十九話 欲するもの
まあ、ボタンを押すのはいつでもできる。
ひとまず恒例の物資漁りといきますか。
ロッカーや引き出し中だけでなく貼られた紙も剥がし、物色していく。
だが結局、目ぼしいものは見つからなかった。
退去する際、持ち出したのだろう。
しかし、ある意味、物資以上に重要な物を見つけた。
日誌だ。
執筆者はアマンダ・ロッテンバーグ。保育施設の責任者と思われる人物だ。
書かれている内容は、ほとんど被保育者に関するものであり、私にとって価値などまるでない。
しかし、最後の方にあった一文。
『ベン・カフスマン。最大の支援者である彼の頼みを断ることは難しい』に目を引かれた。
ここでも『ベン・カフスマン』か。
奴は資産家だが、慈善家ではない。実際に会ったワケではないが、断片的に残された物証からそれは間違いないだろう。
何かの目的があって融資した。あるいは寄付か。
いずれにせよ、慈愛による行動ではないはずだ。
ならば見返りとは何だ?
以前出会ったB.J・シュタイナーと、その研究。
ネズミに過度の知性を与えるといったものだ。
結果はどうなった?
相手の精神を乗っ取る力、すなわちサイコダイブ能力者の出現だ。
ならば、ここで起こった不思議な出来事にも、ひとつの方向性を見いだせるのではないか?
サイコダイブの能力を得るための実験の一環、あるいはその先――
ここで私の思考は中断された。
なぜなら小さな電子音、すなわち扉のロックを解除する音が聞こえたからだ。
素早く机の後ろへ身を隠すと、扉に向かって銃を構える。
扉が開き姿を見せたのは、白いシャツにピンクのエプロンを着た女。
胸から流れたおびただしい血で、身を赤く染めている。
あれは、私が撃ち殺した女だ!!
死んでなかった?
いや、そんなハズはない。呼吸、脈の停止だけでなく、ライトを当て、瞳孔の対光反射の消失までも確認した。
ゾンビかよ。
チッ、頭を狙うか?
いや、映画じゃあるまいし、脳死者の脳を破壊したところで意味などないだろう。
動けぬよう、手足の骨を粉砕するか。
入手したばかりの暴徒鎮圧用スタンガンを握る。
神経を伝達するのは微弱な電気。こればらば一石二鳥。
血まみれの女は、足を引き摺りながら進む。
首は横に傾き、半開きの口からは、舌がデロリと垂れ下がる。
後続は見当たらない。
入ってきた扉は閉まり、再び開く気配もない。
何か妙だ。
女はこちらに興味を示さず、手をついたまま、ただ壁沿いを歩いている。
目が見えてないのか? それとも手をつかねば立っていられないのか?
何をしたいのか分からん。
どうすべきか、決めあぐねる。
やがて、女はある地点で立ち止まり、こちらに背を向けると透明のカバーを外し、エマージェンシーボタンを押した。
な!!
扉が開いた。と同時に女がその場に崩れ落ちる。
どういうことだ?
女を視界に納めながらも、扉まで進み外の様子を確かめる。
扉が開いていた。
ここだけではない。見える範囲にある扉全てが開いていた。
「ガァオオオー」と獣の雄たけびが聞こえた。
遠いながらも、腹の底をゆさぶる巨大な咆哮。
クソッ、やはり罠か。
雄たけびから伝わってくるのは怒り。閉じ込められたことに対するものなのか。
正体は分からない。が、とにかくあれはヤバイものだ!
その時、袖を引かれた。
逃げられぬよう押さえる気か! と思ったが、そうではないらしい。
クイクイと軽く、何度も引く。
まるで、早く早くと子が親をせかすような気配を感じる。
私は抵抗せず、引かれるまま走っていく。
そうして辿り着いたのは、区画のつなぎ目だろうと思われる通路。
そして、閉ざしていたシャッターはない。
さっさと逃げろということか。
結局、見えない何かが、私に何を求めていたか分からない。
分かろうとも思わない。
だが、ベン・カフスマン。奴が何を求めていたかは予想がつく。
サイコダイバーとは別に無敵の存在ではない。
乗り移りができるだけで、死は等しく訪れる。
だが、死してなお、その精神を留めることができるとすれば、神に等しき力を得るのではないか。
ドン! ドン! ドン! と地響きがなる。
大きな何かが向かって来ていると感じる。
ぐずぐずしてはいられない。
私は次の区画めざして走り出した。