プロローグ
■プロローグ
時刻は十一時を過ぎ、時計の針は次の日付へと迫って来ていた。
外は暗闇に覆われながらも、建物の明かりや、遥か上空で輝く丸い月の影響もあって、完全に闇夜が支配する環境はこの世界には存在しない。
だが、光ある所に必ず影はある。例えば、建物と建物の間にポツリと存在する路地。ここには月の明かりはおろか、街を彩る街灯の小さな光でさえ完全に中を照らすことは出来ない。つまり、唯一、闇夜の大きな影響を受ける場所と言えた。
その闇夜の中、路地裏を一人の少年は走っていた。ここでは、足元は何も見えず、微かに侵入してくる街灯の光が僅かに少年の身体を照らすだけだ。
不意にガコン、と音を立てて少年の足が何かを蹴飛ばした。恐らく、ポリバケツか何かだろう。暗闇で判別はできないが気性の激しそうな猫の鳴き声と、生モノ特有の異臭が鼻についたのが証拠と言えた。思わず、顔をしかめる。
(ああ、もう。制服は一着しかないのに)
足についたであろう異臭を気にしながら、少年は背後に目をやった。後ろからやってくる連中は撒き散らしたゴミなど気にする様子もなく、追って来ている。
そう、少年、蒼炎霧夜は追われていた。暗い路地裏に不用意に入り込み、追って来ている連中に絡まれてしまったのだ。
「くそっ、ふざけるなっ」
今の状況を憂いて、思わず悪態を吐く。思えば、どうして自分だけが追いかけられているのだろうと霧夜の脳裏に疑問が浮かんだ。
そもそもの原因は部長が猫探しなどを引き受けてしまったことだ。この広大な街の中でたった一匹の猫を探すなど不可能に近いのだが、今日中に捕まえられると粋がってしまった部長は躍起になってしまった。おかげで深夜近くになっても唯一の部員である霧夜は、猫探しに借り出され、理不尽な襲撃を受けている。
「そもそも、赤い首輪をつけたミケネコじゃ、アバウトすぎるっ」
文句を言っても、今の状況が変わるわけではない。だが、吐かずにはいられない。
(まあ、不用意に路地裏に入り込んだのも悪かったわけだが)
しかも、暗闇が支配する路地裏に入る事が自殺行為だと事前に分かっていた。ある意味、自業自得なのかもしれない。
(だけど、やっぱり理不尽だっ!)
はあ、と小さく溜息を吐き、走る速度を上げる。それに合わせて後ろの連中も走る速度を上げたのか、足音がさっきよりも小刻みになった。どうやら、走ることで振り切るのは難しいらしい。
(どうして、いつもいつもこんなにしつこいんだよっ)
今の状況に怒りを抱くのは当然のことだった。理不尽かつ一方的な攻撃に憤慨しない人物はそういない。
だが、霧夜の怒りの根は深い。そもそも、霧夜は部長が猫探しの依頼を受け、深夜に及んだことに対してはあまり怒りを感じてない。
霧夜が負の感情を向ける事柄はたった一つ。
後ろから迫ってくる『何か』。
もう二週間の付き合いだが、会って嬉しかった試しはない。
最初の出会いでは襲いかかれ、二回目は頬に切り傷をつけられ、三回目には背中に大きな引っ掻き傷をつけられた。もう霧夜の身体に傷がつけられなかった場所などないと言えるほどに。
その生物が何匹も霧夜の背後をピッタリと同じ距離を保って追いかけてくる。まるで獲物に追われるひ弱な動物のような気分だ。
ただし、彼らはライオンのように屈強な生き物ではない。
はっきり言えば、後ろの連中との戦いに慣れた霧夜にとって、連中をおとなしくすることなど朝飯前なのだ。ただ、あまり光が届かない路地裏では視覚に頼っている人間にとって不利な状況なのは明白だ。簡単な話、攻撃に遅れが生じ、反撃を受けてしまう。
つまり、霧夜はがむしゃらに逃げているわけではない。路地裏から脱出し、自分が有利なステージに連中を誘導しているだけだ。例え、相手がどんなに脆弱で、自分が強力な武器を持っていたとしても、状況次第では強者が弱者に破れ去ってしまうものだ。幸いなことに連中は前に回り込むという手段を使わないため、案外楽な作業だった。
もう少しで路地裏を抜ける、という時にズボンのポケットから小さな音が鳴った。素早く、取り出してコールボタンを押す。
『きっくーん、そっちはどう?』
耳元の携帯電話から女性の声が聞こえた。霧夜の状況とは違い、その声には余裕と、どこか楽しげな様子が感じられる。
霧夜は前方と後方を交互に見やり、
「もう少しで終わりそうです。そっちはどうですか?」
『ふふん。こっちも終わる頃合いかな? さすがは猫っさ。縦横無尽に駆け回ってくれるよ』
電話の向こうからは女性の声と同時にガサガサとした音が常に聞こえていた。彼女は猫の追跡途中で草木が茂るどこかに入り込んだらしい。
「それじゃあ、お互い用事が済んだらいつもの場所に合流で良いですね」
『そうっさね。それじゃ、どっちが早く終わるか、競争っさ!』
「分かりましたっ」
それだけ告げると、霧夜は電話を切った。
直線が続いていた路地裏に十字路が現れた。右側からは僅かに明かりが漏れ、左側はさらに深い暗闇が続いている。霧夜は迷うこと無く右へと曲がる。曲がった際に、置いてあったポリバケツを後ろに蹴飛ばした。
勢い良く背後の暗闇へと消え去ったポリバケツは、暗闇の中でボンッと生々しい音を発した。
(当たったか)
目論見通り、転がったポリバケツは後ろの連中に命中し、背後の暗闇から小さな呻き声が複数聞こえた。もちろん、これだけで連中が追跡を諦めるはずかない。ただ、霧夜は僅かでも休憩する時間を稼ぎたかっただけだ。
追手の気配が近くにないことを確認すると、霧夜は走る速度を緩めようとしたが、目の前には路地裏の出口を示すように、煌々とした街灯の光が僅かに暗闇の路地裏を照らしている。霧夜の足は自然と早くなった。
抜け出した先は絢爛豪華な西洋風の建物が立ち並ぶ地域から少し外れた、一般住宅が点在する地域だった。
霧夜は足を止めることなく、石造りの敷石で舗装された道路を駆ける。周囲を見渡すと、オレンジ色の煉瓦で建てられた住宅が何件か目に入った。建てられてから数十年が経過していることが見て取れる。
「ん?」
その中で霧夜の視界に公園の姿が映り込んだ。
住宅と住宅の間にひっそりと隠れるように作られた公園の中は小さなベンチと、申し訳なさそうに一つだけ煌々と輝く街灯が設置されている。公園と呼ぶには少々手狭でお粗末だ。
「広いな」
だが、霧夜にはそれで充分だった。躊躇せずに公園内に入る。都合の良いことに公園には誰もいない。深夜に近いので当然と言えば当然だが。
ここで霧夜はようやく足を止めた。埃と異臭が混じり合う路地裏とは違い、洗礼された空気、だがどこか古風な雰囲気を感じつつ、深く息を吸って吐いた。ほぼ全速疾走で走っていたせいか、額には汗が浮かんでいる。霧夜はそれを手の甲で拭った。
公園の街灯が少年、蒼炎霧夜の姿を照らし出した。
特徴的な銀色の髪が光に照らされ、まばらに輝く。服装は白いワイシャツに紺で彩られたネクタイ、その上にはブイネックの紺セーターを着ている。下は灰色のチェックのズボンだ。
街灯の明かりが、彼のかけるメガネに反射してきらきらと輝く。それは端正な顔立ちには少々不釣り合いだ。
霧夜は右端のフレームを僅かに摘み、走って偏ったフレームの位置を調整しながら、
「……そろそろレンズ変えるべきかな」
とぼやいた。
追われている状況だと言うのに、悠長なことを言えるのは経験から来ているのだろうと霧夜は思う。もう何度もこの状況に立ち会って来た。既に危険な状況には慣れていても、おかしくはない。
再び電話からコール音が鳴り響く。億劫そうに霧夜はボタンを押した。
「はい、翁舞さん? 残念ですけど、俺はまだ――」
『残念ですが、彼女ではありません』
電話の向こうから聞こえてきたのは先ほどとは打って変わった若い男の声だった。
霧夜は心底うんざりした声で、
「……お前か」
『はい。ちょうど異物の発生地点にあなたが居たものですから。どうです、目撃されましたか?』
白々しい。霧夜はそう思った。電話の向こうの男は今の状況を知っている上で、敢えて問い掛けている。きっと、少し離れた場所で嫌味な微笑を浮かべながら、高みの見物を決め込んでいるのだろう。
「目撃したも何も、ちょうど追われてる最中だよ」
『それは好都合です。我々の仕事も少なくなりますね』
「殴るぞ」
投げ捨てる様に言った霧夜の言葉に男は苦笑した様子で、電話の向こうから笑い声が漏れた。
『ちゃんと報酬は弾みますよ。そうですね、近場で見つけたおいしい定食屋へご招待というのはどうでしょうか。もちろん代金はこちら持ちで』
「何が悲しくて男と二人、しかもお前と飯を食いに行かなきゃいけないんだよ。その条件を提示するなら場所と代金だけ払ってくれ。翁舞さんと行くから」
『……まあ、構いませんが』
「よし、交渉成立だな。そろそろ切るぞ」
『分かりました。それでは。……あ、そうそう。もしよろしければ、今度の夕食を――』
言い終わる前に霧夜は通信終了のボタンを叩きつけるように押した。
不意にビクリと霧夜の身体が震える。
嫌な気配がした。ここ数日、何度も感じる不気味で背筋が凍りつくような気配。どうやら足止めした連中が追い付いてきたらしい。
霧夜は何度この状況に立ち会っても、連中の気配に慣れることがなかった。身体の調子を崩すような、異質な気配。おかげで周囲のものとは明らかに隔離された異質な気配を放つ連中の居場所は簡単に特定できた。
気配は霧夜を取り囲んでいる。数は四匹。
「来るか?」
誰かに対しての言葉ではない、ただの独り言だ。だが、相手は挑発と受け取ったのか、暗闇から一匹、小さな黒い塊が姿を現した。すぐに小柄だと分かるそのサイズは霧夜の膝下程度しかない。目は鮮やかに黄色く発光しており、可愛らしくも不気味にも見える。
姿を現した黒い塊は所在なさげに周囲を見渡している。言葉に気づいて姿を現したが、その言葉を発した相手がどこに居るのか把握できていない様子だ。
少ししてから黒い塊はピタリと動きを止めた。代わりに頭に生えた二本の触覚の先端をクルクルと回転させ始める。恐らく、レーダーか何かなんだろうと霧夜は考えた。
しばらく、クルクルと回転させていたが、やがて動きを止める。触覚は霧夜を捉えたようだ。
ゆっくりと頭を動かし、霧夜に視線を固定させる。
そして、不気味に大きく口を広げ、ニヤリと不気味に笑った。
口内からは獰猛の牙を見せつけ、完全な敵意を霧夜に向ける。僅かに歩き、小柄な黒い塊は飛び上がる。助走もなく飛び上がったのにも関わらず、何メートルも前へと跳躍し、霧夜の身長を高く超えていた。高さの頂点へと達した黒い塊は重力に任せて、その獰猛な牙を見せながら落下する。
(……だから、それだと身動きできなくて的のようなものだって、気付かないのか?)
霧夜は溜息を吐くと、ポケットから無造作にクシャクシャとなった長方形の紙を取り出した。赤色で複雑な文様が両面に描かれた紙を霧夜は強く握りしめ、宙で踊る相手に投げつけた。フラフラと地面へと落ちる――本来ならばそうであるが、紙は逆に風を切るように黒い塊へと向かって行く。
黒い塊はそれに対して、特に動きを見せない。いや、宙にいる間は身動きが取れないも同然だが、黒い塊は向かってくる物に対し、何も考えを抱いていない様子だった。
二つの物体は空中で衝突し――
触れた瞬間、黒い塊は後方に吹き飛ばされ、壁に向かって投げたボールが跳ね返されたように地面へと叩きつけられた。
『――!』
何とも形容しがたい呻き声を上げた黒い塊は地面でしばらくの間のたうち回ると、少しずつ動きが鈍くなり、大きく痙攣した後、動かなくなったかと、思うとさらさらと細かい粒子となって、痕跡一つすら残さず消えた。
その姿を看取った霧夜は周囲の暗闇の中を見る。まだ敵意は消え去っていない。たった今、圧倒的な結果を見せつけたというのに、奴らは怯えることを知らない。
暗闇から光る点が六つ出現した。それは黒い塊に備えられている不気味に発光する目だ。数は三匹。霧夜を取り囲んでいる。
黒い塊たちは、一匹目と同じく助走なしに高く跳躍した。ただし、今度は一匹ではない。三匹の黒い塊が三者三様から一斉に霧夜に飛びかかっていた。それに対し、霧夜は僅かに腰を下げ、反撃へと構える。
ポケットから紙を取り出す。霧夜はそれを右手に二枚、左手に一枚ずつ挟んだ。
右手に挟んだ一枚を一体に投げつけた。黒い塊はまるで壁にでもぶつかったかのように、勢いよく後方へと吹き飛ばされる。
霧夜はさらに腰を下げ、前方へと転がる。その上をちょうど二匹が通り過ぎ、霧夜の背後に着地した。第二の攻撃を放つため、緩慢な動作で身体を反転させると牙を剥き出しにして飛びかかる。
だが、霧夜の方が早かった。
素早く地面から立ち上がった霧夜は右足を軸に素早く振り返り、右手と左手の指に挟んだ紙を投げたつけた。瞬間、二匹の黒い塊は僅かに震えた。この二匹は予測される結果を思い浮かべるだけの知能があったようだ。
紙は額へと直撃した。その衝撃でバランスを崩した二匹は尻もちをついた。
だが、紙自体に大したダメージはなかった。最初に食らった一匹は既に立ち上がり、霧夜へと狙いを定めているようだった。他の二匹も同様だった。
しかし、霧夜は既に警戒を解いていた。
「頭についてる紙、お前らには似合ってないな」
右手をぐっと霧夜は握りしめた。
同時に黒い塊に付けられた紙から淡い光が放たれた。黒い塊よりも巨大な青白く発行する平面型の『陣』。『陣』は一〇秒とたたず、消え去った。それでも、黒い塊には充分だった。細かい砂のような粒子となって、跡形もなく消え去った。まるで、元々その場にいなかったように。
はらり、と地面に役割を終えた紙が落ち、粒子となって地面へと崩れ落ちた。
(終わったか)
一息吐くと、額からどっと汗が噴き出してきた。それを手の甲で拭い、周囲を見渡す。
戦いの形跡はなくなり、公園にいつもの静寂が戻ってきていた。
「うわー、ちょっと待ってっさ!」
それまでの雰囲気を一蹴するように周囲の木々から甲高い、少女の声が響き渡った。声の主は駆け足で何かを追っているのか、ちらほらと静止の声をかけている。その声は徐々に霧夜の方へと近づいてきている。
ガサッと草木の中から猫が飛び出した。外に出れば自然と見かける一般的なミケネコだ。誰かが飼っているのか首には赤い首輪が巻かれている。
依頼された猫だ、と霧夜が認識したと同時に草木から一人の少女が飛び出して来る。霧夜にとって見慣れた少女だ。
「うおーい、待つっさねー!」
猫に飛びかかり、少女は宙に舞った。両手を伸ばし、目の前の猫を掴みにかかる。
見事、少女は猫を両腕でキャッチした。が、少女は空中へ身を投げ出すようにジャンプしていたため、猫を両手で掴んだまま、うつ伏せの状態で地面へと落ちた。
ドフッと、聞いている方が痛そうな低い音が小さな公園に響く。
「うー、いたたたっさ」
頭や身体に葉を引っかけて現れた少女は、一際目を引く長い深緑の髪を携えていた。その長さは危うく地面へと届きそうになるほど長い。長袖の紺色のブレザーに灰色のチェックのスカートの服装は、高校で指定された制服だ。
「大丈夫ですか?」
おもむろに霧夜は少女に声を掛ける。霧夜の問いかけはほとんど条件反射に近い。彼女がタフなことを知っている霧夜は、彼女がこの程度でケガを負うことはないと理解していた。
むくり、と起き上った少女は掴んだ猫を空へと高く上げると、満面の笑みを浮かべ、
「やったー、ようやく捕まったっさ!」
と歓喜の声を上げた。少女はその場で正座をすると、両手で掴んだ猫をぶらぶらと左右に揺らし始めた。猫は急に身体を捕まれたことと、宙から突然落下した二重のショックが相まってか、少女の腕の中でおとなしくしている。
「あのー、翁舞さん?」
その光景を静観していた霧夜は痺れを切らして、翁舞と呼んだ少女を呼びかける。呼びかけられた翁舞は猫を宙に上げた状態で固まり、彼の方へと顔を動かした。
「およー、きっくん! こっちは捕まえられたっさ!」
「ええ、見てましたから分かってますよ」
そっか、と一言呟くと、少女は忙しない様子で周囲に目を配ると、残念そうな声で、
「きっくんの方は、もう終わってるみたいっさね。ううー、今回も私の負けっかな? くやしーっさ」
「まあまあ。ほとんど同時みたいなもんですから。引き分けってことで」
「んや、慰めはいらないよ! 今度はちゃんと自力で抜くっさ!」
オーバーなリアクションで悔しがる翁舞を見て、霧夜は苦笑いを浮かべる。そもそも彼女が提案した勝負など、さっきの電話で突発的に決まったお遊びのようなものだ。その遊びにここまで悔しがられると呆れてしまう。
それと同時にホッとする気分になるのは、気のせいではないはずだ。
「帰りますか」
公園の時計を見る。時計の針は既に一二時を超える位置に到達しようとしていた。
「およ、もうこんな時間っさ」
彼女は霧夜に背を向け、距離を置くと、くるりと首を動かし、振り返る。霧夜に向けられる笑顔がどこか清々しい。
「帰ろっかー。ほらほら、先に行くよー!」
軽い足取りで公園から出て行く少女の後ろ姿を見送った少年は、小さな溜息を吐いてから歩き始めた。