第14話 錬金術の実習はピンク色の吐息と貞操の危機です
ノアの「人間レーザー事件」から数日が経った。
Fクラスの教室、もとい俺たちの聖域である地下書庫は、今日も今日とてカオスな熱気に包まれていた。
「うひひ……すごいねぇ、この『化学』という概念は。物質の構成要素をここまで微細に定義しているとは……」
地下書庫の最奥。
本棚に囲まれた一角から、不気味な笑い声が漏れてくる。
そこは今、簡易的な「実験ラボ」と化していた。
ビーカーやフラスコ、怪しげな色の液体が入った試験管が所狭しと並び、紫色の煙が立ち上っている。
このラボの主は、ボサボサの緑髪に丸眼鏡をかけた少年、グレイ・フォルティス。
Fクラスきっての頭脳派であり、同時に最も危険なマッドサイエンティストだ。
「おいグレイ、換気しろって言ってるだろ。また変な毒ガスを作る気か?」
俺、風早歩瑠斗は、鼻をつまみながら彼に注意した。
ここ数日、彼は俺が持ち込んだ日本語の専門書『有機化学の基礎』と『毒物劇物取扱マニュアル』に没頭し、寝食を忘れて実験を繰り返している。
「失敬な。毒ガスじゃないよ、アルトくん。これは『未来の可能性』さ」
グレイは眼鏡を光らせながら、試験管を振った。
「君の世界の知識と、この世界の錬金術を組み合わせれば、神の奇跡すら再現できるかもしれない……。今はその第一歩として、新しいポーションの開発をしているんだ」
「ポーション?」
「そう。明日の実技試験の課題だよ」
そうだ。忘れていた。
明日の午後は、『錬金術・薬学』の実技試験がある。
課題は「実用的なポーションの作成」。
素材の選定から調合、そして効能の実証までを行い、その完成度で評価が決まる。
当然、Fクラスの俺たちにとっては死活問題だ。高い評価を得られれば、そのポーションをギルドに売って活動資金にできるが、失敗すれば材料費で赤字になる。
「で、どんなポーションを作ってるんだ?」
「ふふふ……これだよ」
グレイが取り出したのは、ピンク色に発光する怪しげな液体だった。
ドロリとしていて、時折ボコッと気泡が破裂している。
どう見ても毒物だ。あるいはスライムの死骸だ。
「名付けて『ハイパー・バイタリティ・ドリンク』。君の本にあった『カフェイン』と『タウリン』という概念を参考に、マンドラゴラの根とオークの肝臓を濃縮還元してみたんだ」
「素材がエグいな! 効能は?」
「疲労回復、滋養強壮、そして……精神の高揚作用さ。これを飲めば、三日三晩不眠不休で戦えるし、気分もハイになって恐怖心も消える」
「それ、ただの違法薬物じゃねーか!」
俺はツッコミを入れた。
こいつに現代知識を与えたのは間違いだったかもしれない。倫理観のタガが外れている。
『警告。対象物カラ、高濃度ノ揮発性成分ヲ検知。成分分析……フェロモン受容体ニ作用スル成分ガ含マレテイマス』
浮遊していた相棒のドローン『ナビ』が、無機質な声で警告を発した。
「フェロモン?」
「おや、バレたかい? 隠し味にサキュバスの爪の粉末を入れてみたんだ。精神高揚には、多少の『愛』のエッセンスが必要だからね」
「馬鹿野郎! サキュバスの素材は劇薬だぞ! 量によっては……」
その時だった。
ボコッ……ボコボコボコッ!
試験管の中の液体が、急激に沸騰し始めた。
ピンク色の泡が溢れ出し、ガラス容器にヒビが入る。
「あ、あれ? おかしいな。計算では安定するはずなんだけど……」
「逃げろグレイ! 爆発するぞ!」
「待ってくれ、データを取らないと! この反応熱は未知の……」
パリンッ!
俺がグレイの襟首を掴んで引きずり倒した瞬間、試験管が破裂した。
ボンッ!!
ピンク色の煙が、爆風と共に実験スペースに充満する。
甘い匂い。
花の蜜のような、あるいは熟れすぎた果実のような、脳髄を痺れさせる濃厚な香りが、地下書庫全体に広がっていく。
「げほっ、げほっ! おいグレイ、大丈夫か!」
俺は床に伏せたまま、シャツの袖で口を覆った。
グレイは眼鏡を割られながらも、「うひひ、すごい拡散力だ……」とニヤついている。こいつは駄目だ。
「……んぅ? なになに? なんかいい匂いがするー」
書庫の入り口付近で勉強していたミィナの声が聞こえた。
まずい。
今日は試験対策のために、アリエスたち全員が集まっているんだった。
「みんな! 煙を吸うな! 逃げ……」
俺が叫ぼうとして、顔を上げた時。
目の前に、誰かが立っていた。
「……アルト」
ミルクティー色の髪を揺らす、ハーフエルフの少女。アリエスだ。
彼女は、ピンク色の煙の中に佇んでいた。
様子がおかしい。
いつもなら「なによこの煙!」と怒鳴り散らすはずなのに、今は虚ろな目で、ゆらゆらと揺れている。
「アリエス? 大丈夫か? 今すぐ外に……」
俺が手を伸ばした瞬間。
ガシッ!
アリエスが俺の手首を掴んだ。
ものすごい力だ。痛い。
「……アルト」
彼女が顔を上げる。
その瞳は、潤んでとろんと蕩けていた。
頬は熟したトマトのように真っ赤で、口元からは荒い息が漏れている。
「……いい匂い。アルトから、いい匂いがする」
「は? いや、これは薬品の匂いで……」
「違う。アルトの匂い。……前から思ってたの。アルトの匂い、すっごく好き」
アリエスが俺の手首を引き寄せ、手の甲に頬ずりをする。
熱い。
彼女の体温が異常に上がっているのがわかる。
『警告。アリエス・フェルミナノ心拍数、上昇。体内デドーパミン及ビオキシトシンガ過剰分泌サレテイマス。推定状態:極度ノ発情』
ナビが最悪の診断結果を告げた。
やっぱりか! グレイの特製ポーションが気化して、強力なガス吸入型の媚薬になっちまったんだ!
「おいグレイ! 解毒剤! 解毒剤はあるのか!」
「えっ? 作ってないよ。だって完成すると思ってなかったし」
「この役立たず!」
俺が叫んでいる間にも、アリエスが詰め寄ってくる。
「ねえ、アルト。……勉強なんて、もういいでしょ?」
彼女が俺を床に押し倒す。
上から覆いかぶさるアリエス。はだけたブラウスから、白い肌と谷間が目の前に迫る。
普段のツンデレはどこへやら、今の彼女はリミッターが外れた暴走機関車だ。
「アリエス、落ち着け! これは薬の影響だ! 正気に戻れ!」
「うるさい。……口、塞いであげる」
アリエスの顔が近づいてくる。
唇が触れそうになる――その寸前。
「……ずるい」
背後から、冷ややかな、しかし熱を孕んだ声がした。
アリエスの動きが止まる。
振り返ると、そこには銀髪の少女、ルナが立っていた。
彼女もまた、頬を染め、瞳孔が開いた目でこちらを見下ろしている。
「ル、ルナ……?」
「……アリエスだけ、ずるい。アルトは私のご飯」
ルナがゆらりと動いた。
普段の緩慢な動作ではない。肉食獣が獲物を狩る時の、無駄のない動きだ。
彼女はアリエスを突き飛ばし、俺の体にのしかかった。
「……ん。アルト、食べる」
ルナが俺の首筋に顔を埋める。
甘噛み。
いや、結構マジな力で噛まれた。
「いっ!? ルナ、痛いって!」
「……血の味。美味しい。もっとちょうだい」
吸血鬼かお前は!
いや、吸血鬼じゃなくて、ただの捕食者だ。
ルナの手が俺のシャツの中に侵入し、腹筋を這い回る。冷たい指先が、今は熱を帯びていて、背筋に電流が走る。
「にゃあぁぁぁ! ミィナも混ぜろー!」
さらに、机の上からミィナがダイブしてきた。
「ぐふっ!?」
俺の腹に猫娘が着地する。
ミィナは四つん這いで俺の胸に乗り、目を爛々と輝かせていた。
彼女の尻尾が、バタバタと激しく床を叩いている。
「アルト! 交尾だ! 交尾の時間だー!」
「直球すぎるだろお前!」
「強いオスと子供を作るのが掟だー! アルトはボスだから、いっぱい作るー!」
野生の本能が全開だ。
ミィナが俺のベルトに手をかける。
待て待て待て、ここは学校の地下室だぞ! 教育的指導どころか、社会的抹殺だ!
「……あ、あの……私も……」
最後に、本棚の陰からノアが現れた。
彼女は一番重症だった。
全身が、ピンク色の光で激しく発光している。
「ピンクの照明」と化した彼女は、恥ずかしそうに身をくねらせながら、涙目で俺を見ていた。
「私……ずっと、見てたんです。アルトさんのこと……」
ノアが近づいてくる。
その一歩ごとに、ピンクの光が強くなる。
「こんな体質の私でも……優しくしてくれた……。アルトさんになら、私……何されてもいいです……」
ドMな愛の告白と共に、彼女の光量が臨界点に達する。
「うわぁっ! 眩しい! いやらしい色で眩しい!」
地下書庫が、ラブホテルも真っ青なピンク色の光に包まれた。
アリエス、ルナ、ミィナ、ノア。
四人のヒロインが、理性を失って俺に群がっている。
ハーレム? 違う、これは地獄だ。
全員の力が強すぎる。アリエスの怪力、ルナの魔力、ミィナの体重、ノアの光熱。
このままでは、俺は物理的に圧死するか、社会的に死ぬかの二択だ。
「助けてくれカイル! エリス!」
俺は唯一の良心である二人に助けを求めた。
だが、視線の先では……。
「カイルくん……好き。大好き……」
「エ、エリスさん!? ちょ、あの、ここじゃ……!」
エリスがカイルを壁際に追い詰め、壁ドンしていた。
カイルは顔を真っ赤にしてフリーズしている。ダメだ、あっちも手遅れだ。
「くそっ、頼れるのは科学の力だけか!」
俺は必死に身をよじり、アリエスの拘束から右腕だけを引き抜いた。
床に転がっているグレイの首根っこを掴む。
「おいマッドサイエンティスト! 成分を言え! マンドラゴラと何を入れた!」
「うひひ……マンドラゴラ、オークの肝臓、サキュバスの爪……そして溶媒には『強アルカリ性』の精製水を……」
「アルカリ性か!」
俺の脳内で、化学反応式が組み上がる。
このガスがアルカリ性なら、酸で中和できるはずだ。
しかも、気化している成分を吸着し、無効化する触媒が必要だ。
「ナビ! 検索しろ! この部屋にあるもので、揮発性の酸性物質、および吸着剤になりうるものは!」
『検索中……。回答。実験用ノ「酢酸」ト、掃除用ノ「重曹」ガアリマス。マタ、消臭用ノ「炭」モ有効デス』
「酢と炭か! 十分だ!」
俺はミィナの頭突きを回避し、ルナの甘噛みを耐えながら、必死に手を伸ばした。
実験台の上に、さっきグレイが使っていた酢酸の瓶がある。
そして、部屋の隅には消臭用の木炭が置いてある。
「アリエス、悪い!」
俺はアリエスの額にデコピンをお見舞いした。
「痛っ!?」
一瞬、彼女が怯んだ隙に、俺は這い出した。
実験台に飛びつき、酢酸の瓶と木炭を掴む。
「グレイ! 風魔法だ! 換気扇に向けて風を送れ!」
「えー、でもデータが……」
「やらないと、お前もあのアマゾネス軍団の餌食になるぞ!」
俺が指差した先では、標的を見失った四人が、今にもこちらに襲いかかろうとしていた。
目が赤い。光ってる。完全にゾンビ映画の群衆だ。
「ひぃっ! わ、わかったよ!」
グレイもようやく事の重大さを理解したのか、杖を構えた。
俺は木炭を砕き、酢酸の中に放り込んだ。
そして、それをビーカーの中で混ぜ合わせる。
シュワワワワッ!!
激しい発泡と共に、鼻を突く酸っぱい匂いが立ち上る。
中和剤の完成だ。
即席だが、このガスがフェロモン成分を吸着し、中和してくれるはずだ。
「いけぇぇぇぇっ!!」
俺はビーカーの中身を、ピンク色の霧に向かってぶちまけた。
同時に、グレイが風魔法を放つ。
ゴォォォォッ!
酸っぱい霧が、風に乗って地下書庫全体に拡散される。
ピンク色の甘い匂いと、酸の刺激臭が混ざり合い、化学反応を起こす。
空気中のピンク色が、急速に無色透明へと変わっていく。
「げほっ! くさっ!」
「酸っぱ……!」
咳き込む声が聞こえる。
霧が晴れていく。
そこには、床にへたり込んだアリエスたちの姿があった。
「……あれ? 私、なにを……?」
アリエスが頭を押さえながら顔を上げる。
彼女の瞳から、あのご乱心のような色は消えていた。
ルナも、ミィナも、ノアも、きょとんとしている。
助かった。
俺は壁に背を預けて、ズルズルと座り込んだ。
シャツはボロボロ、首筋にはルナの噛み跡、ベルトはミィナに半分外されかけている。
満身創痍だ。
「……あ」
アリエスが、俺の姿を見て固まった。
そして、自分の記憶を巻き戻したのだろう。
彼女の顔が、さっきの薬の影響以上に、みるみる真っ赤に染まっていく。
「わ、私……アルトに……あんなこと……」
『匂いが好き』『襲いかかった』『口を塞ごうとした』。
断片的だが、確かな記憶が蘇ったようだ。
「ち、違うの! あれは、その……薬のせいで! 本心じゃなくて!」
「わかってるよ。災難だったな」
俺が苦笑すると、アリエスは「うあぁぁぁぁ!」と叫んで顔を覆い、机の下に潜り込んでしまった。
ルナは、自分の口元についた俺の血をペロリと舐めて、「……ごちそうさま」と小さく呟いた。こいつは確信犯かもしれない。
ミィナは「あれ? 子供は?」とまだキョロキョロしている。教育が必要だ。
***
翌日の実技試験。
俺たちが提出したポーションは、審査員たちをどよめかせた。
「な、なんだこれは……! 疲労回復効果が通常のポーションの十倍以上あるぞ!」
「しかも、飲むと一時的に魔力が活性化する……! 革命的な発明だ!」
俺とグレイが協力して無理やり完成させた『改良型バイタリティ・ドリンク』。
昨日の失敗を踏まえ、サキュバスの素材を抜き、中和プロセスを組み込んだ安全版だ。
結果は、文句なしの最高評価『S』。
「ふん。まあまあの出来栄えだな」
ミネルヴァ先生も、珍しく俺たちを褒めた。
だが、俺は知っていた。
このポーションには、まだ微量だが副作用が残っていることを。
それは、「飲んだ相手に対して、少しだけ素直になってしまう」という効果だ。
「……アルト」
試験の帰り道。
アリエスが、俺の袖を掴んだ。
「なに?」
「その……昨日のこと、忘れてないから」
「え?」
「薬のせいだったけど……全部が嘘ってわけじゃないから。……それだけ!」
彼女は真っ赤な顔で言い捨てると、フェンリルの背中に乗って逃げるように去っていった。
残された俺は、夕焼けの中で立ち尽くす。
『報告。アリエス・フェルミナノ心拍数、急上昇。……マタ、マスターノ心拍数モ上昇ヲ検知シマシタ』
「……うるさいよ、ナビ」
俺は相棒の冷やかしを無視して、歩き出した。
ポーションの副作用か、それとも本心か。
科学では解明できない謎が、また一つ増えてしまったようだ。
こうして、ピンク色の吐息と貞操の危機に満ちた錬金術実習は、Fクラスの絆と、俺への歪んだ執着を深める結果となったのだった。




