ここが居場所
目が覚めると、果てしなく広がった草の海の上で、私は寝そべっていた。私以外には誰もいない。風が吹くと、青くみずみずしい香りが私の頬をなでた。空の高いところには大きな雲が三つだけ浮かんで、太陽の前を流れていく。
私は大きく息を吸ってみた。
「…苦しくない」
空気って、こんなにも優しいものだったんだ。こんなにも癒されるものだったんだ。
「あぁ、私、逃げて来れたみたい」
私はそっと起き上がって草の波の上を歩き始めた。たまに鼻歌を口ずさみ、どこへ向かうわけでもなく、ただなんとなく。履いていたサンダルはどうやら逃げてくる途中で脱げてしまったらしい。足の指の間を土がくすぐった。
「ちょっと変な感じ」
しばらく歩いていると草の波の中に一本の木が立っているのが見えた。木は枝を大きく広げて私を待っている。
「少し休めってこと?」
返事をするかのように木は風に吹かれて大きく揺れた。
「ごめんね。休んじゃうと嫌なことを思い出しそうなの。もう少し歩かせてね。きっと戻ってくるからさ」
私が木の前を通り過ぎようとした時、また風が吹いて木が揺れた。この木はきっと、私がこの先へ行くのを止めようとしている。たしかに、どんなに広く何もない草の海を歩いていたとしても、遠くまで行ってしまえばこの木を見つけて戻ってくることはできないかもしれない。それに本当にこの先も「何もない」とは限らない。
「わかったよ。ここにいることにする」
私は木がつくった影の下に座って、遠くを見つめた。
風が吹く。雲が流れる。ときどき木が揺れる。他には何も起こらない。
「私ね、疲れたから逃げてきたんだ。全てから。だから何も無くなったとしても『つまらない』なんて思わないよ」
さらさらと音を鳴らして緑の波が揺れる。
「逃げたっていうより捨ててきたのか」
私は一人で笑った後、あまりにも周りが静かに思えて、「笑えないか」とすぐにまた遠くを見た。
木の葉が一枚足のそばに落ちる音。どこかで鳥が鳴いている声。じっとしていると色々な音が聞こえてくる。しばらく耳をそば立てていると、今度は人の話し声が聞こえてきた。近くに誰かいるのかとあたりを見渡したが、人がいる気配はない。
「やっぱりちょっとだけ、ここを離れてもいい?私以外にも誰かいるみたいなの」
声はどこから聞こえてきているんだろう。何て言っているんだろう。私は木に背を向け、もう一度歩き出した。後ろから木がガサガサとうるさく音を立てている。風は少し強くなった。灰色の空に雲が低く流れ、草の波は大きくうねっている。それでも私は進んだ。一歩。二歩。三歩、と進んだところでふっと目の前が暗くなった。体が沈んでいく。苦しい。風と波の音がだんだん遠のいて行く。そして私ではない誰かの、人の声だけがはっきりと聞こえた。それは知っている声だった。私が何度も何度も聞かされた、冷たい声だった。
「「消えてしまえばいいのに」」
どのくらい経ったのかは知らない。瞼越しに太陽の光を感じて目を開けると、果てしなく広がった草の海の上で、私は寝そべっていた。やっぱり私以外には誰もいない。風が吹くと青くみずみずしい香りが私の頬をなでた。空の高いところには大きな雲が三つだけ浮かんで、太陽の前を流れていく。私は大きく息を吸ってみた。
「…苦しくない」
それからそっと起き上がって、木がある場所に向かって歩き出した。たまに鼻歌を口ずさみ、何も履いていない足で土を蹴った。
「ちょっと変な感じ」
木は大きく枝を広げて私を待っていた。ただいま、と声をかけると風に吹かれて静かに揺れた。木の下は、疲れ切った私を癒すかのように木漏れ日が差し込んで、とても居心地が良かった。
私はきっとこれからもこの木の下にいるんだと思う。泣くことも笑うこともなく、ただ遠くを見つめながらたった一人で座っているんだと思う。この景色に飽きたとしても、ずっと。でも、私はそれでいい。それがいい。ここにいれば、誰かの視線に怯えることも、誰かの言葉に刺されることもないだろうから。この木が私を守ってくれるだろうから。
風が吹く。雲が流れる。ときどき木が揺れる。
他には何も、起こらない。