第20話 祭りのあとは甘い雰囲気と空気の読めない来訪者です
全学年クラス対抗魔術戦が幕を閉じた。
結果はSクラスの優勝。俺たちFクラスは、大健闘の末の準優勝に終わった。
表彰式が終わり、熱狂していた数千人の生徒や観客たちが去っていく。
祭りのあとの闘技場は、嘘のように静まり返り、西の空には燃えるような夕焼けが広がっていた。
その赤色は、今日の激闘を称えるようでもあり、俺たちの敗北を嘲笑うようでもあった。
***
放課後。
俺たちの拠点である、図書館の地下書庫。
いつもならアリエスが騒ぎ、ミィナが暴れ、ルナが寝息を立てているこの場所も、今はシンと静まり返っていた。
みんな、連戦の疲れと、最後のイグニス戦でのダメージで、寮に戻って泥のように眠っているか、あるいは医務室で治療を受けている。
俺、風早歩瑠斗は一人、パイプ椅子に座り込んで天井を見上げていた。
天井の天窓から差し込むオレンジ色の光が、地下室の埃をキラキラと照らしている。
「……はぁ」
重く、湿った溜息が落ちる。
俺の手には、準優勝の記念品である銀メダルが握られていた。
ずしりと重い。だが、欲しかったのはこれじゃない。
表彰式では、学園長からも、他の生徒からも「よくやった」「英雄だ」と称賛された。
Fクラスの快進撃は奇跡だと。
だが、俺の心に残っていたのは、達成感よりも、鉛のように重苦しい無力感だった。
『アルト、お前はよくやったよ』
『イグニスをあそこまで追い詰めたんだ、誇っていい』
グレイやカイルは、別れ際にそう言ってくれた。
その言葉に嘘はないだろう。彼らは本心から俺を信頼してくれている。
でも、俺自身の記憶に焼き付いているのは、最後の一瞬だ。
イグニス・バーンシュタインが見せた、あの理不尽なまでのエネルギー。
俺が必死に積み上げた科学ロジックを、酸素欠乏という絶対的な窮地を、ただ純粋な「個の力」だけで粉砕した、あの青白い輝き。
勝てなかった。
あと一歩だった。
でも、その一歩が、果てしなく遠かった。
断崖絶壁のように、超えられない壁を感じた。
俺には魔力がない。
知識と工夫と、ハッタリで食らいついたが、結局、魔法使いの頂点には届かなかったのだ。
「……悔しいな」
誰もいない地下室で、本音が漏れた。
元の世界に帰るため、卒業証書を手に入れるためと割り切っていたはずなのに。
俺はいつの間にか、本気で勝ちたくなっていたのだ。
魔法が使えない落ちこぼれのままで、あの傲慢な天才に土をつけたかった。
ズキリ、と胸が痛む。
孤独感が押し寄せてくる。
俺は膝に顔を埋め、薄暗い部屋の中で小さくうずくまった。
――カツ、カツ、カツ。
不意に、静寂を破る足音が響いた。
地下への階段を降りてくる、軽いが、どこか躊躇いがちな足音。
誰か戻ってきたのか? 忘れ物か?
俺は顔を上げる気力もなく、じっとしていた。
「……アルト?」
声をかけてきたのは、ミルクティー色の髪を揺らす少女、アリエス・フェルミナだった。
顔を上げると、制服姿の彼女が入り口に立っていた。
夕日を背負い、逆光になって表情がよく見えない。
だが、その声色は、いつもの勝気な響きとは違い、とても優しかった。
「アリエス……? どうしたんだ、怪我は大丈夫なのか?」
俺は慌てて涙を拭い、平気なフリをして尋ねた。
「……平気よ。エリスに治してもらったし」
彼女は少しバツが悪そうに視線を逸らし、モジモジとスカートの裾を弄った。
「その……忘れ物。教科書を置き忘れた気がして」
「教科書? お前の席、あっちだぞ」
俺が指差すが、彼女の席に教科書なんてない。
アリエスは「うっ」と言葉に詰まり、ため息をついた。
「嘘よ。……あんたが心配だったの」
彼女はまっすぐに俺を見て言った。
そして、コツコツと歩み寄ってくると、俺の隣に置いてあった木箱に腰を下ろした。
近い。
カビ臭い古書の匂いの中に、彼女から漂う甘い花の香りが混じる。
沈黙が流れる。
でも、それは居心地の悪い沈黙ではなかった。
「……落ち込んでるの?」
ポツリと、アリエスが尋ねた。
「……別に。疲れてるだけだ」
「強がんないでよ。あんたの顔、わかりやすいんだから」
彼女は呆れたように言うと、俺の手にある銀メダルを覗き込んだ。
そして、そっと俺の手の甲に触れた。
彼女の手は温かかった。対抗戦で酷使したせいで包帯が巻かれているが、その下にある熱が、冷え切った俺の心を溶かすように伝わってくる。
「準優勝。……凄いわよね。Fクラス始まって以来の快挙よ。学園長も腰を抜かしてたわ」
「でも、負けた。……俺の作戦が足りなかった。イグニスの底力を見誤った」
「そうね。あいつは化け物だったわ」
アリエスは否定しなかった。
イグニスの強さは、戦った彼女自身が一番よく知っているからだ。
「でもね、アルト。……私、嬉しかったのよ」
「え?」
「私、入学してからずっと『火力だけの馬鹿』って言われてきた。制御ができなくて、周りを壊すだけで、繊細な魔法が使えない欠陥品だって……。自分でも、そう思ってた」
彼女の手が、俺の手をギュッと握りしめた。
少し震えている。
「でも、あんたは違った。あんただけは、私の炎を『武器』だと言ってくれた。あんたの作戦があったから、私はSクラスの連中を見返すことができた。Bクラスの盾を溶かした時も、3年生を撃ち落とした時も……あんたの指示通りに動くのが、すごく楽しかった」
「アリエス……」
「あんたがいなきゃ、私はただの落ちこぼれのまま、腐ってたと思う。……だから」
彼女は顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見つめた。
夕日に染まるその顔は、今まで見たどんな魔法よりも綺麗だった。
「自分を卑下しないで。……あんたは、私にとって最高の指揮官なんだから」
彼女は少し照れくさそうに、でもはっきりとそう言った。
その言葉が、胸の奥深くに刺さる。
無力感じゃない。
俺は、魔力がなくても、彼女たちの力になれたんだ。彼女を支えることができたんだ。
「……ありがとう、アリエス」
俺は素直に礼を言った。
アリエスと目が合う。
至近距離。
薄暗い地下室の中で、互いの呼吸音が聞こえるほどの距離。
ドクン、と心臓が跳ねた。
普段は勝気でツンケンしている彼女が、今はとても無防備で、とろんとした柔らかい表情をしている。
繋がれた手から伝わる熱が、体温以上の何かに変わっていくのを感じる。
「……アルト」
アリエスが、俺の名前を呼ぶ。
その声は微かに震えていて、甘く、熱を帯びていた。
戦友としての労いではない。
もっと湿度のある、男女の空気が、二人の間に満ちていく。
夕暮れの魔法、というやつだろうか。
「あのね……私……」
アリエスが体を寄せてくる。
肩が触れ合う。
彼女の上目遣いが、俺の理性を揺さぶる。
逃げちゃいけない気がした。
この雰囲気から。彼女の瞳から。
俺は吸い寄せられるように、彼女の方へ体を向けた。
俺の左手が、自然と彼女の頬に伸びる。
包帯越しでもわかる、火照った肌の感触。
アリエスは拒まない。むしろ、俺の手のひらに自分の頬を擦り寄せてくる。
「……ん……」
アリエスが目を閉じ、顎を少し上げた。
誘っている。
その唇は、熟れた果実のように赤く、微かに震えている。
俺の理性が、警鐘を鳴らすのをやめた。
今は、この衝動に従いたい。
俺はゆっくりと、彼女の顔に近づいていった。
あと10センチ。
互いの鼻先が触れそうな距離。
心臓の音がうるさいくらいに響いている。
アリエスの甘い匂いが、地下室のカビ臭さを塗り替えていく。
あと5センチ。
彼女の長い睫毛が震えているのが見える。
吐息がかかる。
世界が、彼女と俺だけのものになる。
俺は首を傾け、その唇に触れようと――。
ガチャリ。
無機質な金属音が、静寂を切り裂いた。
地下書庫の重い鉄扉が、勢いよく開かれる音だ。
「おーい、みんなー! 大変だ大変だー!」
空気の読めない明るい声と共に、爽やかな風が吹き込んできた。
金髪の少年、カイル・ウィンザーだ。
彼は治療を終えたのか、頭に包帯を巻きつつも元気いっぱいに飛び込んできた。
その手には、一枚のプリントが握られている。
「次の試験の通達が来たよ! 進級判定のスケジュールが……って、あれ?」
カイルはそこで言葉を切り、硬直した。
彼の目の前に広がっていたのは、こんな光景だ。
夕暮れの薄暗い地下室。
パイプ椅子に座る俺。
その俺の膝に半分乗り上げるようにして、身を寄せるアリエス。
俺の手はアリエスの頬に、アリエスの手は俺の胸に。
そして、顔の距離は数センチ。
どう見ても、「事後」ならぬ「事前」の、極めて濃厚なクライマックスシーン。
「…………あっ」
カイルの顔から、サーッと血の気が引いていくのがわかった。
彼の口がパクパクと動く。
「……ぁ……あ……」
俺とアリエスは、スローモーションのように互いの距離を認識し、状況を理解し、そして弾かれたように飛び退いた。
「う、うわぁぁぁぁぁぁっ!!??」
「ち、ちがっ! 違うのよカイル! こ、これはその、ゴミが! アルトの目にゴミが入ってて!」
アリエスが顔を今まで見たことがないくらい真っ赤にして叫ぶ。
俺も椅子から転げ落ちて、しどろもどろになる。
「そ、そうだ! 目薬! 目薬をさそうとしてたんだ! コンタクトがずれて!」
「アルト、コンタクトしてないよね!?」
苦しすぎる言い訳だ。
カイルは両手で目を覆いながらその場でクルリと回れ右をした。
「ご、ごごご、ごめん! 僕、見てない! 何も見てないよ! 今の雰囲気とか、唇の距離とか、アリエスさんの色っぽい顔とか、全部見てない!」
「全部言ってるじゃないのよぉぉぉ!」
アリエスの絶叫が響く。
カイルはパニックになりながら、出口へダッシュした。
「お、お邪魔しましたー! 続けて! どうぞ続けてー! 僕は空気になりますー!」
バタンッ!!
カイルは猛スピードで逃走し、鉄扉を閉めた。
再び訪れる静寂。
だが、さっきまでの甘い雰囲気は微塵もなく、あるのは耐え難いほどの気まずさと、燃え尽きたような灰色の空気だけだった。
「…………」
「…………」
俺とアリエスは、お互いに顔を見合わせることもできず、明後日の方向を向いて固まっていた。
心臓はまだバクバクしているが、それはときめきではなく、致死量の羞恥心によるものだった。
「……か、帰るわ」
数分後。
アリエスが蚊の鳴くような声で言った。
彼女はゆでダコのように真っ赤な顔で立ち上がると、スカートをパンパンと払った。
そして、出口へ向かいかけて、立ち止まり、俺の方を一瞬だけチラリと見た。
「……続きは、また今度ね」
と、爆弾発言を残して走り去っていった。
「……え?」
俺は地下室に一人取り残された。
続き?
また今度?
それって、つまり……そういうことだよな?
『報告。マスターノ心拍数、危険域ニ突入。……アリエス・フェルミナトノ関係性ガ「戦友」カラ「恋人候補」ニ更新サレマシタ』
いつの間にか起動していたナビが、ニヤニヤした口調で告げる。
俺は両手で顔を覆い、天井を仰いだ。
対抗戦には負けた。
だが、俺の学園生活は、別の意味でとんでもない修羅場――いや、春に突入しようとしていた。
そして、俺は床に落ちているプリントに気づいた。
カイルが慌てて落としていったものだ。
俺はそれを拾い上げ、内容を読んだ。
そこに書かれていたのは、甘い空気を一瞬で凍りつかせる、冷酷な通達だった。
【重要:進級判定試験(最終)のお知らせ】
【対抗戦の結果を鑑み、Fクラスには特別課題を与える。】
【課題名:未踏迷宮『アビス・ホール』の攻略】
【期限内に最深部に到達し、『賢者の証』を持ち帰ること。失敗した場合は、Fクラス全員、即日退学とする】
「……マジかよ」
未踏迷宮。
それはプロの冒険者でも攻略を躊躇う、最難関ダンジョンだ。
甘い雰囲気も束の間。
俺たちの前には、最後の、そして最大の壁が立ちはだかろうとしていた。
祭りは終わった。
ここからは、生き残りをかけたサバイバルの始まりだ。




