第7話 目覚めれば美少女、教室では大爆発
チュン、チュン。
窓の外から、小鳥のさえずりが聞こえる。
森の朝は早い。木々の葉を揺らす風の音と、鳥たちの歌声。
前世の都会暮らしでは味わえなかった、爽やかな目覚め――になるはずだった。
「……んぐ」
苦しい。
胸が重い。金縛りだろうか。いや、昨日の廃屋掃除で疲れているとはいえ、まだ二日目だぞ。
それにしても温かすぎる。
鼻先をくすぐる甘い匂いが、やけにリアルだ。高級な石鹸のような、日向のような、脳を蕩けさせる優しい香り。
俺、風早歩瑠斗は、鉛のように重いまぶたをゆっくりと押し上げた。
視界いっぱいに広がっていたのは、白磁のようにきめ細かい白い肌と、カーテンの隙間から漏れる光に輝く、絹糸のような銀髪だった。
「…………は?」
思考が停止する。再起動を試みるが、エラーを起こしてフリーズする。
俺の胸の上に、誰かが乗っている。
サイズの大きなTシャツ一枚を着た、華奢な少女。
規則正しい寝息を立てて、俺のシャツをギュッと握りしめている。
掛け布団は蹴飛ばされ、彼女の剥き出しの太ももが、俺の足に絡みつくように乗っかっている。
ルナだ。
昨日、俺の部屋に「髪を乾かして」と押しかけてきた、あのルナ・アルシェルだ。
なぜ彼女がここにいるのか。
俺の脳内会議が緊急招集される。
記憶を巻き戻す。昨日の夜、風呂上がりの彼女の髪をタオルで拭いてやった。
「んぅ……」と猫のように気持ちよさそうに目を細める彼女を見て、俺も掃除の疲れがどっと出て、つられてウトウトして……。
――まさか、そのまま寝落ちしたのか。
最悪だ。いや、状況としては全男子が羨むシチュエーションかもしれないが、理性的には大ピンチだ。
ここは男子寮の個室。しかもシングルベッドだ。密着度が半端じゃない。
彼女の柔らかい肢体が俺の体に預けられ、心臓の鼓動すら伝わってきそうだ。
「……んぅ……アルト……」
ルナが夢見心地で名前を呼んだ。
さらに、俺を抱き枕か何かだと認識したのか、さらにギュッと抱きつき、首元に顔を埋めてくる。
濡れたような吐息が首筋にかかり、背筋にゾクゾクとした電流が走る。
「おい、起きろ! ルナ!」
俺は小声で叫びながら、彼女の華奢な肩を揺さぶった。
このままでは、朝っぱらから俺の理性が爆発四散してしまう。
「……ん……おはよう、アルト」
ルナがぱちりと目を開けた。
透き通るような蒼い瞳が、至近距離で俺を捉える。
寝ぼけているのか、とろんとした目つきが妙に艶っぽい。無防備すぎる。
「おはよう、じゃない! なんで俺のベッドにいるんだよ!」
「……昨日、気持ちよくて……そのまま」
「そのまま寝るな! 自分の部屋に帰れよ! 三階だろ!」
「……めんどくさかった。アルトの匂い、落ち着く」
彼女はむくりと身を起こし、ふあぁ、と大きな欠伸をした。
その拍子にTシャツの襟元がずり落ちて、白い肩と鎖骨、そしてその奥のふくらみがチラリと見えそうになる。
俺は慌てて視線を逸らし、布団を彼女の頭から被せた。
「ほら、さっさと出て行け! 他の奴に見つかったら誤解されるだろ! ここは男子フロアなんだぞ!」
「……アルト、冷たい」
ルナは不満そうに頬を膨らませたが、のそのそとベッドから降りてくれた。
そして、ふらふらとした足取りでドアへ向かう。
「待て! 髪ボサボサだぞ! あとシャツ一枚で廊下に出るな!」
俺は慌てて彼女を呼び止め、カイルに借りた予備のジャージを上から羽織らせた。
手櫛で最低限髪を整えてやる。
完全に世話焼き係だ。なんで俺がこんなことを。
「よし、誰もいないのを確認してからダッシュで戻れ。いいな?」
俺はドアを少しだけ開けて、廊下を確認した。
よし、誰もいない。クリアだ。
「今だ、行け!」
俺はルナを送り出した。
彼女は廊下に出ると、ペコリと頭を下げて、とてとてと階段の方へ歩いて行った。
「ふぅ……寿命が縮んだ……」
俺はドアを閉め、その場にへたり込んだ。
朝から心臓に悪すぎる。
だが、トラブルはこれで終わりではなかった。
ガチャリ。
隣の部屋のドアが開く音がした。
「ふわぁ……よく寝た。……ん? 今の足音は……」
カイルの声だ。
そして次の瞬間、階段の方から甲高い悲鳴のような声が響いてきた。
「ちょ、ちょっとルナ!? なんであんた、男子フロアから上がってきてんのよ!?」
アリエスの声だ。
最悪のタイミングだ。朝食のために3階から降りてきたアリエスと、2階から戻ろうとしたルナが、階段で鉢合わせしたらしい。
「……ん、おはようアリエス」
「おはようじゃないわよ! その格好、まさか……男子の部屋に泊まってたの!?」
「……一緒に寝た。温かかった」
「はぁぁぁぁぁ!?」
アリエスの絶叫がボロい寮中に響き渡り、窓ガラスがビリビリと震えた。
終わった。
俺の「平穏な学園生活」だけでなく、「清廉潔白な一般市民」というイメージまで、入学二日目にして木っ端微塵だ。
***
一時間後。
本校舎へと続く森の道を、俺たちFクラスの一行は歩いていた。
空気は最悪だった。
まるで針のむしろだ。俺の周りには、冷たい視線と、殺気立った視線が入り乱れている。
「アルトくん、やるねぇ。初日から美少女をお持ち帰りとは。君の研究対象としての興味が尽きないよ」
グレイがニヤニヤしながら冷やかしてくる。
「違うって言ってるだろ! 事故だよ、不可抗力だ!」
「ふんっ! どうだか。不潔。獣。サカリのついた猿」
前を歩くアリエスが、不機嫌そうに踵を鳴らして歩いている。
彼女は時折振り返っては、ゴミを見るような目で俺を睨みつける。
「言い過ぎだろ! 誤解だって説明したじゃないか!」
「うるさいわね! あんたなんか、今日の授業で失敗して笑いものになればいいのよ!」
アリエスはプイッと顔を背けた。
完全に機嫌を損ねている。
というか、なんでそんなに怒ってるんだ。俺が誰と寝ようが関係ないだろうに。
「アルト〜、お腹すいた〜。アメない?」
背中にはミィナが張り付いている。
彼女は俺のブレザーのポケットを漁りながら、「いい匂いする〜」とスリスリしてくる。こっちは通常運転すぎて逆に怖い。
当事者のルナはというと、歩きながら器用に寝ている。
そんな美少女揃いの「特別枠」の連中に囲まれて歩いているせいで、周りのクラスメイトからの視線が痛い。
特に男子生徒たちからの「あいつFクラスのくせにハーレムかよ」「爆発しろ」という怨嗟の声が聞こえてきそうだ。
カイルだけが、「ドンマイ」と苦笑してくれているのが唯一の救いだ。
***
1限目。魔法基礎学。
Fクラスの教室での初授業だ。
担当の教師はミネルヴァではなく、神経質そうな眼鏡をかけた中年男性、ガストンが入ってきた。
彼は教卓に立つなり、ハンカチで鼻を押さえ、露骨に嫌そうな顔をした。
「えー、諸君。この教室は埃っぽいな。……まったく、Fクラスの授業など時間の無駄だが、これも職務だ」
ガストンは、俺たちを見下すような目で言った。
典型的な「落ちこぼれ嫌い」のエリート教師らしい。
彼は懐から、真っ白な鳥の羽根を取り出した。
「今日の課題は『浮遊』だ。この羽根を、魔力だけで浮かせてみせろ。机から10センチ以上、1分間維持できれば合格とする」
基本的な制御訓練だ。
魔力を放出して対象を包み込み、重力に逆らう力を加える。魔法使いにとっては息をするのと同じくらい初歩的な技術だ。
「まさかとは思うが、この程度のことができない者はいないだろうな? できなければ即刻退学届を出してもらうぞ」
ガストンの嫌味に、クラス中がピリつく。
これなら事故も起きないだろう――と、俺は高を括っていた。
だが、俺は忘れていた。
このクラスが「規格外」の集まりだということを。
「では、始め!」
合図と共に、教室のあちこちで詠唱が始まった。
そして、カオスが幕を開けた。
「いけっ! 浮き上がれぇぇ!」
アリエスが気合たっぷりに杖を振る。
彼女の膨大な魔力が放出される。
すると、羽根がふわりと浮くどころか、バシュッ! と音を立てて天井までかっ飛び、そのまま突き刺さった。
「あ」
羽根は天井との摩擦熱で燃え尽きて灰になった。
「フェルミナ! 出力が高すぎる! ロケットじゃないんだぞ!」
「う、うるさいわね! 浮いたんだからいいでしょ! 高く浮かせたほうが凄いに決まってるわ!」
「限度がある!」
アリエスは「チッ」と舌打ちした。彼女の辞書に「微調整」という言葉はないらしい。
「ふむ……構造解析完了」
次はグレイだ。彼は羽根を見つめたまま動かない。
「おいフォルティス、何をしている。早く浮かせろ」
「いやガストン先生、この羽根の繊維構造が面白くてね。魔力を通すと揚力を生む仕組みを術式レベルで分解してみたんだ」
彼の手元で、羽根が光の粒子となってサラサラと崩れ落ちた。
「分解するな! 浮かせろと言ったんだ! 羽根を消滅させてどうする!」
次はノアだ。
彼女がおずおずと羽根に指を近づけると、制御不能な魔力が溢れ出した。
「わ、わわっ!」
カッ! と教室中がまばゆい光に包まれる。
聖なる光を浴びた羽根は、浄化され、キラキラとした粒子となって昇天した。
「……君は、もう何もしなくていい。目が、目がぁ……!」
ガストンが目を押さえてうずくまる。
ミィナに至っては、浮いた羽根を「獲物」と認識して、机の上で飛び跳ねて爪で切り裂いている。
地獄絵図だ。
ここは動物園か、それとも幼稚園か。
ガストンは額に青筋を立てながら、出席簿を睨んだ。
「次はカザハヤ。……お前か、入試で奇妙な魔法を使ったというのは。ミネルヴァから聞いているぞ、魔力がゴミのようだと」
ガストンが疑わしげな目を向けてくる。
「やってみろ。どうせお前のような無能には、羽根一枚動かせまい」
「……はい」
俺は冷や汗を流しながら、机の上の羽根を見つめた。
浮遊魔法。
マナを使って対象を包み込み、重力に逆らう力を加える。
だが、俺にはできない。
マナで包み込む? そんな繊細なこと、俺の「種火」程度の魔力でできるわけがない。
俺ができるのは、ライターの火をつけることだけだ。
どうする。このままじゃ「できません」で終わる。退学勧告まっしぐらだ。
ちらりと横を見る。
アリエスが、腕組みをしてニヤニヤしながらこっちを見ている。
「あら、どうしたの? 昨日の威勢はどうしたのかしら。まさか、羽根ひとつ浮かせられないの?」
「……うるさいな」
「コツを教えてあげましょうか? ほら、もっと優しく包み込むように……」
彼女は意地悪そうに言いながらも、身を乗り出して俺の手元を覗き込んできた。
顔が近い。ミルクティー色の髪からいい匂いがする。
こいつ、無自覚に距離が近いんだよな。
「ちょ、近いって」
「なによ。教えてあげようとしてるのに」
アリエスが唇を尖らせた、その時だった。
「……ん」
反対側から、ぬっと白い手が伸びてきた。
ルナだ。
彼女は机に突っ伏して寝ていたはずなのに、いつの間にか起き上がっていた。
「アリエス、邪魔。アルトが困ってる」
「なっ! 私はアドバイスを!」
「……アルト」
ルナは俺の手を取り、自分の掌を重ねた。
ひんやりとした感触。
「……風を感じて」
「え?」
「マナじゃなくて、風。……ふーってする」
彼女が俺の耳元で囁く。
その言葉に、俺はハッとした。
そうだ。
魔法で浮かせる必要はない。
結果的に「浮けば」いいんだ。
ガストンは「魔力だけで」と言ったが、魔力をトリガーにするなら物理現象を使ってもバレないはずだ。
俺は杖を構え、羽根の下の空気を狙った。
熱。
俺の使える微弱な「種火」。
それを羽根の真下の空気に一点集中させる。
空気が熱せられれば、膨張し、上昇気流が生まれる。
熱気球の原理だ。
燃やすな。空気を温めるだけだ。
全神経を集中させる。
じわり、と杖の先が熱くなる。
その熱が空気を押し上げ――
フワッ。
羽根が、ゆらりと舞い上がった。
魔法による浮遊のような安定感はない。
ゆらゆらと頼りなく、気流に乗って漂っているだけだ。
だが、確かに机から10センチ以上、浮いている。
「お、おおっ!?」
「浮いたぞ!」
カイルたち男子生徒が歓声を上げる。
ガストンは眼鏡の位置を直し、目を細めた。
「……魔力を感じないな。だが、確かに浮いている。熱による気流操作か? ……まあ、合格だ。ギリギリだがな」
「ありがとうございます……」
俺は脱力した。
たかが羽根一枚浮かせるのに、全力疾走したくらいのカロリーを使った気分だ。
「ふーん。やるじゃない」
アリエスが不満げに、でも少し感心したように呟いた。
「あんた、魔力ないくせに小賢しいのよ。……ま、見直してあげなくもないわ」
「素直じゃないねぇ」
グレイが茶々を入れると、アリエスは「う、うるさい!」と顔を赤くした。
「……アルト、すごい」
ルナが俺の袖を掴み、とろんとした目で褒めてくれる。
初授業はなんとか乗り切った。
だが、これはまだ序の口だ。
このあと、昼休みの「学食戦争」という、Fクラスにとって最大の試練が待ち受けていることを、俺たちはまだ知らなかった。




