玖
水底で聞く、鼓動にも似た、不思議な声の元へ。
我々は木の根や、折れた枝を踏み越えながら、獣たちによって踏み固められた道を進んだ。
猪か鹿か。彼らが毎日通った為に出来たらしい道は、人間や一輪車に乗った人魚が使う事を想定されていない。
脇道に逸れてから。私と海崎は、飲んだ息を吐き出し忘れたかのように、黙していた。
足元が見えないので、木の根を踏み越える度に、車体が倒れないよう、両の手へぐっと力を込める。手足に体中の熱が集中していた。
先程の様に走れない代わりに、確実に進むことを心掛けた。周囲から他の人間の声はしない事に安心を覚えると同時。虫や獣の息遣いさえもしない事に気が付いたのは、どのくらい歩いた頃だろう。
何か硬いものを踏んでしまい、一輪車の車体が大きく跳ね上がった。
「きゃあ!!?」「ギャン!!?」
延々、続くかのように思えた不思議な沈黙を破ったのは、一本のシャベルだった。
「あっぶないなぁ!誰だ、こんな所に置きっぱなしにしたバカたれは!」
犯人を探すため、人気の無い周囲を見渡した。
「ちょっと、あれ……」
「何だよ」
海崎の指が差す先。
獣道が途切れた一帯。ここに辿り着くまで周囲を覆っていた腰丈の夏草が、公園の芝生のように、低くなっていた。そして、その向こうには黒々とした洞穴、ではなく、見慣れた人工物。トンネルがぽっかりと口を開けていた。
「なぜこんな山奥にトンネルがあるんだ」
「知らないわよ」
そう答える海崎も、なにか異様なモノを感じているのだろう。
山道を抜けてやっと見つけたそれは、闇夜に浮かぶ不気味さも然る事ながら、私たちの鬼気迫る緊張状態をのぞいて尚、異様だった。
高さは3、4m。周囲の木々や雑草がトンネルを過剰に縁取っており、押し潰さんとするように、深く茂っている。
そうか。圧倒するほどに深く茂り、自由奔放に四肢を伸ばす草木が、入り口だけは塞ぐのを憚るようにしていたのだ。
全く型抜きのように草が無いわけではない。しかし、蔓草や枝垂れた枝が、少し前髪の様に掛かっている程度で、穴を埋めないように気を付けているように見えた。
そして気になった事がもう一つ。トンネルの周囲には道らしい道が一つも無い。
否、道ならあった。我々がたった今抜けてきた、背後にある獣道。しかし、それは獣の為にある道で在って人の為に造られたモノではない。トンネルとは、人が使う為に、人の手によって作られたもの。
周りは四方草木に囲まれているが、我々が知らないだけで、近くに旧道でもあったのだろうか。
固唾をのんで、トンネルの目の前まで近づくと、薄墨色の内壁に、いくつもの染みと水が這った跡。トンネルの名前が書かれていたであろうプレートが入り口の天辺にあったが、錆びついていて、読むことは叶わない。
「奥から風が吹いているのね」
「どこかに通じている、という事か?」
確かに、時折薄っすらと湿気の含んだ風が吹き抜けるが、中は暗闇で果てが見えない。
一寸の沈黙の末、互いの探るような目がぶつかった。
先に「ふっ」と笑い出したのは、どちらだっただろう。
「本当に行くの」
「獣道を戻って、海に向かう場合。行きつくまでに、人通りの多い道を通らねばならん」
人魚を乗せた一輪車なんて、逃げるには目立ちすぎる。岩谷や、先程の男たちに見つかったら最悪だ。
「下手に山道を歩き回って遭難をしても嫌だしな」
捜査ヘリが出るような事態になっても困る。救助隊が来て、山で蹲る女子高生と人魚を見られたらどうなる事だろう。
「二進も三進もいかんのだ」
「一か八か行ってみようってわけね」
互いに決意を認め、トンネルの口に足を向けると、静寂を打ち破る破裂音が辺りに響いた。
驚き過ぎて声も出ずに振り返ると、ゆったりとした足取りの岩谷が、微笑みかけていた。
それは我々に教鞭を振るう、尊敬すべき教師の顔ではない。蜜飴の如くねっとりとして絡みつくような甘い目と、厭らしい欲望を纏う、意地汚い人面獣心の、大人の顔であった。
手元には、薄っすらと煙の立ち上る拳銃が握られている。銃刀法違反ではないのか。
「あら、嫌だわ。前途ある二人の為にスタートラインを切ってあげようと思ったのに、外しちゃった」
白い指が、しっかりと引き金に掛かっているのが、離れた場所からでも分かった。
「二人とも若いから、将来有望ね」
「おいおい。ここは日本ですぜ、センセー」
「ここが日本だろうと、アマゾンだろうと、私の前では私がルールよ」
ハートの女王のような事を言う人だ。
「……あんた何者だよ」
「やぁね、氷室さん」
何を今更、とでも言うように、岩谷は小首を傾げて言った。
闇を纏った、野性味溢れる山の木々が、大きな獣の形を取って岩谷に仕えているようだ。
「私は教師よ?若者の未来を社会に売るのが仕事」
恐ろしい事を言う。
「先人として、あなた達が社会に出て、一番輝けるようにエスコートしてあげようと言っているのよ」
「豚のようにバラされて売られるのは御免だ」
「豚は残す部位があるけど、人魚は鳴声も爪先も売り物になるのよ?」
可愛い女の子もね。岩谷は言い足した。褒められて、これ程嬉しくないのも珍しい事だ。
「五月蠅いおばさんね」
海崎が低い声で言った。
「道も、同伴者も、自分で選ぶわ。アンタみたいな醜女じゃ、役不足よ」
首をひねり、同い年の青年に相応しくない妙に艶のある声で、海崎は断言した。
「私の血を受けるには、器が小さすぎるわ」
海崎の声を聞いた瞬間、全身が総毛立ち、緊張が走った。岩谷も目を見開いて固まっている。
それが、初めて聞いた海崎の声に驚いての事なのか、喋り口調に対してなのか、将又おばさん呼びをされた事に対する、怒りと羞恥の為なのか。
「一回教員免許を取り直して来いよ!おばさん」
図らずも、場の空気に釣られて硬直してしまった自身の殻を打ち破る為に、私は声を張り上げた。目の前の女には敬称も、先生という役職を付ける必要も無い。
岩谷は、ハッとすると青筋を立てた。
「あんた達を売ったら、寿退社をするから必要ないわ。金があれば、男は寄って来るもの」
「センセー自身は、中身据え置き。定価ゼロ円ですね」
一陣の風が、周囲の闇を大きく揺らした。
それが、大きな獣が毛を逆立てたように見えたのは、きっと目の錯覚だろう。
しかし、風に乱れた髪の間から見えた、岩谷の冷ややかな目は錯覚などではなかった。
「あっははははははははは!」
金曜ロードショーかドラマでしか見た事の無い、高らかな笑い声。
「プライスレスと言って頂戴‼」
背後から追いかけてくる発砲音から逃げるべく、両手足に力を籠め直し、私と海崎はトンネルの中へ駆け出した。
◇
風が、口笛にも似た、男とも女ともつかない、美しい響きと、湿気を纏って抜けていく。
季節を忘れそうな、ひやりとしたトンネルの中、手持ちの明かりは何もない。
それでもここに来るまでに目が暗闇に慣れたおかげか、薄っすらとした輪郭と明暗は確認できた。
トンネルの内部には水染みはあれども、苔生した場所は一つも無い。時折、飛び出す錆びた鉄骨を躱しながら、一輪車の騒々しい駆動音を響かせて、走っていた。余計な言葉を交わせば、舌を噛みそうだ。
己の激しい息切れが、落し物の様に後ろへ流れていく。
背後からヒールの鳴らす足音が、中を反響して響いて来た。
私と海崎が逃げきれない事を確信しているような足取りに、焦りは拭えない。其れでも一縷の望みを掛けて真っ黒な闇の中を抜けていく。
幾らスタミナに自信があろうとも、己の足に自信があろうとも、体力は擦り切れていく。
ここに来るまでにも、不安定な道をずっと走ってきていたのだ。意地と気合と恐怖で、一輪車を押していた。
「ゆう」
「あぁ」
目の前の光景が信じられなくて、気の抜けた返事をしてしまった。
「池だ」
整わない息を吐き出しながら、目の前で波打つ水溜まりをそう呼んだ。
どこからか、雨水が染み出して出来たのだろうか。トンネルの中で、なみなみと水が張っている。道は水底に消えて、見えない。水溜りのように薄く張っているだけかと思い、一輪車を押して進んだが、そのまま下り坂になっているようで足首、膝と水に漬かってしまった。一輪車の車体が水に漬かって尚、まだ下り坂は続いている。
ちょっと道が陥没しました、という感じではない。
「その事に気が付く段階はもうとっくにすっ飛ばしているわね」
「どんどん深くなっているみたいだ」
どこまで水が張っているのか。池の端を探そうと目を凝らしても、先は見えなかった。
水の回廊が闇の中に続くばかりである。
「磯の匂いだわ」
「は?山の中だぞ」
海崎の声に、思わず間抜けな声が出た。そんな馬鹿な、と思いながら水面をよく見ると、それは確かに押したり引いたりを繰り返している。
「ほら、水面の縁。壁を見て。黒く、水の跡が付いているわ」
潮の満ち引きがあるのよ、と海崎は言った。
「つまり、何処がしに……、海に繋がっているという事か」
「もしかしたらね」
「そんな馬鹿な」
次は声にも出た。海崎も言いながら、自分の言葉を信じ切れずにいる事が伝わってきた。
カツン、カツン。
背後から迫るヒールが床を打つ音に、思考を打ち切る。膝に力を込め、一輪車の車体を「どっせい」とばかりに、前方に傾けた。
でんぐり返し、海崎が転がり落ちる。傾いた一輪車は海崎の上に被さらない様に横へ倒し捨てた。
「乱暴にしないでよ‼」
「お前、先に行け」
「はぁ?」
海崎は怒気を含んだ声で、私を睨み据えた。
「あんたこの期に及んでどういうつもり」
「…………だ」
「?聞こえないわよ」
「私は泳げないんだ‼」
「……はぁ?」
風船の絞った口を離したような、海崎の気が抜ける音が、聞こえそうであった。
素っ頓狂な声を上げた海崎は言葉の意味を解釈し、飲み込むのに咀嚼が必要だったらしい。ぱちくりと目を瞬き、一度ぽかんと開けた口を閉じた。
「私は泳げないんだ」
己の羞恥をもう一度告げる。
「……あんなに運動神経がいいくせに」
「関係ないだろうが!」
ちょっと、鼻声になった。それはそれ、これはこれなのだ。
兎に角、私は強くなった。武器を持った男にだって負けない力を付けた。同じことは繰り返さない。次こそは大丈夫。私は――――
「ばかね」
海崎はふふ、と笑って言った。
「傲慢だわ。私だって、貴方みたいに強くは無いかもしれないけど、あの頃のように頼ってばかりの甘ちゃんでもないのよ」
一方的に守られてばかりだなんて、フェアじゃ無いでしょう?
「次は私に守らせて」
海崎はそう言って、私に手を差し出した。
守られ、庇われ、後ろからあなたの背中を見ているのはあまりに辛いのよ。
隣を歩きたいの。その為に足を手に入れたのよ。
貴方が進めない道があるのならば、私に手を差し出して欲しいわ。
貴方がしてくれたように、私が貴方の手を引くから。
「私、あなたとは対等で居たいの」
背後から、ヒールの音が消えた。
にんまりと笑う岩谷の姿を背に、私は海崎の……保の手を取った。
◇
「なにこれ、水溜まりじゃなかったの?」
ヒールの先で、足元に転がる石を蹴り上げると、石は弧を描いて飛んでいき、音を立てて水底に消えた。
人魚は、少女を抱えるような形で背面に倒れ込むと、蹴り飛ばした石より深く、滑るように水底へ消えてしまった。
少女の背中に目掛けて放った銃弾はトンネルの壁を弾いて消えた。
岩谷は名前も知らない拳銃の安全装置を装着し、片手で持て遊びながら水面を睨んだ。
「やっぱり駄目ねぇ。何時も、あいつらに任せていたから、油断しちゃった」
鼻から息を吐く。漂う磯の匂いが煩わしい。
磯の匂いって臭くて、べたつく感じが嫌なのよね。
「拳銃を持つのも久しぶりだったし」
言い訳っぽく独り言ち、次の策に頭を切り替えた。
やっと掴んだ人魚の尻尾だ。逃す訳にはいかない。
「あの娘の家は分かっているのだから、そこに張ろうかしら?」
何故かあの人魚は小娘、氷室に執着を見せている。
平和ボケした子供の考える事だ。逃げるにしろ、隠れるにしろ、氷室は一度、家に向かうはず。家族でも縛って、ちょっと脅してやれば、直ぐに人魚を差し出すだろう。それが無理ならば、氷室本人を針に吊るして、人魚を釣ればいい。
逃がさない。岩谷は暗い瞳で笑った。
「にゃあ」
反射的に岩谷が振り返ると、一匹の猫が居た。
緩やかな動きで尻尾を揺らし、金色の瞳で自分を見ている。
「どうしてこんな所に……」
何だろう。やけに嫌な汗をかいている。岩谷は細い腕で、じっとりと湿る額を拭った。
そういえば、先程までトンネル内を抜けていた風が、もう止んでいる。
猫を見ていた視線が、何故か足元に落ちた。
影が無い?
違う。自分の周りを大きな影が覆っているのだ。
そこで気が付いた。
光源の無いトンネルの中で、どうして私は私の影を認識できているのか?
連絡用のスマートフォンはポケットの中に入ったままだ。
月明かりの届かないトンネルの奥深く。どうして私はこの景色を見る事が、認識する事が、出来ているのだろうか?
乗り捨てたられた一輪車を、足元で波打つ塩水を、目の前でこちらをじっと見据える猫を見る事が出来ている?
汗でじっとりと湿っているのに。氷水を被せられたような気がした。
今すぐここを離れなければいけない‼
瞬発的に走り出した足を、伸ばした指を、振り乱した髪を。
大きな水の塊が、頭上から飲み込んだ。
ゴポン。
静かに、押しては返す波際。毛繕いをする猫の傍らには、いつの間にか一人の老人が杖を持って、立っていた。
◇
深い青の中で、何か重い音を聞いた。腹の底に響くその音は地響きのような、マグマが駆けるような、鼓動を真横で聞くような、まるでなにかが胎動するような音だった。
ひどく恐ろしいのに、どこか懐かしく愛おしかった。
次でラストになります。
もう少し、お付き合いください。