第10話 Fクラスの図書館利用は害虫駆除のあとで
スライム溶解事件から数日が経った。
学園内では、ある噂がまことしやかに囁かれていた。
「おい聞いたか? Fクラスのアルトって奴、森でハーフエルフの女子を襲って服を剥ぎ取ったらしいぜ」
「最低ね。やっぱり魔力なしの欠陥品は、性欲だけは一丁前なのよ」
「いや、俺が聞いた話だと、スライムの大群を素手で引き裂いて興奮してたって……」
尾ひれがつきすぎて、俺はいつの間にか「好色なバーサーカー」という不名誉な二つ名で呼ばれるようになっていた。
廊下を歩けば女子生徒は悲鳴を上げて道を開け、男子生徒は「関わったら食われる」と目を逸らす。
ある意味、快適な通学環境にはなったが、精神的ダメージは甚大だ。
「……おはよう、アルト」
教室に入ると、ルナがトテトテと寄ってきた。
彼女は俺のブレザーの袖をくんくんと嗅ぐと、満足そうに頷く。
「ん。今日もいい匂い」
「やめろルナ。その行動が噂を助長してるんだぞ」
「気にしない。……それより、パン」
彼女は手を差し出してきた。完全に餌付けされている。
俺はため息をつきつつ、今朝も早起きしてエリスと一緒に焼いたタッパー入りのフレンチトーストを渡した。
「おはよう、アルトくん。噂の『野獣先輩』くん」
グレイがニヤニヤしながら話しかけてくる。
「うるさいよ。……それより、今日のホームルームはなんだ?」
「小テストの予告だよ。来週、『魔法理論』の基礎テストがあるそうだ。赤点を取ったら、罰としてトイレ掃除一ヶ月追加だってさ」
「マジかよ……」
Fクラスの生徒たちが頭を抱える。
実技はともかく、座学となるとこのクラスは壊滅的だ。アリエスは感覚派だし、ミィナに至っては文字が読めるかも怪しい。
「勉強しなきゃ……でも、教科書だけじゃ全然わからないよ……」
カイルが嘆く。
俺たちFクラスに支給されているのは、ボロボロのお下がりの教科書で、ページが抜け落ちていることもザラだ。これでSクラスと同じテストを受けろというのは、竹槍でドラゴンに挑むようなものだ。
「……図書館、行こうか」
俺は提案した。
王立学園の大図書館。そこなら最新の参考書も揃っているはずだ。
「ええっ、あそこに行くの? Sクラスの連中の溜まり場だよ?」
「背に腹は代えられないだろ。トイレ掃除をしたくないなら、知恵を借りるしかない」
俺の言葉に、渋々ながらも全員が頷いた。
こうして放課後、俺たちFクラス一行は、本校舎にある大図書館へと向かった。
***
大図書館は、威圧感のある石造りの建物だった。
入り口には重厚な扉があり、そこをくぐれば知識の海が広がっている――はずだった。
「おい、止まれ。そこから先は人間様専用だ」
入り口の前で、行く手を阻む者たちがいた。
胸に金色の校章をつけた、Sクラスの男子生徒三人組だ。
真ん中にいるのは、入学式の時にイグニスの後ろにいた取り巻きの一人、ランドルだ。
「Fクラスの薄汚い連中が、神聖な図書館に入ろうなんて百年早いんだよ。獣臭が本に移るだろうが」
ランドルがハンカチで鼻を押さえながら、わざとらしく顔をしかめる。
「なっ……! 誰が獣よ!」
アリエスが噛み付くが、ランドルは冷ややかな目で彼女を見下した。
「お前だよ、半端者のハーフエルフ。その汚れた血で高尚な魔導書に触れるな」
「……っ!」
アリエスの顔が歪む。
彼女にとって、種族差別は一番のコンプレックスだ。杖を握る手が震えている。
ミィナが威嚇するように唸り声を上げ、カイルたちが怯えて後ずさる。
俺は一歩前に出た。
「校則第12条。『図書館ハ、本学園ノ全テノ生徒ニ等シク利用権ヲ有スル』。……Fクラスを除外するなんて記述はないはずだが?」
「はんっ、生意気だな魔力なしのくせに」
ランドルは俺を睨みつけると、掌に小さな火の玉を浮かべた。
「規則? そんなものは力のある者が決めるんだよ。通りたければ、力ずくで通ってみろ。……もっとも、魔法も使えない雑魚には無理だろうがな」
挑発だ。
ここで引き下がれば、Fクラスは一年間、ずっと図書館を使えないままになる。それは進級の道を閉ざされることと同義だ。
やるしかない。
「……わかった。俺が勝ったら、そこを退いてくれ」
「ははっ! 面白い! 雑魚が吠えやがった!」
ランドルたちは下卑た笑い声を上げた。
アリエスが俺の袖を引く。
「ちょっとアルト、あんたバカなの!? 相手はSクラスよ! 魔法戦になったら勝ち目なんて……」
「魔法で戦うなんて言ってない」
俺は小声で答え、後ろに隠れていたノアに視線を向けた。
彼女は怯えて、ミィナの背中に隠れている。
「ノア」
「は、はい……!」
「君の力が必要だ。……俺の合図で、全力で魔力を放出してくれ」
「えっ? で、でも、また眩しくしちゃいますよ……?」
「それがいいんだ。……できるか?」
俺が真剣な目で見つめると、ノアはおずおずと、しかししっかりと頷いた。
彼女はずっと気にしていたのだ。自分の魔力過多が、周囲に迷惑をかけるだけの欠点だと。
それを「武器」にする時が来た。
「へえ、女の後ろに隠れて作戦会議か? いくぞ、《ファイア・アロー》!」
ランドルが容赦なく魔法を放ってきた。
炎の矢が一直線に俺に向かってくる。
「今だ、ノア!」
「は、はいっ! ……えいっ!」
ノアが両手を広げ、有り余る魔力を一気に解放した。
カッッッ!!!!
閃光。
それは照明なんて生易しいものではない。至近距離で閃光弾が炸裂したような、強烈なホワイトアウトだった。
「うわぁぁぁぁっ!? め、目がぁぁぁ!!」
ランドルたちが悲鳴を上げて目を押さえる。
暗い廊下から突然の強光。網膜が焼き付いて、視界は真っ白になっているはずだ。
魔法使いにとって、視界の喪失は致命的だ。標的が見えなければ照準も定まらない。
俺はその隙を見逃さなかった。
目を閉じて光をやり過ごしていた俺は、一気にランドルとの距離を詰める。
「悪いな、実戦形式だ!」
俺はランドルの手首を掴み、関節を極めて杖を弾き飛ばした。
カラン、と杖が床に転がる。
続けて足を払い、体勢を崩した彼を地面に組み伏せた。
「ぐあっ!? な、何しやがる! 魔法を使え卑怯者!」
「これは『体術』の授業の復習だよ。……言っただろ、魔法で戦うとは言ってないって」
俺は彼の腕を背中に捻り上げながら、耳元で囁いた。
「降参か? それとも、このまま関節を外されたいか?」
「い、痛い痛い! わかった、降参だ! 通ればいいんだろ!」
ランドルが情けない声を上げてタップした。
俺が拘束を解くと、彼は涙目で立ち上がり、取り巻きたちと共に逃げ出した。
「覚えてろよFクラス! 次はタダじゃ済まないからな!」
負け犬の典型的な捨て台詞を残して、彼らは去っていった。
図書館前に静寂が戻る。
「……勝った」
「すげぇ! アルト、お前魔法なしでSクラスに勝ったぞ!」
カイルたちが歓声を上げる。
ノアは「私……役に立てましたか?」と不安そうにしていたが、俺が「最高の閃光だったよ、MVPだ」と頭を撫でると、花が咲いたように笑った。
だが、問題はこれで終わりではなかった。
「……騒がしいねぇ」
重厚な扉がギギギと開き、中から一人の老婆が現れた。
分厚い眼鏡に、白髪をきっちりと纏めた老婦人。この図書館の主、司書のロゼッタさんだ。
「図書館の前で決闘とは、いい度胸だね」
「す、すみません! どうしても通りたくて……」
俺たちは慌てて頭を下げた。
ロゼッタさんは俺たちをジロリと値踏みするように見回したあと、ふんと鼻を鳴らした。
「Fクラスかい。……中に入れるのは構わないが、一般閲覧室は使わせないよ。Sクラスの連中とまた揉め事を起こされたら、本が傷つく」
「そんな……じゃあ、どこで勉強すれば」
「ついてきな」
彼女は踵を返し、俺たちを館内の奥へと案内した。
華やかな閲覧スペースを通り過ぎ、関係者以外立ち入り禁止の扉を抜け、暗い階段を降りていく。
俺は歩きながら、ふと壁に貼られたポスターや案内図に目をやった。
そこには、ミミズがのたうち回ったような複雑な記号――この世界の『大陸共通文字』が書かれている。
(……はぁ。やっぱり読むの疲れるな)
俺はこめかみを揉んだ。
不思議なことに、この世界に来てから「会話」だけは不自由しなかった。
相手が喋る言葉は自然と日本語のように聞こえるし、俺の言葉も相手には共通語として伝わっている。転移に伴う謎の現象だ。
だが、「文字」は違った。
文字には翻訳機能が働かないのだ。
だから俺は、受験勉強の期間中、この世界の「あいうえお」にあたる文字を、単語帳を使って死に物狂いで丸暗記した。
今ではなんとか読めるようにはなったが、母国語のようにスラスラとはいかない。一文字ずつ脳内で変換しながら読むので、人の三倍は時間がかかるし、頭痛がしてくる。
Fクラスの授業についていくのが辛い最大の理由が、これだった。
「ここだよ」
ロゼッタさんが立ち止まった。
案内されたのは、地下にある巨大な倉庫だった。
カビ臭い空気。床から天井まで積み上げられた、無数の古い本、本、本。
整理もされず、乱雑に放置された本の墓場だ。
「地下書庫だ。整理されていない古書や、解読不能な『異端書』が放り込んである。ここなら誰も来ない。好きに使いな」
ロゼッタさんはそれだけ言うと、灯りの魔道具を置いて去っていった。
「うわぁ……埃っぽい。これじゃ勉強どころじゃないわよ」
アリエスが手で口を覆う。
確かに環境は最悪だ。だが、静かではある。
俺は何気なく、近くの山から一冊の本を手に取った。
どうせまた、解読に時間のかかる大陸文字の魔導書だろう――そう思いながら。
だが、俺はその背表紙を見た瞬間、息を呑んだ。
「……え?」
俺の目が、文字を認識する。
脳内で必死に変換するプロセスがいらない。
ダイレクトに、意味が飛び込んでくる。
『基礎物理学と魔力変換理論 ~異世界での応用~』
そこにあったのは、見慣れた大陸文字ではない。
角ばった漢字と、柔らかなひらがな。
俺が見間違えるはずもない、日本語だった。
「これ……嘘だろ……?」
震える手でページをめくる。
縦書きの文章。数式。図解。すべてが日本語だ。
内容は、こちらの世界の魔法現象を、地球の物理法則に当てはめて解説したものだった。
「ねえアルト、何読んでるの?」
アリエスが不思議そうに覗き込んでくる。
彼女は俺の手元の本を見て、眉をひそめた。
「なによこれ。……見たこともない変な記号。あんた、こんな落書き読めるの?」
「……アリエスには、これが読めないのか?」
「読めるわけないでしょ。古代の暗号か何かじゃないの? 気持ち悪い形ね」
彼女には、漢字やひらがなが「未知の記号」に見えているのだ。
俺は確信した。
この本を書いたのは、俺と同じ「日本からの転生者、あるいは転移者」だ。
そして、この世界の住人には読めないからこそ、「解読不能なガラクタ」としてこの地下に捨てられたのだ。
つまり、ここにある本の山は――この世界で俺だけがアクセスできる、現代知識の宝庫だ。
俺は他の本も確認した。
『効率的魔力回路の構築』『現代化学で読み解くポーション生成』『俺が考えた最強の生活魔法・保存版』……。
宝の山だ。
これがあれば、授業で習う非効率な魔法理論をショートカットして、最適解を導き出せるかもしれない。
俺はニヤリと笑った。
これさえあれば、落ちこぼれの俺たちが、エリートたちを出し抜くことができる。
「みんな、ここを俺たちの『秘密基地』にするぞ」
「えぇー? こんな汚いところを?」
不満そうなアリエスたちをよそに、俺は本を高く掲げた。
「ああ。ここには、Sクラスの連中も、先生たちですら読めない『最強の攻略本』が眠っているからな」
埃の中で、日本語の背表紙が微かに輝いて見えた。
こうして俺たちは、誰にも邪魔されない地下の学習拠点を手に入れた。




