弐
話に聞いた所によると陸に暮らす生き物が100万種なのに対して、海の中には1千万種以上の生き物たちが居るらしい。そもそも地球の70%が海なのだ。そこで彼らが35億年からせっせと世界を作り始めたのに対して、我々の先祖が30%の土地で世界を作り始めたのがざっと4億年前。いささか出遅れてしまった感は否めない。海に住む彼らと比べればまだまだアマチュアで地球歴は少ないだろう。しかし、おかげ様で発展途上の素敵な30%の世界に我々は暮らしている。
だから、もしかしたら。あまりにも広すぎる世界に疲れてしまって、狭い世界を見てみたくなる奴らも海の中には居るのかもしれない。狭い世界に我慢が出来ずに70%の世界に飛び込む人達や、それさえ超えて空の果てに行ってしまう人もいるのだ。逆の事もきっとあるのだろう。果てのない世界を目印もなしに進むのは骨が折れる。
人間の決めた枠組みに収められたモノたちが約200万種類。その枠組みに集約されていないモノたちが1千万だか1億だか、とにかく沢山。
その中に、奴が居た。
私は30%の世界で、物語の切れ端と出会う。
◇
私がこの学校の一員となり、数日。私の体育での走りを見たという陸上部の三年生が、わざわざ教室まで部活の勧誘に来た。私は「面倒臭いので止めておきます」と言ったのだが、「体験だけでも一度」と何度も教室や下駄箱に来る為、その相手をする事の方が面倒臭くなってきた。
新人の育成に熱心な高校生なんて珍しいと思っていたら、成績の良い部活は待遇も段違いだという。その為、戦力になる生徒を集める事に躍起になっているらしい。
「では先輩殿。200m走で私が負けましたら貴方の技量を見込みまして、私も精進すべく部活に入ることを検討しましょう。但し、私が勝った暁には購買の高級プリンを奢ってください」
陽光の眩しい放課後であった。私は死闘の末に見事な走りで勝利を収め、213円(税込)のプリンをゲットした。私の勝利が校内で噂になると、他の部活の部長や主将の知る所となる。そうすると面白半分か、己の実力を誇示するためか。次々に各方面の運動部から勝負を挑まれる事となった。
この時、私は購買の高級プリンにひっそりと味を占めてしまっていた。
舌の上でとろける滑らかなカスタード。口に入れた瞬間、ほんのりと香るバニラが濃厚な卵の風味を引き立てている。更に脳まで溶け出してしまうのではないかと思う程、柔らかな甘さを引き締めるカラメルソースの香ばしさが堪らない。
なんだ、このプリン!近くのスーパーやコンビニで探しても売ってなかったぞ。しかも他人に奢ってもらうプリンの美味しいこと……。私は勝利の甘味に酔っていた。
結果。数々の勝負を引き受けては、千切って投げる勢いで勝ち抜いていった。
私の存在は各部活のエース達を雷の如く震撼させ、大粒の霰の如き威力で猛威を振るっては彼らの自尊心を打ち砕いて回った。体重も少し増えた。
私の知らぬ所では異名が付き、『春雷の氷室』と呼ばれていたらしい。
様々な部活に顔を出すようになったお陰で顔なじみも増え、教室の中でも他の生徒と言葉を交わすようになった。赤い魚の群れに一匹だけ黒い魚が紛れ込んだような居心地の悪さも今は無い。
そんな中、海崎だけは私と関わることが無かった。云うより、奴は私以外の生徒達とも関わる事を最小限にしている様子であった。それは奴より後から来た私の方がこのクラスに馴染んでいるように思える程で、実際そうであったのだろう。奴はいつも一人でいた。
海崎とすれ違う事はあれども、視線を合わせることも、会話をすることもないまま、借りたジャージはずうっと教室のロッカーに眠っている。
体育の時はどうしているのかと思えば、奴はジャージのズボンに半袖のシャツという服装で走っていた。このまま夏を跨いで冬になったらどうするつもりなのだろうか。しかし、話しかけようにも、逃げる方が悪いので、私は必要に迫られれば向こうから言うだろうと眠らせたままにしていた。因みに、ハンカチはとうとう血が落ちず、新しいものを用意した。
「海崎君ってかっこいいよねぇ。凛としたあの佇まい」
「寡黙な所もいい」
「そんじょそこらのエロ男子とは全然違うもの。成績はいつも3位以内。部活には入っていないけど、運動神経も抜群だし」
「うちの部活に入ってくれないかなぁ。そうしたら、モチベーションも断然違うのに!」
「字もすごくきれい」
「柔道とかやってたのかな。凄くいい体だよね」
「何より、イケメン」
奴にジャージを早く返してしまおうと、それなりに接触を試みていた頃。
海崎の事をクラスの女子たちに尋ねてみると、その殆どが頬を染めて褒めちぎっていた。
あの人魚は中々モテてるらしい。
生ぬるい風がゆるゆるとカーテンを揺らす教室で、よっぽど納得のいかない顔をしていたのだろう。目の前のほやほやとして可愛らしいを具現化したような少女はころころと笑った。
「この町では外に出ない限り小学校から高校までほとんど同じ顔が集まるのよね。だから新しい人はちょっと良く見えてしまうのではないかしら。私は別だけど」
彼女の名は佐々原加奈子。
私がこの学校に来てから最初に言葉を交わした生徒であり、今では一番長い時間を共に過ごす友人である。噂ではこの町の男子の8割以上が最初に味わう失恋相手は彼女であるという。
「それは言い過ぎだよ、ひむろん。6割くらいじゃないかなぁ。それに、恋と友愛の区別もつかない保育園時代はノーカンでしょ?」
彼女はサラリとそう言った。
放課後。気の抜けた喧騒の中、帰り支度をしながら私たちは話していた。
「ん?海崎ってこの町の出身じゃないのか?」
「海崎君はね、中学校の時に引っ越してきたの。何でも、事故か何かに巻き込まれて、声が出なくなっちゃったんだって。それで、静かな田舎町の方が暮らしやすいだろうから、お母さんの地元に来たとかなんとか」
「ん、ん、ん――……。喋れない?海崎って声が出ないのか?」
「そう。だから声を聴いたことが無いでしょ」
どういう事だろうか。事故で喋る事が出来ない?
ならば、海岸で話した奴は別人であったのか。
確かに顔は同じだが、海岸での奴は声も、仕草も、表情も、よく動き回って賑やかな印象だった。それに対して、学校での奴は眉一つ動かさず、クラスの人間とも必要以上に関わろうとしない。まるで別人だ。
「海崎に兄弟はいるか?」
例えば人魚の兄や弟が。
「一人っ子だと思うけど」
ならばドッペルゲンガーか。
「この地域でUMAと言ったら、人魚伝説くらいだよ」
「人魚……。男の人魚っているのかなぁ」
「人魚って言うと、お姫様のイメージが強いよね」
「図書室に行ったら、そういう話も在るだろうか」
「ひむろんは人魚姫様に興味がおありで?意外にファンシー趣味なんだねぇ」
人魚姫と呼ぶには、奴はあまりにも厳つ過ぎる。人魚王子、否。人魚おねぇを「ふぁんしぃ」と呼んでいいものか分からないので、私は首を梟のように捻った。
「あ、部活の時間だ。そろそろ行くね」
「おぉ。引き留めて悪かったな」
加奈子は去り際、こちらがどきどきとするような目をして、言った。
「ひむろんも一緒に陸上部に入らない?足すごく速いし、直ぐにリレーメンバー入れると思うよ。先輩もひむろんに負けてから練習に熱が入っちゃって、凄いんだよ。またタイム縮めてた」
首をこてん、と傾ける顔が、大変愛らしい。同性たる私もときめく程だ。大体の男ならイチコロだろう。
「今は部活に入る気は無いんだ」
あればやろうと思っていた部活は、ここにもなかった。
「悪いな」と言うと、加奈子は笑顔で「そっか、残念。気が変わったら教えてね」と手を振って教室を後にした。
近くに良い所があれば、もう一度やろうかな。
そんなことを考えていたら、「雨が降ってきた」と誰かが呟いた。
窓の向う側は薄暗く、花曇りの空に目を凝らせば、ぽつぽつとフライングをした雨粒たちが地上へ駆け出していた。
◇
湊音町の人魚伝説
時は昔、戦国時代。
背は山に囲まれ、眼前には海の広がるこの町が、国と呼ばれていた頃。町長ではなく、殿様が山の上から、民を守っていた頃の話である。
入り組んだ湾に、豊富な栄養を蓄えた海を持つこの地では、漁業が盛んであった。
ある者は鯨や魚を追いかけて船を走らせ、ある者は海の幸や山を下りてくる獣を捕らえる為の籠を編み、ある者は夫婦で海の深くに潜っては、ごつごつとした海底の岩に隠れ住む貝を獲り暮らしていた。
そんな豊かな場所であったから、当然この地を狙うものも多かった。
だがしかし。もともと海賊であった殿様は海での戦いの術に長けており、その海を狙って湾に入ったものは、何人たりとも無事で出てくる事は無かった。
海のように深い懐と其の豪気で陽気な性格に、皆が殿様を慕っていた。領地は狭くとも、美味しい海の幸と磯の香りに囲まれ、皆が慎ましく幸せに暮らしていたという。
ある日の事、山城の中にある使われなくなった古井戸に、一人の娘が蹲っていたという。城の者達は驚いて娘を引き上げると、温かく介抱した。
どこからやってきて、どうして井戸の中にいたのか。娘は言葉を紡ぐ術を持たないうえ、文字を書く事も出来なかった。その為、意思の疎通が図れない。
多くの者は、少女を不気味に思い、町から追い出そうとしたが、殿さまだけは娘を面白がり、城に置くよう命じた。
「俺も昔こそは海で海賊なんぞと子悪党のような真似をしていたが、前の殿様に拾われてからというもの、本当の息子として可愛がって頂いた。
今では海で学んだ戦と、空や海を読む術で、立派にこの国への恩返しが出来ている。この娘もいずれ、この地の為になってくれることもあろう。
確かに奇妙な子であるが、山中に居たにも拘らず、磯の臭いがする不思議な子だ。もしや、海からの使者であるかもしれん。丁重に持て成せ。」
城の者達は殿様の妄言に首をひねったが、そこもまた皆が殿様を好きな理由の一つであったから、命令通り少女を優しく持て成した。
それから月日が経ち、枯れ枝のようであった娘はぷっくりと健康な体になった。最初は歩く事も困難な様子であったが、今は城の中や城下の港を自由に駆け回るほど元気になった。
少女は相変らず声を紡ぐ事は無かったが、城下の先生の元で字を学ぶようになると、日記をつけ、その日あったことを殿様に見せるようになった。
『今日は綺麗な貝を拾った。』
『今日は浜に暮らす子供らと餅を食った。』
『今日は海女小屋で貝を入れるための籠を編むのを手伝った。』
始めこそ謎に包まれた不気味な娘を敬遠する者も多かった。しかし、殿さまに愛されながら村の手伝いをし、ほかの子供らと変わらずに駆け回る姿を見ている内に誰もがその娘を自分の子と同じように可愛がり、時には叱り、終いには皆がその子の親のようになっていた。
ある日の事。月の綺麗な晩であった。
「殿、お聞きください。今まで隠して参りましたが、私は海の民でございます。先刻、私の仲間から伝達が御座いました。曰く、以前よりこの国を狙っておりました北の国の大名が異国の武器を手に攻めて来ようとしています。このままでは海は荒れ、城下の者達も戦火に巻き込まれる事となりましょう」
美しい声で、娘は殿に語り掛けた。
「お前、言葉を」
「私は違う理を生きる身。本来は地上の民と同じ形を成す為、地上の流れに干渉する事を固く禁じていました。しかし、心優しき殿とこの国の人々に助けて頂いたご恩を返す為、私は海へ帰る決心を致しました。どうぞこちらへ。ご案内致します」
暗い夜道。殿が娘についてゆくと深い洞穴に辿り着いた。
「この穴は海に繋がっています。生い茂った木々がこちらの姿を隠し、そこから攻めてくる敵を打つ事が出来ましょう」
娘は告げると魚の形へと姿を変え、海へと消えていった。
「この優しい国に幸多からんことを」
数日後、国に北の大名が攻めてきた。殿は娘の言う通り地下の洞穴を通り、見事に敵を打ち破った。それからというもの、国は今まで以上に豊かな海に恵まれ、程々に栄えた。
以来。洞窟は人魚の穴と呼ばれ、中からは時々、魚の姿となった娘が国を恋しく思って歌う声が聞こえるのだと云ふ。
後の世で、山は海の声が聞こえる山『鳴海山』と呼ばれるようになった。
『郷土資料・湊町の歴史』より抜粋
◇
遠く聞こえた歌声に、私は懐かしさを覚えて目を覚ました。
浮上する意識に比例するように、声は雨音に溶けていき、私は水に落ちた絵具の色を指で手繰り寄せるのと同じように引き寄せようとしたのだが、それは透明な余韻を少しだけ残して、消えてしまった。
葉花雨に閉じ込められた草木の匂いと、長く染み付いた古い紙の匂いが図書室に不思議な静けさをつくっていた。
ふと。向かいの席に人の気配を感じて腕枕で覆った顔をなるべく動かさないように、そっとそちらを見やると、奴がいた。あれ程までに徹底して私を避けておきながら、何故か目の前に座って読書に耽っている。口を閉じて黄色く焼けた本を然もつまらなさそうにパラパラと。
手元にあるのは私が先ほどまで読んでいた『郷土資料・湊町の歴史』だった。気づかない間に読みながら、眠りこけてしまっていたらしい。
暫く、男の割に長い睫毛を眺めていたが、その下の瞳がこちらを見た。
「海崎。私から逃げるのは止めたのか」
目が合って会釈も挨拶もないのは不自然であると思い尋ねると、奴は本を閉じて席を立とうとした。
「お前のジャージ、返さなくていいなら燃やしてしまうぞ。私は自分の刺繡が入ったくそダサジャージをゲットしたからな」
海崎はあげた腰を元の場所へ下ろした。
「今からジャージを取ってくるから、待っていろ」私は図書室のかび臭い扉を開いて教室の廊下まで走ると、やっとこ肩の荷が下りる気持ちで、ジャージを掴んだ。
海崎にジャージを手渡そうとすると、徐に何かを突き付けるようにして差し出してきた。驚いた私が一歩引いてそれを見てみると、大学ノートである。
そこには細く綺麗な字で『あんた、誰にも言ってないのね』と書かれていた。
「言うって何を」両手で抱えていたジャージと一緒に私が質問を打ち返すと海崎は先程のノートの続きに『私の事よ』と書き足した。
「私……あぁー。海での事か。」
遅れて合点した私に海崎は何か奇怪なものに向けるような眼をする。
「お前が男でも女でも興味はない」
『その事じゃないわよ!』書かれたノートが音を立てて机に刺さった。
「ならば何だ。クラスメイトを自殺志願者と勘違いをして、止めようとした所、逆に命を救われた事か? 」
私は瘡蓋の剥がれて少し紫色の残る足を振り子のように揺らした。
「よく昔の大怪我なぞを武勇伝のように語っている輩がいるだろう」
「何を言い出すのだ、この娘は」と訴える視線に両手で静粛を唱える。
「大抵の奴は己の怪我を話す時だ。どんな大人しい者でも、どこか自慢話のような尊大さが滲み、声には高揚した気配が浮ぶ。『俺はあの大怪我を乗り切ったのだぞ』『あの猛烈な痛みを私は堪え抜いたのだ』とでも言いたい様子だ。例えば骨折をして包帯を巻いた、がきんちょを見るがいい。怪我をした瞬間の醜く泣きわめいた己の姿を忘却の彼方に押しやって、まるで魔王の首を取った剣士のような喜びようじゃないか。怪我と云うのは、己の鈍臭い失態の結晶であり、大体は不名誉の象徴だろう。羞恥こそあれども、驕る様は誠に滑稽ではないか?」
つまりだ、と前置く。「己の失態による負傷を語っていてはそれこそ、愚者の極みだろう」
私の持論を聞き、海崎は口をかすかに動かした。だが、その喉は震えない。代わりにノートを挟んで『ならば名誉の怪我って何?』と尋ねてきた。思いついたのは「車に引かれそうになった猫を助けた時に出来た擦り傷とか?」とあまりにもチープなものだった。自分で言って措いてあれだが、ドラマの見過ぎだな。それも一昔前の。
この失態をごまかす為、私は話題の転換を計る。
「どうしてお前は喋る事が出来るのにわざわざ筆談なんてしているのだ。面倒だろう」
海崎は心外だとばかりにシャーペンのノックを数回、押した。
『好きでこんな事をしている訳じゃないの』
海崎は少し悩むようにキャップを口に当てた後、ふっと息を吐き出し、私を一瞥してこう書いた。
『これは呪い』
「呪い」
童話や夏の特番でしか聞かないワードに言葉が脳へ焼き付かず、上滑りする。
思わず反芻した私に海崎は小さく笑った。
『正確には呪いの代償。私は海の魔女に頼んで人間になる呪いを掛けて貰っているの。何かを鍵にする事によって、自分の本当の姿を閉じ込める呪い。それが私は声だった』
私は波の角度で少しずつ色を変えて光る美しい海崎の鱗を思い出し、あんなに素敵なモノを人間の足に変えてしまうその効力は確かに呪いだと思った。
「じゃあ、喋ったらどうなるのだ」
思いつき、尋ねる。
『元の姿に戻る』
事も無げに言うその様は「川」と言われたから、「山」と返すようだった。
「そんな大事そうな事を私に話してしまって大丈夫なのか?」
海崎は美しく笑って、その先には何も書かなかった。
私は奴の真意を測りかねて首を捻った。何となく、それ以上の事を聞くには、私たちの間にある距離がまだ遠くにあるように感じられた。
海崎の口から洩れることのなかった声を、夢現に聞いたあの歌を。私は耳を澄ませてみたが、聞こえたのは雨音の微かな振動と、山彦のような運動部の掛け声だけであった。
「海崎君が誰かと居るなんて珍しいわね」
突然扉が開いた先に、田舎町のかび臭い図書室なんて似合わない、都会風の美人が入ってきた。
「岩谷先生も図書室で本を読んだりするのですか?」
岩谷留津。我々の学校の社会教師である。
「どちらかと言えばドラマとかの方が好きそうに見えました」
「うふふ。知っている人が結構少ないのだけれど、この図書室って恋愛小説が充実しているのよ。だから時々、休憩がてらに読みに来るの」
岩谷先生は浅はかな願望を詰め込んだような豊満な胸を両腕で抱える様にして、「貴方達はお勉強かしら」と言いながらこちらを覗き込んだ。机に置いたままになっていた本に目を向けると驚いた顔をする。
「あらぁ、面白いものを読んでいるのねぇ」
「せっかく引っ越してきた町の事を少しでも知りたくて」
「氷室さん、意外と勤勉なのねぇ。それじゃあ、この中に書かれている昔話はもう読んだかしらん?」
私が頷くと、先生は冒頭にあるカラーページを開いた。
どうやら、湊音町の地図らしい。彼女は枝垂れ梅のようにしなやかな指で、海と街を見守るように立つ山を指す。その山の上には『鳴海山』と印字されていた。
「ほら。お話に出てきた山の名前。この高校の立っていた場所に昔、お城があったのよ。それから、大通り沿いに神社があるでしょう。ここは鳴海神社と言って、この昔話に出てきた人魚の為に建てられたものらしいわ。人魚が町に戻ってきたときに寂しくない様にってね」
そう言われて思い出してみれば坂の途中や教員用駐車場等に立派な、謎の石垣があった。成程、その名残だったのか。
ならば、あの入り江から獣道を通って出た神社の名前は何と言うのだろうか。気になってその辺りを目で追ってみたが、何処にもあの神社らしき影が無かった。
「周辺を探せば海に通じる洞窟があるかもしれませんね」
「もしかしたらね。なんでも戦の後は非常用経路として宝物の一部が隠されたりもしていたらしいわ」
両手をついて机から立ち上がると、椅子が跳ねて音を立てた。
「海賊だった殿様のお宝⁉」
「うふふ、夢があるわよねぇ。でも、もしも見つけたりしても入っちゃダメよ?昔の洞窟なんて、万が一にでも崩れたりしたら大変だもの。その時は先生に場所を教えて頂戴」
「お宝が本当に存在するとしたら、それはとても魅力的です。ですが、私は高校生。昔話のお宝に熱を上げるようなおこちゃまではありません」
「それもそうよね。今どき宝探しをする高校生なんて希少種だわ」
あっはっはっはっは……。
先生は恋愛小説を2冊手に取ると、貸出カードに名前を書いてカウンターに置いた。
「もし、司書の先生がいらしたらこのカードを渡してくれるかしら」
先生は妖艶に笑み、「遅くならないうちに帰りなさいね」と言って、出ていった。
「海崎、明日は土曜日だな」
私が地図から視線を外さず言うと、それを遮るようにノートのページが差し出された。
『お宝探しは一人でしなさいよ』