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海の声  作者: 菊池与太
6/10

 加奈子が「ひむろんにはホットケーキにクリーム、いっぱい付けてあげるね」と、とびっきりのかわいい笑顔で約束をしてくれていた。海崎に自慢してやるんだ。どうしてもというならば、一口ぐらい分けてやってもいい。

 ばいん、ばいん。水ヨーヨーを揺らしながら歩いていると、「すみません」と声が掛かった。

 振り返れば30代くらいだろうか。活発そうなオニイサンが、頭の後ろをガシガシとやりながら「あー、うー」と言い淀んで居た。やがて彼は埒が明かない事を悟ったのか、意を決したのか。強い決意のみなぎる目で私にこう言った。

「トイレの場所を教えてください」

 そんな訳で、海崎を待たせる事になってしまうのは申し訳無いと思ったが、困っている人を見捨てるわけにはいかない。私は了解をし、やや速足で彼を案内することになった。一番近いトイレは体育館横のトイレだろうか。

 この時、校庭から外れた私たちを追う二人分の影に気が付いていなかったのは、不覚と云う他ないのだが、この時の私はそれどころではなかった。

 提灯の明かりと共に楽しそうな声が遠く離れていく。

 少しでもこの静けさを誤魔化す為か、緊急を要する下半身から意識をそらす為か。観光でこの村に来たと話すオニイサンは一生懸命に当たり障りのない事を話していた。「今日はお祭りだから晴れて良かった」「君はこの学校の在学生なのかい?」「誰と来たの?」「ここは海が近くていい場所だよね」エトセトラ。父親でもそうだが、話題を見つけられない男の人の会話と言うのは、どこでも一緒なのだろうか。だが、初対面で「最近のテストマジまんじ~。それよか、タピオカ飲みに行かない?そういえば最近、彼女がさぁ」と、えげつないほど近すぎる距離感で来られても困る。詰まる所、視界の隅に映った校舎内の非常ランプがやけに眩しく感じる暗さの中、膀胱の危機に瀕した知らない大人と居る気まずさは半端でなかった訳だ。

 それほどない距離が、それなりに感じる。

 なので、体育館に隣接されたトイレの壁が見た時。ほっと息を吐いた。

「オニイサン。あのコンクリの建物がトイレですよ」

 やっと、この座りの悪い心地から解放されることに安堵した。

 振り返ると、オニイサンが何処から取り出したのか、真っ黒な金槌を振り上げていた。

「ほげ――――――――――――――――――!?」

 考えるよりも先に体が動くとは、こういう事を云うのかと思った。私は両手のこぶしを握り締め、振り下ろされた右腕の手首に手の甲を合わせる形で突き出していた。

 女子高生の頭をかち割らんと振り下ろされた金槌は、空中で受け止められ、静止していた。

 自分でも驚いたので、オニイサンは私の数倍、驚いたことだろう。

 つくづく、思う。継続は力なり。

 こっちに引っ越してきてからも、密かにではあるが筋トレを続けていてよかった。

 私はオニイサンの動揺を感じるよりも早く、右手首を裏返してその手首を掴み、巻き込むように自分の腰へ手を引いた。意識的か、無意識か。前のめりになった彼は踏ん張ろうとして、右足を出した。私はそれに構わず、首の付け根を左手で地面に落とす。オニイサンの態勢が崩れた伏した所で一息に、正拳突きを叩きこんだ。

「あ」

 ぱしゃん。男の腕に、指先にあった水風船のゴムが巻き込まれて割れてしまった。鮮やかな風船は散り散りになり、透明な水は男の肩を濡らして黒い染みになる。

 男の潰れた蝦蟇のような悲鳴に、渡り廊下の脇にある茂みと、渡り廊下の奥、闇の中から見知らぬ男が飛び出してきたのが見えた。周囲が暗い為によく見えないが、二人の男はそれぞれ手に何かしらの獲物を持っているようだ。笑止千万!小娘一人に重装備が過ぎやしないか。

 息を吸い込む。恐怖は無い。先に距離の近い、茂みから飛び出してきた男の歩幅に合わせ、腕の軌道を目測し、踏み込んだ。相手と私の間には大股で二歩分。腕のぎりぎり届かない距離。

 十分だ。私は足を抱え上げるように振りかぶり、腰の回転による勢いで足先を男の頭に突き刺した。蹴り飛ばされた男はボールのように吹き飛んでいき、甲高い音を立てた渡り廊下の柱の下で動かなくなる。

 それを視界の隅でとらえながら、私は意識を背後から聞こえる足音に向けた。フードを目深に被った男は仲間が倒れたのを見て、動揺をしたのだろう。足音はバタバタとし、小さな機械を突き出している腕は狙いが定まっていない。

 振り返り際、私は額の高さに向かって空中を上げ飛ばすように、腰を捻りながら拳を突き上げた。脇の空いた腕が簡単に弾かれて上がる。私より年上であろう男の引きつった顔からは「ひっ」と気弱な悲鳴が漏れた。

 男が引いた腰を追うように、突き上げた腕を腰に引き戻す力で、反対の腕を男の腹に刺す。男が手元から落とした機械は、固い廊下に落ちた衝撃で「ばちっ」と音を立て、火花を散らした。その光で男の口から唾と涎が落ちたのが見えた

「人外に癖に、生意気なんだよ!」

 少し踏み込みが甘かったのかもしれない。男は怪しい活舌で叫ぶと、腰からナイフを取り出した。中途半端な危機感が彼に余計な勇気を与えてしまったらしい。

 瞳孔が開いた男の目は、興奮した獣のように獰猛であり、理性の欠片はバットでたたき割ってしまったが為に、粉々の様子だった。

 暗い廊下の真ん中、怪しい光を目に宿して叫ぶ男の方が余程、人間と遠く離れたモノに見えた。

 男は女子高生の胸元に突き立てんと、大きくナイフを振り被った。躊躇いの無い、衝動と敵意を込めた腕を怖いと思う暇なんて無い。私は、それを左手で内側に巻き込むようにいなし、反対の腕で拳が胸をなぞる軌道に腰の回転を乗せた。

 肘というモノは大変に強力で危険な武器である。実際、多くの格闘競技で使用を禁止されている程であり、当たり所や使い方によっては、頭骸骨を割る事も可能な威力を持ち得ている。

 武術を身に着ける者にとって、「生死に関わる間違いがあってはならない」と師範が仰られていた事があった。

 当時、小学生だった私は同級生の少年と殴り合いの喧嘩をした。その最中、相手が手近にあった箒を振り被り、それを受けた私は不覚にも涙をこぼしてしまった。

 数日後、その喧嘩の内容が師範に伝わる事となる。「伝統ある武術を喧嘩に使うな」と怒られることを覚悟していた。あの日、師範の言葉を私は忘れない。

「箒のような長物を持った相手と対峙するならば、懐に入り込め。あれは距離が離れるほど遠心力が武器に乗り、威力を増すからな」

 喧嘩に『勝つ為の』アドバイスであった。

「有段者ともなれば、下手な喧嘩をすると傷害罪に問われるからな」

 鼻の潰れる嫌な感触が骨の内側をなぞるように走った。鼻血を流しながら仰け反る男を、更に突き飛ばす蹴りを腹部へと叩き込む。

 カラン、カラン。

 現実の重みを落っことしたような音に、鈍く光るナイフが玩具に見えた。フィクションならば、傷害罪にはならない。周囲には倒れ伏した男たちと、直立する自分のみ。

 もしかして何かのドッキリだったのではないだろうか。ナイフも本当に玩具で、金槌はスポンジ製、機械には爆竹が埋め込まれていたのだ。

 そうだった場合、私は少年院に連れていかれるかもしれない。其れは不味いな。

 そう考えて触れたナイフはやはり本物で、人を傷つけられる重量を持っていた。この機械は、噂に聞くスタンガンだろうか。スタンガンなど、テレビでしか見たことがない。最近では防犯のために売られている物もあるらしいが、先程の火花を散らしたそれは、明らかに悪意を持った威力を孕んでいた。よかった。正当防衛なら、逮捕されることは無い。思わずため息のように「こえー」とぼやく。

 自分に振り下ろされた正体不明の悪意に対する緊張と、フィクションのような体験に眩む思考。よく分からない興奮に浮き立つ熱は、不意に掴まれた冷たい手の中に吸い込まれて消えた。



 ◇



 時は遡り、数刻前。私は気が付いていなかった二人の影を、不審に思う人魚が居た。

 海崎は私がごみを捨てに走っていた頃。足を組み、宙ぶらりんになった右足を揺らしながら、行き交う人間をぼんやりと眺めていた。広い運動場を様々な種類の人間がぎゅうぎゅうになって集まる姿は大変、暑苦しい。自由気ままな海の中とは違って、どこか窮屈さを感じさせるこの世界で、わざわざ一か所に集まって押し競まんじゅうのようになっている様は、ひどく滑稽に思えた。人間が一定の場所に集まれば、たとえ屋外でも熱気も籠る。それなのに暑い、暑い、と文句を垂れながら歩く人間は、皆が皆一様に愉快で仕方がないという様子だ。狭い世界を謳歌する姿は楽しそうである。

 そんな中、何気なしに一人の男に目が行った。どうして、と疑問に思い眺めていると、他の人間とは違う所に気が付いた。

(なんで、このくそ暑い日に、長袖を着ているのかしら)

 クラスの女子が、雑誌を見ながら日焼け対策の為に、肘まで布のある手袋のような物を指して、頻りに「欲しい」と話していた。否、今は夜だ。肌を焼く日差しはない。ならば虫対策だろうか。しかし、歩を迎えに行った時にスタッフテントに置いてあった、防虫スプレーの存在を思い出す。どうやら、それから出る霧のようなものを自身の体に振りかけるだけで、虫が寄り付かなくなるというモノらしい。「人間は面白いものを考えるのね」と考えたのは、つい先ほどの事。

 特に考えがあった訳でもなく、男を視線だけで追いかける。

 そうして暫く、男は他の人間には目もくれずに、一人の少女に声を掛けた。

 自分の待ち人、氷室優である。男の顔は深く被った帽子で見えないが、何か尋ねているようだ。氷室が何処か、道を説明するように指をさして話し込んでいたが、男が両手を合わせると、自分の居る場所から離れて、足早に何処かへ歩き出してしまった。

 道案内か何かだろうか。ならばすぐに戻ってくるだろう。

 そう考えて見送ろうとした、その時。氷室の隣を歩く男が背中に手を回し、指を何か形作るようにして動かしたのが見えた。目の付く動きに、嫌な予感がよぎる。咄嗟に視線を離して見渡すと、明らかに指の動きを認識して頷き合う、二人の男が見えた。彼らは明らかな意思を持って、氷室と男を追いかけて行く。流れるような一瞬の不審事に、寒気が走った。

 考えるよりの先に、海崎は氷室の元へと走り出していた。

 海崎は学校と海の往復以外に、歩く事が少ない。ましてや、人の多い中を行くのは久方ぶりの事だった。人混みを掻き分けるのが苦手な海崎は、祭りを楽しむ人々にぶつかりながら、必死に走った。小さくはぜる水風船の音も、雑踏に阻まれて遠くなってゆく。体中が汗でべったりとしているのに、背筋は嫌に冷えていた。

 校庭の端に辿り着いた頃には、氷室も男達も見えなくなっていた。逸る気持ちを抑えつつ、海崎は行先に思考を巡らせる。

 校内だろうか?否、祭りの為に見回りをしている教員が居るはずだ。生徒も備品を置くために教室を使用している。他の目がある場所に彼らは向かわない。ならば、体育館の方か。人が通らないというならば教員用駐車場のある、学校の裏手に向かったかもしれない。いつもと違う車があったとしても、誰も気が付かないだろう。それともプールのある方角か。

 いや待て、まだ氷室と行動していた男が悪い奴だとは限らない。不審に見えた動きも、自身が勝手に思い込んだ想像であり、勘違いかも知れない。

(……むしろ、そうでないと困るわ)

 冷静になろうとするのに、忙しなく動く心臓と、止め処ない思考が邪魔をする。行先の分からない足を闇雲には動かせない。見失ってすぐだ。近くにいることは間違い。

 だが、彼女の名前を呼ぶ訳にはいかない。そんな事をすれば、彼女を見つけ出す前に自身の呪いが解けてしまう。

 嗚呼、声を出せたなら。

 叫び出したくなる衝動を、唇を噛むことで堪える。

「ほげ――――――――!?」

 噛んでいなければ、声を出してしまっていたかもしれない。

 間抜けな悲鳴が聞こえた。校舎の角を曲がって直ぐ、飛び出した海崎が見たのは、離れた渡り廊下の真ん中で、鈍器を振りかぶった男と対峙する、氷室の姿だった。

 一瞬で氷水を全身に浴びたような心地に、海崎は息が止まるような錯覚を起こした。だが、その直後に起こった出来事もまた、一瞬の事だった。

 氷室が両腕を突き出して、鈍器を持った男の腕を受け止めたかと思うと、男は手に持っていた物を落として地面に倒れ伏していた。肺の奥を詰まらせたような呻きが、地面に叩き付けられた男のダメージを物語る。

 直後に二人の男が飛び出してきたのも見えたが、海崎が走り出すよりも早く。男たちが動かなくなる方が早かった。

 まるで滑稽なコメディーの一幕。

 唖然とする海崎を差し置いて、少女の細い腕は予定調和をなぞるが如く、男たちを吹き飛ばした。流れるような動きには全くの無駄が無く、一層のこと美しくさえ感じた。

 最後の一人と氷室が向かい合った際、呆けた目を突如、閃光が焼いた。「ばちっ」と響く衝撃音に、目の前で起きているのは学生の催し物でも、コメディーでもないのだと、思い出した。海崎は現実に引き戻された。「いったい何を立ち止まっているのか」と己を叱咤し、観客席を蹴とばす勢いで走り出した。

 暗い渡り廊下では、ぼんやりと立つ氷室の周りに三人の男が倒れていた。足元にはナイフや金槌が落ちており、彼女に降りかかった危険を思うとゾッとした。

 一刻も早く、このおぞましい空間から彼女を引き離さなければならない。

 背後から腕を掴むと、一瞬だけ息を呑んだのが伝わった。手を引いた際、固く握り締め過ぎた指を緩めた手の平は、じっとりと濡れて微かに震えていた。



  ■



 あの日。祭りが行われている神社の境内で、ベビーカステラを頬張る私の前に現れたのは、二本の立派な人間の足で立つ人魚の少年であった。身振り手振り、わぁわぁと体を動かしてジェスチャーをする彼の様子に、どうやら声が出ないらしいことがわかった。

 しかし、それ以上に同じ地面に彼が立っている事実がどうしようもなく嬉しかった。

 彼は裏表が無く、感情がそのまま表情に出る少年だったので、意思の疎通に不便も無かった。私は歩きなれない彼の手を握り、屋台を渡り歩いた。彼に見せたいものが沢山あった。彼に食べてもらいたいものも、沢山あった。

 小学生の私のお小遣いで、ちょっぴりお高い屋台のモノを、沢山買うことは出来ない。だから、二人で分け合えるものを選んで買った。

 綿あめを不思議そうに眺める少年が面白かった。

 たこ焼きを二人で交互に食べた。

 楽しくて幸せな夜だった。

 屋台が並ぶ行列の最後。私達はくじ引き屋の前で止まった。

 軒先には白いもこもことした獣のストラップや、かっこいい十字架のネックレス。衝撃を与えると不気味に光るゴムボール等が、ごちゃ混ぜに吊るされていた。

 店主に「今年も来たね」と言われる当たり、私の本気が窺えるというモノだ。毎年、この祭りに訪れると祭りの締めに必ず挑む。

 腕をまくる私に、少年が固唾呑むのが伝わった。精神の統一を図り、厚紙で出来た箱に腕を押し込む。少年に良い所を見せたいという意気込みが、私の気合いをより一層熱いモノにしていた。

 取り出した紙は三角に折りたたまれており、私はそれをペリリと剥がして番号がよく見えるように、店主に差し出す。店主は番号を確認した後、神妙に頷くと裏から小ぶりの木箱を取り出した。

 中には手のひらサイズの髪留めが雑多に入っていた。もう少し大きな物が貰えると期待していた私は少年にがっかりされていないか、心配になった。

 ちらりと、隣の少年の顔を横目で確認した。するとどうだろう。彼はガラスのような目を一等輝かせて木箱の中を見ていた。すると軽薄なモノで、少年の顔を見たら、木箱の中身がとても素敵なモノに思えてきた。

「どれが一番だと思う?」

 少年は箱の中と私の顔を幾度か見て、縮緬細工で出来た五つの花弁の真ん中に、真珠のようなビーズがついた、大変愛らしい髪留めが二つ入った袋を私の手に乗せた。

 私は袋の中から髪留めを取り出すと、少年に一つ手渡した。

「これは今日の記念。二人だけの秘密の宝物だ」


怪しい人が居たら、皆さんは一目散に逃げてください。

周囲に助けを求めましょう。

立ち向かおうなんて考えてはいけません。

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