三十五話 ケモノのからだ
――エモノは近い。
毛の一本一本が、静電気をおびたようにケバ立つ。
姿は見えずとも、全身が異物を感じとっている。
獣の感覚とはこのようなものか。
耳はあふれる機械の駆動音から息づかいを聞き分け、目は闇の中に溶け込んだ輪郭を浮かび上がらせる。
足裏に伝わるのは振動、エモノの歩くさまを確実にとらえる。
跳躍する。
軽い。これだけの巨体にもかかわらず、床はみるみる遠ざかっていく。
ミシリと音をたてて鉄柵がゆがんだ。
軽く足をのせたのは、ジェットコースターを囲うフェンス。いかに鉄製といえどこの体重を支えるほどの強度はないのだろう。
しかし、それでかまわない。私の体はすでに二度目の跳躍を終え、コースターのレールへと飛び移っていたから。
エモノはどこだ?
――いた。遊覧船の座席のすきま、銃をにぎりしめて息をひそめる男がみえた。
隠れているつもりだろうが上からは丸見えだ。短い跳躍を数度くりかえして地面におりると、男の背後に忍び寄る。
遊覧船が大きく揺れた。わたしが船のへりへと飛び乗ったからだ。
驚いた男が振り向こうとする。
だが、おそい。その頭を軽くなでてやると、熟れたザクロのように破裂した。
弱い。弱すぎる。
これじゃあダメだ。ぜんぜん物足りない。
そのとき獣の雄たけびが聞こえた。
ほかの誰かがエモノを狩った勝鬨か。
向こうを狙えばよかったか?
まあいい。狂人など今のわたしにとってはドブネズミにも等しい。
どこかに思う存分、力をふるえる相手はいないのか。
――そうだ。ネズミだ。
シュタイナーを乗っ取り、わたしから銃とイザベラ(体)を奪ったアイツ。
あのネズミの王なら私を満足させてくれるかもしれない。
誰もジャマするなよと一声あげると、パペットシアターに向けて駆けだした。
――――――
グシャリとネズミを踏み潰す。黒い絨毯に血の花が咲く。
歯向かうものなどいやしない。逃げ惑う小さきものどもを追いかけ、爪をふるう。
「ギィー、ギィー、ギィー」
不快な鳴き声も、いまは心地よい。
きりさき、噛みつき、血肉をすする。
お前たちの親玉はどこだ? スンスンとにおいをかぐと、獣くささの中に人工のかおりを見つけた。
香水だ。イザベラにちがいない。
より匂いの濃い方へとすすんでいく。
そうして、たどりついたのはパペットシアター。どうやらねぐらは以前と変わらないようだ。
ロビーの真ん中には落ちたままのシャンデリアがある。
その先には少し開いた扉があり、隙間から幾本かのワイヤーが見えた。
相変わらずか。工夫がないな。
しゃらくせえ。シャンデリアを殴りつける。
フレームだけとはいえ百キロはくだらない。しかし、シャンデリアは勢いよく床をすべり、扉へ衝突した。
おジャマするよ。
外れてしまった戸口からシアター内部へとあゆみ入る。
ターン!
響く銃声。シャンデリアのフレームが火花を散らす。
おそい。おそい。
すでに横に跳ねていた私は、つづいて放たれる弾丸をかわしながら、弾のでどころをさぐる。
――あそこだ。三階の客席。
跳躍。そして、跳躍。
あれよという間に三階へと到達すると、カービン銃をもった女の姿をとらえた。
イザベラ~、いや被検体7723だったか?
その体はわたしが借りたんだ、返してもらうぞ。もちろん利子をつけて。
イスを蹴散らし距離をつめる。床がめくれてボルトが舞う。
被検体7723が背を見せた。逃げる気だ。
だが、逃がさない。時間も体もゆずらない。
ヤツが一歩をふみだすより早く、その足元をかるく手でさらった。
まるでオモチャように宙を舞う被検体7723。そして、背中から落ちるとゴボリと血を吐きだした。
「ナゼ、オレを……」
息もたえだえ、言葉をしぼりだしている。
なぜって?
そうか、わたしが誰だかわからないか。
だが、それでかまわない。わたしが捕食者で、オマエが被捕食者だからだ。理由なんてそれでいい。
ヤツの胸の上に前足を乗せると、ゆっくりと体重をかけていった。
この程度か。あっけない。
心臓がつぶれてしまった被検体7723に背をむけ、下り階段へとむかう。
途中、ふと、床に転がる手りゅう弾が目に入った。
わたしが持っていたものだな。用途がわからなかったのだろうか、それとも、すぐに投げられるよう転がしていたのか。
下り階段の先を覗く。
机やら椅子やらがバリケードのように積まれているのがわかった。
なるほど、これで足止めして手りゅう弾を使う手もあったのか。
すまないな、階段から来なくて。
さて、イザベラ。ちゃんと体を取り戻したぞ。
ちょいと傷んでしまったが、いつでも取りに来てかまわないからな。
ホールに向かって身を投げる。
三階からの飛び降り。人の体ならタダではすまない。しかし、この体なら何の問題もない。
ひらりと地面に着地すると入ってきた扉へと向かった。
つぎに目指すは始まりの地。
このまま獣の体で過ごすのも悪くないのではないか、そんな考えがチラリと頭をよぎった。




