地味令嬢、王子の秘密を知ったら溺愛ルートに放り込まれました
王立学園の放課後。夕闇が迫る校舎の廊下を、伯爵令嬢セシル・ラフィネは重い足取りで歩いていた。
「はぁ……ついてない。委員長に選ばれるなんて」
セシルは、どこにでもいるような地味な令嬢だ。
焦茶色の髪に深緑色の瞳、鼻の上には少しだけそばかすが散っている。
そんな彼女の最大の特徴は、絶望的に運が悪いこと。
道を歩けば鳥のフンが落ちてきたり、晴れているのに水溜りの跳ね返りが飛んできたり、ここぞという場面でくしゃみが止まらなくなったり……そんなことは、日常茶飯事だ。
今朝のクラス会議。誰もやりたがらない学級委員長の座を巡るくじ引きで、セシルは唯一の『当たり』を引いてしまった。
委員長とは名ばかりの、教師の使い走りと行事の雑用を一身に背負う苦行の役職である。
「えーと……旧校舎の第二資料室にある、建国時代の地図だったわよね」
担任から押し付けられた鍵を手に、セシルは人影のない旧校舎へと足を踏み入れた。
(あら? 鍵が開いているわ……?)
ギィィ……と不吉な音を立てて開いた第二資料室は、数年分の埃が積もった、まるで廃墟のような場所だ。
(ひどい埃ね。早く見つけて帰りましょう)
口元を押さえながら奥へと進んだその時、衝立の向こうから低い怒声と押し殺した嗚咽が聞こえてきた。
「いい加減にして下さい。もう、あんたの尻拭いをさせられるのは懲り懲りなんですよ!」
セシルは心臓が跳ね上がるのを感じた。
じ、事件!? それとも……いじめ?
恐る恐る衝立の隙間から覗き見ると、そこには目を疑う光景が広がっていた。
学園の至宝にして王国の誇り、全女子生徒の憧れの的である第一王子リュシアン・ロシュフォール殿下が、床に膝をついて、ポロポロと涙をこぼしていたのだ。
そして、その前に仁王立ちになり、氷のような視線を浴びせているのは、彼の側近にして無慈悲な秀才、ハワード公爵令息である。
「ひっ、……ぐすっ。ご、ごめんよ……ハワード……」
「いいから、さっさと立ちなさい! このダメ王子っ!」
ガタガタッ………!
驚きのあまり、セシルは抱えていた地図を床に落としてしまった。
シン⸻と、静寂が部屋を支配する。
這いつくばったままの王子、氷の眼差しを向ける側近、そして困惑顔で固まった地味な女子生徒。三人の視線が空中で交錯する。
(終わった……これ、絶対に見てはいけないやつ!)
セシルの背中に、すっと冷たい汗が伝う。
「………見ました、よね?」
ハワードは、音もなくセシルの背後に回り込み、逃げ道を塞ぐ。彼は逃げ出そうとしたセシルの腕を掴むと、問答無用で近くの埃っぽい椅子に座らせた。
「み、見てません! な、何も、何も見てませんっ!」
「嘘をついたら、不敬罪に問われますよ?」
「ご、ごめんなさいっ! 見てしまいましたっ! お、お、お願いします……殺さないで……!」
必死に命乞いをするセシルを見て、ハワードは深くため息をつき、眼鏡の位置を直した。
「別に、殺しませんよ。ただ、今見た事を黙っていてほしいだけです。……それと」
ハワードは床で震えているリュシアン王子をギロリと睨みつけた。
「知ってしまったからには、貴女にも協力していただきますよ? このダメ王子を、まともな人間にする練習に」
「きょ、協力……?」
セシルは激しく動揺した。
王国の完璧な王子様が、実は側近に足蹴にされるような(精神的に)泣き虫だったなんて……!
しかも、この悪魔のように恐ろしい側近は、王子様の更生を手伝えというのだ。
「セシルさん、覚悟して聞いてください。……リュシアン殿下は、重度の女性恐怖症なのです」
ハワードの言葉に、セシルは耳を疑った。
リュシアン王子といえば、学園では『不可侵の君』として知られている。
どんなに美しい令嬢が色仕掛けで迫っても、一瞥もくれず立ち去る姿は「気高い!」「ストイック!」と賞賛されていた。しかし、実態は違ったのだ。
「殿下は、女性が怖いだけです。三人以上の女性に囲まれれば過呼吸になり、至近距離で微笑まれれば失神しかけます。艶やかな令嬢に視線を向けないのは、視界に入れただけで吐き気がするからです」
「そんな……! じゃあ、あのクールな態度は全部……」
「必死のパニック隠しです」
ハワードが淡々と説明する横で、ようやく立ち上がった王子が、真っ赤な顔で俯いていた。
「来月、隣国の姫君を招いた晩餐会があります。そこで、殿下はエスコートとダンスを完璧にこなさなければなりません。……ですが、現状の殿下は、女性と三秒以上目を合わせると体に不調をきたします」
「さ、三秒……それは、大変ですね」
「ええ、大変なんてものではありません。そこで、セシルさん、貴女の出番です」
「え………私? ですか?」
「貴女は、非常にじ……いえ、奥ゆかしい容姿をしてらっしゃる。失礼を承知で言えば、殿下にとって最も女性を感じさせない個体として、練習台に最適なのです」
(地味なのは自覚しているけど、個体呼ばわり……)
セシルは不運を呪った。しかし、断れば王族の秘密を知った者として、どんな目に遭わされるか分からない。
「……わ、分かりました。協力します」
こうして、放課後の第二資料室での奇妙な特訓が始まったのである。
「では、まずは挨拶から。殿下、どうぞ」
ハワードの指示で、リュシアンがセシルの前に立つ。
背が高く、顔立ちは彫刻のように美しい。
しかし、セシルと目が合った途端、リュシアン王子の顔は「ボン!」という音が聞こえてきそうなほど真っ赤に染まった。
「はじめまして、リュシアン・ロシュフォールでふ」
「……殿下、噛みましたね? あと声が震えております。やり直し!」
「うぅ……はじめ……はじゅめま……」
「泣かないっ! 噛まないっ! 目を逸らさないっ!」
ハワードの怒声が響く。リュシアンは涙目でセシルを見つめ、セシルは『頑張ってください……』と、もはや保護者のような気持ちで彼を見守った。
結局、その日は百回近く「はじめまして」を繰り返し、ようやく噛まずに言えるようになった頃には、日はすっかり暮れていた。
それから毎日、セシルの放課後の時間は、全てリュシアン殿下のために費やされることとなる。
特訓は多方面に及んだ。一緒に紅茶を飲み、本を読み、時には狭い馬車の中で向かい合って座る。
セシルは知らなかった。目の前で泣いている王子が、学園では常に首席だなんて。剣術や魔法も必死に努力して、誰にも負けないように頑張っていることも。
「……すまない、セシル」
ある日の練習中、リュシアンがぽつりと呟いた。
「君をこんな面倒なことに巻き込んで。本来なら、君の放課後は自由であるべきなのに」
「いいえ、殿下。こんな私が、少しでもお役に立てるのなら嬉しいことですわ」
セシルが笑って返すと、彼は寂しげに微笑んだ。
「私は昔、信頼していたメイドに……その、寝所に忍び込まれて、ひどく怖い思いをしたことがあるんだ。それ以来、女性の香水の匂いや含みのある笑い方が、どうしても怖くて……」
王子の告白にセシルの胸は締め付けられた。
完璧に見える彼も、一人の傷ついた少年だったのだ。
「殿下。私は香水もつけていませんし、地味な令嬢ですから、何も怖くありませんよ。……だから、練習の間だけでも、私を人形か何かだと思ってください」
「ふふふっ。人形にしては、君はとても温かいよ」
王子の言葉に、今度はセシルの方が顔を赤くした。
特訓開始から二十日が過ぎる頃には、王子は既婚者の女性や年配の侍女とならば、震えずに会話ができるようになっていた。
そしていよいよ最終段階。ダンスの練習が始まった。
「殿下、大丈夫ですか?」
「も、申し訳ない。……震えが止まらないんだ」
王子の指先は、生まれたての小鹿のように小刻みに震えていて、手汗も尋常ではない。
セシルは震えるビチャビチャな手を、優しく包み込むように握った。
「大丈夫です、私がリードしますから。ゆっくり深呼吸をして下さい。……はい、一、二、三」
セシルは、自分が無害で安全な存在であることを伝えるように、ゆっくりとステップを踏んだ。
王子の碧い瞳が、まっすぐにセシルを見つめる。
そこにはもう、当初のような恐怖の色はない。
代わりに、別の熱を帯びた何かが宿り始めていたのだが、セシルは全く気付かなかった。
晩餐会当日。隣国の姫君は、リュシアンより十歳年上の落ち着いた既婚女性だった。
セシルは会場の隅の方で、心臓をバクバクさせながら見守っている。
王子の所作は、ほとんど完璧だった。
ほんの少しだけ顔が引き攣っていたけれど、優雅な礼に淀みのない挨拶、そして流麗なダンス。
会場中の令嬢達はため息を漏らし、ハワードは影で小さなガッツポーズをした。
「……大成功ですね」
セシルは安堵のため息をつく。自分の役目はこれで終わりだと思うと、全身の力が抜けた。
ところが、パーティの終盤に信じられないことが起きたのだ。
「セシル・ラフィネ嬢、踊っていただけますか?」
白銀の正装に身を包んだリュシアン王子が、壁際にいたセシルに手を差し伸べたのだ。
会場が騒然とする。
「誰、あの地味な子は?」
「あれって、伯爵家の……運の悪い令嬢じゃない?」
セシルは全力で逃げ出したいと思ったが、王子の瞳に強い意志が宿っているのに気付く。
(もしかしたら、これも何かの作戦なのかしら?)
恐る恐る彼の手を取ると、リシュアンは驚くほど優雅にセシルをエスコートした。
一曲目は、感謝を込めて。二曲目は……
(……え? 二曲目!?)
王宮の慣習では、二曲続けて踊るのは『深い親愛』の証、あるいは『婚約』の示唆だ。
セシルの心臓は破裂しそうになった。
「で、殿下……! 皆が見ております。私なんかと二曲も踊ったら……う、噂になってしまいます!」
「構わない。むしろ、噂になってほしいんだ」
王子の声は、かつて第二資料室で震えていたものとは思えないほど、低く、甘く響いた。
ダンスの後、熱くなった体を冷ますため、二人はハワードに導かれてバルコニーに出る。
夜風が心地よい。ハワードは、無言で果実水のグラスを手渡すと、少し離れた場所で見張りに立った。
「………セシル。君のおかげで、私は今日、やり遂げることができた」
「いいえ、殿下の努力の結果です」
「いや、全部君のおかげだよ。………私は、女性が平気になったわけじゃない。君以外の、セシル以外の女性がどうでもよくなっただけなんだ」
突然の告白に、セシルの思考は停止する。
満天の星々の下、王子が真剣な眼差しでこちらを見つめている。
「セシルは自分のことを地味だと言うけれど、私にとっての君は、暗闇の中で道を示してくれる星のような存在なんだ。………だ、だからどうか、わ、私の婚約者になってくれないか?」
「え………えええっ!? む、む、無理ですっ! 私に王太子妃なんて務まるわけがありません! ほ、他にもっと相応しいご令嬢が……」
混乱してまくしたてるセシルの背後から、冷ややかで楽しそうな声が割り込んだ。
「諦めて下さい、セシルさん。貴女以外に、こんな泣き虫の面倒を任せられる人なんておりません」
ハワードが、グラスを片手に淡々と告げる。
「それに、貴女はもう秘密を知りすぎてしまった。このまますんなり帰れると思いましたか?」
「…………えっ!?」
「すでに、陛下と王妃殿下には報告済みです。リュシアン殿下の病を治した聖女のような令嬢がいるとね。お二方とも泣いて喜んで賛成されましたよ。これからは私と共に、この手のかかる王子を一生支えてもらいます。これは決定事項ですよ?」
ハワードの眼鏡がギラリと光る。そしてそれは、逃げ道を塞ぐ無慈悲な宣告だった。
「……ほ、本当に………私でいいんですか?」
セシルが消え入りそうな声で問うと、リュシアンは、最高に幸せそうな泣き笑いの顔で彼女を抱きしめた。
「君がいいんだ……君じゃないと、嫌なんだ」
王子の腕はまだ少しだけ、愛おしそうに震えている。
セシルは観念して、その胸に顔を埋めた。
地味で運の悪い伯爵令嬢は、世界で一番『不運』な、そして『幸福』な捕虜となったのだった。
「お受けいたします。……でもハワード様、たまには休みをくださいね?」
「ふふっ。それは貴女の努力次第です。……さて、殿下。抱擁の時間が長すぎます。さっさと次の公務の打ち合わせを始めますよ!」
夜のバルコニーに、王子の悲鳴と側近の叱咤、そして令嬢の笑い声が楽しげに響くのであった。




