは裏腹に霧夜の表情に困った様子は見られない。

 治安局が数年前に実施し、普及させたのが高さ四〇センチ弱、長さ一メートル長の四角い箱に四本の足がついている『警備ゴーレム』と呼ばれる、文字通り警備のために造られたものだ。別段、珍しいものでもない。この街のあらゆる箇所を巡回している。その数は一千台を超え、材料費も安いため、今でも大量に生産されているらしい。

 霧夜は地面に転がっている受信機を見下ろす。

「また、かぁ」

 床に落ちている小さな受信機部品は警備ゴーレムの外部に取り付けられた治安局との外部式通信用受信機だ。

 何か緊急の事態が発生した場合、警備ゴーレムは治安局から通信を受け、受けた通信によって行動パターンを変える様に設定されている。その通信を傍受するための受信機がこれだ。

(しっかし、ドアにぶつかって壊れる受信機っていうのもどうなんだ?)

 霧夜にとって警備ゴーレムがドアにぶつかって受信機が壊れる、というのは今日が初めてではない。本来、道のりにある障害物を避ける装置を内蔵する警備ゴーレムは自動的に避けるか、停止するように設定されている。そのはずなのだが、突然目の前に現れた物体――この場合は扉だが――には対処できないらしい。おかげで何体もの警備ゴーレムが霧夜のドアにぶつかっては受信機を壊している。

 警備ゴーレムはメンテナンスを行う必要がなく、加えてどういった原理かは不明だが、半永久的に稼働するらしい。治安局の人間が学生寮の警備ゴーレムをチェックする機会はほとんどなく、加えて通信用受信機自体が活用されるケースは極めて稀なので、受信機が壊れた事情を察知していないらしい。よって、この学生寮の警備ゴーレムは受信機なしの状態で稼働している。

 霧夜は足元に転がる受信機を拾い、玄関から自分の部屋のゴミ箱に投げ捨てる。受信機は綺麗な放物線を描き、ゴミ箱へと吸い込まれた。

(……弁償とかしなきゃ、やばいんだろうな)

 その時はその時かな、と今はなるべく考えないようにしておこうと霧夜は思った。

 特に忘れ物はないかと、玄関を見渡す。そこで傘が必要なことを思い出し、靴箱の中に半ば放置気味になっていた適当な折り畳み傘を手に取った。

 霧夜は半開きとなったドアを全開にし、外へと足を踏み出す。

「ん?」

 踏み出した先に一枚の花弁が落ちていた。ここは二階だが、廊下は外に面していない。花弁が入る余地などないのだ。昨日外出した時に身体のどこかに付着したものが、落ちたのだろう。

 霧夜はじっとその花弁を見つめた。薄い桃色で染められた小さな花弁は、今がその季節であることを雄弁に物語っていた。

(そうか、もうこんな季節か)

 当然と言えば当然だ。季節は必ず一巡する。そんなもの日本で生きていれば、考えるまでもないことだ。霧夜もそんなことは分かっている。

(もう桜が見られるのか)

 人生とは早いものだと、誰しもが一度は感じるが霧夜は初めてその感覚が分かった。ついこの前までは緑色だったというのに。

 ふと、我に返る。

(ああ、早くしないと)

 花弁――桜の花弁を踏まないように部屋から出る。

 視線を後ろへと向け、室内へ呼びかけるように、

「……いってきまーす」

 主の居なくなった暗い部屋に向かって、霧夜は気だるそうに言った。

 季節は春。どこか温かく、冷たい日だった。


 ◆


 常世は広大な一大都市だ。ヨーロッパのどこかにありそうな、今では観光地になっているであろう歴史ある外壁――それにしては巨大過ぎるか。ならば万里の長城とでも言うべきだろうか。いや、外壁は異様に高いので当て嵌まらない。よくよく考えると、該当するものはなさそうだ。ともかくそんな雰囲気を持つ外壁で都市一つをぐるりと囲んでいる。さらには壁の周辺は街の中、外ともに鬱蒼とした木々が並ぶ、一種の森となっており、容易には近づくことはできない。それは他の地域との交流を拒絶している証でもあった。

 霧夜はそんな閉鎖的な都市に住む学生だ。

 彼の周囲には駅に向かう為に全速力で走ったり、のんびりと歩いたりしている学生服姿の生徒が大勢いる。その数の多さはまさしく、学生の波と表していいだろう。ただし、連休明け、俗に言う春休み明けと言うこともあってか、その波からは覇気が抜け、どこか気だるい雰囲気が蔓延していた。

 この地区は学業に励むための設備が集中的に備えた施設が点在する、学業地区に指定されている。学生は都市を一周する列車を通学に利用している。よって、朝のホームは職場に通勤する人よりも、寝ぼけ眼の学生服姿の少年少女が多かったりする。霧夜も例外なく、その中の一人だ。

 彼は割合的に少ないのんびりと歩く組に属して、駅へと歩を進めていた。あまり急ごうという気にはならなかった。

 不意に何者かに凄いスピードで追い抜かされた。

 驚くほど長い深緑の髪を足元まで伸ばした、どこか気品が溢れる高校生の少女だった。この制服の波の中でバタバタと肩掛けのバッグを揺らしながら、全力疾走で駆け抜ける後ろ姿に霧夜は見覚えがあった。

「……翁舞さん、か」

 まだ眠気が取れない霧夜の回転の悪い頭がようやく答えを導き出す。霧夜の一つ年上の先輩だ。

 小さな呟きだったが、霧夜の声を目の前を颯爽と走っていく少女はピタッと立ち止まり、くるりと勢い良く振り返った。

 眩しい笑顔に焦燥が入り混じった少女、翁舞咲は朝の眠気やだるさを吹き飛ばす声で、

「おりょー、きっくんじゃないっか! そんな足取りじゃ、遅刻しちゃうぞー?」

「ギリギリ大丈夫ですよ」

「それじゃ、一緒に登校するっさ!」

 翁舞は軽い足取りで霧夜へと近寄ると、彼の隣に並び、朝の眠気やだるさを感じさせない満面の笑みを霧夜に向けた。

「どうしたっさ、きっくん! 朝から元気がないっさね?」

「連休明けはみんなそんなもんですよ。翁舞さんは朝から元気ですね」

「そうっかな? 今日は連休中の勝負に負けたショックで三割減っさ!」

「……まだ引き摺ってたんですか。もうあの勝負は忘れた方が良いと思いますけど」

「いや、そうもいかないっさ! 超常現象部の部長としてのプライドがそれを許さないっさね!」

「……あんまり部と関係がないようにも思えるんですが」

 隣の翁舞に聞こえないように小声で小言を言いつつ、霧夜は翁舞に部活説明を受けた時のことを思い出した。

 超常現象部。

 それは『不可解なもの、不思議なもの、とりあえず変だと思ったことを調査する』をモットーに数年前、霧夜や翁舞の通う学校で創設された文化部の一つだ。本来ならば文化的でないそのような理由で部活を創設することは不可能に近いとまで言われたが、部活創設時、生徒会の中に当時の部長と仲が良いメンバーが居たことでギリギリ創設が決定したという逸話を残している。

 教師の方々も熱心に部活動に力を注ぎ込んでくれれば良いと思っていたらしいが、創設者の思惑は別のところにあったようだ。ただ単に『放課後になって遊びたい場所を校内に作ること』が目的だったようで、名前通りの活動は一切なかった。さらには年々、入部する生徒は減少し、ほとんど廃部に近い状態になっている。

 その廃れた部活を復活させたのが隣に居る翁舞咲である。本人曰く、不思議そうな部活という理由で入学一週間後に入部したらしいが、現状を憂いて部を名前通りに活動させ、再興させたとは本人の弁である。

 霧夜は以前の超常現象部がどんなものか知らない故、判断に迷うが、少なくとも名前通りとは言えなかった。

 今の超常現象部は校内だけではなく、都市中の人間から依頼を受ける『何でも屋』としての仕事が部活動となっている。昨日の猫探しも、翁舞のクラスメイトが依頼してきた『何でも屋』としての仕事だ。

 しかも、『何でも屋』としての仕事も翁舞の『面白いか、面白くないか』という判断基準で決定して居るため、半ば翁舞独断による放課後の暇つぶしと化している。つまるところ、何ら変わっていないということだ。

(なんでこんな部に入ったんだろうな)

 現在、超常現象部の部員は部長の翁舞と、霧夜の二名しか在席しておらず、部室は置物同然と呼べる場所を学校のご厚意で貸してもらっているのが現状であるらしく、部の基盤は不安定のままだという。その姿に校内では廃部候補筆頭と揶揄されているほどらしい。

『だから入ってくれないと困るっさ!』

 と、廃部寸前の状況を説明し、目尻に涙を浮かべ、ほとんど懇願するように自分の入部を頼んできた翁舞の姿に思わずOKを出してしまったらしい。

「そもそも、勝負の内容が違い過ぎるんですよ。翁舞さんは猫探しで、俺は不良の相手。どっちが早く終わるかなんて明白でしょう?」

「ううー。でも、やっぱり悔しいっさー。そもそも、きっくんが何度も不良に絡まれるのが行けないっさー」

 と翁舞は半ば投げやりな様子で言う。

「……そうですね」

 霧夜はそれを聞いて苦笑するしかない。

 翁舞に黒い塊――『異物』と言われているらしい――のことは話していない。郊外の部活動の最中に異物が襲ってきた時は、意図的に翁舞と離れて連中と対決をしている。よって翁舞は異物を目撃しておらず、連中と戦った出来た傷は全て不良に絡まれたと言い訳している。

 それが、『彼ら』と交わした契約だからだ。

「秘密を守るって言うのも大変だな」

「ん? 何か言ったっさ?」

 心の中で呟いたつもりが、いつの間にか口に出していたことに霧夜は内心慌てた。だが、あくまで平静を装って話題を変える。

「それよりも例の猫はどうしました?」

「ああ、猫ちゃんかい? さっき、ちゃんと依頼主に渡しておいたよ。中々元気一杯の猫で、このあたしも手に負えなかったよ」

 おかげで傷が出来たっさと翁舞は笑いながら手の甲につけられた赤い引っ掻き傷跡を見せた。

 霧夜は連休中に起きた猫探しを鮮明に覚えていた。時間が深夜に差し掛かる直前、二人で猫を発見し、追跡したものの結局は巻かれてしまい、別れて捜索することになった。その途端に異物に襲われてしまったわけだが。

 目撃した時も公園で捕まった時、あの猫はおとなしそうに翁舞に掴まれていた。とてもではないが暴れる姿を霧夜は想像できなかった。

「随分とおとなしそうだと思いましたけど、あの猫」

「んんー、そう思ったんだけど、きっくんと別れた後、突然暴れ始めちゃってね」

 意外と神経質な猫なのかもねー、と翁舞は納得している様子だ。霧夜は全く別の考えで、あの猫は翁舞に突然掴まれたショックでおとなしくなっただけなのかもしれない、と思っていた。

「ま、どっちでも良いですけどね」

 言葉通り、どうでも良さそうに呟く。

 その様子に翁舞の表情が不満気になる。

「むー、元気なさそうだね。今日も依頼入ってるんだから、しゃきっとしとくっさ。ま、きっくんは不良に絡まれるかもしれないけどねっ」

 元気付けてくれているのか、それとも皮肉なのか、あるいは両方なのか、霧夜には分からなかった。

「依頼も良いですけど、レポートの方は良いんですか?」

「うっ」

 レポートとは翁舞個人が提出するものを指す言葉ではない。霧夜の通う高校には一年間の部活動の成果を見るため、数ヶ月毎に部の活動を纏めた報告書を学校側に提出しなければならない。大会に出場した、コンテストに応募した作品が選出されたなど、目に見えた成果が出ているのならばレポートの量は最小限に抑えることができるのだが、超常現象部のような成果が見えにくい部活動はレポートの質と量で部費が左右されやすい。

 霧夜は前回のレポート提出に立ち会ってはいないが、どうやらその結果、超常現象部にはかなりの部費削減が行われたらしい。はっきり言って現状は崖っぷちのようだ。

「だいじょーぶ! ちゃんと今回はテーマが決まってるっさ」

 翁舞はやけに自信たっぷりに答えた。


「きっくんは幻想使いについては知ってるっさね」


 幻想使い。

 霧夜はその話については翁舞に聞かされ、『あいつ』にも説明を受けた。嫌でも耳に残っている単語と言えた。

 霧夜は数瞬の後、

「まあ、ありますね。ですが、あまりにも常識過ぎませんか? この街で知らない人なんていないほどの常識中の常識なんですよね?」

「確かにそうっさ。でも、常識の中には意外な盲点が潜んでいるかもしれないっさ!」

「例えば?」

「それをこれから調べるっさ! 興味あるかなっ?」

「いえ、あんまり」

「えー!」奥部が不満の声を上げたる「どうしてっさー?」

「いや、なんとなく、としか言いようがないんですが」

「理由になってないっさー!」

 ぷくぅーと頬を膨らませる翁舞に、霧夜は申し訳なさそうな表情を作ることしかできなかった。

「むー、やっぱり常識過ぎるかー」

 途端にいつもの表情へと様変わりし、翁舞の方も分かっていたかのような言葉を口にした。

 そう言った翁舞に霧夜は付け加えるようにのんびりとした口調で、

「部の意向を決めるのは翁舞さんですよ。俺は部の意向に逆らったりはしませんから、翁舞さんの興味を引かれるものであれば何でも良いですよ」

「ダメッさ。超常現象部は『いかに楽しく、この部の活動を楽しむか』っていうのをモットーの一つにしてるんだよっ! 私が楽しくても、きっくんが楽しまなきゃ意味がないっさ!」

 そう言われても、霧夜は困り果てるしかない。正直な話、彼はいわゆる超常現象というものに特に惹かれるものがなかった。


「それじゃ、あれはどうっかな」

 霧夜が困り果てるのを見越していたのか、翁舞は即座に意見を出した。彼女が指差す場所は今居る位置から少し離れた駅前の階段だ。その階段付近に通行人の邪魔にならないよう、立派な白い鬚を蓄えた、三十代半ばの長身の男が立っていた。少し肌寒い季節ではあるが、男の着ている白いロングコートは少々暑そうに見えた。霧夜が居る位置からは見えにくいが、右胸に何か青で彩られた円形の印が縫い込んである。霧夜にはどこか見覚えのあるマークに思えた。

「何です、あれ」

「あ、そっか。今のきっくんが見るのは初めてだねっ。あれはオラクルの宣教師だよ」

「……あれが」

 黒服の男、宣教師は演説をしている最中のようだ。片手に本を持ち、周囲に語りかけている様子だが、静かな語り口なのか、二人の位置まで声は聞こえてこない。

 翁舞はどうかな、と尋ねる。どうやら、彼女はオラクルについて調べたいらしい。

「これもどうかと思いますよ」

 霧夜はつまらなさそうに言った。

「どうしてだい?」

「オラクルも幻想使いと同様に、この都市の常識なんですよね? だったら今更調査しても目新しくありませんし。逆に知らない方が変、と言えるレベルでは?」

 そう断言できるのは、この都市がいかにオラクルの教えに染まっているかを物語っている。この街に住む人間イコールオラクルの信者である、といっても過言ではない。何せこの街の行政を担当する中央区と呼ばれる組織の人間も、元々はオラクルとの上層部、または関わりのある人間なのだ。

「―――でも、きっくんは知らないっさ」

「……まあ、そうですけど。でも、基本的な知識は翁舞さんや雨師から聞きましたし」

「甘いっさ、きっくん。人から聞いた話よりも、自分で見聞きしてこそ、本当の理解ってものができるのっさ!」

「じゃあ、聞きますけど、翁舞さんは理解できてるんですか?」

「うっ」

「できてないんですね?」

 翁舞は態度であっさりと肯定した。

「で、でもさ、ほら。だからこそ、二人で一緒に調べようって訳っさ! ほら、二人なら作業も早く済むし、お互いに理解できなかった場所をカバーしあえる点もお得っさ」

 慌てて早口で捲し立てるように自分の考えを述べる翁舞であったが、元々興味すらうかばない覚えない霧夜は、その意見に特別賛成する気にはなれなかった。

「そうですか」

 そのせいか気のない返事をする。その一声で説得は無理と判断したのか、翁舞は話題を切り換えた。

「それじゃ、オラクルがこの街で広まったことを調査しよっさ」

「いや、すぐに答え出ますよ、それ」

 オラクルがこの都市に広まった理由は単純に、この街に住み始めた最初の人間がオラクルの教徒だったに過ぎない。彼らオラクル流の生活様式が人から人へ時代を超えて長く伝えられた結果、生活様式へと浸透していった。結果、住民のほとんどは無意識にオラクル流の生活を送っているのである。つまりは、この街の文化が既にオラクルの教えと同意義だということだ。

「確か一緒にラジオで聞きましたよね」

「うっ」

「確か雷が怖いとかなんとかの理由で、深夜に部屋に転がり込んで」

「あー、それはもう言っちゃダメっさ!」

 顔を赤らめて子どものように両手を振りまわす翁舞の手から逃れつつ、霧夜はさらに反論を加える。

「実際問題、街中の人にアンケートを取って、学校に居る心理博士にでも聞けば嬉しそうに答えてくれるんじゃないですか。ほら、誰でしたっけ。四組の山田先輩?」

「誰っさ、それ。適当なこと言わないっさ!」

「あれ、そんな話しませんでしたっけ?」

 つい一週間前に翁舞が山田くんと会話したら延々と心理学について語られて、うんざりしたという愚痴を事細かに聞かされた記憶があるのだが、半ば流していたので記憶が曖昧だった。おかげで、ないと言われるとない気がしてきた。

 翁舞の表情が強張る。

「もしかして、きっくん。思い出したっさ?」

「……いえ、多分俺の気のせいですよ」

 頭を掻き、まるで人言のように言った。

 それに対し、翁舞はそっか、と呟く。

「ゆっくり思い出せば良いっさ。きっくんに関する情報はたくさんあるんだからねっ」

「そうします」

 翁舞の同情的な声色に霧夜はなるべく、明るい声で返した。

「それで、どうするっさ?」

 仕切り直すように、底抜けた明るい声で翁舞が言う。その様子に霧夜は自分の口元が緩むのを感じた。自分を元気付けようとする気遣いが、なんとなく嬉しかったのだ。

「まあ、何でも良いんじゃないですか?」

「良くないっさ! これじゃ、何も決まらないっさ。……何か提案はあるのっかい?」

 あるわけがない。それを見越していたのか、翁舞はまるで待っていたかのような素早さで、肩にかけていたバッグから何かを取り出した。どうやら、前述の会話の全てはこれを切り出すきっかけだったのだろう。

「ふふーん、どうやら出ないようだねっ。それじゃ、今度はこれっさ!」

 取りだしたのは雑誌のようだった。ただし何年も前の雑誌らしく、全体的にボロボロでところどころ茶色く変色している。表紙も例外ではなく、タイトル以外は何が書いてあったのか判別できない。

「何です、これ?」

 霧夜の言葉には呆れたような声色を含んでいた。それも当然である。古びている以前に、翁舞が手に持って見せつけているものは『預言書の秘密』と書かれた、見るからに胡散臭い特集が組まれていそうなSF雑誌だったのだ。

「何を言うさ、きっくん! これこそがオラクルの秘密に近づくための第一歩っさ!」

「この胡散臭い本がオラクルと関係あるんですか?」

「ふっふー、実はありありなのっさ!」

 翁舞は自信たっぷりに言った。

「主にどういった点で?」

 この本自体に理由があるわけじゃないんだけど、と翁舞は前置きし、まるで内緒話をするかのように霧夜の耳元に顔を寄せ、小さな声で言った。


「オラクルの中には一部の人たちしか見れない、預言書があるっさ」


「預言書?」

 預言書というと、近年では一九九九年に地球は滅びるとか大ぼら吹きのノストラダムスが書いた大予言が霧夜の頭に過った。さっきの翁舞が手に持っていた雑誌もその時期に発行されたものなのだろうか。

「そっさ。オラクルはその預言書を使って数十年先の未来まで見通して、来たるべき大災害に対して事前に準備をしてるらしいっさ。今の布教活動も、大災害を見越して展開してるらしいっさ。……ま、これも噂の一つだけどねっ」

 翁舞は首を動かし、空高くをを見上げた。その視線は遠くに聳え立つ白色に染められた巨大な円形の塔を見据えていた。周囲の建物とは違い、その塔は古代の文明の遺産を象徴するかのように、神秘的な雰囲気を携えていた。

 元々は白一色であっただろう外壁は遠くからも黒い汚れが目に付く。装飾が一切ないのも、人の視点から見ればどこか気品に欠けているように見えるだろう。だが、塔はそんな些細なもので美しさが損なわれることなく、逆に毅然たる態度を持ってそこに存在している。

 天空へと挑戦するように聳え立つ塔は『秩序の塔』と呼ばれている。

 雲の上へと突き抜けるのではないかと思える程の高さを保つ塔は、全長三二〇メートル以上を誇り、この都市では最長の高さで、誰もが一度は目にするだろう。だが、そんな美点など塔が持つ『謎』と比較すれば色褪せてしまう。

 この塔が、いつ、誰によって建てられたのか、知る者はいない。一説によれば神々が、この都市に安寧をもたらすために造ったとされている。

 と、連休中に散々語られた内容を思い出した霧夜は面倒くさそうに言った。

「あのバベルの塔がどうかしたんですか?」

 霧夜の皮肉な言葉に翁舞は眉をしかめた。

「不吉なこと言わないっさ。この街の象徴だよ?」

 霧夜にはあんなただ高いだけの塔が街の象徴と言われても、イマイチピンと来なかった。逆に高すぎていつか崩れさるのではないか、と不安に思ってしまう。

「あの塔の中に、その預言書が隠されてるって噂っさ」

「ピンと来ませんね。オラクルが預言書を持っているとして、そんな預言めいたことを公表したことってありましたっけ?」

 翁舞は右手の人差し指を顎に当て、うーんと唸った後、

「確かに公式の発表ではないっさ」

「まるで非公式では当たり前のように使ってるようにも聞こえますけど」

「その真偽を調べるのが、私の提案するレポート提出用の課題っさ。興味、湧いてきたっかな?」

 歩き続ける二人は駅の裏にある路地裏へと入っていく。右手には駅のホームが見えた。ホームには様々な色と装飾で飾られた多種多様の制服姿が見える。この地区は様々な学校が集合しているため、結果的に駅に集まる制服も種類が豊富なのだ。

 その姿を横目に霧夜は彼女の問いに答えた。

「全然」

 あっさりと切り捨てた。

「な、なんでっさー!」

「いや、なんとなく」

「理由になってないっさー!」

「理由と言われても、理由がないのが理由ということで」

「こらぁー!」

 霧夜が反対して意見を言わず、翁舞が怒る、というのは二人のパターンと化している。しかし、今回は霧夜の態度が気に入らなかったのか、珍しく怒った様子でやはり子どものように頬を膨らませた。

「だったらきっくんが意見言ってっさ! こっちもいっぱい意見出したのに、何でもかんでも拒否されるのは気分が悪いってもんっさ!」

「ですから、俺は翁舞さんが――」

 次の言葉を予測したのか、翁舞は言葉を遮る。

「さっきも言ったっさ。超常現象部のモットーは『いかに楽しく、この部の活動を楽しむか』だよ。部長が良くても、部員がダメだったらダメなのっさ!」

「でも――」

「ダメったら、ダメっさ! 絶対にダメっさー!」

 両手両足を広げるだけ広げて、バタバタと駄々捏ねる子どもの様に翁舞は暴れ出した。

「ちょ、ちょっと、翁舞さん」

「ダメったら、ダメっさ! 絶対にダメっさー!」

 周囲の人目も憚らず、大声で否定の言葉を口にする。幸いなことに近くの踏切がカンカンと甲高い音を発しているので、周囲からの注目は少し薄れている。

 しかし、霧夜は困り果てる。こうなると翁舞は絶対に自分の意見を曲げない。

 本人に気づかれないよう霧夜は小さく溜息を吐いた。

「……それじゃ、こうしましょう。翁舞さんが楽しんでる姿が、俺にとって楽しいものってことで」

 霧夜はなるべく、落ち着いた声色で言った。その言葉で喚いていた翁舞はピタリ、静止する。開口一番に、

「――歯が浮くようなセリフっさ、きっくん」

「あ、やっぱりそう思います?」

「ま、それもありって事で良しとしようかな?」

 どうやら機嫌は治ったようだ。

「それはどうも。とりあえず、涙を拭いた方が良いですよ?」

「う、嘘っさ!」とバッグから化粧鏡を取り出し、「ああ、本当っさー」

 泣いていたことがそんな恥ずかしいのか、顔を赤らめながら、慌ててブレザーのポケットからハンカチを取り出し、涙を拭く。

「ううー、恥ずかしいところ見せちゃったっさね」

 ははっ、と乾いた笑いでその言葉をスルーし、霧夜は告げる。

「ところで、翁舞さん」

「ん?」

 と霧夜は翁舞の後ろを指さす。

「あれに乗り遅れると遅刻しますよ、確か」

「えっ? ええぇぇぇぇぇぇ」

 叫び声をあげると同時に霧夜に背を向けた翁舞が、改札口に全速力で去っていった。最後に今日も依頼があるから忘れないようにっさー、と叫んでいたのは幻聴ではないだろう。

 猛然と駅の段差を駆け上がる後ろ姿を見送り、安堵したところで、霧夜は制服の波を逆走し始めた。駅へ向かう制服姿の人にすれ違う度に、怪訝そうな眼差しで霧夜を見るが、当の本人は気にしていない。

 少し戻ると十字路へと出た。左手に行くと甲高い音を鳴らす踏切が、右手に行くと車道へと通じる短い道が広がっている。人通りは少なく、遠くに見える車道には馬車が行き交っているが侵入してくる気配はない。

 霧夜は迷わず右手に折れた。奥へと進み、自分への人の注意が完全になくなる位置まで歩く。

「……で、俺に何の用だ?」

 固い声で虚空へと呼びかける。周囲には誰もいない。

「おやおや、気付かれましたか」

 霧夜の声に答えるように虚空から返事がやって来た。いや、虚空からではない。目の前の風景に亀裂が走り、僅かな黒い隙間が生み出される。そこからゆっくりと何かが這いずり出てきた。

 それは人間の手だ。

「おい」

 霧夜の声に反応して這いずり出てきた手がピタリと止まる。

「不気味な演出は良いから、早くしてくれよ」

 つまらなさそうに言った。すると、見えない声が残念そうに、

「登場にも多少の演出が必要なものです。まあ、早くしたいのはこちらもですので」

 亀裂が風景に侵食する。左右一杯に広がった亀裂はバラバラと砕け、落ちていくが不思議なことに地面へ触れた瞬間、跡形もなく消えた。

 亀裂の中は赤と黒で彩られた不気味な空間だった。そこから、一人の男が出てくる。若い男だ。年は霧夜と同じくらいだろうか、非常に若々しい。顔に浮かぶ柔和な笑みは人畜無害だと他人に与えるが、どこか胡散臭くも感じる。服は霧夜と同じく学生服だった。しかし、紺色で整えられている霧夜の服とは違い、クリーム色で基調されたブレザーだ。男性の肩までかかる黒髪と非常にマッチしていると言えた。

 若い男は微笑を崩さず、感心したように、

「僕の気配に気づくとは、あなたも『こちら』に染まってきたようですね」

「何言ってんだよ。その……気、みたいなものを見せつける様に垂れ流してたじゃないか」

「おや、ばれていましたか」

「誰でも気づく」

 若い男はその言葉に微笑を浮かべる。

「修行不足ですね。それと僕が発したのは『気』とかいうものではありません。『幻想力』です」

「何でも良いよ。お前だって味噌汁の中にあさりと蛤、どっちかが入ってても大して変わらないだろ?」

「いえ、それは変わると思いますが……」

「……まあ、良いや。それで何の用だよ」

「仕事の話です。近くに学業地区創立記念公園があるのはご存じですね。そこで異物が発生した形跡がありました。向かってください」

「お前が行けよ。俺はこれから学校なんだが」

「そう言われましても、僕のような下っ端は命令を受け取って、あなたに伝えることしかできませんので」

「クビ覚悟で逆らって来い。骨くらいは拾ってやるよ」

「あんまりな物良いですね。我々の方も人手不足なんですよ」

 霧夜はあくまで同情的に呟いた。

「幻想使いも大変なんだな」

 幻想使い。

 異能の力を扱う、普通の人間ではない者たち。目の前に立つ黒髪の若い男はまさしく、幻想使いなのだ。

 霧夜が既知していることは、この若い男が幻想使いであること、『異能』と呼ぶ現象から街の人々を守るための組織があり、目の前の男はそれに加入していること。

 組織というのはこの街の治安を守る治安局のことではない。組織の名は――

「我々『オラクル』に所属する幻想使いは三桁にも届きません。この街は広いですから、その人数でカバーするのは大変でして」

 オラクル。この街の最大宗教のもう一つの顔が、『異能』から街を守る知られざる治安組織としての役割だ。治安組織の正式名称は異能管理機関。特徴としてはメンバーが全て幻想使いで構成されており、取り扱う事件が全て『異能』に通じることだ。

「今までは碌に仕事もありませんでしたが、ここ最近は奴らが頻繁に出現するようになって、こちらも大忙しでして」

「異物、ね」

 心底疲れた様子で霧夜はその名を呟く。

 異物。

 黒より深い黒で染められた身体を持ち、不気味に発光する両目を持つ、奇怪な生物。この世に存在してはならない異質な存在、という意味を込められ、そう呼ばれている。常に暗がりから現れるこの都市特有の『現象』だ。

「丁度二週間だったけか、この街に大量出現したのは」

 元々異物とは頻繁に出現するものではなかった。一カ月に一度現れれば多い方で、最長でも半年間は現れないことがある。発生場所もランダムで、発生時期にもパターンは存在せず、オラクルの間でも異物は都市内のみで発生する『自然現象』という認識で固まっていた。

 しかし、二週間前から何の兆候もなく、異物の発生率が飛躍的に上昇した。初日こそ一回きりの発生だったが、日が進むにつれて数は一日に二回、三回と増え続け、現在では一〇回にまで達した。

 同種の幻想使いが起こす事件を取り扱っていたオラクルは、正体不明の生物への長期的な対処経験がなかった。加えて発生率の増加により、幻想使いたちは街中を駆け回り、人手不足を起こしているのだ。

「ええ。異常事態に我々はてんてこ舞いですよ」

 ハハッと乾いた笑いを上げる雨師に霧夜は疑わしい目を投げた。

「お前が仕事をしている姿を見たことがないんだが」

「おや、心外ですね。こうしてあなたに異物発生の情報を伝える仕事をしているではありませんか」

「だから、ならお前が異物退治に行けよ」

「いえ、僕が手に負えるものではありません」

 わざとらしく肩を竦める男に霧夜は心底疲れたように溜息を吐いた。

「あんまり気持ちのいいもんじゃないんだけどな、あいつらとやるのは」

「それは我々も同じです。奴らの気味の悪さといったら、たまったものじゃありません」

 その点に置いては霧夜も同意だった。

「まあ、契約だから良いけどさ」

「期待していますよ、あなたの異物に対抗できる『力』に」


 霧夜には普通の人間とは決定的に違う、ある『力』を持っている。


 それがどんな能力なのか、どんな効果があるのか、霧夜自身、全貌を知っているわけではない。唯一分かっていることと言えば、不思議な力が異物に毒のような作用をもたらし、その存在を文字通り消滅させることだけだ。

 どうしてこんな能力が自分に宿っているのか、霧夜は知らない。気づいたのも、つい最近で発見も偶然だった。

「この『力』の正体は分かったのか?」

「いえ、残念ながら」

「……そうか」

 霧夜は特に残念とは思わなかった。あまり期待せずにしいたおかげだろうか。

「すみません。もう少し入念に調査をすれば分かるかと思うのですが――」

「人手不足、か」

「……そう言うことです」

 雨師の言葉に霧夜は文句も言わなかった。相手側にも事情はある。霧夜はそれを知っている。それ以前に霧夜自身、あまり自分の力の正体についてはあまり興味を抱いていなかった。

「この前の符の調子はどうでしたか?」

「上々だよ。前に指摘した点は改善されてたから。渡すか?」

 もちろん、と雨師は言ったので、霧夜はズボンのポケットから何枚か紙を取りだした。異物に対して使った紙だ。

「今回、問題はありませんでしたか?」

「特になかったな。合図で『力』を放出する奴もタイミングはずれてなかった」

「さすがは我が技術班と言ったところでしょうか。五枚回収しますが、手元には何枚、残りますか?」

「五枚だ」

「それなら大丈夫でしょう。異物の反応はごく少数を示しています。三枚で充分でしょう」

 霧夜も同意見だった。これまで五枚以上使用したことがなく、特に心配もなかった。

「それじゃ、ほら」

「お預かりします」

 取り出した符を雨師に渡すと、彼は丁寧に懐から取り出した茶封筒に閉まった。毎回、雨師は異物との戦いで使用した符の何枚かを霧夜に手渡し、不満点を改良し続けている。

 符は未知の力を利用した、霧夜専用の武器だ。腕から発生する『力』を符に流し込むことで、その『力』を符に付加する。霧夜の『力』は掌に薄く発生する程度なので、その量では異物との戦闘では接近戦しか対抗できない上、与えるダメージも少ない。せいぜいチクリとした痛みだけだ。加えて異物は小柄な身体であり、しかもすばしっこいと来ている。そこで開発されたのが、『力』を最大限に利用する符であった。

「次にお会いする時には、改良品を渡します」

「もう改良しなくても充分なんだが」

「あなたが満足でも、うちの技術班が満足しませんよ」

 そうだろうな、と霧夜は相槌を打った。直接の面識はないが、オラクルの技術者というのは作成するという行為が骨の髄まで染み込んでしまっているらしい。時々、雨師が漏らす愚痴からでも十分に理解できた。

「今日は一千万円の技術費を出してくれと頼まれました。一日単位でそれが来るんですから、感覚が狂ってますね」

 ほとんどお約束とも言える短い愚痴を聞き終えると、雨師は別の話題を口にした。

「彼女には感謝しておくんですよ」

 彼女、と言われて霧夜の頭に浮かぶ人物はたった一人しかいなかっ

 翁舞咲。霧夜の一つ上の先輩に当たる人物で、唯一、今までの霧夜との接点を持つ人物。

「監視してたのか」

「いえ、たまたまです。あなたに用事があったので探していたら、偶然見かけてしまって。お二人の会話の際中に僕のような無粋な輩が入るのは気が引け増して」

「あっ、そう。治安局に電話していいか、ストーカー野郎」

「……さすがにそれは傷つきますね」

「それで、感謝するっていうのはどういう意味だ。色々世話になってくれてるから当たり前だろ」

「いえいえ、空気を読んでくれたことをですよ」

「?」

「あなた、列車に乗り遅れると遅れる、なんて平然と嘘つきましたね?」

 実際の話、列車には数本の余裕があった。しかし、雨師の気配に気がついた霧夜は翁舞を先に行かせるために咄嗟に嘘を吐いたのだ。

「まさか、翁舞さん、気付いてたのか?」

「ええ。あの人は毎日通学しているんですよ? 列車の時間ぐらい把握しているでしょう。それにまだ学校に一度も通学していないあなたが列車の時間を知っているなんておかしいな話ですし」

「俺が前もって俺が確認したかもしれないぞ」

「しましたか?」

「……いや」

「ね?」

 やけに嬉々とした様子で話す雨師に若干の苛立ちを感じつつ、もう話は終わりだとばかりに霧夜は踵を返した。

「おや、そろそろ行かれるんですか?」

「さっさと学校にも行きたいしな」

「それでは、気をつけて。我々オラクルのために」

「雨師」

 振り返らず、霧夜は言い捨てる。

「俺は自分の居場所を守るだけだ」


 ◆


 霧夜が訪れたのは駅から一〇分歩いた先の『第七地区創立記念公園』と題された、この地区では一際大きい公園であり、季節を感じることのできる名所だ。というのも、植えられた木々は季節によってその色と葉の種類を変えるからだ。その理屈を霧夜は知らない。

 現在、木は桃色一色に染まっていた。桜だ。

 一歩、公園に入るとまるで切り離されたように、街中の音が聞こえず、静けさが保たれていた。鳥の囀りと風が鳴らす木々の音が調和のとれたハーモニーとなって公園内に響き渡っている。その音は自然と人の心を落ち着かせる。

 朝方の公園には普段、誰もいない。第七地区の住人はほとんどが学生のため、自然と人がいなくなるのは当然だ。

「のはずだったんだけどなぁ」

 少しだけ迷惑そうに呟いた。

 霧夜の目線の先には少女が一人、ポツンと砂場に立っていた。何をするわけでもなく、ただボーと暗雲立ち込める空を見上げている。時々吹く少し肌寒い風が少女の服と髪を揺らすだけだ。

(何やってんだ? サボリか?)

 授業中の時間帯に公園にいる人は、休校か、サボリと相場が決まっている。ただ、珍しいことに少女は学生服を着ておらず私服だった。

(もしかして、休校日なのか?)

 この周辺の学校を思い浮かべるが、自分が在籍する学校しか思い浮かばなかった。というか、よくよく考えると今の霧夜が他校の休校日など知るはずもない。

(もしくは旅行者か? そうなると、珍しいんだろうな。外からの人間なんて)

 常世は外との交流を断絶しているが、年に数回、旅行者が訪れることは珍しくない。外壁で都市を囲んではいるものの、決して外部との交流を一切遮断しているわけではないということだ。一定の手続きを行えば、ある程度の日数、滞在許可が下りる。しかし、それには面倒で長い手順を踏まなければならず、そこまでして来訪する旅行者は稀と言えた。

(ま、いっか)

 別にサボリであろうが、旅行者であろうが、どうでも良い。しかし、このまま居座られると霧夜にとって少々面倒なことになる。

(異物は多人数の人間が居る場所には出現しない)

 自分の経験と、雨師から聞いた話を思い出す。異物にはいくつか特徴があり、その一つが二人以上の人間の前には姿を現さないことだ。異物が発生していたとしても、霧夜の目の前に姿を現さなければ意味がない。

(出てこないんだったら、それはそれで良いんだけどな)

 異物はどこからともなく出現し、そのままどこかへと消える場合もある。もし、このまま待機し、反応が消滅すれば事を起こさずに済める。霧夜はどちらかといえば、穏便に済ましたかった。

 ただし、それは霧夜の考えであってオラクルの考えは違う。オラクルは異物の殲滅を指示しており、霧夜は戦わなければいけない立場なのだ。

(出てこないんだったら、別に良いと思うんだけどな)

 そこら辺の事情を霧夜は知らない。雨師から言われもしないし、霧夜も自分から聞いたことがない。街の安全を守っている組織なので、殲滅に何の意味もないとは思っていないが、そこが少しだけ引っかかっていた。確かに異物は人間に害を成す存在ではあるが、どうも霧夜は腑に落ちなかった。

(ま、考えてもしょうがないな)

 霧夜は再び少女に視先を移す。打って変わら、砂場に立ち尽くすだけで、移動する気配が全く見られない。

(もう少ししたら、こっちから捜索するか)

 公園に備え付けられた黒い時計塔に目をやり、霧夜はそう心の中で決意した。

 意識が別のものに移ろうとした時。

「?」

 視線を感じ、再び少女に意識を戻す。しかし、少女は砂場に居なかった。

 目の前に立っていた。

 霧夜は彼女が近距離まで近づいてきたことに全く気付かず、素直に驚きの表情を浮かべた。

 年は一〇代後半だろうか。ほとんど霧夜と同じ年ぐらいに見えた。一際目につく中途半端に長い緋色の髪をポニーテールでにして纏めている。肌は透き通るように白く、大よそ日本人には見えない。服は白いレースに黒いミニスカートに白いニーソックスとシンプルだが、似合っていた。しかし、その上に羽織る薄い桃色のロングコートと、両手に嵌める白い手袋が少々不釣り合いに感じる。それよりも気になったのは、あちこち汚れと切り傷が目立っていたことだ。まるで、その服で長旅をしてきた風体だ。

 肌は雪のように白い。日本人種ではない、と霧夜が判断を下したが、

「あなたはここの人?」

 僅かに動く唇から洩れる声は流暢な日本語だった。ただ、その声はとても小さく、淡白だった。しかし、決して弱々しくはなく、強い芯が通っている。

「そうだけど。外からの旅行者か何か?」

 霧夜は他愛もない質問をした。少なくとも、霧夜は肯定もしくは否定の返事しか来ないものと思っていたが、少女の返答は右斜め上と言えた。

「わたしは『幻想なき世界』から来た『契約者』」

 聞き慣れない単語に、霧夜は返答に窮した。少女はそれで自己紹介は終わりだと言わんばかりに、次の言葉を発しようとはしない。

「えーと……それで?」

「それで、とは?」

「あー……外から来たのか?」

「『幻想なき世界』から来た」

 しばらくの間、二人は同じような会話内容を繰り返していた。だが、少女は幻想なき世界から来た、の一点張りでそれ以外の情報を口にしようとはしない。何と返答すれば良いのかも分からず、霧夜は困ったように髪をワシャワシャと掻いた。

 少女は不思議そうに首を傾けた。

「知らないの?」

 まるで、こちらが非常識の様な言い方に霧夜は疑問を覚えた。確かにこの都市には、一般社会で通用する常識とは違う部分が多々あるとは感じているが、少女が発した言葉に聞き覚えはまるでなかった。

「多分、ここでその言葉を知る人はいない思うが」

 そう答えると、少女はそう、と呟いただけだった。よく見るとその表情に変化が表れていることに霧夜は気がついたが、微細な反応のため、注意して見なければ気がつかなかった。しかし、それが何を表しているのか、分からない。

「契約者については?」

「契約者って、何の契約の話だ?」

 霧夜の答えに少女は返答をしなかった。彼女にとって意外な返答だったのかもしれない。

「……そう」

 少女はたった一言だけ呟いた。表情は変わらない。

 短い沈黙が訪れた。

「まっ」と霧夜が切り出した。「外部から来たんなら第七地区じゃなくて、十三地区辺りの方に行って見たらどうだ? あっちは旅行者用の施設が充実しているらしいから、長期滞在するならそっちの方が良いんじゃないか? 十三地区は……あー、分からん。まあ、駅に路線図があるはずだから、それで確認してくれ。悪いが案内は―――」

 そこで霧夜は咄嗟に言葉を止め、立ち上がった。焦るように周囲に見る。

 霧夜は連休中の二週間、雨師から言い渡される任務のせいで『ある気配』に敏感になっていた。本来、今の公園のあるべき姿は静寂と穏やかな風のみが支配する、調和のとれた平和でのんびりとした世界だ。

 だが、それは穏やかな水面に波紋を起こした小石のように登場した。

(まさか、嘘だろ!? 俺以外にも人が居るっていうのに)

 簡単な話、二人の周囲を異物が囲んでいる。

 それも一匹ではない。霧夜が感じる異物の気配は一桁を超え、二桁に突入していた。正確な数は不明だが、恐らく二十匹以上は居ると断定しても良い。

(今までにない数だな。相手さんもそろそろ本気ってことか?)

 自分に問題はない。ここは第七地区随一の広さを持つ公園だ。この場所以外にも奥に進めば広場が三つほど点在し、立ち入り禁止区域にもなれば自殺の名所と呼ばれる暗い森まである。さらに言えば、連日の闘いで相手の行動パターンが一定で、単調な攻撃しかして来ないことは把握済みだ。例え一人で二十匹以上の相手をしても、なんとか切り抜けられる自信はある。

(けど、今回は違う)

 霧夜は横に立つ少女を見る。少女は傍から見れば挙動不審になった霧夜に、淡白な眼差しを向けるだけで、何のアクションも起こしていなかった。

 目の前の少女は異物のことなど知らない『日常』を生きる人間だ。恐らく、この都市に観光気分でやってきたのだろう。

 そんな考えは次の一言で打ち砕かれる。


「あなた、分かるの?」


 は、と霧夜の呼吸が凍った。

「……何が?」

「『あれ』が」と彼女はすぐ近くの木々へと指を差す。

 霧夜は迷うこと無く指差す方向へと意識を動かした。

 一見、そこには何もないように思えた。ただ草木が生い茂るだけの、公園では普通の光景だ。霧夜も最初はそう思った。しかし、数秒の後、草木が風もなく揺れると、そこにいる存在に気がついた。

 草木生い茂る中に、異様な気配を放つ『それ』はモゾモゾと動いている。キョロキョロと引切り無しに動く触覚や、朝でも目立つ黄色い眼。

 異物がそこにいた。

(あんな近くに……)

 全く察知できなかった。だからこそ、霧夜は疑問を覚える。

(何で、こいつ……)

 霧夜は改めて少女を見る。

 気配に敏感になったとはいえ、漠然とした位置と数のみを霧夜は察知できる。正確な距離、位置まで掴み取ることはできない。それを少女は完璧にやって見せた。

 突然自分のことを『げんそうなきせかい』からやってきた『けいやくしゃ』だと言い、容量を得ない答えばかりを返す少女。

 遅まきながら気づいたが、彼女は初見の人でも首を傾げる服装だった。服のコーディネーションではない。彼女の服はところどころ、刃物のようなもので切り裂かれたような跡がある。まるで誰かと戦ってきた後のように。

 ごくり、と唾を飲み込んだ音が喉から洩れたことに気がついた。

「お前は……」狼狽した声。「知ってるのか? あいつらを」

「それはこちらが聞きたい。どうして、あなたが『あれ』を知っているの?」

 どうしてって、と言おうとした時、霧夜の目に飛び込んできた。

 

 異物が少女に飛びかかって来ている光景を。


 少女は気づいていないのか、微動だにせず霧夜に顔を向けている。

「危ないっ!」

 少女を押し退けるようにして、霧夜は飛び出る。その勢いを維持したまま、予め『力』を込めていた符を投げつけた。結果は見るまでもなく、異物は弾き飛ばされ、のたうち回った後、崩れた。

「おい、だいじょう――」

 少女に目線を移そうとして、固まった。改めて目の前に広がる光景は、彼の呼吸を凍りつかせるには十分だった。

「何匹いるんだよ……」

 目の前が黒と淡い黄色で塗り固められていた。肌色のザラザラと乾いた地面は黒の隙間から僅かに垣間見える程度しかない。二〇匹などという予測は甘かった。その数は三〇、四〇、もしかしたらもっと居るかもしれない。

 波紋を広げた小石というレベルではなかった。奴らは巨石となって姿を現した。

「団体さんのご到着か」

 軽口を叩くも、内心では焦りが生まれていた。奴らに対して無敵の力を持つとはいえ、その力を有効に活用するための符は数が少なすぎる。ここは異物を振り切って逃げ、雨師たちの応援を待つのが最善の策と言えた。

 どうやって、振り切ろうかと思案を募らせていると、

「大丈夫」

 横から平坦な声が霧夜の思考を中断させた。

「彼らは『カギ』の降臨を待っているだけ。目立つ行動を起こさなければ、害はない」

「いや、でも、今お前のこと――」

 襲ったじゃないか、と言う前に少女は静かに指を差す。

「見て」

 言葉も思考も中断し、霧夜は指をさされた方向を見る。そこには、変わらぬ黒い海があった。ただし、あれほどざわついていた黒い海は先ほどとは打って変って、まるで彫像かの如く動いていなかった。代わりに、連中は空を見上げていた。その姿はまるで何かの到着を待ち望んでいるかのように見えた。

「何をしてるんだ?」

 霧夜の疑問に少女は答えない。

「これから『人払い』をする。あなたはジッとしていて」

 なんだそれ、と聞き返そうとする前に少女は行動に移っていた。なんてことはない、片手を灰色の雲が覆い尽くす空へと挙げただけだ。そして、指と指を擦らし、小さく音を鳴らした。

 瞬間。

 音もなく、世界は色を変えた。

「なっ……!」

 息が詰まったような、狼狽した声を霧夜は上げる。無理もない。

 今までこの公園には薄暗い雲によって太陽光が遮られ、朝にしては薄暗い状態が続いていた。それがどうしたことだろうか。少女が指を鳴らした途端、霧夜が見上げる先の空は変色し、常世を覆う空は赤一色に染まっていた。

 いや、空だけではない。地面、草、ベンチ。周囲に存在する全てが赤を帯びている。

 信じられない。何かの間違いだろう? そう思いたかった霧夜だが、目に映る光景は幻想などではない。紛れもない現実だった。

「これは『人払い』による空間転移」

「ひとばらい?」

 またも少女から発せられる不思議な言葉に霧夜は首を傾げる。

 不思議そうな顔をしている霧夜に少女もまた同様の表情で返した。

「知らない?」

「だから、何を」

「『人払い』を」

「悪いが、常識みたいに言わないでくれ。知らないんだ」

「あれを知っているのに?」

 少女は黒い海を指しながら言う。黒い海は相変わらず微動だにせず、固まっている。その姿は不気味だ。

「あれとは二週間ぐらい前からの付き合いで、それほど詳しいことは知らないんだ」

「不運」

 短い言葉には同情の言葉が放たれものの、声色自体は淡白だった。

「本来、幻想使いでもない限り彼らに襲われることはない」

「……幻想使いを知ってるのか」

 異物の知識を持っている時点で予想はついていたため、特に驚きはしなかった。ただし、次の言葉には心臓が飛び上がる思いだった。

「私自身が幻想使い」

「……お前が?」

 霧夜はその目で幻想使いを見たことは、あまりない。いや、あまりという言葉にも語弊がある。雨師という唯一の人物しか知らない。それに加えて、霧夜は幻想使いについての知識は欠如しており、ただ単に不思議な力を持ち、かつ常人を超える身体能力を行使する人々、とだけ捉えていた。見た目に変化がなければ、どんな人物が幻想使いでも、納得ができる。そう思っていたのにも関わらず、霧夜は目の前の少女が幻想使いだという事実に驚きを禁じ得ない。あまりにも少女が儚く見えたからかもしれない。

「あなたは幻想使いではない?」

「ああ。俺は普通の……」一般人と言いかけて、その言い方は少々変に思えた。「少し変わった一般人だ」

「さっきの力は?」

 やはり見られていたようだ。

「これは――」

 言いかけた霧夜の視線は無意識の内に黒い海へと向かっていた。先ほどと様子が違うことに霧夜は気が付いたからだ。奴らは身体をひっきりなしに動きまわし、それぞれがお互いを見回している。そのは姿まるで仲間内で何かを囁き合っているように見える。

「なに?」

 少女もその様子に気がついた様子で、訝しげに黒い海を見つめていた。


 そして、事態は一変する。


 今まで何かを待つようにそわそわと待機していた黒い海に浮かぶ黄色い眼光が、霧夜と少女の方を一斉に向き始めた。その光景は奴らが二人に好意的な感情を向けていないことは明白だった。向けているのは明確な敵意。


『アアアアアアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァァァ!』


 一斉の咆哮が敵意と共に二人を襲った。

「耳が……っ!」

 異常な声量だ。耳を押さえても、耳の奥へと入り込んでくる。身体はビリビリと震え、身体の芯までもを震えさせた。

 大合唱が終了すると同時に、僅かに赤い光を帯びた黒い海がぞろぞろと動き始めた。動きは均一で、乱れがない。まるで訓練された軍隊のような動きだ。彼らの向かう先は霧夜と少女が立つ場所。

 俺たちを襲うつもりだ、と霧夜は思った。それが分からないほど平和ボケはしていない。さっきの攻撃からも分かるように、異物で構成された『海』は二人を殺そうとしている。

「おい、襲って来ないんじゃなかったのか!?」

 言葉を投げられた少女も、目の前の光景を凝視し、困惑しているように見えた。

「これは想定外」

「想定外って……」

「カギの力に充てられて興奮状態……いや、それ以外の要因が……」

 思考に耽る少女の言葉を霧夜は理解できなかった。唯一判明していることは、この状況が危険な状態である、ということだけだ。

(どうする?)

 明らかに霧夜たちの方が不利だ。異物は一体一体の力こそ脆弱とは言え、大群で襲いかかって来られたら――それも三〇、四〇の相手だ――物量では敵わない。一体を相手している間に、他の異物に襲いかかれるのがオチだ。

 ここは逃亡こそが最良の選択だ。そう思えた。異物に目線を投げつつ、小声で少女に話しかける。

「逃げた方がいい。この数じゃあ、厳しすぎる」

「それは無理」

 霧夜は驚いて目線を少女へと移した。少女の眼は異物を見つめているが、敵意は感じられない。

「わたしは彼らに用事がある。だから、逃げるわけにはいかない」

「彼ら?」

 会話の件からいって、十中八九、異物のことを差しているように思えたが、奴らに用事があるとはどういうことだろうか。

 疑問を口にする前に、紅緋姫が言葉を投げた。

「わたしがオトリになる。その間にあなたは逃げて」

「……はぁ!? できるわけないだろ!」

 相手は数え切れないほどの大群。その中にたった一人、少女を置いていくわけにはいかない。例えそれが幻想使いと呼ばれる者だとしてもだ。

「それは心配しているの?」

「当たり前だろ」

 当然のことだ。霧夜はそう思っていたが、目の前の少女は違っていたのか――表情に変わりはない。しかし、驚いたように見えたのは気のせいか?

「あなたの武器は?」

「この紙だ。ストックはもう四枚しかない」

 ポケットから取り出し、最早クシャクシャとなっている符を取りだして見せた。我ながら、心細い枚数だとは感じている。

 彼女は不思議そうにそれを見た後、

「時間稼ぎはできる?」

「何分だ?」

「五分……三分」

「ギリギリいける」

「分かった。わたしは彼らに対話を試みる。その間、わたしは身動きが取れないから彼らの注意をわたしから逸らして」

「……分かった」

 対話という言葉に引っかりを覚えた霧夜だったが、一応納得をしておいた。

 視線を移す。移した先の景色には黒い軍勢。

「……気張っていくか」

 戦いが、始まる。


 ◆


 戦いは静かに始まった。

 少女は黒い海から後退した。対話への取り組みを図るためだ。

 霧夜は重い足取りで黒い海から三メートル離れた場所に、ちょうど異物から見て真正面の場所で立ち止まった。彼の行動に黒い海の動きが止まる。どうやら今回は慎重になるという言葉を覚えているようだ。

 一種のこう着状態に陥った。

 霧夜は困ったように銀色の髪をワシャワシャと掻く。

(さて、どうするか)

 考えた所で有効な策は浮かばなかった。符があれば選択支が増えるが、生憎と枚数は限られている。符を使わない、接近戦での対処しかなさそうだ。

 睨み合いの状態に嫌気が差したのだろうか。黒い海の先頭に立つ一匹が飛びかかってきた。

 それに対し、霧夜は回避行動を取るしかない。好都合なことに相手の動きは素早しっこいものの、単純だ。必要最小限の動作でかわすことができる。

 次は団体だった。先頭の一列が一歩踏み出すと、高く跳躍した。だが、全てが跳躍したわけではない。何匹かはそのままステップするかのように地面を蹴って霧夜に向かって来た。

 霧夜はまず、最初に到着する半円上に飛んだ集団に意識を向ける。この襲い方を霧夜は何度か見てきたため、対策方法はある。この場合、霧夜は前方の一匹だけを仕留めて囲いを突破し、後ろから残りを片付ける方法を取っている。しかし、今回ばかりはそうもいかない。

 飛び跳ねた異物は全部で六匹。一斉に対処できる数ではない。

(地上の奴らが厄介だな)

 地上には七匹の黒い塊がいる。奴らはステップしながら向かって来ている。今までの戦法通りに事を運べば、攻撃が終わった瞬間の僅かな隙を突いて、懐に入り込まれ、腹を食い千切られる可能性が高い。

(となると――)

 霧夜は軽く後ろに飛び跳ねるようにして下がった。

 黒い塊は攻撃目標が元々居た場所に着地する。だが、同時に六匹も同じ場所に向かって飛びかかったのは大きな失敗だった。黒い塊は着地する寸前に互いの大きな頭をぶつけ、バランスを崩し、地面に頭から突っ込んで倒れた。

 またとないチャンスだ。

 隙だらけの集団に攻撃を当てるのは簡単だ。霧夜は後退してすぐに異物たちへと向かって行き、思いっきり足を蹴り上げた。体重が軽い異物たちは纏めて後ろへと飛ばされた。

(後ろ!)

 後ろから先ほど回避した異物が飛びかかる。それに気が付いていた霧夜はその場で一回転すると、殴りかかる。

 しかし、今度は学習していたようだ。異物は霧夜の拳を身体全体で受け止め、その手で掴んでいた。爪が浅く食い込み、拳から血が垂れるが、霧夜は特に気にもせず、次の行動へと移る。

 再び回転し、ハンマー投げの要領で黒い海へと異物を投げ返した。

 握力が弱いのか、掴みかかった異物は遠心力に耐え切れず、黒い海の中央へと落ちて行った。

 一先ず団体さんの処理は終わったが、安心してはいられない。ステップで地上から向かって来た異物は仲間が投げ捨てられるのを見て高く跳躍した。

 そう姿を見て、霧夜は今度こそ呆れるしかない。

(何度も同じ手を使っても――)

 屈めた膝をバネに使って、霧夜は飛び跳ねる。突き出すのは右腕。

(無駄だ!)

 目の前を跳ぶ異物の頭を鷲掴みにして、霧夜は前に飛び込んだ。そのまま異物の囲いを突破すると、右足の踵を軸にして一回転し、素早い動作で振り返る。飛びかかっていた異物たちは霧夜が先ほどまでいた場所に居たが、またもや頭をぶつけてバランスを崩し、倒れていた。

 右手に掴んだ異物をそいつらに向かって、思いっきり投げつける。地面から立ち上がっていた異物たちが、それに気付いた時には二、三匹に、投げつけられた仲間がぶつかり、バランスを崩して再び尻もちをついていた。

 周りにいた異物はその様子をじっと見つめていたが、仲間が立ち上がると、霧夜へと踊りかかった。

(これだけじゃ、消滅しないか)

 どんなに打撃攻撃を与えても、びくともしない。やはり『力』を使った攻撃が最善の策だが、ここは出し惜しみせねばならない状況だ。

(一枚、使っておくか?)

 七匹の攻撃を軽々と下げながら、ポケットの符に触れる。しかし、奴らは躊躇というものを知らない。威嚇にも動じない。延々とこの調子を続けられると、体力負けするのは明白と言える。

(どうする?)

 ふと、少女の方に目をやった。目を瞑り、手には黒色で塗られたナイフを両手で握り、何かに祈りを捧げているように見える。まだ時間はかかりそうだった。

「……ん?」

 少女を見つつも、異物に注意を払っていた霧夜は奴らが動きを変えたことに気がついた。

(波状攻撃をやめた?)

 先ほどまで、何体かの軍団で攻撃を行ってきた異物たちがモゾモゾと動くだけで、反応を見せない。段々と黒い海が霧夜から遠ざかるように収縮されているようにも見える。それは今度こそ、霧夜の力に躊躇を見せ始めているように見えた。

 だが、『力』に躊躇を見せない異物たちが、たかが肉弾戦で躊躇を見せるものだろうか?

 何かある。

 その確信が現実になるのに大した時間はかからなかった。

「っ!」

 霧夜は黒い海の中央を凝視し、息を飲んだ。

 異物は中央にぞろぞろと移動し、固まるように動いていた。中央部分は徐々に膨れ上がり、黒い海から突起が一つ膨れ上がっていた。だが、ただの突起ではない。しばらくすると、黒い海の動きは膨れ上がり、中央部分から遠ざかっていた。

 中央には人間体の異物が立っていた。

 大きさは三メートルぐらいだろうか。頭には髪の毛のように黒い触手が頭から首へと何本も垂れ下がっていた。両手に小さかった時の面影はなく、筋肉質で太い腕へと変貌している。代わりにというべきか、足へと向かうほど体は細くなり、足に至っては原型よりも太いものの、短かった。ただ、不気味に発光する目は大きさを変えても尚、残っていた。

 『黒の巨人』と命名すべきそれは、異物の融合体だ。

(何だ、あれはっ……!)

 霧夜は未知の恐怖に押され、一歩下がる。

 今までの異物のように冷たい気配を持ちつつ、どこか世界と切り離されたような雰囲気も顕在だ。むしろ、より一層強くなっている。だが、そこには今まで異物が持たなかった威圧感が備わっていた。それも、圧倒的なほどの威圧感を。

 黒の巨人が自身の頭と同程度の大きさを持つ首を空へと向けた。口から白い牙が見える。大きく口を開けたのだ。

『グゥオオオオオオオオオオオオオオオオオッ』

 強大な威圧感を背負った咆哮が、公園全体に響き渡り、空気や地面が振動する。周囲の木々やベンチも例外ではない。もしかしたら、この世界全てが振動したのかもしれない。そう思わせるほどだった。霧夜の身体も咆哮の力を受け、ビリビリと震えた。

(何だ、この咆哮はっ!)

 完全な威嚇用の咆哮だろう。また、劣勢な状況の味方を鼓舞する役割も持っている。後者は然したる効果を見せていないが、前者は完全に成功している。霧夜の身体は一瞬、だが確かに硬直したからだ。今までの勢いを跳ね飛ばすのに十分なほど。

(くそっ!)

 この行動と共に黒い海が二つに裂けた。黒い巨人に攻撃目標を駆逐するための道を作ったのだ。

 近づいてくる。

(あいつは?)

 少女の姿に変わりはない。表情には何の感情も浮かんでいない。その姿が逆に何ら進んでいないことを示していた。

(うまく行ってないのか?)

 彼女が指定した時間まで残り三十秒といったところだが、まだまだ足止めの時間はかかりそうに思えた。

(なら、こっちを倒してからだな)

 視線を黒い巨人に戻す。

 黒い巨人の動きは緩慢で、両腕を使って四足歩行の動物のように歩いていた。歩く度にドンと音が鳴り、地面が振動する。威圧感こそあれど、その歩く動作はたどたどしかった。両腕だけが肥大化し、身体が細く、支える足も細ければ当然と言える。不思議と周囲の異物はモゾモゾとその場を動くだけで、霧夜に攻撃を仕掛けてこようとはしなかった。二人の戦いを静観しようとしているのだろうか。

 ならば。

(行ける、か?)

 目の前の巨人がどの程度の相手なのか、霧夜には未知数だ。分かるとすれば、異物よりは強いということ。

(大抵、合体したら強くなるっていうのが相場だからな)

 そうでなければ、合体した意味がないと霧夜は考える。発想は日常生活におけるRPGのゲームで得た知識と発想だ。

(さて、どうするか)

 霧夜と黒い巨人の距離は約三〇メートル近くある。それに加えて、巨人の動きは遅い。霧夜には作戦を練る時間が充分にある。

(相手の動作は鈍い。遠距離から符を使えば倒せるが……一枚で倒せるものなのか?)

 今まで一匹に対して有効ではあったものの、複数の異物が合体したものになると、その枚数分が必要になるのではないだろうか。その疑問を持ちつつも、霧夜は一枚の符に手をかけた。

(なるようになれだ! やってみないと始まらない)

 この間にも巨人は歩みを進めているが、ちっとも進んでいなかった。霧夜は呆れ半分に巨人を見ていると、途端に巨人はピタリと動きを止めた。

(どうした?)

 何かがあると踏み、霧夜は符を用意しながらも、投げつけずに周囲に目をやる。が、これといって変わった様子は見られない。

 何もないのか。いや、そうとは思えない。単純な動作を唐突にやめることは、何か別の行動を起こす予兆だ。周囲に気を配っていると、巨人は緩慢な動作で右腕を空へと突き上げていた。まるで、今から地面を叩き割る、予備動作をするように。

(まさか……)

 不味い、と咄嗟に本能が告げていた。霧夜は巨人と一直線上に立っていたが、すぐに右へと転がるようにして飛び込んだ。

 瞬間。

『グウォォォォォォォォォ』

 再び身体の芯から震えさせる、激しい咆哮が公園全体に響き渡る。それと同時に巨大な腕は肌色の地面に振り降ろされた。ドォン、と拳の下の地面が砕け、振り降ろされた拳から黒い衝撃波が一直線に放たれた。空気を裂き、直線上にあったベンチを両断し、木々を薙ぎ倒す。

(な、な、何だこれ!?)

 その光景を見た霧夜は驚愕するしかない。今までの黒い塊に牙を使った肉弾戦だった。そのため、黒い塊は肉弾戦をするという認識が霧夜の中に構築されていた。ただ、どこか頭の片隅に何かとてつもない攻撃があるのでは、という考えがなかったわけではないが、今の攻撃は霧夜の予想の範疇を超えていた。巨大で不格好な腕から放たれた衝撃波は周囲の木々を簡単になぎ倒し、地形を一変させてしまった。

(あんなの喰らったお終いだぞっ!)

 ケガがどうこうという話を超えてしまっている。訪れるのは確実な死だ。

 霧夜は今の状況を確認した。自分が居る距離から黒い巨人までの間にはざっと見積もっても九〇メートル近くの間隔が空けられた。加えて、巨人を囲むように黒い海が形成されている。あの中を突破するのは難しい。脆弱とは言え、大群で一斉に追いかかってくれば霧夜とて、ひとたまりもない。

(やっぱり、ここは!)

 手に掛けた符に力を溜め、一枚を投げつける。

(狙いは右腕! あれさえなくなれば、さっきの攻撃はできない!)

 符の機能である自動追尾機能は霧夜が投げつける際に定めた狙いに向かっていく。この機能は非常に正確だった。符は一直線に開けた道を飛んでいく、防ぐものはいない。

 右腕に符が貼りつく。

(くらえ!)

 右の拳を握りしめると同時に張り付いた符から円形の青い光が展開された。間もなく巨大な右腕は千切れ、地面へと落ちると、砂と化した。

(よしっ……なにっ!)

 歓喜の声を上げる間もなく、霧夜の心中は驚きへと変わる。周囲の異物が巨人へと張り付くと、その身体が崩れ、巨人へと吸収された。すると、千切れた部分から右腕が再び生え出したのだ!

(周囲の異物を取りこんでの自己再生能力! くそ、これじゃ打つ手が……)

 次の手を考える間もなく、巨人は両腕を上げ、地面へと振り下ろす。

(二つの衝撃波!)

 避けようにも、足が動かなかった。咄嗟に動いたのは両腕。それぞれに入った符に『力』を込めて、二つの衝撃波へと投げつけた。

 『力』を込められた符は衝撃波を完全に受け止め、霧夜の身を守る。

 しかし、

(しまった、思わず二枚も使っちまった!)

 残りは一枚しかない。たったの一枚であの巨人、しかも、ほとんど無限に近い再生能力を持つ相手にどう対抗すれば良いのだろうか。現実的に考えれば、

(無理だ。抑えきれない)

 衝撃波のタイミングは把握しているが、何度もあの攻撃を耐え切れる自信はない。加えて、今は傍観に徹している異物たちが一斉に霧夜へと襲いかかってきたらどうしようもない。

 焦りと不安。霧夜の胸中がネガティブな心で覆われようとしていた。

(対話は! 対話とかいうのはどうなったんだ!)

 一縷の希望をかけて、緋色の髪をした少女の姿へと目をやり、霧夜は目を丸くした。

 ナイフはどこに行ったのであろうか。いつの間にか、少女の手には似つかわしくない、黒と赤でコーティングされた片刃剣が握られていた。そのサイズは少女の背丈よりも大きく、奇妙な事に柄と刃の区切りがなかった。

 少女の僅かに唇が動いた。声は聞き取れない。ただし、唇の動きは霧夜にこう伝えていた。

 大丈夫。

 少女は霧夜の傍へと駆け寄ると、彼を押し止めるようにして、手を上げた。

「ありがとう。あなたは下がってて」

 その超然的な姿に霧夜は言う通りにするしかなかった。

 異物はその少女の姿を見た途端、今まで開いていた道を再びその身体で覆い尽くしていた。

 少女が持つ剣の切っ先が上空へと掲げられる。赤く彩られた空間の中で、その剣は禍々しく見え、どこかRPGに登場する魔剣を連想させた。それと同時に、この絶望を救う勇者の剣でもあった。

 少女は掲げた剣を振り降ろし、剣先が地面へと突き刺さる。それだけの動作で、周囲の状況は一変した。 

 黒い海が割れた。

 この表現は決して比喩ではない。公園の覆い尽くしていた黒の海が確かに両断され、肌色の地面が姿を現したのだ。

『グォォォォォォォォ!』

 巨人が声を上げる。威嚇ではない。その声色には今まで聞いたことがない感情が含まれていた。―――明らかな恐怖が。

 見ると、巨人の右腕は切断されていた。

 少女はさらに歩みを進める。黒い海との距離は近づき、ついには手を伸ばせば掴めるほどの距離までになった。

 異物たちは互いに顔を見合わせた後、ちぐはぐな動きながらも一斉に少女を囲んだ。飛びかかる気だ、と霧夜はすぐに分かった。

 予想通り、異物は一斉に飛びかかった。何一〇体もの異物が同じ高さに飛び上がり、同じ場所へと向かって襲いかかる。これでは、互いにぶつかり合って自滅する。しかし、今回違ったのは襲いかかる異物が上、中、下に別れていたことだろう。そして、この攻撃方法は一つのメリットを生む。

(逃げ場が、ない)

 少女の周囲をドーム状に異物は飛びかかっているため、少女を中心とした三六〇度に黒い塊が飛びかかっている状態にあった。それは上も同じだった。少女は黒い海を割った時の攻撃で剣を深々と地面に突き刺したままだ。攻撃する武器がなければ、襲いかかる敵を振り払うことさえできない。少女には逃げ場はなかった。

 けれど、霧夜はそんな状況の中に少女が居ても、特に危機感を抱いていなかった。

 あの少女ならば、何か打開する策がある。霧夜はそう考えていた。

 そして、実際にそうだった。

 少女は軽く片足を上げると、強く地面を踏みつけた。

 霧夜にはその動作の意味が分からなかった。ただ、漠然と打開するための策なのだろうかと思った。

 すると、少女の足元から地面を突き抜けて来たかのように、剣が現れた。それも一本ではない。ほぼ同時に現れたそれの数は全部で六本もあり、少女を囲むように地面に突き刺さっていた。どれもこれも少女の腰までのサイズの物や、肩までのサイズと多種多様だった。同じ形の剣はなかった。統一感は感じられないが、全てが片刃剣という点は共通だった。

 少女は慣れた手つきでその内の一本を掴むと、黒の塊が蔓延る空へと剣を振るう。

 空気が振動した。それに呼応するかのように大地全体が彼女を中心に震える。

 剣が左から右に流れる。

 それだけの動作で、異物は少女の周囲から居なくなった。周囲に吹き飛ばされたわけではない、文字通り、跡形もなく消滅した。

『ウォォォォォォォォ』

 突然、動物の叫び声にも似た、身体全身に響く低音の叫び声が響く。黒の巨人が放った咆哮だ。相手を威嚇する咆哮のはずだか、霧夜には黒い巨人が自身を奮い立たせているように聞こえた。巨人と対峙する少女は巨人を見据えたまま、叫びに反応を示さない。

 黒の巨人が動く。失った右腕ではない不格好な片腕を空へと上げ、地面へと振り降ろそうとする。例の衝撃波を放つ体勢だ。

 少女はそれを許さなかった。

 徐に少女は黒の巨人に片腕の拳を突き出すと、バッと指を広げた。その動作に呼応するかのように地面に突き刺さっていた五本の剣と少女が持っていた剣は宙へと浮かびあがる。

「行って」

 少女の呼びかけと共に剣は切っ先を黒の巨人に向けると、音もなく自動追尾型のミサイルのように素早く進む。

 鈍い巨人にそれを避ける術はない。抵抗する間もなく、六本もの剣は巨人の腕や体に突き刺さった。元々不格好な体の巨人はその衝撃でバランスを崩し、背中から地面へと倒れた。地面が振動し、粉塵を巻き上げるが誰も気にする様子はない。

 少女はその姿を見守ると、広げた手を下ろす。

「弾けて」

 少女の言葉と同時に。

 剣から白い閃光が漏れる。

 それから、黒の巨人は終焉の悲鳴を上げた。


 ◆


 黒の巨人が地に伏し、その身体が砂になったのと同時に、異物たちの動きは完全に沈静化した。どうやら、自分たちの奥の手が撃破され、目の前の敵に勝てないと悟ったのだろう。

 嵐のような戦闘が過ぎ去り、ホッと一安心する霧夜は地面から立ち上がり、服についた砂をポンポンと払い落した。それと同時に気を抜いたせいか、身体にドッと緊張から来る疲労が一気に流れてきた。

「それにしても――」

 周囲の状況を確認する。空は赤く彩られ、平穏だった公園に似つかわしくない戦いの傷跡が残っている。

(なんだ、これ)

 改めて今までの経緯と周囲の状況を冷静に分析すると、首を傾げる様な出来事だった。

 見たこともない数の異物が現れ、公園が赤に染まり、黒の巨人が現れ、六本の剣を操る少女が巨人を倒す。まるでファンタジー映画のワンシーンを見せられたような気分だ。

 少女が霧夜に方に近づいてきた。

「大丈夫?」

 気遣っているのだろうが、その声に抑揚はなく、淡白だった。

「ああ、おかげさまで」

 自分でも驚くほど声が掠れていると霧夜は思った。

「もう少ししたら、ここから脱出する。それまで待って」

 それだけを告げると、少女は霧夜から背を向け、黒い海へと視線を投げる。監視でもしているのだろうか。

 霧夜は少女の小さな背中を見ながら何とも言えない気分に陥っていた。

 異常が蔓延る空間の中で、もっとも異質だった少女。

(こいつは何だ?)

 異物と対話する能力を持ち、また異物との戦いにも慣れた様子で、素人目からでも分かるほど手際よい戦闘運びだった。

(これが、幻想使い)

 甘く見ていたわけではない。というより、知識が欠如している霧夜が幻想使いを評価することなどできない。だからこそかもしれない。霧夜は圧倒されていた。巨大な異物に果敢に攻め、赤子の如く捻る少女の姿に。

(すごい)

 霧夜はその一言しか出てこなかった。

「今は対話に成功してるのか?」と彼女の背中に言葉を投げる。

「なんとか。さっきは興奮状態だったから、無理だった。けれど、力を示して従わせた」

「力押しか」

 無理やりと言えば、無理やりだ。だが、あの圧倒的な力の差を見せつければ、反抗する気が失せるのは分かる気がする。 

「幻想使いをこの街の人は知ってる?」唐突に少女が話題を変えた。

「ああ。常識らしい」

「異物に対して人はどう思ってる?」

「まあ、良い印象は抱かないんじゃないか?」

「……そう」

 納得したのか、少女はその先の言葉を紡がなかった。代わりに視線を下に向けた。その様子は何かを考えているかのような動作だった。霧夜はその様子に気づき、話しかけないことにした。すると自然と手持無沙汰になり、特に考えもなく目線を空へと移した。

「ん?」

 見間違いだろうか、見上げた先の赤い雲の隙間から、何か光が漏れているような気がした。

(いや、見間違いじゃない)

 自分の目がおかしくなったわけでないのなら、見える光は現実に起きている現象だった。少女に問いかけようと視線を移すと、少女も雲を見つめていた。

「おい、あれは……」

「少し、気をつけて」

「えっ?」

 少女が空へと指をさす。その先は雲の隙間から漏れ出している光だ。その景色が一変するのに、大した時間はかからなかった。


 ◆


 人を陰鬱な気分にさせる程、常世の天気は悪かった。

 かといって、街の動きが止まることはない。整然と佇む建物からは光が溢れ、道には人々が行交い、雑踏が生まれる。馬車は引切り無しに動き回り、所々では渋滞を発生させたりしている。街が生き動いている証拠だ。どれだけ空模様が悪くても、それだけは変わらない。

 しかし、今の常世はその姿を変えている。

 雑踏が生まれるはずの道に活気はなく、常世の空をそのまま映し出したかのように暗かった。いつもは整然としながらも、ざわめきが生まれる建物からは人の気配すらせず、廃墟になったかのような不気味さを醸し出していた。街を構成する部品が死んでいる、と言っても差支えない。

 常世であって、常世ではない世界。ただ似ているだけで、全く本質が違う世界。

 それが『人払い』と呼ばれる世界だ。

 そんな街の一角に莫大な閃光が舞い降りる。

 轟! と舞い降りた閃光は周囲に光を撒き散らした。光の粒子は中心点から触手のように伸び続け、決して途切れることなく、建物が犇めく街中のありとあらゆる隙間に入り込む。

「おい、何が起きた? 何かまずいんじゃないか?」

 光の中心点から少し離れた場所にいた霧夜は、目の前で起きた不気味な現象に慌てていた。

「落ち着いて」

 霧夜とは対照的に少女は落ち着きを払っていた。淡白な瞳に僅かな色が差している。

「おい、また何か――」

「大丈夫。すぐ、終わる」

「終わるって――」

 とてもそんな状況には見えなかった。光は収まるどころか広がりを増し続け、この公園にも迫って来る勢いだった。いや、確実に迫って来ている。

「これはカギの降臨」

 ついに光は霧夜がいる位置から、ほんの少しのところまで来ていた。木々の合間から全てを飲み込むように光の波が迫る。見た目は温かく見える光だが、それはどこか不気味だった。

 ふと視界に異物たちの姿が目に入った。連中はまるでお祭り騒ぎを楽しむかのように、無造作に動き回っていた。今までになかった動きだ。

 ついに霧夜は我慢しきれず、叫ぶ。

「カギ、カギって、さっきから言ってるカギってのは何だ!?」

 光溢れる中、少女は身動き一つしない。ただじっと、光を見つめている。そして、振り返ることなく、少女は告げる。

「世界の歴史を紐解くカギ」


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