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海の声  作者: 菊池与太
5/10

最近、近所のスーパーで売っているたこ焼きの中のタコがみじん切りキャベツと同じサイズで辛い。

   ■



 あの日。僕は一生分の勇気を振り絞った。

「貴方が私にお願いだなんて、初めてのことね」

 暗い海の底で、海面から差し込む光を全て閉じ込めたような、美しい鰭を揺蕩わせた人魚の前に僕は居た。

「いいわ。可愛い息子の頼みだもの。今日だけ人間にしてあげる」

 息子である自分が見ても、うっとりとする程に美しい髪を波間に遊ばせながら、海の魔女は……、母は言った。

「でも、地上で声を出してはダメよ」

 額にキスを落とすように。

「これは呪いだから」



  ◇



 ずっと昔から、大切に使い続けている髪飾りがある。

 縮緬の青い花が付いた黒のスリーピン。ぷっくりとしていて、丸い五つの花弁が愛らしい代物だ。

 幼い頃、どこのお祭りだったか。これを手に入れた時のこと。花の真ん中ある白いビーズを屋台のオヤジが「本物の真珠だ」と、さもそれっぽく言い、私はそれを本気で信じた。

 気が付けば、私は真珠の正体が唯の安っぽいビーズである事を誰に教えられるでもなく、認識していた。自然と、大きなショックもなく、いつの間にか、知っていた。

 けれど、サンタの正体を知った時のようなショックは無かった。

 私にとって、真珠以上の価値を持っている事が何よりも大切だった。

 私はわくわくするお出かけの日、これを身に着ける。

 この髪飾りを身に着けると、それだけで一段と楽しい日になる予感がするのだ。

 今日も、きっと『特別な日』になる。



 祭りと言うのはどうしてこうも愉快な気分になるモノなのだろう。

 普段なら蛙の輪唱と、風の音しか聞こえない境内は賑やかな祭囃子が響き、いつもの寂れた商店街には、人々の笑いさざめく声が満ちている。

 妙齢の女性はその身を彩るぴかぴかのリンゴ飴を片手に、踊るように歩き、筋骨隆々の厳ついオジサンは魔法使いが杖を振るが如く、綿あめを巧みに捲き上げては袋に閉じ込めていく。小さな女の子たちは色鮮やかな帯をひらひらとさせて、金魚が泳ぐような身軽さで人混みを縫いながら駆けて行き、少年は自分の体よりも大きなビーチハンマーを両手でしっかり抱え持って、「ばいん、ばいん」音を立てながら弾んで歩く。

「私もあれ、欲しいなぁ」

 見慣れない提灯の熱に誰も彼もが浮足立ち、異界の気配を孕んだ町を陽気に練り歩く。

 事件らしい事件もなく、無事に祭りの日を迎えた。

 ほくほくの紙袋を抱えて約束をした場所に行くと、奴は来ていなかった。まぁ、私が一方的に取り付けた約束だ。もすもすと、大通りで購入したベビーカステラを摘みながら、十五分待って、来なければ一人で廻ろう。そう考えて紙袋の口に手を掛けた所で、頭一つ分大きな背丈と、見覚えのあるがっしりとした背中を見つけた。

 あっちへふらふら、こっちへゆらゆらしているものだからよく目立つ。人が多くて私を見つけられないのだろうか。心の中では半分、「来ないかもしれないな」と思っていたので少し嬉しくなった。

 人の流れに逆らいながら、逆方向へと歩き出そうとした海崎の服の裾を引いた。

「暑そうな格好だな。制服で来たのか?」

 海崎は少し肩を跳ね上げて、こちらを振り返った。どことなく、気まずげな様子で視線を彷徨わせている。もしかしたら、うろうろしていた所を見られて、恥ずかしいのかもしれない。

 何がともあれ合流できたことを喜び、私と海崎はベビーカステラを食べながら、緩い学校の坂を上る事にした。

 左右どちらを見ても色とりどりの屋台は魅惑的で、そわそわした。氷の山に蜜を掛けただけで、ぼったくりのような値段を提示するかき氷屋に並ぶ氷は鉱石のような輝きを放ち、焼きそば屋からは香ばしいソースがぱちぱちと鉄板の上で、具の入っていない麺と絡まり主張激しく匂いを立てる。くじ引き屋では安っぽい棚に最近流行りのゲームやら、ぬいぐるみやら、スライムやら、赤べこやらが、混沌と一緒に積み置かれていた。

 中でも私の目を引いたのは、色とりどりの水ヨーヨーだった。互いに押し合いながら、ぷかぷか浮かぶ姿は大変愛らしく、同じ模様と色のモノが二つと無いのが良い。

「なぁ。あれ、やっていこうぜ」

 私は意気揚々として、水槽越しにどっかりと座るおばさんへ小銭を渡した。

 ぼしゃん。

「あ――――……」

「あんた下手だねぇー」

 ゆらゆらしながら水槽の底に沈んでいく針金を見送っていた。

 あまりの呆気無さに、茫然とする。

「客に失礼だな、おばちゃん」

「ほら、彼氏君が取ってやんなよ。ここで株を上げとかなきゃ、いつ男を見せるんだい」

「こいつ彼氏でもなければ、男かも怪しいぞ」

「まいど。一回ね」

「え」

 横から伸びてきた腕に驚いて振り向くと、海崎が釣り針を手に隣へ腰かけていた。

 海崎は釣り針の付いた紙を指先で摘んで、ひょいと水風船をひっかける。あまりにもあっさりとした所作に唖然とした。水を滴らせて天色の風船がくるくると回る。不思議な模様もまた、右から左へと流れていく。視線が引っ張られるような錯覚に、目が回り視線を外した。揺れる瞼を瞬くと、風船の向こうで海崎がにんまりとしていた。

 こうもすんなりと掬い上げられたのを見てしまうと、釈然としないものを感じる。自分の釣り針に細工でもされていたのではないだろうか。

「おばちゃん。こいつの釣り針と私の釣り針、違うのを使ったんじゃないの?」

「もっかいやらせてよ」と口を尖らせて愚痴ると、「あんたが下手なだけだよ」チクリと返された。

 嗚呼、無情。腹の虫が地団駄踏んで暴れる。

 声無く笑う海崎を恨めしく睨むと、何が愉快なのか更に声を出さない様に喉の奥で、くつくつ笑った。

 むかつく!

 出店を離れると、ひんやりとした風船が海崎の手から私の手に転がった。風船の中から、涼やかな音を立てて跳ねる水の振動が手の平に伝わる。

「くれるのか?せっかくゲットしたのに」

 海崎は興味が無いという風に手をひらひらさせた。

「ふぅん……ありがとう。魚は釣るのもうまいんだな」

 頭をはたかれた。



 風船を揺らしながら歩いていると、小学生の集団とすれ違った。

 鈴の音を転がしながら、エアガンを片手に走り抜けていく姿は、子ネズミの兵隊軍団のようだった。誰もが頬を紅潮させ、目は次なる獲物と欲望にギラギラとしている。楽しそうにちゅうちゅう、どたどた。

 そんな喧騒から外れた場所から、しくしくと云う声が聞こえた。

 不意に足を止めて見回せば、駐輪所の段差の陰で、泣いている少年の姿を見つけた。

 溢れる涙は止め処なく、ポンプで押し出されるように溢れては零れていく。

 気が付いた時には、走り出していた。

 なぜ? だって、あの子が泣いている。

 声が聞こえた。いけない事だ。私は堪え泣く声に弱い。

 情動が私を動かした。私は甘党なんだ。只々、塩辛いのは好きじゃない。

 私が――――……

「少年、大丈夫か」

 驚いた少年の顔を見たら、誰かの影が音も無く抜け落ちた。

 少年は嗚咽を堪えながら、何とか言葉を絞り出した。

「ひっぐ……、ぐっず……。タマちゃんと逸れちゃったんだ」

「タマちゃん?猫か?」

「違うよ!おんなのこぉ‼」

 両手をばたつかせて泣き叫ぶ。

「あぁー、お友達かぁ。ほら泣くなよ」

 知らない間に、母がパーカーのポケットに突っ込んでいたらしい、潰れたポケットティッシュを一枚、少年の鼻に押し付けてやった。

 ち――ん。

 白い顔を真っ赤にして泣き叫ぶ少年を見ていると、情けないやら呆れるやらが、一周回って気の毒になってくる。

「タマちゃんが見つかっても、そんなぐずぐずしていたら格好がつかないだろう?一緒に探してやるよ」

 少年はまだ赤い顔に少し落ち着いた様子を見せた。

 くんっ、と不意に手を引いたものがあった。

「海崎」

 驚いて振り返ると、呆れた顔をした海崎が居た。軽く息が上がっているのを見るに、私を追いかけて走って来たらしい。

「あぁ、すまん。けど、この子が泣いていたから……」

 海崎は面倒の二文字を張り付けて、少年を見た。

「お母さんが最近変な人がいるから気を付けなさいって言っていたんだ。タマちゃんに何かあったらどうしよう」

 海崎の顔が梅干しのように、ぎゅっとなる。

 少年はにじみ出る不安が出てこない様にだろうか。胸の前で両手をぎゅっと握り締めた。

 私は少年に目線を合わせてしゃがみ込み、両手を力強く握った。

「大丈夫だ。私が付いているからな!三人で探せば直ぐだ。もしも変な人が居たら、私がやっつけてやるさ」

「本当?」

 涙が引っ込んで尚、潤んだ瞳と顔に残った鼻水が光っている。

 ち――ん。

「タマちゃんも君を探しているだろうから早く見つけないとな」

 くちゃっとなったティッシュを空になったベビーカステラの紙袋に入れてから立ち上がった。

 私と少年は決意を拳に込めて振り上げる。

「行くぞ少年」

「うん‼」

 駐輪場の段差を飛び降りて走り出そうとしたその時。フードが首を絞めて「ぐえっ」と足止めをした。

 犯人は言うまでもない。

「この、なんちゃって人魚が!危ないだろうが」

 振り返り際、フードを引いた腕を払って、首の痛みと怒りを込めて非難の声を上げた私の前には、いつものノートが開かれていた。

『スタッフ専用テント 迷子』

 成程。周辺ならば、既にこの少年がある程度の捜索をし終わっている筈であった。ならば、そういう場所にいる可能性は大いにあるだろう。

「賢いな海崎!確か一番近いスタッフテントは校庭のとこか」

 我等が母校は眼前、目と鼻の先だ。少年の手を引いて意気揚々と歩き出した。



「こう君!」

 校門をくぐり、昇降口の前を横切って校庭に入ると、少女がこちらに駆け寄って来るのが見えた。可愛らしく後ろ髪を結い上げて、浴衣を着た少女の顔に覚えがある。一緒に山の中を探検していた少女、珠川歩だ。彼女のフルネームは珠川歩。苗字から付いたあだ名であったかと一人合点していた。

「たまちゃん‼」

 少年は私の手をするりと抜けると、少女のもとへ一目散に駆けて行った。二人は嬉しそうに顔を合わせて再会を喜んでいる。少年はホッとした様子で、またぽろぽろと涙が零していた。

「こう君!また泣いているの?赤ん坊でもないのに!」

「だって、勝手に出てくるんだもん」

 歩は「仕様がないなぁ」と言いながら、こう君の手を握った。

 こう君は鼻を啜りながらも、へにゃりと嬉しそうに笑う。

「良かった」

 海崎の提案でここに来てよかった。私はお礼を言おうと、海崎の顔を見上げた。

「お前の御蔭だな。ありがとう」と。

 だが、声が出ない。

 出せなかった。

 海崎が不思議な顔をしていた。

 ホッとした安堵を含んだ口元と、見ているこちらが切なく痛むような目が、まるでちぐはぐだ。

 舌の上を火傷した時のような、ざわりとした不快感が胸を撫でる。神経に直接何かが乗るような不安。愁色に揺れる瞳は、提灯の明かりに揺れてここではない、どこか遠くを見ているように感じられた。

 ぼくん、と心臓が妙な跳ね方をした。

「おねぇーさぁーん‼」

 言葉にならない不安を打ち破って、歩がこちらに向かって走ってくるのが見えた。その勢いは弾丸の如く、彼女の運動神経の良さを伺わせた。こう君が後ろから「まってよぉ」と言いながら一生懸命に、ばたばたと走っている。鈍臭そうな走り方が、大変かわいらしい。

「よっしゃ、ばちこい!」

「きゃ――‼」

 海崎が数歩、後ろに下がったのを確認した上で気合いを入れた。両手を広げた状態で腰を落とし、彼女を待ち構える。

 私は直線的に腹に飛び込んできた歩の勢いもそのままに、両手で抱き抱え、彼女の勢いと重みを遠心力に乗せた。

 くるん、くるん。砲丸投げの要領で歩の体を浮かせて数度回転し、着地をする。

 こう君も受け止めてやろうかと思ったが、私達の許に来るまでに失速してしまったらしい。

 再会を喜ぶ私と歩の隣で、こう君は喋れなくなっていた。可哀そうに肩で息をして、汗をふつふつ浮かべている。

 首を垂れて腰を落とすこう君に、海崎は何も言わず手を添えていた。

「私のお父さんが、たこ焼きの店をしているの。一緒に食べようよ」

 歩の提案で、我々は校庭の一角にあるテントに向かった。歩の親父さんは、出会ったばかりの娘の友人を大いに歓迎してくれた。しかも、他のお客に見えない様にこっそりと、タコをおまけしてくれた。良い匂いに逸る気持ちを抑えながら、踊る鰹節が吹き飛ばないよう気をつけつつ速足で、アロエが植わった花壇の縁を目指した。

 四人で円を作ってしゃがみ、たこ焼きを「はふはふ」と食べる。

「美味しいねぇ」

「美味いなぁ。こう君、爪楊枝から身が落ちそうだぞ。手を添えろ」

「この高校にはアロエがあるの。いいなぁ」

「歩はアロエが好きなのか」

「ぷにぷにとしていて、とても美味しいじゃない」

 彼女はうっとりして「一度でいいから、アロエだけをボウルいっぱいに食べてみたいなぁ」と言った。

「なら、採れたてのアロエを食べてみるか?」

「良いの!?」

「あ。ぼ、僕も食べてみたい!」

 二人は純粋無垢な期待で、顔を輝かせた。

「特別だぞぉ」

 私は体を捻って肉厚の葉っぱを二つ手折り、二人に手渡した。

「学校のモノを勝手にとってもいいの?」

 こう君が、おずおずとして尋ねる。

「こっそりやれば、ばれない」

「えぇ――……」

「すごい!生のアロエなんて初めて」

 透明感のある実が固い葉の中に埋まって、瑞々しい。二人は少しの背徳感と、期待に胸を躍らせながらそれを見つめ、思い切りよく齧り付いた。

「ぶうぇふっ!?」

「っ……!?……!っ……‼」

 歩は謎の声を上げながら咽て、花壇の向こうに隠れた溝へ口に含んだものを吐き出し、咳き込んだ。こう君は口を半開きにしたまま、この衝撃を如何したら良いのか分からずに混乱を起こしている。

「あっはははははははは‼」

 私は二人を尻目に笑いが収まらない。

 読者諸君はご存知であろうか。もし機会があれば一度、新鮮な生のアロエを食してみるべきだ。あれは中々、衝撃的な苦味を有している。抜けるようなその苦味は舌を突き刺し、悶絶する苦しみは、いつまで経っても舌から離れない。それは五回、十回、口を念入りに濯いでも取れない程に悪烈だ。

「おねぇさんひっどい!知っていたでしょう!」

「私も食べたからな」

 歩は「うえーまずい」と言いながら、消えない苦みをジュースで押し流そうと必死だ。こう君は未だに声が出ない。

「は、腹がよじれる!面白れぇ」

 歩とこう君の口の中の苦みが引き、私の腹が千切れる直前で落ち着いた頃。

「いいかふたりとも」二人に中途半端な年上の威厳を持ってこう伝えた。

「これが現実の苦みというモノだ」

 後ろから。海崎の振りかぶった、鋭利なノートの角が突き刺さった。

「いてぇ!」



 子供と、少し大きな子供の、仁義なき戦いが繰り広げられていた校庭の隅。 歩の母親が二人を迎いに来た頃には、じゃれあいに移行していた。二人は溢れ出るアドレナリンを止められずに、ごねた。

「まだ、遊びたい!優ちゃんも遊びたいよね」

「優ちゃん、お友達の所に行く約束をしているからなぁ」

「え――――」

 あんまりにも名残惜しそうな様子に「大丈夫だ。また一緒に遊ぼう」と約束をして、二人と小指を絡めた。

 騒いでいる間、海崎は花壇の前で荷物番をしていた。

「二対一なんて卑怯だよなぁ。海崎も応戦してくれればよかったじゃないか」

『三対一でも余裕なんて流石ね』

「なんでお前も向こうに味方して参戦するんだよ」

 大立ち回りをしたせいで、汗が滝のように流れていた。腰を下ろして、服の裾で拭う。

 その時。お気に入りの髪留めが緩んで、右目に髪が掛かった事に気が付いた。乱れた前髪を適当に纏めて面を上げると、海崎がじっとこちらを見ている。正確には、私の髪留めを見ていたらしい。

 海崎は何も言わずにピン留めを外すと、私の手に乗せて前髪を一束摘まんだ。大きな手で器用に編み込み、パチンと留め直す。

 見えないが零れていない前髪の様子から、それなりに綺麗に纏めてくれたのだろう。

 奴はむっつりとした顔でピン留めをもう一度見つめた末、喉を震わせずに唇から空気を吐いた。

「          」

「失礼な奴だな。これはいつしかの祭りで手に入れた、戦利品であるぞ!」

 海崎の手からノートが滑り落ちた。私はそれを拾い、乱暴に手渡しながら、お気に入りのピン留めを手にした経緯を語った。

「子供っぽいデザインだが、かわいいだろう」

 海崎はノートを受け取りつつも、心此処に在らずと言った様子である。

「大丈夫か?疲れたのか」

 私はある予感にハッとなり眉を顰めた。

「まさか、お腹一杯になってはいないだろうな?加奈子の作ったパンケーキを、まだ食べていないんだぜ」

 海崎は「何でもないわ」とでもいう様に手をひらひらとさせる。良かった。歩や、こう君と遊ぶのが楽しかったとはいえ。幾らたこ焼きや、カステラが美味しかったとはいえ。ここで力と腹を使い果たしては、加奈子に義理が立たない。

「それじゃあ、ごみを捨ててくるからな。待っていてくれ」

 なるべく早く戻ろうと、私は小走りに駆け出した。

「どうしてまだ、それを持っているのよ」

 背を向けて走り出した私に、頬づいて零した奴の言葉は届かない。



  ◆



 どうして私はここにいるのかしら。

 自嘲めいた自問に、不毛だと溜息が零れた。

 あの時の面影を見る度に、喉から見えない血が脈打ちながら流れるのを感じていた。

 音にならない言葉が、気道を塞いで溺れそうになる。

 あの子の手を振り払えない己の愚かさに、眩暈がする。

 一生関わるつもりなんてなかったのよ。

 だって、それを望んだのは私の方だったのだもの。


 嗚呼。なのに、どうして。

 どうしてまだ、あんたがそれを持っているのよ。


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