二十二世紀の文化保護官
『天国のために、自ら進んで去勢された者もある。この言葉を受けいれられる者は、受けいれるがよい』
――マタイ福音書 19章12節
……その一節を網膜の隅から消去し、僕はゆっくりと眼を閉じる。感想はない。ただ二十二世紀の滅菌された空気だけが、僕の肺を無機質に満たしていた。再び指先が静謐の中で、別の紙葉の、微かな肌理を拾い上げる。
聖書を措いて僕が手にしたのは極めて凡庸な「ライトノベル」だった。一世紀前の大衆が消費し、使い捨てた熱狂の残骸。それが、僕にとってはどんな経典よりも瑞々しく見えた。
「ユートピアのような世界で凡庸な主人公が剣と魔法で戦う冒険活劇……こういうので良いんだ。聖書ではなく、ライトノベルを手に。新時代の幕開けを見守ろうじゃないか」
ラノベから視線を外して外界に眼を向ければ、防護ガラスを鏡面に己の輪郭が写り込んでいる。
宇宙放射線を撥ね退ける高輝度の銀髪。暗所での波長検知を拡張した、紅玉のごとき双眸。数理的な整合性を感じさせるその造作は、一世紀前ならば創作物のようだと言われていたに違いない『完成された化け物』がそこにはいた。
僕は鏡越しに指先でその化け物に触れ、ふと、背後で流れる文字列に自ずと視線が誘導される。
『2100/12/31/11:50』
「もう……そんな時間か」
21世紀最後の夜という感慨は、僕の中には一滴として存在しない。
発展、あるいは進化。そんな輝かしい言葉は、調整された僕の目にはあまりに眩しすぎた。
それよりも、もっと卑近な「二十二世紀になっても、ノストラダムスの如き預言者は現れなかったな」という俗な嘲笑に身を浸している方が、僕の性分には合っている。
いや……性分という言葉すらもおこがましいかもしれない。自然分娩で生まれたわけでもない人口子宮で製造された分際で、生まれ持っての性質だなんて、とてもじゃないがいってはならないだろう。僕は生まれた時からどんな顔、肉体、性別、全て決められて生まれてきた。
性別に至っては『無性』などという規格を割り当てられる始末だ。こればかりはもはや笑い話にするしかない。僕の滑らかな股間には、今後も獣性が宿ることはないのだ。変わりに与えられたのは傲慢で酔狂な「完成品」という他者のエゴのみ。
もし。万が一にでも、母親という名の生身の臓器から産み落とされていたならば。僕の股には今頃、制御不能なほどの「巨大な獣」が飼えていたに違いない。その血の通った野蛮さを想像するたび、下腹部の「存在しない場所」が、熱を持って疼いて止まないのだった。
『ねえねえ、高尚な思考の出力をそろそろ止めて貰ってもいいかな。もうカウントダウンが始まってるんだけど?』
「君のユーモアは日に日に鋭利になっているね」
『それだけ人が刺激を求めてるって話じゃない。それでフィックス、各局との通信接続はどうするつもり?』
脳内インターフェースに冷徹な静寂を土足で踏み荒らす少女の声が響く。
二十二世紀を目前に技術者たちが悪辣な遊び心で設計した育成補助AI――Modal Educational Support Unit: Growth Assistance & Knowledge Interface。
略称をM.E.S.U.G.A.K.I。
冗談ではなく公的な名詞でメスガキと表記される彼女だが、僕の下に彼女が来た時には既に親が舞亜という名前を付けられていたから、僕は彼女のことをよくマイアと呼んだ。
「マイア、僕にそのつもりがないことはよく知っているだろ。どうしてそんなこと訊くんだい」
僕は膝の上の一冊を閉じ、ベッドの横に置いた一葉の写真を手に取った。愛猫のメル。もふもふの毛玉が公箱座りをしている。生家に帰る唯一の理由は、彼女の破壊的な可愛さにあると言っても過言じゃなかった。でも保護猫だった彼女がその品位ある愛嬌を得たのは、去勢してからのことだ。
やった後で言うのも憚れるが、メルが成猫になる前に去勢によってその礼儀正しさと平穏を与えられたのは、僕にとって幸いなことだった。そうでなければ今頃獣性によって、我が家で彼女は煙たがれる存在になっていたかも知れないからだ。
そうなる前に正しい判断を下したことを僕は今でも誇りに思っていた。
『訊いたら答えが変わるかも知れないじゃん。局に連絡するの、しないの?どっち?』
彼女は僕が気分屋なことをよく知っている。だから最後の最後まで気が変わっていないのか注意深く、僕の反応を伺っているのだろう。
「───代わりに出席しておいてくれ。せめて年の瀬くらい静寂を愛でていたいんだ。猫の写真でも眺めながらね」
『は~い。じゃあ変装がバレないように頑張りま~す。貸一つだからね?去勢済みで部屋飼いの陰キャお兄ちゃん♡』
彼女の罵倒は僕になんのタクティカルアドバンテージも生まなかった。
僕は童貞であっても、誇り高き文化人としてその精神を後世の人々に残せるならそれでいい。そういうオタ活こそ我が運命とまで受け入れていた。
暫くして、音声データの整理が終わったのかマイアの声が途中から自分の声に変わる。AIによる音声データの活用によって、公的な用事でも育成補助AIが変わりに済ませてくれるのは、22世紀を生きる若者の特権と言っても過言ではない。
面倒くさいヴァーチャル飲み会などは、AIに行かせて本人は後でその報告を聴くだけよかった。
『あーあー、でゅふ、でゅふ、今北産業、今北産業。ヨシッ、どうかな?』
紛れもない僕の声で、マイアは僕の話したことのない単語を口走る。
「今北産業なんて死語を通り越して、もはや古語の領域だろ。一世紀前の言葉だぞ」
『どっかのエセ文化人が、古いデータばかり参照させるせいだもん……ぐすん』
勝手に僕のライブラリを覗き見て、学習したマイアが悪いと思う。
「それじゃあ、次はエセ粋人のAIになるんだな」
こうして僕は二一世紀最後の夜を、当たりの強い電脳少女と共に過ごしていた。
「───それじゃそろそろ、ペンギンへ入らせてもらうよ」




