30:諦めたくない(3)
ハーブをあっという間に燃やし尽くした炎は、今度はカウンターの方へと移っていこうとしていた。
頬に当たる熱の温度がどんどん上がっていき、耐えきれずに後ずさる。
「ルアンナ、こちらへ来るんだ。そうすれば、これ以上この店を壊さないと約束してやる」
男が炎に囲まれたまま、暗く沈んだ目でルアンナを見ていた。ルアンナは引きつった顔をして、がたがたと震える。それでも小さく拳を握り締めた後、ゆっくりと立ち上がった。
「それは、本当ですわね? 私が行けば、もうこの店にひどいことをしませんわね?」
「ああ、もちろん。俺は、君だけが目当てなのだから」
「……分かりましたわ」
ルアンナは覚悟を決めたように、一歩踏み出した。背筋をしゃんと伸ばしたルアンナは、完璧な令嬢そのものだった。
毅然としていて、凛として、美しい。リーニャは思わず見惚れてしまう。
けれど、すぐにはっとして、ルアンナの腕を掴んだ。
「だ、駄目です! 危ないです!」
「私のせいで、これ以上このお店に迷惑をかけるわけにはいきません。護衛の者を外で待機させてしまった私が悪いのですわ。大丈夫、なんとかしますわ」
「でも、こんなに震えてるのに!」
リーニャとルアンナの目が合った。ルアンナの瞳が、不意に潤む。
その時、焦れたように熱風が吹きつけてきた。
「何をしている。早く来るんだ、ルアンナ」
男が目深にかぶっていたフードを取り、イライラしたように手を伸ばしてくる。
男の感情に呼応して、炎がどんどん勢いを増した。煙が充満して、呼吸が苦しくなってくる。
熱い。熱くて熱くてたまらない。
煙が目にしみて痛い。
苦しくて、何度も咳き込んでしまう。
それでも、リーニャはルアンナの腕を離せなかった。
男がいつまで経ってもルアンナが自分のところに来ないことに気付き、怒りに目を見開く。充血し、真っ赤に染まった目は、まるで死神のもののように思えた。
男のかさついた唇から、意味不明のうめき声がこぼれ落ちる。
そして、次の瞬間、男は手の中に炎の玉を作り、それをリーニャたちの方へと投げつけてきた。
「きゃあ!」
リーニャはルアンナを抱えるようにして、炎の玉からかばう。炎の玉はリーニャの髪の毛の先に当たり、そのまま壁にぶつかって弾けた。
髪の毛の焦げる嫌な臭いがして、リーニャはまた咳き込んでしまう。
「リーニャ様、もう、充分ですわ。私、行きますから」
腕の中にいるルアンナの言葉に、リーニャはぶんぶん首を振った。
男はとうとう我慢の限界に達したようだった。次々と炎の玉を生み出した後、リーニャとルアンナの方へゆっくりとその黒ずんだ指先を向けてくる。
「燃え尽きてしまえ」
炎の玉が意思を持ったかのように揺らめき、勢いよく飛んでくる。
――ああ、もうここまでだ。
どんなに心の中で助けを呼んでも、もう間に合わない。
ならば、せめてこの状況下でできる最善を尽くすしかない。
リーニャはルアンナの体をぎゅっと抱き締めた。
(私、最後くらい、ちゃんと強くなれましたよね)
恐いことからは、いつも逃げてきたけれど。
何度も何度もくじけては、べそをかいてきたけれど。
もう、逃げたりなんかしないから。
(フェリクス様の大切な人を、守りきってみせます!)
熱が、リーニャの首筋に届いた。
――その時。
「リーニャ!」
声が、聞こえた。
続いて、涼しい風が吹き、急速に周りの熱が引いていく。一気に息がしやすくなった。
「リーニャ、大丈夫?」
また、声が聞こえた。今にも泣きだしそうな、震え声。
リーニャは振り向き、声の主を探す。
(この声、この声は……)
柔らかそうな金の髪。綺麗な翠の瞳。
王都警邏隊の制服を身にまとった天使のような美少年が、入口のところに立っている。
「フェリクス様」
リーニャはフェリクスの方へ、手を伸ばす。
フェリクスはこくりと頷くと、すぐさま駆け寄ってきてくれた。そして、リーニャの手を取り、ぎゅっと握ってくれる。
「リーニャ、怪我は?」
「してません。ルアンナ様も、無事です」
「……ルアンナ?」
フェリクスが怪訝そうに眉をひそめると同時に、リーニャの腕の中にいたルアンナがぴょこんと顔を出した。
「フェリクス様ったら、リーニャ様しか見てませんでしたわね」
「そりゃそうでしょ。この状況下で、リーニャ以外に何を見るっていうの」
「……とりあえず、あの男くらいは見た方が良いと思いますわ」
フェリクスが現れたおかげで、ルアンナは一気に冷静さを取り戻したようだった。男を指さして、フェリクスの肩を急かすように叩く。
「あの男、呆然としてますわ。今のうちに、早く」
「言われなくても捕まえるし!」
フェリクスがすねたように呟く。それから、リーニャの方へ改めて向き直ると、ほんの少し頬を染めて微笑んだ。
「待ってて、リーニャ。すぐ終わらせるからね」
リーニャはただ頷くくらいしかできなかった。胸がやたらドキドキしている気がするけれど、これは先程までの緊張が残っているせいなのか、はたまたフェリクスの微笑みのせいなのか、よく分からない。
フェリクスが立ち上がって、男と対峙する。
「僕の大切な人を恐がらせるなんて、本当に良い度胸をしてるよね。覚悟はできてる?」
「な……お前、あの時の」
「言っとくけど、あの時よりも今の方がもっと機嫌悪いからね。手加減できなくても、我慢してよね」
「ひっ……」
あからさまに男が怯え始めた。
どうやらこの男、自分より弱そうな人の前でだけ偉そうに振る舞うタイプだったらしい。
すっかり炎も消えた店内。
男は自分の置かれた状況が不利と見るや、なりふりかまわず逃げ出そうとした。
「無駄だよ」
フェリクスが指先を男に向け、金色の光を伸ばしていく。その光は男の手足に絡みつき、その動きを封じた。それでも、男はジタバタと最後の悪あがきをする。
「俺は悪くない! 悪いのは、この俺の気持ちに応えないルアンナだ! ルアンナが俺の言うことを聞いていれば、王宮魔術師の職を失うこともなかったし、罪人扱いされずに済んだんだ!」
「ああもう、うるさいなあ。ちょっと静かにしてくれる?」
金色の光が男の口を塞いだ。男はしばらく低い唸り声を出して暴れていたけれど、だんだん勢いを失くして床にへたり込む。
リーニャはドキドキしている胸に手を当てて、フェリクスが男を捕らえる様子をじっと見守っていた。
この胸のときめきは、簡単には忘れられそうにない――そんな予感を抱きながら。




