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海の声  作者: 菊池与太
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 ざばざば、じゃぶじゃぶ。

 波を蹴りながら歩いていた。


 町からくる春の生暖かい風をひんやりとした潮風が押し返すようにして海面を揺らしている。

 堤防沿いの明かりのおかげで波際からある程度の深さまでの足元は見えていたが、少し視線を上げれば、海の果ては墨汁を零したように真っ黒で、何も見えなくなっていた。

 昼間には波の向こうに見えていた小さな島も、頭上で慎ましやかに光る星たちも、境界の無くなった海の果てに飲み込まれて、今は影もない。

 おそらくだが、こいつの探す宝物も、星の光と一緒に、この波の果てへ呑み込まれてしまったのではないだろうか。だからこんなに探しても、探しても、見つからないのだ。

 暗い海の果てを見て、思った。もしも私がこの足の届かない、あの深い海の果てに流されたとして。私を探す術を持つのはきっと、こいつだけだ。しかし宝物を失くしたと泣き喚くこいつが黒い海で私を探すことなど出来る筈がない。

 そうなったらチョウチンアンコウかダイオウイカになって深海で暮らすのだろうか。それはとても寒そうで嫌だな。

 ふっと湧き出た思考にがっくりと首が折れそうになり、あの島や星の光と一緒に流されて呑み込まれないよう、わざとらしく大股で、波を余計に蹴散らしながら歩いた。

 こんな面倒な探し物を、なぜ私がしなくてはいけないのか。春の海は、ひたすらに冷たい。水の中に入れば尚の事で、中々きついモノがある。

 こんな冷たい思いをせずとも、私が堤防に向かって逃げ出せば、こいつを振り切るのは簡単なことであった。足を氷のように冷やす事も、心細くなる様な暗闇を眺める事も無いのだ。

 簡単なことであったが、母の教えである。

「困っているお友達が居たら助けてあげるのよ」

 こいつが『お友達』と呼ぶ存在に該当するのかよく分からなかったが、致し方のない事だ。こんな広い場所を一人で探すのは骨が折れることだろう。

 更に付け加えるならば、こいつの姿が余りにも情けなかった。私と同じくらいの歳とするなら、十にもなる。赤ん坊であるならばともかく、何をぎゃんぎゃんと泣いているのか。

 今はしゃくりあげているに留まっているが、私が声をかけた時などは、涙と鼻水と塩水がごった返してそれは汚い顔をしていた。見ているこちらの方が情けなくなったほどだ。

「あと十分、見つからなかったら私は帰るからな」

「えぇ」

「腑抜けた声を出すんじゃない。大体こんな夜更けに、あんな小さなものが見つかるわけがないだろう」

「で、でもぉ」

「でもも、へったくれも、あるもんか。これだけ探しても見つからないのだから、波が持って行ってしまったのだ。あんなモノの為に風邪を引いたら、そっちの方がバカだろう」

 振り返った視線の先、心の臓に海水が入り込んだのかと思った。

 あいつが子供らしからぬ妙な顔をしていたから。

 涙が引っ込んで、いろいろなものが引き潮と一緒に海の向こうに行ってしまったみたいな妙ちくりんな顔。

 登場人物の、心情の読み取り方は、国語の先生に習った。

「答えは必ず、文の中にありますよ」  

 だが、こんな顔をした奴の心情を読み取る、その為の問題文は手元になく、読み取るべき事柄もよく分からない。難透難解、幼き私はどうしたら良いか分からない。



はて、宝物は結局。

……見つかったのだったろうか?



  ◇



 「優、お父さん会社クビになっちゃったんだ」

 夕飯時、父が言った。

 結構な重大発表のようで、その表情筋は硬く、薄っすら汗を滲ませている。視線はぶつからない。

 私は鯵の塩焼きに手を伸ばしながら「そう」と返した。

 この不況の時代、クビなど珍しい話ではない。漫画やドラマを漁れば、失業なんてゴロゴロと落ちている。

 どんな仕事でもいいから再就職先を見つけて、家族三人の食い扶持に困らなければ、別に構わない。

 私自身、散財するタイプでもない。父には次に向けて頑張ってもらいたい所存である。

 が、どういう事であろうか。

 うちの家計の紐を握っている母が、めちゃくちゃに、にこにこしている。

 陰陰滅滅とした父の為に気丈としているのか。心の大黒柱、流石は母である。家の大黒柱たる父がぽっきりといってしまっている今、母がこの家を支えているのだ。

 私は彼女の偉大さに感服しながら、味噌汁を飲んだ。味の染みたお揚げが美味しい。

「それでね、優。今回のことをきっかけに、お母さんの地元に戻ろうかと思うの。結構な田舎だし、優が高校はこっちで卒業したいって言うのだったら、別に学校の寮に住んでも良いのだけれど、出来ればついて来てほしいかな」

「あそこに行くのはお婆ちゃんの葬式以来だな。ついて行くのは別に構わないが、どうして急に。向こうに仕事のアテでも出来たのか?それともお父さんの傷心引っ越し?」

 仕事にフラれた父の視線は苦悶と葛藤にきつく閉じられている。もともと収入があったわけでもないのに、そんな落ち込まんでも……。

「お母さんね、パン屋さんを開こうかと思って」

「は?」

 シコウフリーズ。

「パン屋さんを開業しようと思いまして」

 サイキドウ。

「いや、聞こえているよ。リピートは不要だよ。なんでンな急に」

「やぁねぇ~、急じゃないのよ? お母さん夢だったの。パン屋さんになることが!」

 のほほんとして、そんなことを考えていたのか。母の料理の美味さは良く知っているが、パン屋さんになると言って直ぐ成れる物なのであろうか。

「パン屋っていうけど、作るだけじゃなくて売るんだぜ?経営とかどうするのだ」

「事務で経理の仕事をやっていた事もあるし、前からそういう勉強もしていたから大丈夫よ」

「軍資金は」

「若い頃からの貯金があるわ!ホームセンターとか、通販サイトで調理器具や消耗品の予算とかにも目処を付けていたの。暫くは赤字でも大丈夫よ」

「店は建てるのか?」

「家の近くで良い雰囲気の空き店舗も見つけてあるわ。あれなら内装工事もそんなに要らないと思うのよね。お父さんは仕事が無くなっちゃったっていうし、電話で確認を取ったらまだ買い手も付いてないっていうし。」

 どうやら以前に戻った時、リサーチをしていたらしい。

「お父さんの仕事がないならこの町にこだわる必要もないじゃない。丁度良いかなって」

 だが父の失業を丁度良いとか言ってやるなよ。母の言葉に父の首はさらに折れ曲がっていく。父よ、首が落ちてしまうぞ。

「海の見える素敵な場所よ。海の見えるパン屋さん、素敵でしょ?」

 明るい展望が陽光に照らされた海の如く、キラキラとしているのだろう。母は店の雰囲気や、そこにどんな雑貨を並べて、どんなパンを売ろうか、という事を嬉々として語った。

 隣に並ぶ、父との対比が凄い。

「春に向こうへ行く予定だからなるべく早い目に考えておいてね」

「え、あぁ。分かった」


 その夜。私は人並みに悩んだものの睡魔に負け、目を覚ました朝には父と母について行くことを決めていた。



  ◇



 向かいの家の庭。二階の窓に届くほど大きな枝を持った木に、白く光る鳥が梢の先を覆い隠す群れで止まっていた。

 幻想的で美しいその姿に私はまだ夢の中にいるのだな、と思った。

 だが、木の足元からつんざいた犬の甲高い鳴き声が劈いた。飛び上がる私に対し、凛と佇む鳥たちをよく見てみると、それらは満開になった白木蓮の群れだった。

 寝ぼけていたらしい。

 私は一つ伸びをすると「ちっこ、ちっこ」と針を鳴らす時計に目をやった。

 時刻は5時より前。

 しまった。8時に私を起こすように命令をしたのだが、うっかり時計よりも早くに目が覚めてしまったらしい。これでは彼も形無しである。

 見慣れない部屋を見渡すと、ガムテープの封印が施された段ボールの山影がこんもりとしていた。箱には私の字で「氷室優」。私の名前が書いてある。

「嗚呼そうか。昨日、私室となった私の部屋だった」

 

 ぼんやりと一人、自身を納得させるための言葉をつぶやいて、のったりと背中をベットに預けた。頭痛が痛い、みたいな事を言ってしまった。

 古くて目新しい天井を眺めて暫く。隣の家の犬の御蔭でもう一度布団の中に潜む緩やかな惰性に身を委ねる事が難しいのを知ってしまうと、仕様が無いと体を起こした。

 いつもより増えた活動時間を喜ぶべきだ。

 そう切り替えると、目が冴える。目が冴えれば脳が起きる。脳が起き上れば体に血が巡る。血が巡れば腹が減る。若さゆえである。起床して直ぐではあったが、人よりも少しばかりアクティブな私は人より燃料が必要なのだ。何をするにも、先ずは腹ごしらえをしなくてはならない。

 私は別室で寝ている父と母を起こさぬようにそっと扉を開け、忍び足で階段を下りた。台所に抜き足で入り、差し足で冷蔵庫の扉の前に立つ。

 中を開ければ、ひんやりとした冷気と大きなペットボトルのお茶以外、何も入っていなかった。

「うえぇ、まじかぁ」

 そういえば「朝に買い物に行こうか」と母が言っていたことを思い出す。

 逡巡。確かこの新しい我が家の前にある坂道を下って暫く行くと、堤防沿いにコンビニがあった筈。

「散歩がてらに食料調達へ行くかぁ。海も見に行けるし、一石二鳥だ」

 父と母も起きたら腹を空かせている事だろう。二人にも、菓子パンか何か買って来よう。

 そうと決まればコンビニへ向かうべく、装備を整える為に一度、部屋へと戻った。

 パジャマ代わりのジャージを脱ぎ散らすと、箱の中から適当にジーンズとTシャツを発掘する。少し肌寒かったのでお気に入りのパーカーを羽織り、ポケットに財布を押し込んだ。

「行ってきまぁす」

 こそっと呟くようにして家を出たのだが、呼応するように隣家の犬が甲高く鳴いた。



 過疎化の一途を辿る海の美しい田舎町、『湊音町』。

 湾に守られた穏やかな海には小さな漁船がぷかぷかと浮かび、その向こうには更に小さな島が、やはりぷかぷかと浮かんでいる。堤防沿いから生える様にして伸びた坂の上。長く潮の香りを染み込ませた家が立ち並ぶ住宅街の丘を縫って少し離れた見晴らしの良いその場所に、古い和風家屋があった。かつては祖父母が暮らし、今日からは私たちが住む。

 昔、夏休みや正月の度に泊まりに来ては、よく遊んでいたものだ。近くを散歩したり、祖父の漁船に乗せて貰ったり。そういえば祖母がお手製、魚のみりん干しの味が懐かしい。

「もう一度食べたいなぁ」

 父の仕事が忙しくなった為だろうか。いつの間にか、疎遠になっていた。

 懐かしい匂いは郷愁を誘う。

 芋づる式にぼやっとした記憶を引き寄せれば、頭の隅に地元の子供達と遊んだ思い出が、薄墨のように滲む。顔は憶えていないが、元気にしているだろうか。

 二人の死後、この家は母の兄妹である叔父が管理をしてくれていたらしい。壊すのは勿体ないが、住む者も居ない為に持て余していたとの事で、「お前たちが住んでくれて、親父も喜んでいるよ」と言っていた。

 父の車に乗っている時はあっという間に感じたのだが、歩き出してみると海へと繋がる緩やかなその坂は思ったよりも距離があったらしい。後ろに遠くなった犬の鳴き声が消えると、しんと静かになり、現実感が溶け出していくようであった。

 まだ人の気配のしない、朝の新鮮な空気が気持ち良い。人の影も、車のエンジン音も、生活の音もしない。夢の続きを見ているような、知らない世界に自分一人だけが迷い込んだような、まるで世界から切り離されたような錯覚を覚えて愉快になる。ゲームか小説、はたまた漫画の主人公にでもなったかのようだ。

 実際に過去の記憶は久しく、引っ越して最初の朝。ちょっとした買い出し兼、散歩のつもりが思ってもみない大冒険に発展してしまうのではないか。

 とん、とん、とん。

 高揚する気分と期待に合わせて、リズムを付けながら坂道を下っていく。波の音が近づくに連れて自然とテンポも早くなり、私はそれを壊さない勢いで、堤防に伸びる階段を一息に駆け上がった。

 そこで、息を呑んだ。

 薄っすらと明るみ始めた淡い空の下。夜に置いてきぼりにされたらしい深い鉄紺の水面に火が灯され、すぅとこちらに向かって伸びている。その火はもう暫くすれば、町にも灯されるのだろうが、火種は小さく顔をのぞかせて、焦らしているようだった。

「海だ。すごい。海なんて久しぶりだ。すごく気持ちがいいな。すごいな。これはいいものだな。なんと言ったものか……。すごい。すごいな!」

 詩的な言葉でこの感動と衝動を表現しようとしたのだが、上手な言葉が見つからない。

 呼吸を整えようと息を吸い込むと、爽やかな空気と共に磯の香りが肺に届く。

 この匂いはとても好きだな。気持ちのいい匂いだ。

 もっとむありとした、水族館の裏側や魚屋のような生々しい感じの臭いを想像した私は再び感動をした。

 夏になれば海水浴をする人間で賑わうのだろうが、今は誰も居ない。

 この美しい空気と海が、私だけの物。

「…コンビニでパンを買ったら、ここで食べようかな」

 ぽそっと呟いた言葉が今この瞬間において、最上の提案である事は間違いなかった。

 新しい町でのスタートが、こんなにも美しい景色を前にした朝食から始める事が出来るだなんて、素敵過ぎやしないだろうか。

 私は己の天才的閃きにナルシズムを爆発させ、自画自賛したくなる衝動をぐっと抑えた。

 一寸の光陰軽んずべからず。

 散歩や通勤で歩く人々がこの場所にやってくる前に、私は眼前に広がる贅沢な景色と約束された至高の瞬間を享受しなければならない。そうと決まればコンビニはすぐそこだ。

 善は急げ。目と鼻の先にあるコンビニを目指すべく、私はくるん、と回れ右をした。

 が、体を反転させる途中。視界の隅に違和感を捉えて、そのまま一回転をした。

「なんだあれは」

 両足を揃えてよく目を凝らせば、浜の一番端っこ。岩場を超えて影になっている辺りに、不自然な波を立てているものがある。

「人間か?」

 がっちりした体格から男であろうか。自分一人と思われたこの海辺において、先客がいたことによるガッカリも程々に、首をかしげた。

 何故あの男はこの寒さ残る早朝に、ざぶざぶと海の水を腰まで浸しているのか。見ればずんずんと沖の方に向かっているように見える。

 修行か?釣りか?寒中水泳か?探し物か?自殺か?

「……」

 己のネットワーク検索候補の一つ。

 シナプスがつながった瞬間に、「ぎょっ」として磯の上を駆け出した。

 冷静さを欠いた行いである。今なら反省もしよう。だが、この時ばかりは致し方ない事であったのだ。

 何故ならば、こんなに良い場所で入水自殺など断じて許すまじき行いであり、新しい生活の始まりに、一人の人間の終わりを見せられてはトラウマになってしまう!

 ……と思ったのだ。

 海水に沈むごつごつとした岩の上は走りにくいことこの上なく、冷たい水は足にジーンズを纏わりつかせて鉛のように重たくした。

 だが、鍛えた私には関係の無い事。足腰には自信がある。

「貴様、何をやっとるかぁ――――――――――‼」

 カモメが滑空するが如く、凄まじいスピードを足に乗せて近づく私の声に男が「ぎょっ」として振り返るのと、殆ど同時。

 突き出した右足が「がくん」と沈み込み、脹脛まであった水面が眼前にまで上がったのだ。

「ふぁっ⁉」

 どうやら岩場がここで途切れていたらしい。私は磯を駆け抜けた勢いもそのままに、海底へと体を打ち付けて沈んだ。

 ごぽぽぽぽぽぽ……


 

 嗚呼、私はこんな所でおっちぬのか。

 登っていく泡に自分を重ねる。

 もしもタイトルをつけるならば、きっとそれは「旅立ちの朝」。



「ちょっと、あんた何をやっているのよ!危ないじゃない」

「っぶはぁ‼げほっ、げほっ」

 目の前には男、というより青年の顔が映っていた。同年代に見える。

 少し跳ねた短めの髪から水が滴り落ち、精悍な顔立ちは困惑しきっていた。

 どうやら助けてくれたようで、両脇を抱えられて海面に持ち上げられたらしい。

 鼻から水が入ったせいで奥がツンとして痛い。口の中は塩辛いし、顔面は打ち付けたせいでひりひりする。肝が冷えた。命を助けようとして助けられるとは、形無しもいい所だ。

 だが助けられた恩や、命を捨てようとしていた者に危ないところを救われる情けなさ。目の前の厳つく体格の良い青年が絵に描いた女らしさを真似て喋る、違和感の塊でありながら自然で板についた様子。それらの冷静な考えや感情は海水と一緒に吐き出してしまった。

 身の内に残ったのは、走り出した瞬間の衝動に点いた導火線の火だけである。それは視界を埋め尽くすこの青い水によってさえも鎮火する事はなく、青年の顔を見て爆発した。

「危ないのは貴様だ‼ こんな所で何をやっていた! 朝のあさっぱちから、人気のない海で海水浴か⁉ 人知れず深海から空の果てに向かってランウェイか! 言ってみろ!」

「ちょっ、五月蠅い。意味が分からないわ。頭に海水が入ったんじゃないの。あんたの方こそ大丈夫?」

「自殺志願者に心配されるほど朦朧としちゃいねぇよ」

「まさかそれ、私のことを言っている訳じゃあないでしょうね。最近の人間は本当に物騒で嫌ぁねぇ!そんな馬鹿なことをするのは人間と、王子に振られた人魚くらいよ」

 そういいながら男がかぶりをふると、背後で大きなモノが波を打った。

 思わず後ろを振り返ると、深い瑠璃色の鱗が魚の尾の形をして、ゆらゆらと波紋の下で揺れている。それは光が当たる度に色を変えて、きらきらと大変美しい。思わず見とれた鱗を持つ魚の頭を探して目で追いかけると、それは青年の腹に繋がっていた。

 二人の間に沈黙が落ちてしばし。しまった、という顔をした青年と視線がかち合う。

 先に声を発したのは勇敢にも、男か女か魚か人か分からないが、奴の方だった。

「まずは助けてもらったのだから、私に言う事が有るんじゃないの」

「助けていただきまして、ありがとうございます」



 一先ず、他人に見られてはまずいだろうということで、岩場よりも奥の小さな入り江に隠れることにした。岩と木が深く入り組んでいて、堤防や海を渡る漁船からも見えにくい。格好の隠れ場となっているようだった。

 もう少ししたら、会社に向かう人々や部活の朝練に向かう学生達が堤防沿いの歩道を通り道にする。ずぶ濡れのうら若き乙女と、厳つい人魚が一緒に居る所を見られてはまずいだろう。テレビ出演のオファーは免れまい。照れるぜ。

 私は奴に引っ張られる様にして海を渡り、岸にたどり着いた。右足を陸に下すと、ずくずくとした痛みがある事に気付く。恐る恐るズボンを引き上げると前脛骨筋、つまり右足の脛がおろしている大根の断面みたいになっていた。そのえげつなさに見て見ぬふりを決めると、足元から太い悲鳴が響いた。

「いやー!あんた本当にあり得ないわ!」

「ちょっと、そこに座ってなさい」

 奴は引きつった顔で浜に上がると、両腕を使ってずりずりと岩の影に進んだ。

「トドみたい」

「こんなに美しいトドがどこにいるっていうのよ!」

 心の声が口から出ていたらしい。

 奴はこちらをキッと一睨みした後に岩影からスポーツバックを引っ張り出し、その中から綺麗に畳まれたタオルと水の入ったペットボトルを取り出して、向きなおった。

「ちょっと、こっちに来て座りなさい」

 仕様がないので、私は言われたとおりに腰を下ろした。

 奴はペットボトルのふたを開けると、私の足の傷についた汚れと海水を洗い流し、その上からタオルで水気と血を丁寧にふき取る。文句を言いながらも、武骨な手でそっと傷を抑える目の前の男人魚がなんだか面白くて、私はされるがまま見ていた。

「小さい絆創膏じゃ足りないわね。取り敢えず、ハンカチをガーゼの代わりに貸してあげるから、これを使いなさい。帰ったらきちんと消毒しなさいよ」

 そう言うと、奴は手際よく青いハンカチで傷口をふさいだ。器用な奴だな。

「子供の頃に見た童話の影響だが、私は人魚というものはみんな女だと思っていた」

「人にも犬にも猫にも魚にも雌雄があるのだから、人魚に性別があるのは当然でしょ」

「お前は男だよな」

「見たままよ」

 見たままで判断しにくい奴だ。

「それを言うなら、私は人間と言うのはみんな阿呆だと思っていたけれど、本当に阿呆なのね。奇っ怪な声を上げながら春の海に飛び込むなんて、正気じゃないわ」

「な、なんだと!それは、お前があんな紛らわしい所にいるのが悪いのだ。春の海に人影があれば誰でも誤解するだろう」

「しないわよ。あれはあなたの早とちりじゃない。警察を呼ぶとかやりようがあるでしょう。人間は私たちみたいに泳げる訳ではないのだし。仮に本当に死のうとして溺れた人間を捕まえに行ったとしたら、高確率であなたも溺れ死ぬわよ」

「自殺志願者で無かったのだから、結果オーライというモノではないか」

 それに、と付け足す。

「仮に死のうとしていた人間だったら、警察に連絡をする時間なんてないだろう。衝動で動いてしまうのは人間の習性だから仕方がない」

 話しながら「だから後悔先に立たず、という言葉があるのだな」、と考え付いた。

「教訓が泣いているわ。これを阿呆で無いというのなら、おバカさんね」

「いつだって人間は後悔する生き物だ。なら後悔は少ない方がいい。私だって、走り出した時こそ衝動によるものだったが、あそこで家に帰っていたとしたら。視界の端に映った影に想像を膨らませて、お前が死のうとしていた人間であろうと、散歩をしていた人魚であろうと、悶々とした後悔を残していた筈だ」

「詭弁もいい所」

「お前も体の半分は人の形をしているじゃないか。人魚も半分は阿呆の血が流れているのではないか?ならばお前も阿呆の仲間だ」

「脊椎と足が直結したおバカさんと一緒にしないで頂戴」

人魚は心外だ、とばかりに顔をしかめた。

「それよりも、私が人魚であることに対しては何も思わないわけ?」

「え?あぁ、絵本で見た人魚よりも美人で驚いた」

 ハンカチを二重に結ぶ手が心なし強い気がしたが、お蔭で家までずり落ちる心配はなさそうだ。

「人間と話していると、頭がおかしくなるわ」

「このくそダサいジャージを貸してあげる。そんなびしょ濡れで町を歩くなんて論外よ」

 これは推定だが、人魚には服を着る文化が無い。だから、そんな心配をされるとは思わなかった。

「使っていいのか?」

「そんないもくさいジャージを貸すぐらいなんてことないわ」

「ありがとう。洗って返すよ」

「当り前じゃない」

 この人魚、口が悪いな。

 だが悪い人魚ではないようだ。

 私は言葉に甘えて重たくなったパーカーを脱ぎ、ずぶ濡れのシャツの上からジャージのチャックを閉めた。

「家に着くまでに凍死をしたらどうしようかと思っていたよ。海水のせいで肌がチクチクとして痒いったらないね。帰ったらお風呂を沸かさなくてはいけない」

 ジャージの中でシャツと肌着の袖を同時に抜き、首元から輪にして抜き出す。ブラジャーも煩わしいので外して、シャツと一緒に団子にしてやった。ジャージがぶかぶかだったお陰でとても着替えやすい。ジャージの間から風がすぅすぅとしたが、纏わりついた服の不快感を拭う事は出来たので良しとする。

「あんた、本当に信じられない!」

 男人魚がわなわなと震えながら叫んだ。

 見るに堪えないといった様子できぃきぃと言う。

「何が」

「人前で堂々とブラを外す娘が何処に居るっていうのよ!」

 モラルに五月蠅い人魚である。というか人魚は人と魚、どちらに近いのだろうか?

「かいざき、海崎ってお前の名前?」

 ジャージの胸元に刺繡を見つけて尋ねた。

「聞きなさいよ‼」

 奴は、興奮冷めやらぬ様子であったが、長ったらしいため息をつくと、諦めたという風に答えた。

「そうよ。海崎保。あんたこそ名前は」

「私は氷室優。今日からこの町に暮らすのだ。なぁ、またここに来てもいいか?」

 己の服を絞りながら尋ねた。ぼたぼたと水が落ちる。

「だめよ」

 落ちた水は柔らかな砂を黒く、少し固くする。

「駄目に決まっているでしょう。」

「え、なんで」

 海崎はスポーツバックを岩陰に隠し戻すとこちらに向きなおり、指先で私の眉間を突いた。

「あのねぇ、いつだって人間と人魚が出会うと碌な事にならないの。あんたは水底を歩くように夢を見ていたんだわ」

 「ほら」と言われて見れば、海面に細い光の筋を灯していた太陽がしっかりと顔を見せている。いつの間にか随分と明るくなっていたようだ。

「人間は夢から覚める時間よ」

 海崎は再びトドのように這って体を海水に浸すと、入り江の奥にある茂みを指差した。

「その先に薄っすらと道があるでしょ。この先を行けば境内に出るわ。公園が近くにあるから。そこを左に行けば住宅街、右に行けば学校に登る坂。これ以上、私と関わろうなんて考えるんじゃないわよ」

 海崎は「いいわね」と念を押し、朝日に溶けるように海へと消えていった。

 残った波紋を見送ると、私だけが取り残される。

「ジャージはどこに返せばいいんだよ」



 人一人が通れるような獣道を抜けると、古い境内の倉庫裏に出た。

石畳の階段を下りて鳥居をくぐると、錆びた遊具の目立つ公園があり、目が開いているのか閉じているのかよく分からない爺様が猫と座っていた。日の光と共に、町には人の気配が満ちていく。偶然通りすがったサラリーマンは私を訝しるように一瞥して、そそくさと通り過ぎて行った。私は無い土地勘を探りながら帰った。

 家に着くと、既に起床した母がコーヒーを入れていた。私に気が付くと大爆笑する。

「なにわろてんねん」

「優、こんなに寒いのに海水浴に行っていたの?バカねぇ。風邪をひくわよ。お風呂に入りなさい」

 もっと他に言う事は無いのか。好きで春の海に服ごと浸かる阿呆が何処に居るものか。

 私は脱水場に憤然として向かい、血の付いたハンカチと濡れた服、借りたジャージを一緒くたに、洗濯機へ丸投げにした。

 年季の入った脱水場は思ったよりも清潔感があり、昨日まで住んでいたアパートのものよりも広くて使い勝手が良さそうだった。蛇口の横には母が出したらしいピカピカの、溶けていない固形石鹸が甘い芳香を放つ。タオルを片手にふと水垢のついていない鏡を見れば、そこには紫色の唇をしたバカが写っていた。



 お湯を貯めながら湯船に浸かると、芯まで冷え切った体がほぐれていく。

 音を立てて満ちる水面を眺めながら、私はきらきらとした尾が、海底に沈んでいくのを思い出していた。

 とち狂って春の海に飛び込んだ馬鹿者の見た幻覚か、はたまた夢だったのか。

 夢というにはあまりに鮮烈で、幻覚にしては、ちりちりとした足の痛みと空腹が現実だと教えていた。



 桜と名前の分からない青い木々がもこもことパッチワークみたいになって見える山、『鳴海山』。その縫い目の中、埋もれるように存在する学び舎を目指して、歳の変わらない少年少女が、えっちら おっちら、坂を登っていく。

 創立、なんたら年。明治からこの町の子供たちを見守り続け、年季の入り方が目に見えてイコールになっている木造建築の学び舎。

 公立 湊音高等学校。

 今日から私が通う学校である。

 この春。晴れて湊音町の子供になった私も例に漏れず、他の女子生徒達と同じ濃紺のセーラー服に袖を通し、えっちら おっちら、長い坂を上る。

 その道中、体格の良さが分かる背中と、見覚えのあるスポーツバック。それが他の生徒に混じって、姿勢正しく坂を上っている。

「海崎、おはよう」

 私は速足で近づき、肩を叩いて挨拶をした。

 私が同じ学校の生徒であったことに驚いていたのであろう。奴は金魚のように、口をあぷあぷさせて驚いた顔をしていた。金魚は淡水魚であるが。

「驚いたぞ。お前も此処の生徒だったのか。いやぁ、先日は助かった。新しい町でのスタートが風邪っぴきでは、あまりにがっかりであっただろうからな」

 新しい学校に不安があったわけではないが、やはり知った顔を見ると安心をするものだ。

「この学校の坂はとても長いな。以前の高校は駅の近くだったからこんな苦労も無かったが、これでは朝一番から足も棒になってしまうというものだ。だがお蔭で健脚になると思えば若者の運動不足が嘆かれる昨今、これも修行か」

 そこで面妖なことに気が付く。『歩いてた』のだ。

「海崎、お前その足はどうした事だ。刺身にして食われたか」

 海崎はきっと睨むと、うんともすんともおはようともいわず、私の額へデコピンを一つして大股で先に歩いて行ってしまった。

「なんて失礼な奴だ!」



 掃除をしてもぬぐい切れぬ年季と埃っぽさが染み付いた校舎の一室、『二年一組』。

「初めまして、氷室です。県外から来ました」

 クラスメイトはざっと、24名。

 その中に数刻前にそっぽを向いた顔を見つけた。奴は窓の外を眺めていて、簡単な自己紹介の間、その頭がこちらを向くことは一度もなかった。



  ■



 燥ぐように跳ねる波の音に、無性な怒りが湧いた。

 せっかく人の目を盗み、浜の岩陰へ逃げたというのに、これではまるで意味が無い。

 僕は今、とても悲しいのだ。苦しいのだ。只々冷たいだけの海も、寒々しい青も、今は大嫌いだ。それなのになんだ。陸にまで白波を立てては、ぱしゃぱしゃと。鬱陶しい事この上ない。

 この怒りと、悲しい気持ちを掻き立てる波の音に、腹が立った。余りにも腹が立ったので、堪えたものを思いっきり流してやった。

 構わない。どうせ誰も聞いてやしないのだから。

 柔い春の日差しに包まれて、温かな布団の中というのはこういう場所だろうかと考えていた。固くしこりの様になった腹の内を揉み解すような温もりが愛おしい。

 麗らかな日差しを掛布団に、少年はまどろんだ、



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