1章 7・16(金) ①
仕事を終え、すっかり暗くなった空の下帰路につく。夏本番を迎え陽が落ちるのは遅くなったはずだが、夕焼けを見られる時間にすら帰れない毎日だ。大阪の小さくない市役所で働いているが、公務員は楽だとかそんな言葉を信じ込んで就職した自分を恥ずかしく思う。毎日やりがいも感じない業務に辟易するばかりだ。
金曜の晩であるにも関わらず予定もないし――というか毎日の残業に疲れ飲みにいく元気もない――、結局晩ご飯はお決まりのスーパーの半額弁当だ。普段なら弁当のみを買うところ、今日はビールのロング缶も買った。友人と予定を合わす元気こそないが、華金だし、なにより来週の月曜日は祝日なので三連休である。スケジュール帳は空白のままになってしまっているが仕事を完全に忘れてゆっくりするだけでももう幸せを感じる。テンション高く、つい弁当を振りながら早足になってしまったタイミングで視界に人影を捕えて思わず縮こまる。気を抜いたその姿を他人に見られたことが恥ずかしく、その向かいからやってくる人影から目を背けつつすれ違う。つもりだった。
「お兄さん、ちょっと」と若い女性の声が聞こえた。
振り向くとすらりとした肢体に長い髪のシルエットが確認できる。年齢はまだ二十歳にならないくらいではないだろうか。おそらく淡い色のワンピースにスポーツサンダルという出で立ちで、近所の買い物にでも行くようなラフさがあるにも関わらず、どこかから飛び出てきたようなこの住宅街にそぐわない異質な雰囲気を感じた。
自分に対しての声掛けではないのではとも考えたが、いつもは住民が多くいる公園の脇なのに今に限って通行人は自分だけだ。おそらく間違いない。身体を反転させると彼女もこちらに少し距離を詰めてきて口を開いた。
「お兄さん、名前なんて言うの?」なんていきなり聞かれる。関西弁に近いようだけど少しイントネーションが気になる。道案内かと思っていたので言葉に詰まった。見知らぬ人に路上で名前を聞かれるなんて経験したことがない。
「あ、別に怪しい人間じゃないから。なんて言っても怪しいんだけど」と、まるで信じることができない台詞だったが彼女はそのまま続ける。
「私は、亜美っていうの」と名乗られたので、自分だけ返さないのも、と思い名前を告げた。亜美はそれを聞いて少し目を大きく開くと、安心したような、喜んだような微妙なニュアンスの顔を見せた。
「その袋の方って何入ってるの?」と弁当の入ったビニール袋を指さしてくる。どんな主旨の質問か分からないが嘘をつく必要もないだろうとそのまま中身を伝える。
「さっきスーパーで買ったお弁当だけど。これがどうしたの?」
「もしかして私の分もあったりしないかな?」
明日の朝食分も買ったので女の子1人分くらいはあるが、質問の意図がまだ分からない。
「あるかどうかで言うならあるけど、どうしたの?」
「もしよかったらなんだけど、晩ご飯一緒に食べさせてほしいの」
「一緒に?この辺りならどこでもお店あるでしょ?」
「私実は家出してきたんだけど、全然この辺り土地勘なくて。勢いで出たからあまり持ち合わせもないし。荷物もこれだけだし」と言って彼女が見せたのは肩掛けの小さいポシェットだった。
「お金ないからってこと?まあ別にこれあげるくらいならいいよ」こんな弁当別に大した金額でもないし、渡すことは全然問題ない。また自分の分を買いに行けばいいだけだ。ちょっと珍しい出来事だから話のネタにでもなればいいと思い、袋ごと渡そうとした。
「いいの?ありがとう。でもできれば一緒に食べたいんだけどだめ?」
「ううん、それはちょっとね」と僕は断る。家出してきたと彼女は言っていたが実際本当のことかどうか分からない。一緒にいるタイミングで彼女とグルの男が言いがかりをつけてくるのもあり得そうだし、仮に本当のことだったとしても警察に職務質問でもされたらどうなるだろうか。彼女に何か怪しまれるようなことがあれば、僕も一緒にいるだけだということでは済まないだろう。更にそうなった場合に彼女が保身のため僕を売るようなことがあればもう何も言い逃れできない。無理やり未成年の少女を連れ回していることになってしまう。
「私一人で公園に居たら職質とかされるんじゃないかなって心配で。それもあるからお兄さんの家に居させてほしくて」と更に話が飛躍している。職質されたら危ないということが分かっているなら、その危険が僕の身に降りかかるかもしれないということも分かってほしいのだが。
「家は尚更無理だよ。家族の人が君のこと探したり警察に相談したりするかもしれないでしょ。勝手に家に来ただけで僕は関係ないなんて主張できないだろうし」
「家族は絶対に大丈夫。基本的に家に誰も居ないし、先生も何日か学校に来なかったくらいで今更警察に相談するとはないだろうし。何かあっても怪しいと思われないように振舞えるから。絶対にお兄さんに迷惑掛けないようにする」訴えるような瞳で彼女が懇願する。
かなり客観的に物事は見れているようだ。あれだけの荷物で家出してきたと言うので呆れを感じてしまっていたが、全くの考え無しでもないらしい。それだけ考えることができた上で家出したというのは何か大きな理由もあるのかもしれない。
ただ、それでも僕は自分の保身を優先することにした。彼女の言う通りであるならそれほどリスクというのはない。でも可能性はゼロにはならない。未成年と共に居たくらいでは実際ほとんどの場合大事にならないだろうが、ただ僕は公務員で、軽微な事件でもニュースに成りかねない。
彼女にそれでも駄目だと簡潔に伝えた。彼女は分かったと答えた。一瞬その目には悲しさが映ったように見えたが、すぐに作り笑いを浮かべていた。そうだよね、いきなりごめんねと言われたが僕は何も返すことができなかった。
罪悪感に苛まれないように持っていたスーパーの袋と千円札を何枚か無理矢理握らせて僕はその場を離れた。偽善であることは分かっていた。たかが数千円では何もできないのだ。自分にできることはそれ以上無かったと言い訳が欲しかっただけだ。本当につまらなくて、しょうもない人間だなと結局自分を責めながら家に帰る。
晩ご飯用に買った弁当を渡してしまったのでインスタントのラーメンを作って簡単に晩ご飯を済ませる。作り始めて食べ終わるまで10分かからないくらいだ。
汗のべた付きが気持ち悪いので一息も休まずそのままシャワーを浴びた。髪を乾かしてようやくベットに腰かける。そして気にしないでおこうと思ったものの彼女のことをやはり考えてしまう。彼女に背を向けた時からやはり気持ちが落ち着かない。赤の他人に縋られたこと自体初めてだが、ただそれだけでないような気がしていた。別れ際に見せた顔が脳裏に焼き付いている。期待を裏切られたにも関わらず、すっと自分の気持ちを押し殺しているかのように作った笑みをした顔のことだ。あの年頃で、自然に出た事が不自然に思えた。今回だけではなく彼女は普段からいつもあの顔をして過ごしているのではないかと考えずにはいられない。なぜそんな表情をつくるのに慣れているのか、彼女の置かれている環境まで気になってしまう。まったく他の事に気をやることなどできなかった。
時間を確かめる。もうあれから1時間は経過している。知り合いということではなく、初対面で、ただ家に来たいと言われただけだ。これ以上何か僕がする必要はないと思った。そう理由付けてその場に放置したのも僕だ。だけれど、どうしても気になってしまう。彼女に何かしてあげる必要なんてないのだと分かっている。それでも、もう一度公園に行くことにした。誰に説明することもないだろうけど、放置してしまった後味が悪かったからだ。彼女が可哀想に思った訳じゃない。決して。