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第8話 Fクラスのランチは石のようなパンと水スープです

1限目のカオスな浮遊魔法の授業は、あくまで地獄の入り口に過ぎなかった。


続く2限目の『魔法史』では、眠気を誘う老教師の読経のような講義を延々と聞かされ、少しでも船を漕げばチョークが正確に飛んできた。ルナは器用に教科書を盾にして寝ていたが、俺は三回被弾した。


3限目の『薬学基礎』はもっと酷かった。

実験室ではなく、なぜか裏庭の雑草取りをさせられた。「Fクラスには高価な薬草を触る資格はない」という理不尽な理由だ。グレイが雑草を煮込んで怪しげな毒スープを作ろうとしてボヤ騒ぎを起こしかけ、連帯責任でグラウンドを走らされた。


そして極めつけの4限目、『体術』。

魔法使いにも体力は必要だという建前のもと、Sクラスの生徒たちが優雅に模擬戦をしている横で、俺たちFクラスはひたすらスクワットと腕立て伏せを命じられた。

ミィナだけは楽しそうに飛び跳ねていたが、インドア派の俺やカイル、そして体力のないノアにとっては拷問でしかない。


キーンコーンカーンコーン……。


ようやく、午前の授業終了を告げるベルが鳴り響いた。

精神的にも肉体的にも疲弊しきった俺たちは、ゾンビのような足取りで更衣室から出てきた。


「……死ぬ。もう動けない……」

「お腹すいた……背中とお腹がくっつく……」


カイルが呻き、ミィナが干からびた猫のように床を這っている。

高校生にとって、昼食というのは一日の中で最も重要なイベントだ。ましてや、これだけ酷使された体は、カロリーを渇望して悲鳴を上げている。


「ご飯……ご飯を食べないと死んじゃう!」


ミィナが俺の背中をバンバンと叩いて急かす。

俺たちは最後の力を振り絞り、ぞろぞろと本校舎の中央にある「第一学生食堂」へと向かった。


食堂は広かった。

吹き抜けの天井には巨大な換気用の魔導ファンが回り、磨き上げられた大理石の床が光を反射している。

そして何より、食欲をそそる香ばしい匂いが充満していた。


焼きたてのパンの香り、じっくり煮込んだシチューのコクのある匂い、ジューシーな肉が焼ける音。

SクラスやAクラスの生徒たちが、優雅にテーブルにつき、給仕たちに料理を運ばせているのが見える。

彼らのテーブルには、色とりどりのサラダや、湯気を立てるパスタが並んでいる。


「うわぁ、美味しそう……」

「やっぱり王立学園の学食はレベルが高いね! これなら午後の授業も頑張れそうだよ!」


カイルたちが目を輝かせて、メインの注文カウンターへ向かおうとした。

だが、その足は無情にも止められた。


「待て。お前らはあっちだ」


給仕係の強面のおじさんが、行く手を塞ぐように立ちふさがった。

彼が太い指で指したのは、食堂の最も奥、薄暗い隅にある小さなカウンターだった。

そこにはボロボロの看板が立てかけられ、手書きで『Fクラス専用配給所』と書かれている。


嫌な予感がする。


背筋に冷たいものが走るのを感じながら、俺たちは恐る恐るそのカウンターへ向かった。

そこには、疲れ切った顔の配膳係が立っていて、俺たちがトレーを出すと、無言で無造作に「それ」を乗せた。


ゴトッ。


重い音がした。パンがトレーに乗る音ではない。石塊を置いたような音だ。

トレーに乗っていたのは、茶色い塊が二つと、申し訳程度の具なしスープのみ。


「……あのおじさん、これ何?」


アリエスが震える声で尋ねた。


「パンだ」

「嘘おっしゃい! こんなの石よ!」


アリエスがパンを掴んでテーブルに叩きつけると、カンッ! と高い音が響き渡った。

完全に鈍器だ。これで殴れば釘だって打てるだろうし、魔獣だって倒せるかもしれない。


「文句を言うな。数日売れ残って乾燥しきったパンだが、腹に入れば栄養価は同じだ。Fクラスへの予算配分では、それしか用意できん」

「ふざけんじゃないわよ! あっちの連中は焼きたてのクロワッサン食べてるじゃない! なんで私たちだけ乾パン以下なのよ!」

「身の程を知れ。嫌なら食うな」


取り付く島もない。

俺たちはトボトボと、指定された「テラス席」へ移動した。

テラスと言えば聞こえはいいが、屋根のない炎天下に置かれた、塗装の剥げた木のベンチだ。夏の日差しが容赦なく降り注ぐ。


「詰んだ……」


カイルががっくりと項垂れる。

目の前には、石のようなパンと、ぬるい塩水のようなスープ。

ミィナは果敢にもパンに齧り付こうとしたが、「ぎゃっ!」と悲鳴を上げて歯を押さえている。猫の牙でも無理なら、人間の歯などひとたまりもない。


「ふふっ、見てあいつら。石を食べてるわ」

「お似合いだな、落ちこぼれには。餌を与えられるだけ感謝しろってんだ」


屋内席の涼しい窓際から、エリートたちの嘲笑が聞こえてくる。

特に、入試トップ入学の赤髪の男、イグニスが、分厚いステーキをナイフで切り分けながら、わざとらしくこちらに見せつけるように口に運んでいた。


「……許せない。あいつらの肉、植物魔法で腐らせてやろうかしら」


アリエスの目が据わっている。杖に手が伸びている。

まずい。空腹と屈辱で理性が飛びかけている。ここで暴れたら退学だ。

俺は必死に思考を巡らせた。


現状、手元にあるのは「石パン」と「水スープ」。

まともに食べれば歯が折れるか、精神が折れるかだ。

だが、俺は知っている。貧乏学生時代、スーパーで半額シールが貼られた売れ残りのバゲットを、どうやって美味しく食べていたかを。


「みんな、諦めるな。まだ手はある」


俺は立ち上がった。


「はぁ? 何言ってんのよ。これを食べるくらいなら、寮の部屋に戻って非常食の乾パン齧ったほうがマシよ」

「いや、こいつを食べられるようにする方法がある。しかも、絶品に変える方法がな。……エリス、ちょっと手伝ってくれないか?」

「えっ、私ですか?」


突然指名されて、エリスが目を丸くした。


「ああ。君、実家が食堂だって言ってただろ? 調理器具の扱いくらいは慣れてるか?」

「は、はい。手伝いくらいなら……包丁も使えますけど」

「最高だ。君が頼りだ」


俺はエリスを連れて、再びカウンターへ向かった。

交渉相手は、さっきの強面のおじさんだ。彼は俺たちがパンを返しに来たと思ったのか、面倒くさそうに手を振った。


「あぁ? パンの交換は無理だぞ。食わないなら置いていけ」

「違うよ。その奥にある、賞味期限ギリギリの牛乳と卵。どうせ廃棄するなら、安く売ってくれないか?」


おじさんは怪訝な顔をした。

確かに、カウンターの奥には「廃棄予定」と書かれた箱があり、そこにひび割れた卵や、賞味期限が今日までの牛乳が置かれているのが見えていた。


「……金はあるのか?」

「これくらいなら」


俺がポケットから小銭を出すと、おじさんは鼻を鳴らして奥から食材を出してくれた。

卵3個と、牛乳一本。あと砂糖を少々。

しめて銅貨数枚。ステーキの十分の一以下の値段だ。


「よし、揃った」


俺たちはテラス席に戻った。

アリエスたちが「何する気?」と見てくる中、俺はエリスに頭を下げた。


「エリス、俺の分のスープ皿を空にして、そこで卵と牛乳、砂糖を混ぜてくれ」


スープはどうするのかって?

一口飲んでみたが、ただのぬるい塩水だった。具など欠片も入っていない。

俺はスプーンでスープの表面に浮いている「脂身」だけを慎重に掬い取り、別皿に移した。残りの塩水は、申し訳ないが庭の植え込みに吸ってもらった。


「はい、わかりました! ……あ、なるほど。卵液を作るんですね?」


さすが食堂の娘、察しがいい。

彼女は手際よく卵を割り、フォークでかき混ぜて黄金色の液体を作った。慣れた手つきだ。俺がやるより百倍上手いし、見ていて安心感がある。


「で、アリエス。その石パンを一口サイズに砕いてくれ。お前の握力ならいけるだろ?」

「誰が怪力女よ! ……ふんっ!」


アリエスは文句を言いながらも、パンを手刀で叩いた。

パカッ、と乾いた音がして、パンが綺麗に一口サイズに割れた。やっぱり怪力じゃないか。便利すぎる。

俺はそのパンを、エリスが作った卵液に浸した。

カチカチに乾燥したパンは、スポンジのようにぐんぐんと液を吸い込んでいく。


「これが狙いか……乾燥しているからこそ、内部まで浸透するのが早い」


グレイが感心したように眼鏡を光らせた。

その通りだ。普通のパンより、乾燥パンの方がフレンチトーストには向いている。中まで液が染み込めば、焼いた時にトロトロになるからだ。


「でもアルトくん、どうやって焼くの? ここは加熱用の魔道具なんてないよ? 直火じゃ黒焦げになっちゃう」


カイルがもっともな疑問を口にする。

俺はニヤリと笑って、アリエスを見た。


「ここには優秀な魔道士がいるじゃないか。……アリエス、頼めるか?」

「は、はぁ!? 私を魔道具扱いする気!?」

「君にしかできないんだ。俺の種火じゃ火力が足りないし、他の奴らじゃパンごと燃やしちまう。繊細な火力調整ができるのは、Fクラスで君だけだ」


俺が頼み込むと、アリエスは「むぅ……」と口ごもった。

彼女は根が真面目だし、何よりお腹が空いているから、頼られると断れないタイプらしい。


「……わかったわよ。やればいいんでしょ、やれば!」


アリエスは不貞腐れながらも、杖の先から小さな炎を出した。

ボッ、と灯った炎は、大きすぎず小さすぎず、一定の温度を保っている。さすが天才。制御が完璧だ。

俺は購買で借りてきたステーキ用の鉄板をその上に乗せた。

油がないので、さっき掬い取っておいたスープの脂身を鉄板の上で溶かす。これがスープの唯一にして最大の使い道だった。


ジュワァァァ……。


脂が溶け出し、いい音がした。

そこに、卵液をたっぷりと吸ってずっしりと重くなったパンを並べる。


ジューッ……。


途端に、甘く、香ばしい匂いがテラス席に広がっていく。

卵とミルク、そして焦がした砂糖の香り。

それは暴力的なまでの食欲を刺激する香りだった。


「にゃあぁぁ……いい匂い……」


ミィナが涎を垂らして鉄板に張り付く。尻尾が高速で振られている。

ルナもいつの間にか目を覚まし、とろんとした目でパンを見つめている。


「アリエス、もう少し弱火だ。焦がさないようにじっくり……そう、完璧だ」

「う、うるさいわね。これくらい簡単よ」


アリエスの額に汗が滲む。

炎の維持は集中力を使うはずだが、彼女は文句を言いながらも、真剣な眼差しで炎を維持していた。意外と面倒見がいい。

そして数分後。

表面がきつね色にこんがりと焼け、中はふわふわに膨らんだ、特製フレンチトーストの完成だ。


「できたぞ。召し上がれ」


俺の合図と共に、全員がパンに飛びついた。


「はふっ、はふっ……んまーーい!!」


ミィナが叫んだ。


カチカチだった石パンは、口の中でとろけるように解け、卵と砂糖の濃厚な甘みが広がる。


「嘘……これ、あの石パンなの? 信じられないくらい柔らかい!」


エリスも目を丸くしている。


「ふん、まあまあね。……私の火加減が完璧だったおかげよ」


アリエスも顔をほころばせながら、熱々のパンを頬張っている。口元についた砂糖を舐めとる姿は、年相応の少女で可愛らしい。


「……甘い。幸せ」


ルナは幸せそうに咀嚼し、次を催促するように俺の袖を引いた。

テラス席が、一気に幸福な空気に包まれた。


屋内席のエリートたちが、「なんだあのいい匂いは……」「あいつら、何を食べているんだ?」と不思議そうにこちらを見ているのがわかる。

ステーキを食べていたイグニスでさえ、ナイフを止めてこちらを凝視している。

ざまぁみろ、とは言わないが、惨めな思いをしなくて済んだことに安堵する。俺たちは、工夫ひとつでエリートたちの食事よりも豊かな時間を手に入れたのだ。


「すごいね、アルト。君、天才だよ」


カイルが感嘆の声を上げた。

俺は慌てて首を横に振った。


「俺はただのアイデア係だよ。作ったのはエリスだし、焼いたのはアリエスだ。俺一人じゃ何もできなかった」


これは謙遜ではなく事実だ。

エリスの手際がなければ卵液はダマになっていただろうし、アリエスの火力調整がなければ黒焦げになっていた。俺はただ、口を出しただけだ。


そう俺が言うと、エリスは恥ずかしそうに下を向き、アリエスは「ふ、ふん! わかればいいのよ!」と顔を背けた。

彼女の耳は赤くなっていた。満更でもないらしい。


「……アルト」


ルナが口の端に卵液をつけたまま、俺を見上げた。


「これ、明日も食べたい」

「え?」

「石パン、やだ。アルトのご飯がいい」

「いや、俺は料理人じゃないんだぞ……」

「……ん。お願い」


彼女はじっと俺を見つめてくる。

その瞳には、恋愛感情なんて高尚なものはない。あるのは純粋な「食欲」と、美味しい餌をくれる飼い主への「期待」だけだ。

だが、その無防備な信頼が重い。こんな目で見られたら断れないじゃないか。


「ちょっとルナ! あんたばっかり食べないでよ! 私のだって残しなさいよ!」


アリエスが横から割り込んできた。


「……アリエス、うるさい。これ私の」

「あんたねぇ……!」


パンを巡って、美少女たちがわちゃわちゃと騒ぎ始める。

俺は苦笑しながら、最後の一切れを口に運んだ。

甘い。そして温かい。

昨日のような廃墟掃除も疲れたが、こういう騒がしい昼休みもまた、気苦労が絶えなさそうだ。


周りの男子生徒たちからの「あいつら、なんか美味そうなもん食ってないか?」「つーか、なんであいつだけ女子に囲まれてるんだ?」という視線が痛い。

目立ちたくない俺としては、この状況はあまりよろしくない。


こうしてFクラスは、石のようなパンをどうにか食べられる物に変え、また一つ結束を深めたのだった。

卒業証書への道は遠いが、とりあえず今日の餓死は回避できた。それで良しとしよう。

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