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エピローグ

 蒼炎霧夜は自分がどこにいるのか良く分からなかった。意識ははっきりとせず、どうやら眠りの世界へと足を突っ込んでいるようだった。それを無理やり引き抜き、霧夜はその瞼を、急ごうとする気持ちとは裏腹にゆっくりと開いた。

 見えたのは、一面真っ白な世界だった。それが天井だと分かった時、自分が横たわっていることに気がついた。やけに背中に柔らかい感触が伝わっているということは、ベッドの上なのだろう。

 上半身を起き上がらせ、霧夜は部屋を見渡した。広い個室だ。壁一面真っ白で、左手の窓からは日差しが入り込んできている。やけに眩しいところを見ると、朝なのかもしれない。

 一目見ただけで、ここが病院の個室だと分かった。

「……あ」

 静かで、誰もいないとも思っていたが、一人の来客が居た。椅子に座り、ベッドに顔を伏せてその来客は寝ていた。

 紅緋姫桜。

 少女は小さな寝息を立てており、その度に身体が上下に揺れている。寝顔がやけに可愛らしかった。いつも能面のような顔をしていたが、今は年相応に見える。良いものが見られたと内心で霧夜は心が躍った。それから、しばらくの間、起こすことなく、寝顔を見続けた。

 彼女は目を覚ますと、ゆったりとした動作で上半身を起き上がらせた。その顔はやけにだらしない。前髪はボサボサで、白い頬には赤い痕が残っている。

「よお、紅緋姫」

 声をかける。その声に紅緋姫はネジ回し機で動く人形のように、首を回し、じっと霧夜の顔を見た。寝惚け眼で、口をポカンと薄く開いている表情が、段々と状況を把握してきたのか、雪のように白い頬に朱が差し込み、顔を俯かせた。恥ずかしがっているのだろう。その姿がとても面白い。そのせいで霧夜は自分の頬が緩んでいるのが良く分かった。

 頃合いを見計らって、紅緋姫に声をかけた。

「あれから、どうなったんだ?」

 顔を俯かせながら、紅緋姫は答えた。

「良く分からない。気づいた時には、ここにいた。ただ、ペトータルレイの計画は失敗に終わった」

「そうか」

 そう答えると、室内には静けさが訪れた。

 紅緋姫は何か話を切り出そうとしているのが、霧夜には分かったが、あえて何も言わずにただ黙って、この静けさに身を任せた。

 心地良い静けさが不意に破れたのは、たっぷりと六分を費やした時だった。

「あなたにはお礼を言わなきゃいけない」

 そう言って、彼女は左腕の袖を捲った。雪のように白い肌だった。そう、眩しいほどの白い肌しかない。

 旧支配者の痣が消えている。紅緋姫を縛り付け、唯一の居場所すらも消そうとした、あの痣が。

「永遠に消えない痣だと思ってた。でも、消えた。あなたのおかげ」

「いや、お前が自分で掴み取ったものだよ。お前があの場所で一歩を踏み出したんだよ」

 霧夜は見ていた。自分の声に応え、紅緋姫がその手に槍を持ち、剣に向かって勇ましく投げた紅緋姫の姿を。あれがなければ、何もかも終わっていただろう。

「でも、そのきっかけを作ってくれたのは、あなた」

 流れる水のような軽やかさで少女は言葉を紡ぐ。

「ありがとう」

 そう言って、彼女は柔らかく微笑んだ。綺麗な、心が穏やかになる笑みだった。今まで彼女にあった固さが感じられない。これが彼女本来の姿なのだろう。自然体の彼女が戻って来たことは、霧夜にとっても喜ばしいことだった。こっちの方が、彼女には似合っている。

 彼女が自然体でいること。それはこの事件が本当に終わったことを意味していた。

 霧夜は一安心すると、急に空腹を感じた。

「紅緋姫、腹減らないか? 飯にでも――」

 ベッドから降りようと、身体を動かす。それを止めるかのように、自分の手に紅緋姫の手が重ねられた。彼女の手は少し冷たい。

「もう少し、話をしない?」

 そう言う彼女の雰囲気に霧夜は覚えがあった。

 ずっとずっと昔。引っ越しを決めて、自分の前から姿を消した少女と、全く同じ雰囲気だった。

「……ああ、そうだな」

 それから二人は取りとめのない会話を始めた。誰にも邪魔されることなく、たった二人っきりで。

 自分のこと、他人のこと、お互いが経験してきたことをそれぞれ喋り合う。二人は感情豊かに自分を表現した。笑い、嘆き、喜び、時には怒る。話題がなくなると短い静寂がふわりと訪れたが、それは心地の良いもので、二人の顔には笑みさえ浮かんでいた。そして、二人は再び会話へと戻るのだった。

 蒼炎霧夜と紅緋姫桜。この二人の姿は気心を許した相手にのみ表れる姿そのものだった。

 いわゆる、友達同士の会話であった。


 ◆


 どこからともなく、鐘の音が病室に響き渡った。何時間喋っていたのだろうか、ここに時計はなく、正確な時間は良く分からないが、一時間以上会話をしたのは確実な気がした。

 会話がひと段落した時、まるでタイミングを見計らっていたかのように、ドアをノックする音が聞こえた。

「どうぞ」

 と霧夜が答えると、ノックをした者は特に返事をすることもなく、扉を開けた。

(……誰だ?)

 霧夜は入って来た人物にまるで見覚えがなかった。

 一見して、その人物は奇妙だった。容姿について言えば、語ることは少ない。全身を包み込むように床まで届く白いローブを羽織っている。顔はフードを目深に被り、わずかに首を前に傾かせているため、顔を窺い知ることはできない。はっきりと言えることは、胸に刺繍されたマークがオラクルのものだということだ。

「こんにちは、蒼炎霧夜、紅緋姫桜」

 女性の声だった。深く味わいのある年季の入った声色だ。

「私は最大教主。オラクルの長です」

 思わず霧夜は前にのめり出し、目を見開いた。

 最大教主。

 この都市の宗教組織、オラクルのトップ。

「今回の事件の終息は、お二人の尽力のおかげです。全オラクル信徒を代表して、お礼を言います」

 オラクルの長はゆったりとした動作で、深々と頭を下げた。

 この姿に霧夜は驚いた。

 あまりこの都市に馴染みがないとはいえ、オラクルがこの都市にどれだけの影響があるのかを知っている。オラクルはこの都市の全市民を信徒に置いている。いわば、この都市のトップとほとんど同意義だ。それほどまでの権力者が、二人に頭を下げている。ローマ法王が一般市民に頭を下げている、と言えば想像はつきやすいだろうか。

「不服そうですね」

 頭を上げた最大教主が、そう言った相手は紅緋姫だった。

「わたしは感謝されることはしていない。全くの正反対。この都市に危害を加えた」

「あなたは騙されていたのですよ。悪しきペトータルレイに」

「それでもわたしのやったことに変わりはない」

「ですが、あなたのおかげで救われたことも事実です。私は知っていますよ。剣を壊したのが、あなただということを」

 最大教主はローブの中で微笑んだ――ような気がした。

「なら、帳消しです。旧支配者の復活を阻んだのですから」

 紅緋姫の肩に両手を置いた。

「あなたは自分の一歩を踏み出した。大事な一歩です。それを捨てようとしないで」

「……はい」

 紅緋姫が納得したのか、していないのか、霧夜には分からなかった。だが、どこか晴れ晴れとして穏やかな声色だった。

「そろそろ時間です。もう大丈夫ですか?」

「――はい」

 両者に交わされた会話の意味が分からず、霧夜は考える間もなく口を挟んだ。

「紅緋姫をどうするんですか?」

「彼女は異能管理機関に所属することになりました。今日から研修です」その後思い出したようにして言った。「あなたは感謝した方が良いですよ、ずっと彼女はあなたに付き添っていたんですから」

「ずっと?」

「ええ。彼女が目を覚ましてからずっと。二日ぐらいでしょうか?」

 二日。自分はそんなに眠っていたのかと霧夜は驚きつつも、紅緋姫の方へと顔を向けて、

「そっか。ありがとな、紅緋姫」

 素直にお礼を言うと、彼女の雪見大福のように白い頬がボンッとトマトのように赤くなる。以前の彼女ではあり得ない姿の連続に、霧夜は驚いたが嬉しかった。

「あの」出て行こうとして扉を開いた直後に、紅緋姫は言った。「嬉しかった。あの時の言葉」

「あの時?」

 どの時だろうか? 霧夜は分からなかった。

 その時の言葉を紅緋姫は紡いだ。そっと、大切そうに。

「『ここにいてくれ』――あの言葉をわたしは忘れない」

 神の槍を受け止めている最中に霧夜が、その本心を吐露した時の言葉だ。あの時、彼女にその言葉が届いたのか、霧夜は分からなかったが――結果は今、紅緋姫が言った通りだった。

 ちゃんとあの時の言葉は届いていた。

「――そっか」

 一言、霧夜はそう言った。

 伝えたいことを言い終え、今度こそ紅緋姫は霧夜に背を向けて、この部屋から出て行こうとする。その彼女に霧夜は声をかけた。

「紅緋姫、またな」

 紅緋姫に向けて、軽く手を振る。

 その時、彼女がどんな表情をしていたのか、霧夜には分からなかった。

 かつての淡白な表情で彼女は酷く、悲しい目をして、彼に顔を向けることなく答えた。

「――さよう、なら」

 パタン、と扉は閉められた。


 ◆


「あれから、どうなりました?」

 紅緋姫を見送った霧夜は、部屋に残るもう一人の人物、最大教主に声をかける。

「事件は終息しました。ペトータルレイは常世からいなくなり、異物の発生も沈静化しました」

「戦いは終わったんですね」

「ええ。ですが、こちらの被害が免れなかったのが、残念です」

 彼女は霧夜の左手に回ると、半分だけ閉まっていたカーテンを開けた。霧夜は眩しいほどの日差しに一瞬だけ、目が眩む。光に目が慣れると、見慣れた景色が窓の外に広がっていた。今まで気づかなかったが、どうやら自分がいる病室は三階にあるらしい。すぐ真下には石畳の道が真っ直ぐ伸びており、道には針葉樹に良く似たものが等間隔で生えていた。道の両脇には、煉瓦模様が生える、二階建ての家が隙間なく一列に立て並んでいる。

 一直線に伸びた道路の先にはこの街にしかない、巨大な建造物が鎮座している。

 秩序の塔だ。しかし、以前見た時と大幅に異なる箇所がある。薄い雲から垣間見える、塔の天辺だ。天辺は無理やり削りとったかのように、左から右下に掛けて、外壁がなくなり、室内が露出している。そもそも、以前より低くなっているような気がするのは、霧夜の気のせいなのだろうか。

「一〇メートルほど崩れてしまいました。幸いにもケガ人がいなかったことが、不幸中の幸いです」最大教主は秩序の塔を見ながら答えた。「ですが、この街の象徴が傷ついてしまったことに、市民は動揺するでしょう。何せ、この街のシンボルですから」

 霧夜は以前、翁舞と学校へ行く途中の会話を思い出していた。自分はあの塔をバベルの塔と表現した。あの時は冗談で言ったことだったが、どういう運命の悪戯か、まさしく現実のものとなってしまった。違う点と言えば、こちらの神様は人に罰を与えることはなかったということか。

(……そう言えば翁舞さんと雨師はどうしたんだ?) 

 当たり前だが、この病室に姿もない。とちらもタフなので――特に翁舞は――あまり心配することはないと思うが、聞かずには居られなかった。

「翁舞さんと雨師は?」

「彼ならもう仕事に戻っていますよ。一応休暇の指示は出したのですが……仕事熱心、というより仕事中毒になっているのではないかと少し心配ですね」

 まあ雨師らしいか、と霧夜は思った。

「それで、翁舞さんは?」

「翁舞、ですか?」

「ええ。どこにいるんですか?」

「……あなたは、ひどい人ですね」

 急に最大教主の声色が変わった。それが自分を非難していることに霧夜は気づいていたが、何故そうなっているのか皆目見当もつかない。

「あの、俺が何かしましたか?」

 恐る恐る尋ねると、最大教主は小さく、だがそれとなく分かる程度に溜息を吐いた。

「分かりませんか?」

 そう尋ねられても、最大教主には悪いが、霧夜はちっとも分からない。素直に答えたいのは山々だが、相手は最大教主だ。迂闊に下手なことを言えば、この後どうなるか分からない。霧夜は沈黙を持って返答した。

「もう! 私っさ、私!」

 落ち着いた声が一転して、明朗快活な若い声へと変化したかと思うと、最大教主は着ていたローブを勢いよく脱ぎ、後ろへと投げ捨てた。

 ローブの下は見覚えのある制服があった。加えて見覚えのある――いや、良く見知った顔が不機嫌そうに頬を膨らませていた。

「翁舞さん?」

「そうっさ!」

「あの、ちょっと、どういうことですか?」

「どうもこうもないっさ! 超常現象部部長にして、最大教主の側近、しかし、全ては世を忍ぶ仮の姿……。その正体はオラクルの長、最大教主ってことっさ!」

 ででーん、という効果音を彼女は自分で言いながら仁王立ちで踏ん反り返った。

「え、あ――本当ですか?」

 全くの予想外な展開に霧夜はありきたりな確認の言葉を言うしかなく、翁舞は当然のように「そうっさ」と返した。

「それにしても、酷いっさ、きっくん! 長い付き合いの私に気づかないなんて、悲しいっさー!」

「いや、気づきませんよ」

 声のトーン、身のこなし、何から何までいつも見て来た翁舞とは丸っきり違う姿だった。長年の付き合いの霧夜は、翁舞の特徴について良く知っている。だからこそ、翁舞の特徴が全く見えなかった最大教主のことを翁舞だと気づかなかった。言うなれば、霧夜だからこそ分からないと言うべきだろう。

 しかし、一方の翁舞は一目見ても納得していない様子はありありと霧夜に伝わる。怒った時の癖である、頬を膨らませる姿はまだ変わっていない。

「もう怒ったっさ! 罰として――」

 両手を突き出し、指がクネクネと怪しく動き出した。

「いや、何を――」

「くすぐりの刑っさー!」


 ◆


 紅緋姫桜が病院の二階へ、ゆったりとした動作で下りると、一際大きな音が上階から聞こえた。何か、物が落ちるような音だった。その後から聞こえてくるのは男女の笑い声だ。男性は苦しそうだが、楽しい笑い声。笑い声を必死に抑えようとしているのが分かるが、どうにも止められないようだ。女性の方は楽しそうな笑い声しか聞こえてこない。

 それが蒼炎霧夜と翁舞咲のものだと、紅緋姫は分かっていた。何故、翁舞が霧夜の病室にいるのかも、彼女は知っている。

 彼女はさらに一階に下りると、汚れを一切寄せ付けない、白一色の廊下を歩き始めた。向かう先は病院の出口だ。その出口に紅緋姫の迎えを待つ者が待っている。

 さすがに二人の声は一階だと聞こえなくなっていた。静寂がこの場に滞在している。

 待合室に出ると出口が見えていた。平日のせいか、人は疎らで老人しかいない。その中に一人だけ、若い男がいた。彼は席に座ることなく、壁に寄りかかって新聞を見ていた。

 見たことのある顔だった。その表情には微笑を携え、一切変化することはない。まるで微笑だけを張り付けたような不気味さを感じる。第一印象としては、あまり良くない。

 紅緋姫の記憶では、確かペトータルレイによって移動した秩序の塔で見かけた。目の前の彼には悪いが、印象に残っていない。

 男は紅緋姫が近づくと、彼女の存在に気づき、新聞を折りたたんで、一つ礼をした。

「紅緋姫桜さんですね?」

 そう尋ねて来たので、彼女は頷いた。

「僕は雨師龍望という者です。あなたをお迎えに上がりました。これからオラクルの本部に向かいますが、よろしいですね?」

 そう。紅緋姫はもうこの病院から出ることになる。

 先に聞いた話では、オラクルの本部で市民登録証の作成、異能管理機関における適正検査などなど、彼女を待ち受ける用事がごまんとある。しばらくの間、自由に動ける時間は少ない。それを憂いた翁舞のおかげで、昨日と今日の午前中だけ、時間を貰えたのだ。

 貰った時間はずっと蒼炎霧夜の傍に居るだけで終わった。彼が目覚めるその時まで、ずっと傍に居たのだ。彼が目覚めると、ずっとお喋りに興じた。もう、何年もしていなかったのに、自然と話が口から淀みなく出てきたことに彼女自身驚きだった。

 楽しかった。純粋にそう思える。

 もう未練はない。

 彼との時間はたっぷりと過ごすことが出来た。

 もう彼と――

「――どうしました?」

「え?」

 不意にかけられた言葉の意味を紅緋姫は理解しかねた。少なくとも、表面上には何も起きていないはずだからだ。

 少なくとも、紅緋姫はそう思っていた。しかし、雨師は否定した。

「泣いていらっしゃいますよ?」

 そう言われ、紅緋姫は自分の頬に触れた。濡れている。覚束ない動きで濡れた痕を辿ると、目元へと辿り着く。彼の言う通りだった。それは確かな涙だった。両親が死んだあの時から、流すことのなかったものだ。もうとっくの昔に枯れ果てたものだと思っていたが、まだ涙が出ている。

 それは彼女が呪縛から解放された証とも言える。悲劇をきっかけに失ったものを、その手に取り戻したのだから。

 だが、出来ればもう流したくなかった、と紅緋姫は思う。

 この涙は喜びではない。全くの逆だ。

 悲しみの涙。倒れる両親の前で流した最後の涙と同じもの。

 別れ。もしかしたら、永遠になるかもしれないもの。

 蒼炎霧夜に対する、別れを悲しむ涙だ。


 ◆


 くすぐりの刑が終わると、霧夜と翁舞はベッドの上で仰向けに寝転んでいた。二人とも、息を荒く吐いている。激しい運動により、急激に体力を失った証拠だ。

「不思議なことがあるっさ」

 二人の息が整い始め、喋る余裕が出てきた時、翁舞はそう言って話を切り出した。

「ペトータルレイが儀式の時に使った警備ゴーレム全部に細工が施されていたっさ。治安局から出される命令を全部カットして、ペトータルレイからの指示だけを受け付ける細工っさ」

「細工――」

 霧夜は『人払い』の空間で見た警備ゴーレムの姿が脳裏を過ぎった。あの警備ゴーレムには妙な模様が描かれていたが、あれがペトータルレイの仕掛けだったのだろう、

「でも、一部のゴーレムは命令を受ける受信機が壊れていたっさ。そのおかげで、儀式の陣を描く幻想力の線が間延びして、不完全な形になったっさ。それでペトータルレイは不完全な形でしか復活できなかったさ」と翁舞は一拍置いて、「妙じゃないっかな。賢者って呼ばれたペトータルレイにしては、あまりにもお粗末っさ」

 ペトータルレイは知識を司る旧支配者だ。人々に善悪関係なく、知識を振りまいた。計略にも長けており、その膨大な知識のおかげで、創造主への反乱以外に失敗することもなかったとされる。故に、人々は驚嘆と軽蔑を表して賢者と呼んだのだ。

 その神が、人に対して敗北した。それも、お粗末つ過ぎる自分のミスで、だ。

「――あいつは、わざとそうしたんですよ」

「どういうことっさ?」

「誰にも言わないでくれますか?」

 こくり、と翁舞は頷いた。

「塔が光に包まれて、意識を失った後――俺はペトータルレイに会ったんですよ」


 ◆


 霧夜が意識を取り戻した時、彼は自分が妙な世界にいることを瞬時に理解した。先ほどまでの景色とはまるで違う。加えて、戦いが嘘かと思うほどの静寂に包まれている。肝心の世界の外観は、とにかく白いの一言に尽きる。どこを見回しても、白一色で染め上げられている。壁もなければ、天井も見当たらない。床は自分自身が立っているので、ちゃんと存在しているはずだが、実際に床を見降ろすと本当に床があるのかどうか疑わしく思えてくる。

 気温は温かくもなく、寒くもない。過ごしやすい気候というわけでもない。良く分からない、というのが霧夜の本音だ。

 この奇妙な世界に霧夜は一人――いや、二人いる。自分から少し離れた位置に、霧夜と面向かうようにして立っている。この白い世界では浮く、全身を黒で染めている男。

「ロバート……いや、ペトータルレイ」

 旧支配者ペトータルレイ。彼は微笑を携えて立っていた。

「参ったね」

 タイミングを見計らっていたのか、霧夜がペトータルレイの存在に気づいたところで、彼は切り出した。その声は酷く失望した声色に聞こえる。

「賢者と自他ともに認める僕の計画を、たかが人間如きに退けるとはね。完敗だよ。しばらく、復活を諦めよう」

 あまりにも潔い、敗北宣言だった。

「君は神に打ち勝った。素晴らしい功績だよ」

 加えて、純粋に相手を称える言葉を紡ぐ。

 人が神に勝った。言葉通り、それは誇るべき功績と言える。ペトータルレイが素直に敗北宣言と賛辞を贈ったのは、彼が純粋に霧夜の偉業に対して、感嘆しているからだろう。

「――何故、そんな厳しい顔をしている?」

 ペトータルレイの投げかける疑問通り、霧夜の表情は厳しかった。彼は素直にペトータルレイの敗北宣言と賛辞を受け取る気にはなれなかったからだ。

「――本当にお前は負けたのか?」

「どういうことだい?」

 そう尋ねたペトータルレイの目に、心の底から驚愕している感情が浮かび上がっていた。

「思えば、変だった。最初からずっと」

 霧夜は人差指を上げた。

「一つ目。まずはカギのことだ。お前はずっと、俺が持っていたカギを狙っていたが、結局は翁舞さんが持っていた。一見すれば、翁舞さんがお前を出し抜いたと見ることが出来る。でも、賢者と呼ばれたペトータルレイにしては、痛すぎるミスじゃないか?」

 中指を上げる。

「二つ目。お前の寄り道だ。お前と俺が出会った時、お前は俺の力に興味がある、知りたいと言って戦いを持ちかけた。でも、カギの入手が遅れれば、計画が露呈する確立は高くなる。迅速に手に入れなければならないにも関わらず、お前は無意味な寄り道をした。さっさと俺を殺してカギを奪えば良かったものを、そうしなかった」

 薬指を上げる。

「三つ目。ゴーレムのことだ。お前は儀式陣のために、この都市全域のゴーレムを使用したはずだ。でも、その方法はリスキーだ。異物を囮に使ったとはいえ、ゴーレム全部を誰にも気づかれず、壁に即して配置するのは、危険過ぎると思わないか? 一人でも見かければ、計画が破綻する可能性は高い」

 小指を上げる。

「四つ目。これもゴーレムのことだが、良く良く考えれば、成功するはずがなかったんだ。俺の寮にいる警備ゴーレムの受信機は俺が壊していたからな。警備ゴーレムに命令するには、受信機がなければいけないんだよな? だから、儀式陣は未完成に終わり、お前の復活は果たせなかった。こんな些細な出来事で儀式が不完全に終わることを予測できないなんて、あり得るのか?」

 全ての疑問を言い終わり、霧夜は手を下げる。

「俺が思いつくだけでも、これだけある。探したら、もっとあるかもしれない」

 傍目から見て、本気で復活を遂げようとする割には、ミスが多過ぎる。

「それと、俺は黒い濁流に呑まれた時、声を聞いた。『うまくやってくれよ』――あれはお前の声だった。なあ、お前は結局何がしたかったんだ?」

 純粋な疑問を霧夜はペトータルレイに向ける。

 ペトータルレイはすぐには答えず、代わりに目を瞑って白い空へと顔を向けた。時間稼ぎだろうか? そうには見えなかった。

「さすがに、ボロを出し過ぎたようだね。賢者として、失態だよ」

 長い時が過ぎ、ようやく賢者は観念した口調で言った。

「この場所を用意したのは、君に一言賛辞を贈りたいだけだったんだけど、参ったな。まさか、自供する場になるとはね」

「話してくれるんだな?」

「ああ。数あるミスに気がついた、君への贈り物としてね」

 一つ間を開けて、ペトータルレイは次のように言葉を紡いだ。


「全ては、紅緋姫のためだよ」


 意外な言葉に霧夜は度肝抜かれた。一瞬、頭の中が真っ白になり、その意味を咀嚼するにも、時間がかかった。しかし、ペトータルレイは待ってはくれない。全てを諦めて自供する容疑者のように次々と言葉を並べていく。

「彼女はずっと居場所を求めていた。力のせいで向こうの世界に居場所は無く、ここには僕の痣のせいで居場所がない。そんな孤独から彼女を救いたかった。だから、計画したんだ。彼女がどうやってこの街の人々から好意的にこの街に住めるようにするかをね。

 痣だけを消すことは簡単だ。でも、いきなり自由になったところで、彼女はこの街では生きられない。ずっと一人ぼっちだったんだ。仲間の作り方なんて知らない。すぐに孤独に押しつぶされてしまうだろう。だから、君を使った。

 妙な力を持つ人間がこの街に来ることを知った僕は、チャンスだと思った。君がカギを持っていると言って紅緋姫を接触させ、君が彼女を気遣うようになる場面を設定した。結果は、僕の予想以上のものだった。君は紅緋姫のために文字通りその身を削って、彼女を助けようとした。

 計画は順調だった。君が紅緋姫のために動いていることを確認した後、復活の準備をして、君に僕の復活の準備を止めるように仕向けるだけだった」

「どうして、そんなことをした?」

「紅緋姫が自分で一歩を踏み出すためだよ。君たちに守られたままでは、君たちがいなくなった時、彼女は孤独に押しつぶされるだろう。だから、彼女には『自分には困難に打ち勝つ力がある』ということを知ってもらいたかった。後は――踏ん切りかな。彼女と別れるのは寂しいからね」とロバートは一息吐く。「これが、僕の計画の全貌さ。納得はいったかな?」

 納得がいった、とは正直に言えない。霧夜はこの都市で旧支配者を見聞きしてきたが、人間を矮小に見ているはずの存在が、人間のためにここまで入念な計画を組むのは、従来の旧支配者のイメージとは随分とかけ離れている。

「どうして、そこまで紅緋姫に気を掛けたんだ? お前と紅緋姫にはどんな関係がある?」

「契約した者とされた者。それだけだよ」

「本当にそうなのか? それだけで、ここまで壮大な計画を組んだのか?」

「君に言われたくないな。君だって、数日しか会ってない人間に対して、肩入れしたじゃないか。僕としては、有り難かったけどね」

「誤魔化すな。お前は旧支配者だ。俺たちを矮小に見ているはずの存在が、どうして一人の人間に肩入れするんだ?」

 ペトータルレイはすぐに答えなかった。片手を顎に充て、何か考えるような素振りを見せると、観念したように息を吐いた。

「昔話をしよう」


 ◆


 僕の母親はとても遠い存在だった。

 僕を産み、力を与え、何もない世界に置いていった。その時は何も感じなかった。僕には母から与えられた使命があったからだ。けれど年月が過ぎて行く毎に僕は何もしない母に対して憤りを感じ始めた。そんな時、僕は一つの小さなミスで兄弟に存在を消滅させられるところだった。

 そこを救ってくれたのが、母だった。その時に感じたんだ。母は僕たちを見守っていてくれていることにね。

 けれど、愚かにも兄弟たちは母に反抗した。僕はどうすることもできず、無惨にも母は傷つき、残されたのは封印という罰と、三人の子どもたちだけだった。

 その内の一人に僕は――恋をしたんだ。

 けれど、彼女は僕に振り向いてくれなかった。向こうの世界に渡り、極々平凡な一般人と恋をして、子どもを産んだ。僕はそれが嬉しかった。彼女が幸せなら、それで良かった。けど、悲劇は起きた。

 結婚した相手は、彼女が普通の人間でないことに気づいてしまった。男の彼女への愛は急速に廃れ消え、愚かにも――彼女を殺したんだ。目の前で最愛の人を失ったぼくの哀しみが分かるかい? 僕はその男を即座に殺した。その時、二人には子どもがいたことを思い出したんだ。一〇歳のバースデーを楽しみにしているであろう子どものことをね。

 その時、僕は何も考えずに二人の遺体を持って、家へと辿り着いた。そこには彼女にそっくりな娘がいた。あどけない可愛らしい少女は、両親の姿を見て、泣き崩れ――幻想使いとして覚醒してしまったんだ。

 それは、彼女がこの世界で生きていけない存在になってしまったことを意味していた。僕は、その少女を置いていくことが出来ず、連れて行った。それから契約の痣を結び、彼女と共に世界を旅して回ることにしたんだ。

 旅に目的は無かった。いや、あるとすれば僕の悲しみを癒す旅だった。最愛の人物を失い、心にポッカリと穴が空き、全てが無意味だと感じた僕の心を癒すための旅だ。

 僕の連れて来た少女は、誰にも心を開かなかった。もちろん、僕にも。寧ろ憎悪のような感情があったんじゃないかな。最愛の両親と引き離し、孤独な世界へと連れて行ったのは僕だったからね。

 でも、僕は気にかけなかった。寧ろどうしてこの少女を連れてずっと旅をしているのかすら分からなかった。

 ある時、その理由に気がついたんだ。僕にとって少女が愛おしい存在だということに。

 そして、僕のせいで彼女には居場所がないことに。孤独であることに。

 全ての原因は僕にあることに。


 ◆


 空間は再び静寂を取り戻していた。ペトータルレイの語る話が終わったからだ。

「結局は罪滅ぼしなんだ。彼女の居場所を奪ったことに対する罪の、ね。これで良いかな」

「あ、ああ」と霧夜はただ狼狽した声しか発せなかった。

「良ければ、これからも彼女と仲良くしてくれないか? いや、ずっと見守っていてくれないか?」

「ペトータルレイ、それは――」

「……そうか。無理な注文だったね。すまない」

 初めて、ペトータルレイが寂しそうな笑みを浮かべた。それから彼は一つ息を吐くと、憑き物が落ちたような穏やかで晴れやかな表情になっていた。

「それじゃ、僕はそろそろ行くよ」

「……どこに、行くんだ?」

「さあ? 新たに知識が求められる場所、知識を求める者たちのところなら、どこにでも。それじゃ、また」

 ペトータルレイは霧夜に背を向けると、白い世界の奥へと歩いていく。その姿が徐々に霞み始め、ついには完全に見えなくなった時、霧夜の意識は暗闇へと落ちて行った。


 ◆


 病室内もやはり静寂に包まれていた。一つの物語が終わりを告げたからだ。

 霧夜と翁舞。語る者と聞く者はしばらくの間、言葉を紡ぐことはなかった。

「その話、本当っさ?」

 ようやく口を開いた翁舞の声は乾ききっていた。

「俺の話した話は本当ですよ。ペトータルレイが話したことも、多分、本当です」

「……」

 信じられないと言った様子が、ありありと翁舞の姿に表れている。動揺している、と言っても差し支えはない。寧ろ、この都市に住む人間にとって、当たり前の反応なのだろう。旧支配者は創造主に反抗した、悪しき神。邪神。そう言われてきたのにも関わらず、霧夜が語った姿はまるで違う。

「でも、信じられないっさ。旧支配者が愛情を持つなんて、あり得ない話っさ」

『そうでもありませんよ』

 唐突に第三者の声がどこからともなく響いた。奇妙な声だった。耳からではなく、直接頭に響いてきている。

『こちらですよ』

 そう言われても、脳内に直接聞こえているのだから、方向など分からない。霧夜が困惑している最中、一方の翁舞は冷静に室内をキョロキョロと見回している。

『ああ、失礼。扉の前です』

 キィと扉の軋む音がした。霧夜は扉に目を向けたが、半開きになっているだけで、そこには誰もいなかった。

「きっくん、下っさ」

「下?」

 言われた通りに視線を下へと向ける。すると、確かに一人の来客がいた。いや、一人というのはおかしい。一匹というべきだろう。何故なら、そこには三毛猫が座っていたからだ。ここ最近ずっと見かけているような気がする、いつもの猫だ。その証拠に見覚えのある赤い首輪が巻かれている。

『初めまして、蒼炎霧夜』

 再び例の声がするも、その主は姿を現していない。代わりにいるのは三毛猫だ。

「きっくん、今の声はこの猫っさ」

「……は?」

『ああ、この姿はあなたにとって不慣れですね。すみませんが、慣れてもらいますよ。私はこの姿が気に入っているので』

「猫が、喋った?」

『正確には猫は喋っていません。私という精神体が喋っているのですよ、蒼炎霧夜』

 光景は異様だが、霧夜はもう何でもありだな、とこの状況下に納得をするしかなかった。

「あの、それで猫さん。お名前は?」

『おっと、私としたことが自己紹介がまだでしたね。私にこれといった名前はありませんが、一応最大教主という役柄についている今、そう名乗るべきでしょう』

「……は?」

 聞き間違いであろうか、と霧夜は思ったが、確かにこの猫は最大教主と言った。しかし、それはおかしい。猫の隣には自らを最大教主だと正体を明かした、古い付き合いの先輩が立っているのだ。

「いや、でも、最大教主は翁舞さんじゃ――」

「あくまで私は最大教主の代行者っさ。ほとんどの行事は私がやってるけどね。ね、最大教主?」

『ふふ。私はああいった堅苦しい場は苦手ですからね。ほとんど彼女に任せているのが実情です。ですから、最大教主ではなく、適当な名前で呼んでくれて構いません。変な名前はなしですよ? 決定権は私にあります』

「はあ……」

 次々と明かされる事実に対して、霧夜は突っ込むことも悩むことも放棄して、あるがままを受け入れることにした。

「それにしても、最大教主。どうしてここに来たっさ?」

『もちろん彼に用事ですよ。一応、私は形ばかりですが最大教主ですから、お礼をと思いましてね』

 一歩、霧夜の前に出て、最大教主は頭を下げた。

『ありがとうございます。あの親バカから街を救ってくれて』

「お、親バカ?」

『充分、親バカですよ。たった一人の少女の為に街を危険に晒したんですから。街に被害がなかったのは、さすが旧支配者というべきですね。ですが、私に頼めばこんな事件を起こさずに済んだものを……』

「あれ、知り合いなのっさ?」

『ああ、言ったことありませんでしたね。彼とは昔からのちょっとした知り合いです。思えば、あの時から彼は賢者とか呼ばれながら、妙に人間くさいところがありましてね。ずっとある女性に対して恋煩いを抱いていたようです。私がさっさとアタックしろと言っても、中々腰を上げなくて、終いには別の男に取られてしまった――神にしてはどころか人間としても情けない話ですよ。その頃の私と言えばもちろん猫の姿ではなく麗しい美貌を持った――』

「あ、あのーえーと、俺はもう退院しても良いんですか?」

 話が長くなりそうだと察知した霧夜は、話の方向を別のところへと持っていこうと話題を振ると、猫の最大教主は反応を示してくれた。

『そうですね。もうそろそろ時間です』

「ちょ、ちょっと待ってっさ。まだきっくんは記憶が――」

 慌てた様子で翁舞が口を挟む。

 彼女の言葉に霧夜は他人事のように、自分のことを思い出していた。

 蒼炎霧夜は記憶喪失だ。自分が何者なのか、どこで生まれたのか――他の情報で蒼炎霧夜が何者かを説明しているが、本人の記憶は失われたままだ。少なくとも、周りはそう思っている。

「もう、大丈夫ですよ、翁舞さん」

「……え?」

 だからこそ、失われて『いた』と言い換えるべきなのだろう。

 蒼炎霧夜は静かに、それとなく伝えるように言葉を紡ぐ。


「記憶は戻りました。塔で光に包まれた後、ペトータルレイに会う前に俺の記憶は戻りました」


 塔での白い光に視界が包まれた後、蒼炎霧夜は漂白剤でも使ったかと思うほどの、真っ白な世界で意識を取り戻した時、彼はここがどんな世界なのか、良く分からなかった。どこを見回しても白だらけで、皆目見当もつかなかった。

 不意に頭に引っかかるものがあり、霧夜はこの世界をどこか見覚えのあるものとして認識した。

 必死に頭を回転させ、記憶を掘り起こした時、自分がこの世界を『通った』ことを思い出した蒼炎霧夜は自分の記憶が戻っていたことを知った。

『ショック療法のようなものですね。記憶を失った時も、確か衝撃によるものでしたね』

「そうっさ。こっちの世界に来る時に渡る狭間の世界に突然振動が走ったっさ。そのせいで、私ときっくんは離れ離れになってしまったっさ」

『もしかしたら、それもペトータルレイの仕業なのかもしれませんね。全く、わざわざ回りくどい手を使うとは、らしいと言えばらしいですがね。最も私なら――』

「まあ、そういうわけで、俺はそろそろ帰ります」

 また話が長くなりそうだったので、霧夜は最大教主の言葉を遮った。睨まれた様な気がしたが、霧夜は無視する。

「も、もうちょっとだけいられないっさ?」

『無理ですよ、翁舞』

 不機嫌そうに、ピシャリと最大教主は言い放った。

『ここは幻想世界。現実によって拒絶された者たちが住まう最後の楽園』

 歌うように最大教主は言う。

『彼は現実の人間です。幻想ではいられない』


 ◆


 夕方。

 友人たちと遊び尽くし、少し疲れた面持ちで霧夜がいつものように帰宅すると、自分の家の前に見知らぬ女性がいることに気がついた。いや、服装自体に見覚えは無いが、女性の横顔にはどこか懐かしいものがある。最初は夕焼けで生まれた影のせいで、中々分からなかったが、彼女が動いたと同時に影が移動し、横顔がちゃんと見えるようになった。

「……翁舞さん?」

 ボトリ、と持っていたカバンが地面に落下する。

 女性はその音で、霧夜がいることに気がついた。地面に届きそうなほど長い髪が、くるりと宙で躍り、太陽も霞むほどの眩しい笑顔が表情に浮かぶ。それは、別れた時から変わらない彼女のトレードマークの一つだ。

 翁舞咲。中学生の頃に霧夜が出会い、自分を絶望の淵から救ってくれた先輩の名前だ。卒業を切っ掛けにして引っ越すことになり、行き先を告げることなく別れてしまった。それ以来一切の連絡も断たれてしまった。もう会う望みはないと半ば諦めていたが、その女性が何の前触れもなく、自分の家の前に来ているのは、いったいどういうことだろうか?

 再開の挨拶もそこそこに、翁舞はこう言って話題を切り出した。

「きっくんの力を貸してほしいっさ」

 どういうことだろうか? 自分が力になれるなら、霧夜は快く力を貸したかった。

「これから言うことは冗談でも何でもないっさ。だから、真剣に聞いてほしいっさ」

 そう前置きし、翁舞は事情を話し始めた。


 幻想世界。


 この世界ではあり得ないものとして、拒絶されたいわゆる『幻想』とされる者たちが住まう世界。不思議な力を持つ人間、創作と言われた生物たちが現実の常識とは違った形で生まれ育ち暮らしている、一種の楽園だ。

 その世界の一角にある常世という都市にはその世界を創り出した神々を崇拝するオラクルという組織が都市を統治していた。そのオラクルには最大教主と呼ばれる人物いる。最大教主はオラクルのトップてあり、ある重要な役目を任されていた。神々が残したとある書物から啓示を受けるのだ。

 『予知の書』と呼ばれる書物は、書と言っても普段は真っ白なページが続くだけの書物という言葉が似合うものではないが、ある時にだけ白紙のページに文字が浮かぶ。

 それは常世に危機が訪れようとしている時だ。予知の書はアカシック・クロニクルと呼ばれるものと連結して世界を観測し、常世に訪れる危機を事前に『啓示』という形で通告するのだ。数年間、最大教主は啓示を受けていなかったが、今から数日前に書物は啓示を与えた。

 書は強大な力を持つ神が常世に危機をもたらすことを告げていた。加えて、その解決方法を記していた。

『幻想を打ち破る、銀色の少年の力を借りよ。彼こそ常世の救世主となる』

 すぐに最大教主は上層部と会議を開き、銀色と少年をキーワードに該当者を探し出したが、肝心の『幻想を打ち破る力』を持つ者は誰一人としていなかった。

 そこで、翁舞は蒼炎霧夜のことを思い出した。

 彼がそんな力を持っているのかは分からない。少なくとも、翁舞は見たことがなかったが、彼女は事情を知る全ての人間を説き伏せ、本来渡航禁止の『幻想なき世界』――いわゆる現実世界へと帰って来たのだった。

 この話を一通り聞いた霧夜は快く承諾した。普通の人なら一笑するところだが、何より自分が信頼を置いている彼女が真剣な眼差しで語ったことに、嘘はない、と霧夜は知っている。

「それじゃ、悪いけど早速来てくれるっかな?」

「ええ。大丈夫ですよ」

 承諾すると、翁舞は宙を一撫でする。すると、目を縦にしたような白い空間への入り口がぱっくりと開いた。

「ささっ、ここを通って行くっさ。――幻想世界に!」


 ◆


「最大教主の言う通りですよ、翁舞さん」

 宥めるような、静かで穏やかな声で霧夜は言う。

「俺は現実の人間です。不思議な力と無縁の世界で生きる現実の住人。ここには長居できませんよ」

 この世界で彼に与えられたものは全て虚構に過ぎない。霧夜の市民登録証も、住居も、全てはこの都市で不自由なく暮らすためにオラクルから用意された仮初のものだ。いわば、蒼炎霧夜がこの街で暮らしてきたという『事実』を形取るためのパーツということだ。

 この世界に、蒼炎霧夜の居場所などない。

 霧夜はその現実を理解している。

「それは、そうだけど……って、きっくん!?」

「どうし――あ」

 慌てた様子の翁舞が霧夜の身体を指差した。どういうことかと霧夜は自分の手を見ると、薄くなっていた。いや、手だけではない。彼の全身が徐々に薄くなっている。

『あなたは役目を終えました』

 淡々と事務的に最大教主は伝える。

 それは、霧夜がこの世界から帰る時が来たことを示していた。彼の『本当の居場所』に戻るために。

「だ、そうですよ。翁舞さん」

「……分かってるっさ」

 言葉ではそう言っているが、その表情には彼女の感情がありありと浮かんでいる。いつもの笑顔は潜め、暗い夜のような影が差している。彼女は悲しんでくれているのだ。自分、蒼炎霧夜との別れを。

「また、会えますよ」

 だからこそ、霧夜は努めて明るい声で言う。

『そうですね。予知の書が、常世が、救世主であるあなたを求めるならば』

「……そうっさね」

 影は薄らいで、翁舞の表情に僅かな笑顔が戻った。

 本来なら、霧夜と会えることを喜ぶべきことではない。蒼炎霧夜が再び訪れると言うことは、常世に危機が迫ってくるのと同意義だからだ。最大教主の立場として、翁舞は心から望んではいけない。

 それでも、翁舞は太陽のような笑顔で、

「また、会おうっさ」

「はい」

 彼女が込めた願いは言葉となり、少年はそれに対して力強く返答した。

「すみませんけど、紅緋姫のことをお願いします」

「分かってるっさ。きっくんの分まで、私が面倒見るっさ」

『影ながら、私も見守りましょう。何せ、私の人生経験上、ああいった子は不安定になりやすいですしね』

 この都市のトップが二人も、紅緋姫の安全を保障してくれると言った。

 これで心残りはない。

「それじゃ、また。翁舞さん、最大教主」

 唇の端を上げ、自然に笑顔を見せる。そこに惜別の念はない。


 そして、蒼炎霧夜はこの世界から姿を消した。


 ◆


 紅緋姫は窓の外から景色を眺めていた。常世の街並みを紅緋姫は不思議な気分で見ていた。幻想世界に訪れたというのに、街の景観は現実のものと類似している。しかし、それはそれで心地の良いものであった。

 乗っている馬車はガタガタと揺れている。正直なところ、乗り心地は良くない。原因は何だろうか? 外装と内装を見る限り、かなり豪華な代物で、整備もきちんとされているはずだ。問題なのは道の方だ。ここの道路は石畳でできているが、ちゃんと舗装がされていないのだろう。何度も車輪が大きな鈍い音を上げている。

 雨師は真向かいに座り、先ほどから新聞を読み耽っている。二人の間にこれといった会話はない。雨師が事務的な話をしただけだ。どうやら、会話はあまり得意ではないようだ。紅緋姫の方も声をかけてくれない方が良かった。今は喋りたくない気分だ。何より、自分と合う話などないように思えた。

 しばらく外の景色を眺めていたが、同じ街並みが広がっていると、さすがに飽きてきた。そうなると、別の方へと思考が飛ぶ。

(もう、彼は帰った?)

 蒼炎霧夜。

 出来ることなら、もっと話したかった。彼の傍にいたかった。しかし、それは叶わぬ夢だということを彼女は知っている。

 霧夜から紅緋姫は懐かしいものを感じていた。当初それが何なのか分からなかった。分かったのは自分が病室から目覚め、翁舞が見舞いに来た時だった。

『きっくんは幻想世界の人間じゃないっさ』

 疑問は氷解した。紅緋姫は霧夜から現実を感じ取っていたのだ。もう失ってしまって懐かしい、現実の香りを。

 馬車は橋の下を通り過ぎる。すると、景観が一変した。これまではヨーロッパのような街並みが広がっていたにもかかわらず、突如として木で建てられた日本家屋が姿を現した。

 道路の脇には、道に沿って等間隔に木が植えられていた。しかし、どれも花弁が散ってしまっていた。

「……あ」

 小さな桃色の花弁が一つ、馬車の中へと入って来た。床に落ちた花弁をそっと、紅緋姫は拾い上げる。

 桜の花びらだ。もう枯れてしまっているが、まだ残っていたものが風に運ばて来たのだろう。

 紅緋姫は現実世界で一度だけ桜を見たことがある。ペトータルレイと旅をした時に訪れた『日本』という国に咲いていたものだ。その時に彼女はこれまでの名を捨て、ペトータルレイから『紅緋姫桜』という名前を受け取ったのだ。

 紅緋姫はもう一度窓の外を見た。ついこの前までは綺麗に咲き乱れていた桜は、どれも花弁を散らしている。確か、自分が来た時から桜の開花が始まっていた。

 紅緋姫桜が来た時に、桜が咲く。ちょっとした運命に彼女は微笑を浮かべた。それはただの偶然でしかないけれど、まるで自分を迎えていたような気がしてならなかった。

「――」

 ふと空で何かを見つけたような気がして、雲が薄く広がる青空へと目を向けた。そこには青空が当たり前のように鎮座している他、何もない。

 しかし、紅緋姫には一つの確信が合った。

「帰った」

 この世界を救い、たった一人の少女を孤独の淵から救い出した少年があの青空を超えて、自分の居場所へと帰ったのだ。

 もう会えないかもしれない。いや、会えないだろう。そう思うと、彼女の心にずしりと重いものが圧し掛かり、涙が出そうになる。必死に押し止めようとしても、心の動きを耐え凌ぐことはできない。

『またな』

 不意に最後に交わした言葉が、紅緋姫の脳裏に過ぎった。不思議なことにその言葉を思い出すと、紅緋姫の心は妙に軽くなった。

 それにしても、もう二度と会うことない人同士が掛ける言葉にしては、妙な言葉だ。まるで、再び会うことができると言わんばかりの口ぶりだ。何故、あの場で彼はそう言ったのだろうか。思い出すと、特に別れを惜しんでいたようにも見えなかった。

 蒼炎霧夜にとって、自分はそこまでの存在ではなかったのだろうか? それとも、本人が気づいていなかっただけだったのか?

 いや、違うと紅緋姫は思う。

 蒼炎霧夜は嘘偽りなど言っていない。確信を持って答えたのだ。

 また会えると。

 ならば、紅緋姫も信じて見ることにした。蒼炎霧夜との再会を。

 桜の輝きは儚く、一瞬にして散ってしまう。しかし、また一年経つと桜はその輝きを取り戻す。ならば、会うことのない二人がもう一度出会える奇跡ぐらい、会っても良いだろう。

 紅緋姫は心からそう願った。

 また、この世界で。


「桜吹雪の舞う頃に」


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