第3話 魔力E判定の俺でも試験に合格できますか?
【三日目】
三日目の朝。
俺の意識は、泥のように重かった。
瞼を開けるのに、数秒の気合が必要だった。
「……おはようございます」
リビングへ這い出すと、すでにミネルヴァさんは優雅にモーニングティーを嗜んでいた。
このエルフ、いつ寝ているんだろうか。俺が夜中の三時にトイレに起きた時も、羊皮紙に向かって何か書き込んでいたぞ。
「顔色が悪いぞ、アルト。墓場のグールの方がまだ生き生きとしている」
「誰の……せいだと……」
「減らず口が叩けるなら大丈夫だな。さあ、座れ。最後の詰め込みだ」
ミネルヴァさんがテーブルをバンと叩く。
そこには、朝食の堅焼きパンと干し肉と共に、新たな羊皮紙の束が置かれていた。
「今日は『一般教養』と『魔法生物学』を叩き込む。いいか、この世界にはお前の常識が通用しない危険生物が山ほどいる。それを知らずに森に入れば死ぬ。学園に入っても、演習で死ぬ」
「死ぬこと前提なんですね……」
「当然だ。魔法使いとは、常に死と隣り合わせの職業だからな」
彼女は干し肉を齧りながら、さらりと言った。
「例えば、『スライム』。お前の世界の物語ではどう扱われている?」
「えっと、最弱の雑魚モンスターですね。棒で叩けば死ぬみたいな」
「ほう、随分と舐められたものだな。セフィロトのスライムは物理攻撃無効だ。しかも強酸性の消化液を吐く。素手で触れば骨まで溶けるぞ」
「……訂正します。最強クラスの猛獣です」
「そうだ。対処法は核を魔法で焼くか、凍らせて砕くこと。こういう『知らなければ死ぬ知識』が、筆記試験では好んで出題される」
なるほど。
単なる歴史年号の暗記だけではなく、実用的なサバイバル知識が問われるわけか。
俺はブラックコーヒーのように苦い薬草茶を流し込み、脳細胞を無理やり叩き起こした。
午前中は、ひたすら生物の弱点と生態を暗記した。
午後は、初日にやった魔法理論の総復習だ。
俺の脳みそは限界を超えていたが、不思議と苦痛ではなかった。
前の世界での受験勉強は、正直「これ、将来なんの役に立つんだ?」という疑問との戦いだった。古文の活用形を覚えても、コンビニのバイトで使うことはない。
だが、今の勉強は違う。
これを覚えなければ、試験に落ちて路頭に迷うか、あるいはスライムに溶かされて死ぬ。
生存本能が、知識をスポンジのように吸収させていた。
「……よし。全範囲、終了だ」
夕方。
ミネルヴァさんがペンを置いた。
アトリエの窓からは、夕焼けに染まる学園の尖塔が見える。
「よくついてきたな。正直、途中で脳が焼き切れるかと思ったぞ」
「俺もです。……でも、なんか久しぶりに充実してました」
俺は伸びをして、ポキポキと関節を鳴らした。
三日間。
本当に、文字通り寝る間も惜しんで勉強した。
結果が出るかはわからない。けれど、「やれるだけのことはやった」という手応えが、今の俺を支えていた。
「アルト。これを持っていけ」
ミネルヴァさんが、引き出しから一本の棒を取り出した。
長さは三十センチほど。装飾のない、枯れ木のようなシンプルな杖だ。
「これは?」
「練習用の短杖だ。素材は安物の樫の木だが、素手よりはマナの通りが良いだろう。明日の実技試験で使え」
「いいんですか? これ、安物って言っても高そうだけど……」
「貸すだけだ。合格したら、初任給でいい杖を買って返せ」
彼女はぶっきらぼうに言ったが、その目が優しく笑っているのを俺は見逃さなかった。
この人は、口は悪いしスパルタだけど、本当にお人好しだ。
いつか絶対に、この恩は返さないといけない。
「ありがとうございます。……あの、ミネルヴァさん」
「なんだ」
「もし合格したら、その……学園に来てくれますか? 保護者参観とかあるかわかりませんけど」
俺の両親は前の世界だ。ここには身寄りがない。
だから、彼女が唯一の知り合いであり、恩師だ。
ミネルヴァさんはきょとんとして、それから吹き出した。
「保護者参観か! ククッ、面白いことを言う。……まあ、気が向いたらな。それより今は、明日に備えて寝ろ。睡眠不足で試験中に気絶した馬鹿者として歴史に名を残したくなければな」
「はい。おやすみなさい」
その夜、俺は泥のように深く眠った。
夢は見なかった。
***
【試験当日】
翌朝。快晴。
俺はアトリエの前でミネルヴァさんと別れた。
彼女は「野暮用がある」と言って、反対方向へ行ってしまった。試験会場まで送ってくれるかと思ったが、過保護にしないのが彼女の流儀らしい。
「行ってきます!」
俺は一人、学園への坂道を登った。
三日前、門前払いを食らったあの場所だ。
だが今日の景色は、あの日とはまるで違っていた。
「うわ、すげぇ人……」
正門前は、受験生たちでごった返していた。
その数、ざっと五百人以上。
そして、その多様さに改めて圧倒される。
高そうなローブを纏い、取り巻きを連れた貴族の少年。
身の丈ほどある杖を背負ったドワーフ。
耳をピコピコと動かしながら緊張している獣人の少女。
透き通るような肌を持つエルフたち。
彼らが発する魔力のオーラが、空気中でバチバチと火花を散らしているように感じる。
対する俺は、ヨレヨレのブレザーに、ポケットに入れた安物の杖一本。
場違い感は否めない。
だが、不思議と足は震えなかった。
俺はただ、卒業するために来たんだ。
受付で受験票を提示する。
係員が俺のブレザーを見て怪訝な顔をしたが、ミネルヴァさんが書いてくれた紹介状(推薦人が誰かは書かれていなかったが、ギルドの印章が押してあった)を見ると、スムーズに通してくれた。
会場は、学園内の大講堂。
天井にはシャンデリアではなく、光る魔石が浮遊している。
俺は指定された席――一番後ろの端っこ――に座り、深呼吸をした。
「これより、王立ルミナス魔法学園、入学試験を開始する!」
壇上に立った試験監督の厳めしい声が響き渡る。
最初の関門。筆記試験だ。
***
【筆記試験】
配られた問題用紙は、羊皮紙十枚に及ぶ分厚いものだった。
制限時間は九十分。
周囲から「うげっ」「こんな量、無理だろ……」というため息が漏れる。
俺は静かに羽ペンを手に取り、最初の一問目に目を落とした。
『問一:セフィロト創世神話において、世界樹がもたらした三つの恩恵を答えよ』
やったところだ。
俺の脳内で、ミネルヴァさんの怒声が再生される。
――『違う! マナ、精霊、そして寿命だ! 食料じゃない!』
俺は迷わずペンを走らせる。
『問五:以下の魔法陣の欠陥を指摘し、正しい術式に修正せよ』
図形問題だ。
複雑な幾何学模様が描かれているが、俺にはそれが「電気回路図」に見える。
ここが断線している。ここ抵抗が大きすぎる。
論理的に考えれば、マナの流れが滞る場所は一目瞭然だ。
俺は定規も使わずに、フリーハンドで修正線を引いていく。
『問十五:森でポイズンスパイダーに噛まれた際の応急処置を記述せよ』
毒は酸性。だからアルカリ性の『解毒草』の根をすり潰して塗る。決して吸い出してはいけない、口内が爛れるから。
ミネルヴァさんが見せてくれた、グロテスクな写実画が脳裏をよぎる。
完璧だ。
回答がスラスラと出てくる。
周囲からは、カリカリというペンの音に混じって、焦りの気配が伝わってくる。
魔法使いとしての才能がある彼らは、幼い頃から「感覚」で魔法を使ってきた者が多いのだろう。
だからこそ、こういう「理屈」や「暗記」を軽視しがちだ。
だが、俺にはこれしかない。
魔力ゼロの俺が、彼ら天才たちに勝てる唯一の土俵。
それが、この紙の上だ。
残り時間十分。
俺は最後の問題まで書き終え、見直しに入った。
ケアレスミスはないか。名前は書いたか。
受験生時代の習性が、指差し確認をさせる。
「終了! ペンを置け!」
試験官の声と共に、俺はペンを置いた。
手応えはある。
満点とは言わないが、九割……いや、九割五分はいったはずだ。
少なくとも、筆記試験だけで言えば、俺は上位層に食い込んでいる。
だが、本当の地獄はここからだった。
***
【実技試験】
昼休憩を挟んで、午後。
受験生たちは屋外の闘技場へと移動した。
すり鉢状の観客席には、在校生や教師らしき人影も見え、異様な熱気に包まれている。
実技試験の内容はシンプルだった。
闘技場の中央に設置された「魔法吸収人形」に向かって、各自が得意な魔法を放つ。
その威力、精度、そして属性によって採点される。
「受験番号001番!」
トップバッターは、金髪の貴族風の少年だった。
彼は自信満々に前に出ると、宝石のついた杖を掲げた。
「我が名はイグニス! 焼き尽くせ、《フレア・バースト》!!」
ドォォォォン!!
彼が詠唱と共に杖を振ると、巨大な火球が生まれ、ダミーに着弾して大爆発を起こした。
熱風が観客席まで届く。
ダミーは黒焦げになり、一部が溶けている。
「おおっ!」
「いきなり上級魔法か!」
「さすがは名門、バーンシュタイン家の嫡男だ」
会場がどよめく。試験官も満足そうに頷き、手元の用紙に何かを書き込んでいる。
その後も、天才たちのオンパレードだった。
雷を落とす者。
氷の槍を十本同時に放つ者。
地面を隆起させてダミーを押し潰す者。
ここは怪獣大決戦の会場か何かか?
俺は列の後ろで、胃が痛くなるのを耐えていた。
いや、比べてはいけない。俺の目的は「勝利」ではなく「合格」だ。
足切りはない。0点でなければいい。ミネルヴァさんの言葉を信じろ。
「次、受験番号486番! カザハヤ・アルト!」
ついに、俺の名前が呼ばれた。
俺は震える足を叱咤し、闘技場の中央へと進み出た。
視線。
数百人の視線が、俺に突き刺さる。
そして、そのほとんどが「誰だあいつ?」「魔力を全然感じないぞ」という疑問と侮蔑の色を含んでいた。
俺はダミーの前に立った。
距離は十メートル。
ミネルヴァさんから借りた、ただの木の杖を構える。
「……始め!」
試験官の合図。
俺は目を閉じた。
深呼吸。
周囲のノイズを遮断する。
俺には、彼らのような膨大な魔力はない。派手な爆発も、カッコいい詠唱もできない。
できるのは、三日間の特訓で身につけた、あの一点突破のみ。
イメージしろ。
タンクの水量はコップ一杯。
それをホースで撒けば、一瞬で終わる。
だが、出口を針の穴より小さく絞れば?
圧力を極限まで高めれば?
それは水を切断する刃となり、鉄をも溶かす熱線になる。
へその下の熱源を探る。
恐怖で縮こまりそうになるそれを、無理やり引きずり出す。
腕を通し、杖へ。
杖の内部にある導管を通り、先端の一点へ。
圧縮。圧縮。さらに圧縮。
暴れようとするマナを、物理法則という檻で縛り付ける。
(出ろ……!)
俺はカッと目を見開き、無言のまま杖を突き出した。
ヒュッ。
音がしたのは、一瞬だった。
爆発音ではない。空気を切り裂くような、鋭利な風切り音。
杖の先から放たれたのは、長さ数センチほどの、青白い針のような炎。
それは一直線に飛び、ダミーの胸元へと吸い込まれた。
……それだけ。
爆発も起きなければ、煙も上がらない。
ダミーは倒れることもなく、ただそこに立っていた。
「……は?」
「なんだ今のは」
「不発か?」
「いや、なんか光ったけど……蝋燭の火かよ?」
会場がざわめく。
やがて、クスクスという失笑が波紋のように広がっていった。
当然だ。
前の奴が大爆発を起こした後で、俺が出したのは豆粒のような炎一つ。
見た目のインパクトは雲泥の差だ。
「……終了」
試験官が呆れたように告げた。
俺は杖を下ろした。
全身から力が抜け、膝が崩れそうになるのを堪える。
これが全力だ。
今の俺にできる、精一杯の魔法だ。
俺は一礼し、逃げるようにその場を去ろうとした。
その時、試験官の一人がダミーに近づき、首を傾げた。
「ん? おい、これを見ろ」
もう一人の試験官が近づく。
俺の放った炎が当たった場所。
ダミーの胸部装甲――魔法を防ぐための分厚い鉄板――に、極小の穴が開いていた。
焦げ跡はない。
ただ、針を通したように、綺麗に貫通している。
そしてその穴の奥、ダミーの内部の魔導回路が赤熱し、ジュッ……と音を立てて溶け落ちた。
「……貫通しているのか?」
「馬鹿な。防御魔法ごとか?」
「しかし、威力自体は皆無だぞ。範囲も点に過ぎない」
「点数はどうする?」
「……威力評価は1点。だが、制御評価は……」
試験官たちがボソボソと話し合っているのが聞こえた。
だが、観客席のほとんどはそれに気づいていない。
彼らの目には、「ショボい魔法で失敗した落ちこぼれ」としか映っていないだろう。
俺は肩を落とし、待機列へと戻った。
すれ違いざま、次の受験者が俺を鼻で笑っていった。
「どけよ雑魚。本物の魔法を見せてやるから」
俺は何も言い返さなかった。
言い返す気力もなかった。
ただ、出し切った。それだけだ。
***
【合格発表直前】
すべての試験が終わったのは、夕暮れ時だった。
受験生たちは大講堂に戻り、結果発表を待っていた。
空気は重い。
自信満々に談笑しているグループもいれば、手応えがなく青ざめている者もいる。
俺は一人、壁際で膝を抱えていた。
筆記はできた。実技は...うん。
あの反応を見る限り、実技の点は限りなく低いだろう。
100点満点中、5点とか10点かもしれない。
仮に筆記が95点だとしても、合計で105点。
平均が150点くらいだとしたら、完全に足切りラインだ。
「……はあ」
ため息が出る。
もし落ちたらどうしよう。
ミネルヴァさんになんて言えばいい。
「三日間ありがとうございました、ホームレスになります」と言って出て行くのか?
いや、それ以前に、この世界で生きていける気がしない。
不安で押し潰されそうになっていた時だった。
「おい、顔を上げろ。辛気臭いぞ」
聞き覚えのある声。
顔を上げると、いつの間にか横にミネルヴァさんが立っていた。
ただし、いつものラフな格好ではない。
黒いローブを纏い、胸元には学園の紋章が入ったバッジをつけている。
なんだか、すごく「ちゃんとした魔法使い」に見える。
「ミネルヴァさん!? どうしてここに? 関係者以外は立ち入り禁止じゃ……」
「シーッ。声が大きい」
彼女は人差し指を口元に当て、ウィンクした。
「少しコネがあってな。……見ていたぞ、お前の実技」
「……あはは、見られちゃいましたか」
俺は力なく笑った。
「笑われましたよ。豆粒みたいな炎だって」
「そうだな。派手さは皆無だった。あんな地味な魔法、ここ十年で初めて見た」
彼女は淡々と言った。
やっぱり、ダメだったか。
俺が俯きかけた時、彼女の手がポンと俺の頭に乗った。
「だが、狙いは悪くなかった。あのダミーの装甲を一点突破で貫いたのは、今日はお前だけだ」
「……え?」
「威力はない。範囲も狭い。戦闘では使い物にならんだろう。だが、お前は自分の手持ちのカードで、最適解を選んだ。……私は、嫌いじゃないぞ」
その言葉だけで、胸のつかえが少し取れた気がした。
結果はどうあれ、この師匠だけは認めてくれた。それだけで十分だ。
その時、講堂の照明が落ちた。
壇上にスポットライトが当たり、一人の老人が現れた。
長い白ひげ。三角帽子。絵に描いたような「学園長」だ。
「これより、第百五期、入学試験の合格者を発表する!」
ざわめきが消え、張り詰めた静寂が場を支配する。
壇上の巨大な水晶板が光り輝き、そこに文字が浮かび上がり始めた。
合格者の受験番号。
上から順に、成績優秀者の番号が羅列されていく。
001番、045番、102番……。
会場のあちこちから、「やった!」「あったぞ!」という歓声が上がる。
逆に、自分の番号を見つけられずに泣き崩れる者もいる。
俺の番号は、486番。
真ん中あたりにはない。
下の方か?
スクロールしていく文字を目で追う。
ない。
ない。
ない。
もう、リストの最後だ。
……落ちた、か。
目の前が暗くなった。
やっぱり、筆記だけじゃダメだったんだ。
異世界は甘くない。現実は残酷だ。
俺はガクリと項垂れ、席を立とうとした。
その時。
「特別枠の発表を行う!」
学園長の声が響いた。
水晶板の表示が切り替わる。
そこには6つの番号が表示されていた。
その一番下に、見慣れた数字があった。
――486番。
「……え?」
俺は目をこすった。
幻覚じゃない。
間違いなく、俺の番号だ。
「あ、あった……」
全身の力が抜け、その場にへたり込む。
合格。
特別枠だろうが、ギリギリだろうが、合格は合格だ。
てか特別枠ってなんだ?
「……ふん。心臓に悪い受かり方をしおって」
隣でミネルヴァさんが呆れたように、けれどどこか嬉しそうに呟いた。
「おめでとう、アルト。これでお前は、今日からルミナス魔法学園の生徒だ」
その言葉を聞いて、俺はようやく実感が湧いてきた。
屋根がある。
ご飯が食べられる。
そして、卒業証書への道が繋がった。
「ありがとうございます……!」
俺は涙声で礼を言った。
周りの喧騒が遠くに聞こえる。
こうして、俺の異世界での「平穏な学園生活」への切符は、首の皮一枚で手に入ったのだった。
あとでミネルヴァさんに聞いたのだが、試験の時のあれは、ミネルヴァさんが杖に施してくれた「一度きりの圧縮術式」らしい。
これって不正じゃないですか?




