5 狂乱(ファナティック)
「発情期で居場所を変えたのね」
ほんの数時間前に聞いたセレスのその言葉が脳裏に甦る。
〈何故、気付かなかったのだろう?〉
発情期なら当然、つがいとなる相手を求めるはずだ。既に行動を共にしていたとしても何らおかしくはない。
耳にした時点では別段大して気にも留めなかった会話が、まさかこんな最悪の形で意味をなそうとは。
突如セレスの背後から現れたもう一体の狂乱猛虎の存在に、目前の相手に意識を集中している彼女は気付いていないようだ。
「セレス、危ない!」
その叫びで漸く闖入者にセレスが気付くのと、そいつが跳びかかって来るのがほぼ同時だった。
セレスは辛うじて地面を転がり、直撃は避けたように思えた。だが、そのプレートアーマーからは肩当てが弾け飛び、ここに来て初の流血で左手を赤く染めている。
今までの彼女に似付かわしくない反応の鈍重さに、『先読み』スキルの対象は一体のみで集団戦には向かないと言っていたのが思い起こされる。
新たに現れた狂乱猛虎は傷ついた仲間を庇うように立ち塞がる。同族意識やペアに対する情愛があるのならそのまま立ち去ってくれないかと一瞬期待したが、そうは問屋が卸さないらしい。
「そう。つれあいがいたのね。雄でも雌でも普段は単独行動を好むくせに、この時期だけは例外なんてツイてないわ」
正中に剣を構えながら、強がりに聞こえなくもない科白をセレスは口にする。魔物の方は戦力が倍増して余裕なのか、後から来た奴が元居た奴の傷を舐めてやったり、互いに喉を鳴らして頬ずりをしたりしている。
「甘く見ないで」
その様子に間髪入れずセレスが斬りかかろうとする。だが、それは迂闊だったようだ。
セレスの突進を左右に分散して避けた二匹の狂乱猛虎のうち、先に狙われたのは当然と言えば当然の傷ついて弱った方の個体。素早く止めが刺せれば数的不利はなくなるので、セレスでなくともそうしただろう。もっともそれは魔物にとっても自然の摂理と言えるもので、予想の範囲内だったに違いない。無視された形の後から現れた個体が、即座に反転すると、死角となる背後から襲いかかる。セレスにそれを避ける手段はない──そう思われた瞬間、彼女の身体が深く沈み込み、美しい金髪を幾本か散らしながら頭上を鋭い爪が通り過ぎる。そのまま何事もなかったかのように、正面の相手に剣を振るった。
〈そうか。『先読み』スキルは後から来た奴に固定してあったのか〉
まさか見ていない相手にまで効果が及ぶとは思わなかった。
だが、それは本来の攻撃対象とスキルの補助無しに向き合わなければならないことを意味するわけで、恐らくそれでも並の魔物ならセレスの敵ではなかったろうが、今対峙しているのは紅鉄級の冒険者すら怖れる相手だ。セレスの神速の剣を以てしてもほんの僅かな差で届かない。彼女の剣が空を切るのを初めて見た。
そして満身創痍とは思えないほどの容赦ない反撃が無防備となったセレスの横顔に迫る。今度こそ、防ぐ手立てがないことは彼女の何かを悟ったような表情を見れば明らかだ。今から戦場に飛び込んでも到底間に合うまい。
思わず目を瞑りかけるが、何があっても目を逸らすなというセレスの忠告が頭に響いて、それを拒否した。その刹那──。
「セレスさん!」
叫び声と同時に何か大きな物体がセレスと魔物の攻撃との間に割って入る。大盾を構えたナゼル氏だ。いつの間にか避難場所の縦穴から這い出て来たらしい。
盾役の彼が狂乱猛虎の攻撃を受け止め──ることなく、セレスと共に枯れ枝のように吹き飛ばされる。さすがに翡翠級の腕前では黄金級が苦戦する魔物の猛攻を凌ぐのは荷が重かったのだろう。しかし、その行為は無駄とはならずに致命傷となるはずだったセレスへの直撃は何とか免れた模様だ。
もっともその代償は軽くはなく、たった一撃でナゼル氏の大盾は大きく歪められ、彼自身も相当深刻なダメージを負ったことが窺える。その分、無傷とはいかないまでもすぐさま立ち上がれる程度の損傷で済んだセレスが頭部から血を流すナゼル氏に駆け寄る。そんなナゼル氏だが気丈にも一人で立ち上がると、さも当然と言いたげな顔でセレスにこう告げた。
「こちらは私が抑えます。あなたは向こうの相手に専念してください」
「けど──」
何かを口にしかけたセレスだったが、他に方法がないと理性では悟っているのだろう。それ以上、言葉を紡ぐことができない。
「さあ、早く。あまり長くは保ちませんよ」
そう言われ、ようやく意を決したようだ。まだ傷一つない強敵へ向き直る。
〈クソッタレ。二人が命懸けで戦おうとしているのに俺は見ていることしかできないのか。何が『魔眼』だ。こんな時に役に立たない能力なんて何の価値もないじゃないか〉
かといって実戦経験のない俺が武器を取ったところで却って足手まといになるだけだろう。
〈何かないか? 俺でも役に立てることが……〉
必死になって考えるが、何も思い付かない。
その間にもナゼル氏が劣勢に陥る。魔物が攻撃を繰り出すたびに、面白いように右へ左へと転がっていく。
恐らく相手は本気ではあるまい。本来は必殺の一撃であるべき爪や牙を喰らってもナゼル氏が何度も立ち上がれているのが何よりの証拠だ。その様子はあたかも猫が窮鼠をいたぶる姿そのもの。とてもことわざのようにはなりそうにない。
それが気になってか、もう一体の狂乱猛虎と対峙するセレスも剣技に先刻までの冴えがない。攻撃こそ受けてはいないものの、的確なダメージを与えられずにいる。まるでさっきとは真逆の展開だ。
しかも、そろそろナゼル氏を玩具にするのも飽きてきたらしく、相手をする狂乱猛虎の関心がセレスに向きかけている。
ナゼル氏が倒れ、二対一となればセレスに勝ち目はほぼ無くなるに違いない。
その時、ナゼル氏が吼えた。意味不明の言葉ながら、何が言いたいかは理解できる。
──お前の相手はこっちだ。
それに応えるように狂乱猛虎の視線が再びナゼル氏に向く。
無論、錯覚には違いないが、俺には魔物が舌舐めずりするのが見えた。
そして、これで終わりとばかりに繰り出される本気の一撃。
「駄目だ。死ぬな」
俺は思わず岩陰を飛び出してそう叫ぶ。
だが、無情にも魔物の爪はこれまでにない勢いでナゼル氏を薙ぎ払い、軽々と吹き飛ばされた彼の身体は岩の間に落着して微動だにしなくなる。
「させるものですか」
一瞬、俺に向きかけた狂乱猛虎の意識をセレスが強引な攻撃で己に引き戻す。俺は脅威にならないと判断されたに相違なく、奴らは二体でセレスの相手をすることに決めたようだ。
それを察したセレスがもはや自分に勝ち目はないとでも達観したのか、遠回しに俺に逃げろと言う。
「よく聞いて、ユウキ。私が時間を稼ぐわ。だから……あなたは戻って援軍を呼んで来て欲しい。領軍ならきっと動いてくれる」
そんな起死回生の策があるならとっくに手配されているはずで、俺をこの場から遠ざける口実なのは見え透いている。
とはいえ、現状追い詰められていることに間違いはない。
〈いや、違う。セレス一人ならそこまで無理をする必要はない。勝てないなら隙を見て裂け目に飛び込むことくらいは可能だろう〉
その場合、ヴァレリーを急いで救助するという目的は達成できなくなるが、自分が死んでしまえば同じことだ。それに穴の中には治癒師であるイングリッドもいるわけだから、回復しての再戦も不可能ではない。
〈そうしないのは俺がいるからだ〉
セレスがもし離脱すればこの場に残るのは生死不明のナゼル氏と俺だけ。当然、奴らが次に狙うのは俺ということになる。
そして俺には狂乱猛虎の追撃を掻い潜って正面突破する力はない。
どう足掻いても避難場所に逃げ込むことはできないだろう。
要するに俺のためにセレスは無謀な戦いに挑もうとしている。
だったら俺がすべきことは決まったも同然だ。
「何をしているの、ユウキ。急いで行くのよ」
「悪いけど、それには従えない」
俺は岩陰から完全に姿を現す。だが先程のセレスの動きを警戒してのことだろう、そうしても狂乱猛虎が即座に襲って来る気配はない。
代わりに、それを見たセレスがやや怒りを含ませた口調で言った。
「何を言ってるの? 他に手はないわ。今日冒険者になったばかりのあなたがまさか戦いに参加するなんて言わないでしょうね。かえって迷惑よ」
手ならある、セレスこそ私を見捨てて逃げろ──そう言おうとして口を開きかけたその時、視界の片隅に何かを捉えた。手だ。岩の隙間から覗く手が微かに動くのを目撃した。ナゼル氏であるのは疑いようがなく、一瞬開いて地面を掻くと、すぐにまた停止してしまったが、見間違いではなかった。
〈生きていたのか。良かった。それにしてもよくあの一撃に耐えられたものだ〉
どう見ても即死と思える攻撃だったのである。予想以上にナゼル氏は頑丈だったと見える。
それならこれから俺がやろうとしていることを鑑みて、このまま気を失っている方が彼のためになろう。
俺は今度こそセレスに退却を勧めようとして、あることに気付いた。
〈まさか、そんなことがあり得るのか? いや、しかし、仮にそうだとしたら……〉
脳裏に閃くひと筋の光明。二人が共に助かる唯一つの途。
その一方でもし想像が外れていれば俺もセレスも死ぬ、ほぼ確実に。
果たしてそれだけの賭けに出る価値があるだろうか?
「ユウキ……?」
「セレス……あなただけなら恐らく助かる方法があるわ。自分でもわかっているんでしょ? 私はそれをあなたが選んでも一切恨まない。いいえ、むしろそうして欲しいとさえ望んでいる──逃げて」
そう言った途端、セレスは目を大きく見開いて俺を睨んだ。そして次の瞬間、烈火のごとく怒り出す。彼女がここまで怒気を露わにするのは俺が知る限り初めてだ。
「ふざけないで。それはあなたを見捨てろってことよね。冗談じゃないわ。そんなことをするくらいなら今すぐ死んだ方がマシよ。私を殺したいの? だったら簡単よ。死ねって命じればいいわ。あなたが言うなら黙って従ってあげる」
どうやら本気らしい。今にも実行してしまいそうで些か怖い。こうなったら彼女を説得するのは無理そうだ。
ならば残された手段はあれしかなかった。
「いいわ、本気なのね。だったら命じるしかない」
俺は一言一言を確かめるように口にした。
「いいこと、セレス。絶対に死ぬことなく、私を護り抜いて」




