凡人の狂気
あれから、幾ばくかの月日が経っていた。
旅を始めてから路傍の花をふとした時に見るのが好きになっていた。
男が歩いていると、ふと、視界の先に小さな建物が密集しているのが見えた。
小さな農村のようだ。
ただ、あまりにも静かだった。
それは音が聞こえないというわけではなかった。
音のする方へ近づいてみれば、この活気のなさのわけがよくわかる。
そこには人だったものの山が積み上がっていた。
今はもう、肉塊にすぎなかったが。
ただ、それはまだ腐ってはいなかった。
男は匂いでそれを察した。
ただ何やら男の様子がおかしい。
腕がぴくぴくと痙攣している。
ただ、今の男にとってそんなことは如何でもよく、人の気配のする方へ行く。
男は腹が減っていたのだ。
食べるものを恵んで欲しかったそうだ。
男が何軒か建物を横切り広場に出ると、美しい村女が腹部を貫かれていた。
貫いているのはもちろん、狂気に染まった天使である。
女は何かを叫んでいる。
そのまま、頭を潰された。
天使にとって女の悲鳴は鬱陶しかったのだろう。
「助けてあげて」
男にはそう聞こえた気がした。
天使の視線は次に目の前にいた村男に向けられる。
村男は首を横にブンブンと振り天使の接近を否定する。
女の言葉が正しければ、あれは恋人だったのだろうか。
あまりにも分不相応なカップルである。
村男がこちらに気づいた。
助けを求めているのであろう。
ただ、途中で村男は男の方をみるのをやめた。
しかし、天使は興が男の方へ向いたのかやってきた。
(ここ数日天使をたまたま屠ってきたから分かるが、多分歯ごたえの良い俺を選んだのだろう)
男は心の中でそう言い放つ。
しかし、男もまた興が乗っていたのか昂っていた。
突進する天使の左翼を引きちぎる。
言ってしまえば、天使は自分の走ったスピードで自分の羽を千切ったのだが。
男は不味いと分かっていながら、千切った羽を食す。
「不味い」
そのまま、村男の周りにいたゴミを掃除する。
来た時よりも汚くなっていたのは言うまでも無い。
ただ、男の食指がだんだんと早くなっていったのは村男にも分かった。
「何でだよ⁉︎」
村男の声が響いた。
なんで、とは?
男の中に疑問符ができる。
「何でお前笑っているんだよ⁉︎」
(ああ)
と、男はそこで理解した。
自分のさっきまでの昂りや興奮の違和感に。
(俺は女が死んで悦に浸っていたのか)
男は女の死に様に花を見出したのだった。
彼女のまだ温かい血液が、心を豊かにするあの路傍に咲いていた秋桜のようだったのだ。
男は一度笑みを仕舞い、村男から話を聞く。
要約すればこうだった。
村男は恋人であるさっきの女を守ろうと、村人を全員殺害し、天使に献上したらしい。
つまり、さっき見た死体がそれだ。
しかし、人間への憎悪と破壊衝動でのみ自分を満たしている天使にとって死んだ人間を痛ぶることは破壊とは呼ばないのだろう。
だとすれば、女を先に殺したのは村男の絶望を見たかったのかもしれない。
結構如何でも良い話だったな。
ただ、確かにあの女は綺麗だった。
あの死に様をもう一度。
「どうしてだ」
「あ?」
「どうしてもっと早く来なかった!早く来ていれば僕の女は死なずに済んだんじゃないか。ああ、全く使えな、い、な」
村男のことさえどうでもよくなって男が踵を返した時だった。
村男が死んだ。
もう一匹の天使が現れて、殺していた。
何度も何度ももう動かなくなった肉塊をぐしゃぐしゃべちゃべちゃと叩いている。
「ああ、凡夫のわりに死に様は綺麗なもんだな」
男の視線は村男だったものに向かっているのか、天使に向かっているのか、はたまた路傍の花へ向かっているのやら。
天使はようやく男の方へ近づいてきた。
男は天使を大地に押し付け、見えない蟻を踏むように潰した。
ひどく美しい徒花が咲いたという。
そういえばあの女の花は何と言ったのだろうか?
汚物の片付けで男の血も彼女の血もすでに冷めてしまっていた。
もうあれに興味はないらしい。
ただし、その村には男の死骸と女らしき骨ばかりが転がっていたらしい。




