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海の声  作者: 菊池与太
7/10

「海崎、先生の言っていた不審者とはあいつらの事ではないか。凄いだろう。私一人で倒してやったぞ。警察に連れて行けば私の名前が新聞に載るやもしれん。美少女高校生、暴漢を打ち倒す、みたいな」

 真っ暗な道を、海崎に手を引かれて歩いていた。海崎に私の雄姿を語って聞かせた。興奮の為、早口になっていた私の言葉に、奴からは何の反応も帰ってこない。

 怖い。

 滅茶苦茶に恐い。何がと言えば、何もかもが。無言による緊張が恐ろしい。引かれる手も、力が強くて潰れてしまいそうだ。今まで気になった事も無かったが、海崎は歩幅が大きく、歩く速度も速い。その為に、引きずられない様、大股で走るように歩かなければならなかった。

 顔の見えない背中からは、苛立ちと不機嫌が湯気のように、むあむあと立ち込めている。

 こわいよぅ。

 心の臓に海水が入り込んで、ちゃぷちゃぷと波を立てている。

 ぽちゃん。

 突然立ち止まった海崎にどうしたのかと迷っていると、手が解けた。

「あら?氷室さん……と、海崎君じゃない」

「岩谷先生」

 海崎の肩の向こう側に、岩谷先生が見えた。私が先生を認識すると、背中を押す手があった。少し遅れて海崎の意図を汲み取った私は、「あ、そういう事か!」と思い、先生に報告をした。

「先生。先程、怪しい男共に襲われました」

「えぇ!?」

 先生の悲鳴のような声が響く。

「氷室さん、怪我はない?」

「大丈夫です」

 私は先生を安心させるべく、両手を肩の高さで、ぐー、ぱー、した。

「不審者は伸してきました」

「のし。のし?え?」

「今頃、渡り廊下の真ん中で寝ている筈です」

 先生は鯉のように口をパクパクとさせて、海崎と私を二度、三度と見直した。

 彼女は豊満な胸に手を当て、自身の気持ちを落ち着けるように深く深呼吸をすると、教師の顔でこう言った。

「海崎君はテントに田中先生と警備の方が待機しているから、不審者の居た所まで案内をして貰える?氷室さんは一度、先生と来てもらえるかしら」

 海崎は先生の話に頷くと、ずんずんとした足取りで運動場のテントに向かって歩いて行った。私は先生の後ろを合鴨の雛のように付いて行く。

 するりと解けたあの冷たい手が、指先からしか伝わらない程、小さく震えていた理由を私はまだ知らない。



「これを氷室がやったのか」

 『渡り廊下に不審者 氷室が倒した』と書いたノートを手に、理科担当・学年主任の田中先生と海崎は、警備にきていた駐在さんと共に、渡り廊下に来ていた。

 天井に張り付いた白っぽい蛍光灯の明かりが廊下を照らし出し、先程までの不気味さを消し飛ばしている。気持ちが落ち着いた今、目の前の光景は最早、ギャグにしか見えない。

 先生は「死屍累々だな」と言いながら、辺りを見渡した。

 中年の皺に人の善さを刻み込んだ駐在さんは、手早く手錠と結束バンドを使って、男たちを捕縛し、無線できびきびと状況などを話していた。海崎は常日頃、ぼんやりとした駐在の初めて見た警官らしい姿に感心する。

「海崎、それで当の氷室はどこにいるんだ」

 海崎は田中先生の質問に答えるべくノートを開き、ボールペンのノックを押した。

「2名確保です」

 背後から聞こえた駐在さんの声に、海崎はボールペンを落とした。



 昼間、蝉の声が五月蝿い教員用駐車場が、今はやけに静かであった。風が無い為か、むありとした、青い草木の匂いが一層に濃く感じる。

 学校の裏手にある教員駐車場は、もっさりとした雑草に彩られた立派な石垣の上にある。高さがある為に見晴らしがよく、何時もならば周辺の住宅地の向こうに海が見えるのだが、今は暗い夜の帳に遮られて米粒の様な明かりの外には、何も見えない

「氷室さんに怪我が無くて、本当によかったわ」

 岩谷先生と歩いていた。

 私はと云うと、まだ先程の緊張が体に残っており、ゆらゆらとしていた。

「氷室さん、とっても強いのね」

「こっちに引っ越してくるまで、空手を習っていました」

「すごいわねぇ」先生は感心したように言った。

 私の通っていた道場の師範は、実践で使う事を想定した修行方針だったが、まさか本当に実践に使う日が来ようとは、思いにもよらなかった。未熟であった色帯の、子供の時分に起こした喧嘩騒ぎと試合以外、人に技を向けた事など一度もない。

 「強くなりたい」という単純な動機と、平八郎先生の漫画の影響で道場に通い始めたことを思い出す。何でも身に付けておくものだ。

 湊音町には道場が無かった為、きちんとした修練を疎かにしていた。もう少し真剣に近場の道場を探しておくべきかもしれないが、長年教えていただいた師範以外の方から教えを乞うというのは、躊躇いがあった。

「不審者は何も言っていなかった?」

 先生の声にふと、男の声が反響した。

 最後の男が言った言葉が、脳に引っ掛かった。


「人外の癖に」


 異常な強さを持つ女子高生に対して出た言葉であったとしても、だ。「人外」という表現が、咄嗟に出るだろうか?

 私は知っている。

 この町で、人ならざる存在と言えば。

 私も見ている。

 幽霊よりも、鬼よりも、馴染みのある存在。

 私の近くにも。

 この町には—―――。

「氷室さん?」

 呼ばれて、自分が不自然に黙り込んでいたことに気が付いた。私の目をじっと見つめる先生の目は、教師と云う役職の為だろうか。間近で見ると、迫力を感じて少し怖かった。

「いえ、特に何も」

 言えることは無い。

 あの男たちの狙いは、人魚だったのだ。きっと、どこかで私と海崎を勘違いされた。それか見当はずれな推理で私を人魚と思い込んだか。

 どちらにせよ、あの男たちは私が倒したのだ。海崎が狙われる心配はない。今頃は警察に連行されることだろう。

 何も問題はない。

 ホットケーキをまだ食べてないなぁ。

 砂利をざくざくと踏みしめながら、街頭のない道を歩いて数分。

「氷室さん」

 不意を突かれた掛け声に、慌てて意識を向けた。

 まるで授業で落書きをしている最中に、声を掛けられたような気分である。

「貴女、八尾比丘尼の伝承は知っているかしら?」

 先生は明るい声で、世間話の様にそう問いかけた。

「やお……?」聞きなれない単語は一度で脳には届かない。

「国の名前ですか。それ」

「昔話よ。人魚の肉を食べてしまった少女が不老長寿になってしまうお話」

「人魚の肉の話は聞いたことがありますよ。しかし、不老長寿とは。死なない体に成る訳では無いのですね」

 私がそう言うと、子供の無知をやんわりと正すように、岩谷先生は言葉を続けた。

「きっと不死と思えるほど長い時間を生きた為に、そう呼ばれたのではないかしら。伝承の少女は出家……。尼さんになって八〇〇歳位まで生きたというもの」

 医療技術が、今ほど発達してはいない昔。祈祷やおまじない等、盲目的なモノに頼り、病気を本気で治そうとしていた時代。寿命は今より短かいモノだった。儚いモノだった。

 その中、八〇〇歳まで生きた女が居たとするならばそれはきっと不死と呼んでも、差支えが無いほどに長い時間だったに違いない。

「それでも彼女は一〇〇〇年の寿命の内、二〇〇年を国主に譲ったというのだから、贅沢なものね」

 先生は「うらやましいわ」と言った。

 それだけ長く、美しいままで生きたとして。

 親しい人たちは皆、老いて死んでゆく事。変わらない己の姿に周囲の目は変わっていく事。変わりゆく景色に置いてけぼりにされて、ただ眺める事。

 それは、

「多ければ良いというモノではありませんよ」

 何と寂しい事だろう。

「そうかしら。何でも多いに越したことは無いと思うけれど」

「だって、大量のプリンは幸せを与えてくれますが、最後には賞味期限と、満腹、飽きが私を襲います。何事も程々が一番良いのです」

「ショートケーキはクリームが多ければそれだけ幸せな気持ちになるわ。タルトに乗ったフルーツも。お金だって、あったらあっただけ素敵よ」

 それに、と先生は笑んだ。

「いらなければ捨てればいいじゃない」

 八尾比丘尼のように。

 彼女は他人に譲ったのだから捨てた訳ではないと思うのだが、先生に言わせれば同じなのだろう。

「人魚の伝承は西洋でも、アジアでも、共通して沢山あるのよ」

 先生は弾む声で人魚について語った。

「婦人の上半身に、魚の尾。美しい声。予言。不吉、嵐の象徴。不老長寿にまつわる伝説」

 星に物語を見出す乙女のような声で。

「不思議よね。呼び名は違うのに、本当にいるかもわからない存在のモノが、多少の違いを残しながらも、共通の認識をもって世界に蔓延っている」

 先生の長いスカートが金魚の尾ビレの様にひらりと揺れた。

「ロマンだわ」

 まるで少女のような目で、冒険を語る少年のように弁を振るう。

「人魚の肉は久遠の時と不朽不滅の美を与え、膏油に火を灯せば雨風にも消えぬと云う。又、それを体に塗れば大寒でも暖かく、海に輝く鱗は万の宝石以上に価値あり」

 これは何の授業か。人魚の有効利用?便利な活用術?

「だからね」

 その瞬間、全てが0.7倍速に見えた。

 先生の背後にある桜の木から、見覚えのあるオニイサンがナイフと一緒に、海崎に殴り飛ばされて吹き飛んだのが。

 思わず呼んだ海崎の名に、奴の目が飛び出すんじゃないかって位に、大きく見開いたのが。

 白く、しなやかに伸びる細い腕が、驚く程に軽い力で私を突き飛ばしたのが。

「生きている必要は無いのよ」

 細い腕の間に挟まれた窮屈そうな胸が。

「ごめんね。氷室さん」

 草の茂る立派な石垣の上で、紅の引かれた薄い唇が不気味な月のように、横に広がったのが。

「この下は畑だし。もし、運良く生きていたその時は」

 傾いた視界から、見えた。

「ずっと可愛がってあげるから」

 足がふわりと地面から離れていく。目の眩む浮遊感に息を呑む。声は出なかった。

 ゆっくりと体が宙に浮かび上がるのを感じながら、ニュートンが空中に投げ上げた林檎の如く、重力に身を任せんとしたその時。

「きゃあ⁈」

 先生を突き飛ばし、我が身に伸びる太い腕を見た。

「ゆうちゃん‼」



  ◇



 黒いズボンが、闇の中へと消えていく二人を遮った直後。美しい鱗に覆われた下半身が、石垣の側面をなぞりながら、落ちていくのを岩谷は見た。

 赤い紅の下で、折れるのではないかと思う程に強く、歯を噛み締める。

「姉さんすみません。しくじりました」

 背後の男は腫れた頬を抑え、周囲を見渡しながら立ち上がった。

「人魚の方は」

「アンタ達、本当に使えないわねッ」

 ヒステリックな叫び声が闇を裂いた。

「人魚は男の方よ‼」

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