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海の声  作者: 菊池与太
9/10

 水底で聞く、鼓動にも似た、不思議な声の元へ。

 我々は木の根や、折れた枝を踏み越えながら、獣たちによって踏み固められた道を進んだ。

 猪か鹿か。彼らが毎日通った為に出来たらしい道は、人間や一輪車に乗った人魚が使う事を想定されていない。

 脇道に逸れてから。私と海崎は、飲んだ息を吐き出し忘れたかのように、黙していた。

 足元が見えないので、木の根を踏み越える度に、車体が倒れないよう、両の手へぐっと力を込める。手足に体中の熱が集中していた。

 先程の様に走れない代わりに、確実に進むことを心掛けた。周囲から他の人間の声はしない事に安心を覚えると同時。虫や獣の息遣いさえもしない事に気が付いたのは、どのくらい歩いた頃だろう。

 何か硬いものを踏んでしまい、一輪車の車体が大きく跳ね上がった。

「きゃあ!!?」「ギャン!!?」

 延々、続くかのように思えた不思議な沈黙を破ったのは、一本のシャベルだった。

「あっぶないなぁ!誰だ、こんな所に置きっぱなしにしたバカたれは!」

 犯人を探すため、人気の無い周囲を見渡した。

「ちょっと、あれ……」

「何だよ」

 海崎の指が差す先。

 獣道が途切れた一帯。ここに辿り着くまで周囲を覆っていた腰丈の夏草が、公園の芝生のように、低くなっていた。そして、その向こうには黒々とした洞穴、ではなく、見慣れた人工物。トンネルがぽっかりと口を開けていた。

「なぜこんな山奥にトンネルがあるんだ」

「知らないわよ」

 そう答える海崎も、なにか異様なモノを感じているのだろう。

 山道を抜けてやっと見つけたそれは、闇夜に浮かぶ不気味さも然る事ながら、私たちの鬼気迫る緊張状態をのぞいて尚、異様だった。

 高さは3、4m。周囲の木々や雑草がトンネルを過剰に縁取っており、押し潰さんとするように、深く茂っている。

 そうか。圧倒するほどに深く茂り、自由奔放に四肢を伸ばす草木が、入り口だけは塞ぐのを憚るようにしていたのだ。

 全く型抜きのように草が無いわけではない。しかし、蔓草や枝垂れた枝が、少し前髪の様に掛かっている程度で、穴を埋めないように気を付けているように見えた。

 そして気になった事がもう一つ。トンネルの周囲には道らしい道が一つも無い。

 否、道ならあった。我々がたった今抜けてきた、背後にある獣道。しかし、それは獣の為にある道で在って人の為に造られたモノではない。トンネルとは、人が使う為に、人の手によって作られたもの。

 周りは四方草木に囲まれているが、我々が知らないだけで、近くに旧道でもあったのだろうか。

 固唾をのんで、トンネルの目の前まで近づくと、薄墨色の内壁に、いくつもの染みと水が這った跡。トンネルの名前が書かれていたであろうプレートが入り口の天辺にあったが、錆びついていて、読むことは叶わない。

「奥から風が吹いているのね」

「どこかに通じている、という事か?」

 確かに、時折薄っすらと湿気の含んだ風が吹き抜けるが、中は暗闇で果てが見えない。

 一寸の沈黙の末、互いの探るような目がぶつかった。

 先に「ふっ」と笑い出したのは、どちらだっただろう。

「本当に行くの」

「獣道を戻って、海に向かう場合。行きつくまでに、人通りの多い道を通らねばならん」

 人魚を乗せた一輪車なんて、逃げるには目立ちすぎる。岩谷や、先程の男たちに見つかったら最悪だ。

「下手に山道を歩き回って遭難をしても嫌だしな」

 捜査ヘリが出るような事態になっても困る。救助隊が来て、山で蹲る女子高生と人魚を見られたらどうなる事だろう。

「二進も三進もいかんのだ」

「一か八か行ってみようってわけね」

 互いに決意を認め、トンネルの口に足を向けると、静寂を打ち破る破裂音が辺りに響いた。

 驚き過ぎて声も出ずに振り返ると、ゆったりとした足取りの岩谷が、微笑みかけていた。

 それは我々に教鞭を振るう、尊敬すべき教師の顔ではない。蜜飴の如くねっとりとして絡みつくような甘い目と、厭らしい欲望を纏う、意地汚い人面獣心の、大人の顔であった。

 手元には、薄っすらと煙の立ち上る拳銃が握られている。銃刀法違反ではないのか。

「あら、嫌だわ。前途ある二人の為にスタートラインを切ってあげようと思ったのに、外しちゃった」

 白い指が、しっかりと引き金に掛かっているのが、離れた場所からでも分かった。

「二人とも若いから、将来有望ね」

「おいおい。ここは日本ですぜ、センセー」

「ここが日本だろうと、アマゾンだろうと、私の前では私がルールよ」

 ハートの女王のような事を言う人だ。

「……あんた何者だよ」

「やぁね、氷室さん」

 何を今更、とでも言うように、岩谷は小首を傾げて言った。

 闇を纏った、野性味溢れる山の木々が、大きな獣の形を取って岩谷に仕えているようだ。

「私は教師よ?若者の未来を社会に売るのが仕事」

 恐ろしい事を言う。

「先人として、あなた達が社会に出て、一番輝けるようにエスコートしてあげようと言っているのよ」

「豚のようにバラされて売られるのは御免だ」

「豚は残す部位があるけど、人魚は鳴声も爪先も売り物になるのよ?」

 可愛い女の子もね。岩谷は言い足した。褒められて、これ程嬉しくないのも珍しい事だ。


「五月蠅いおばさんね」

 海崎が低い声で言った。 

「道も、同伴者も、自分で選ぶわ。アンタみたいな醜女じゃ、役不足よ」

 首をひねり、同い年の青年に相応しくない妙に艶のある声で、海崎は断言した。

「私の血を受けるには、器が小さすぎるわ」

 海崎の声を聞いた瞬間、全身が総毛立ち、緊張が走った。岩谷も目を見開いて固まっている。

 それが、初めて聞いた海崎の声に驚いての事なのか、喋り口調に対してなのか、将又おばさん呼びをされた事に対する、怒りと羞恥の為なのか。

「一回教員免許を取り直して来いよ!おばさん」

 図らずも、場の空気に釣られて硬直してしまった自身の殻を打ち破る為に、私は声を張り上げた。目の前の女には敬称も、先生という役職を付ける必要も無い。

 岩谷は、ハッとすると青筋を立てた。

「あんた達を売ったら、寿退社をするから必要ないわ。金があれば、男は寄って来るもの」

「センセー自身は、中身据え置き。定価ゼロ円ですね」

 一陣の風が、周囲の闇を大きく揺らした。

 それが、大きな獣が毛を逆立てたように見えたのは、きっと目の錯覚だろう。

 しかし、風に乱れた髪の間から見えた、岩谷の冷ややかな目は錯覚などではなかった。

「あっははははははははは!」

 金曜ロードショーかドラマでしか見た事の無い、高らかな笑い声。

「プライスレスと言って頂戴‼」

 背後から追いかけてくる発砲音から逃げるべく、両手足に力を籠め直し、私と海崎はトンネルの中へ駆け出した。



  ◇



 風が、口笛にも似た、男とも女ともつかない、美しい響きと、湿気を纏って抜けていく。

 季節を忘れそうな、ひやりとしたトンネルの中、手持ちの明かりは何もない。

 それでもここに来るまでに目が暗闇に慣れたおかげか、薄っすらとした輪郭と明暗は確認できた。

 トンネルの内部には水染みはあれども、苔生した場所は一つも無い。時折、飛び出す錆びた鉄骨を躱しながら、一輪車の騒々しい駆動音を響かせて、走っていた。余計な言葉を交わせば、舌を噛みそうだ。

 己の激しい息切れが、落し物の様に後ろへ流れていく。

 背後からヒールの鳴らす足音が、中を反響して響いて来た。

 私と海崎が逃げきれない事を確信しているような足取りに、焦りは拭えない。其れでも一縷の望みを掛けて真っ黒な闇の中を抜けていく。

 幾らスタミナに自信があろうとも、己の足に自信があろうとも、体力は擦り切れていく。

 ここに来るまでにも、不安定な道をずっと走ってきていたのだ。意地と気合と恐怖で、一輪車を押していた。



「ゆう」

「あぁ」

 目の前の光景が信じられなくて、気の抜けた返事をしてしまった。

「池だ」

 整わない息を吐き出しながら、目の前で波打つ水溜まりをそう呼んだ。

 どこからか、雨水が染み出して出来たのだろうか。トンネルの中で、なみなみと水が張っている。道は水底に消えて、見えない。水溜りのように薄く張っているだけかと思い、一輪車を押して進んだが、そのまま下り坂になっているようで足首、膝と水に漬かってしまった。一輪車の車体が水に漬かって尚、まだ下り坂は続いている。

 ちょっと道が陥没しました、という感じではない。

「その事に気が付く段階はもうとっくにすっ飛ばしているわね」

「どんどん深くなっているみたいだ」

 どこまで水が張っているのか。池の端を探そうと目を凝らしても、先は見えなかった。

 水の回廊が闇の中に続くばかりである。

「磯の匂いだわ」

「は?山の中だぞ」

 海崎の声に、思わず間抜けな声が出た。そんな馬鹿な、と思いながら水面をよく見ると、それは確かに押したり引いたりを繰り返している。

「ほら、水面の縁。壁を見て。黒く、水の跡が付いているわ」

 潮の満ち引きがあるのよ、と海崎は言った。

「つまり、何処がしに……、海に繋がっているという事か」

「もしかしたらね」

「そんな馬鹿な」

 次は声にも出た。海崎も言いながら、自分の言葉を信じ切れずにいる事が伝わってきた。

 カツン、カツン。

 背後から迫るヒールが床を打つ音に、思考を打ち切る。膝に力を込め、一輪車の車体を「どっせい」とばかりに、前方に傾けた。

 でんぐり返し、海崎が転がり落ちる。傾いた一輪車は海崎の上に被さらない様に横へ倒し捨てた。

「乱暴にしないでよ‼」

「お前、先に行け」

「はぁ?」

 海崎は怒気を含んだ声で、私を睨み据えた。

「あんたこの期に及んでどういうつもり」

「…………だ」

「?聞こえないわよ」

「私は泳げないんだ‼」

「……はぁ?」

 風船の絞った口を離したような、海崎の気が抜ける音が、聞こえそうであった。

 素っ頓狂な声を上げた海崎は言葉の意味を解釈し、飲み込むのに咀嚼が必要だったらしい。ぱちくりと目を瞬き、一度ぽかんと開けた口を閉じた。

「私は泳げないんだ」

 己の羞恥をもう一度告げる。 

「……あんなに運動神経がいいくせに」

「関係ないだろうが!」

 ちょっと、鼻声になった。それはそれ、これはこれなのだ。

 兎に角、私は強くなった。武器を持った男にだって負けない力を付けた。同じことは繰り返さない。次こそは大丈夫。私は――――

「ばかね」

 海崎はふふ、と笑って言った。

「傲慢だわ。私だって、貴方みたいに強くは無いかもしれないけど、あの頃のように頼ってばかりの甘ちゃんでもないのよ」

 一方的に守られてばかりだなんて、フェアじゃ無いでしょう?

「次は私に守らせて」

 海崎はそう言って、私に手を差し出した。

 守られ、庇われ、後ろからあなたの背中を見ているのはあまりに辛いのよ。

 隣を歩きたいの。その為に足を手に入れたのよ。

 貴方が進めない道があるのならば、私に手を差し出して欲しいわ。

 貴方がしてくれたように、私が貴方の手を引くから。

「私、あなたとは対等で居たいの」



 背後から、ヒールの音が消えた。

 にんまりと笑う岩谷の姿を背に、私は海崎の……保の手を取った。



  ◇



「なにこれ、水溜まりじゃなかったの?」

 ヒールの先で、足元に転がる石を蹴り上げると、石は弧を描いて飛んでいき、音を立てて水底に消えた。

 人魚は、少女を抱えるような形で背面に倒れ込むと、蹴り飛ばした石より深く、滑るように水底へ消えてしまった。

 少女の背中に目掛けて放った銃弾はトンネルの壁を弾いて消えた。

 岩谷は名前も知らない拳銃の安全装置を装着し、片手で持て遊びながら水面を睨んだ。

「やっぱり駄目ねぇ。何時も、あいつらに任せていたから、油断しちゃった」

 鼻から息を吐く。漂う磯の匂いが煩わしい。

 磯の匂いって臭くて、べたつく感じが嫌なのよね。

「拳銃を持つのも久しぶりだったし」

 言い訳っぽく独り言ち、次の策に頭を切り替えた。

 やっと掴んだ人魚の尻尾だ。逃す訳にはいかない。

「あの娘の家は分かっているのだから、そこに張ろうかしら?」

 何故かあの人魚は小娘、氷室に執着を見せている。

 平和ボケした子供の考える事だ。逃げるにしろ、隠れるにしろ、氷室は一度、家に向かうはず。家族でも縛って、ちょっと脅してやれば、直ぐに人魚を差し出すだろう。それが無理ならば、氷室本人を針に吊るして、人魚を釣ればいい。

 逃がさない。岩谷は暗い瞳で笑った。

「にゃあ」

 反射的に岩谷が振り返ると、一匹の猫が居た。

 緩やかな動きで尻尾を揺らし、金色の瞳で自分を見ている。

「どうしてこんな所に……」

 何だろう。やけに嫌な汗をかいている。岩谷は細い腕で、じっとりと湿る額を拭った。

 そういえば、先程までトンネル内を抜けていた風が、もう止んでいる。

 猫を見ていた視線が、何故か足元に落ちた。

 影が無い?

 違う。自分の周りを大きな影が覆っているのだ。

 そこで気が付いた。

 光源の無いトンネルの中で、どうして私は私の影を認識できているのか?

 連絡用のスマートフォンはポケットの中に入ったままだ。

 月明かりの届かないトンネルの奥深く。どうして私はこの景色を見る事が、認識する事が、出来ているのだろうか?

 乗り捨てたられた一輪車を、足元で波打つ塩水を、目の前でこちらをじっと見据える猫を見る事が出来ている?

 汗でじっとりと湿っているのに。氷水を被せられたような気がした。

 今すぐここを離れなければいけない‼

 瞬発的に走り出した足を、伸ばした指を、振り乱した髪を。

 大きな水の塊が、頭上から飲み込んだ。

 ゴポン。


 静かに、押しては返す波際。毛繕いをする猫の傍らには、いつの間にか一人の老人が杖を持って、立っていた。

 



  ◇



深い青の中で、何か重い音を聞いた。腹の底に響くその音は地響きのような、マグマが駆けるような、鼓動を真横で聞くような、まるでなにかが胎動するような音だった。

 ひどく恐ろしいのに、どこか懐かしく愛おしかった。

次でラストになります。

もう少し、お付き合いください。

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