『観念学について』・・・観念的道徳倫理の本質
『観念学について』
・・・観念的道徳倫理の本質
㈠
観念学を執筆しているが、此処では観念的道徳倫理について考察していきたい。そもそも、人間に生まれた時から、道徳や倫理が備わっているのか、という疑問が湧いた時期があった。自分の子供の頃、まだ記憶にない頃の自分は知らないし、そんな幼い頃から人間に道徳や倫理があったのか分からない。しかし、一応犯罪を犯すこともなく、これまで生きてきた。道徳や倫理は、基本的には、他者を傷付けないという原則があるように思う。これは当たり前のことで、人を傷付けることは、悲しいことでもあり、また、人としてあってはならない姿である。社会を見ると、ただ、このような、道徳倫理を無視した、身勝手な行為をする人々が沢山いることは明瞭だ。
こういった人々には、道徳や倫理が欠如しているのである。その様に思ってきたが、最近になって、どうやらそうでもないのではないか、という懐疑が生まれた。犯罪を犯す人には、倫理や道徳を、観念的に学ぶ機会がなかった、或いは教えられる機会がなかった、そういうことではないかという風に。
㈡
一般的に、社会で道徳倫理が教えられなくても、個人の家庭の、親の教育で、そういった事柄は教えられることが多々ある。特に、祖父母と同居している子供などには、お年寄りは労わらなければならない、という道徳倫理が自然発生する。介護したり、守ったり、罵詈雑言を浴びせないようにしなければならない、という風に、である。祖父母と同居していない場合、両親や兄弟の間で、道徳倫理が育つと思われる。特に、兄弟で仲が良ければ、決して傷つけ合ってはならない、特に年下の面倒を見なければならないという感情が生まれる。これは、道徳倫理の範疇に入る教育観だ。また、年上の子供は、その上が親になるから、両親は一番上の子供の道徳倫理の教育が必要になる。
ただし、これら、述べてきたすべての道徳倫理の教えとは、観念的なものなのである。当たり前のことだが、人間には感情というものが備わっており、頭ではわかっていても、感情を消し去ることはできない。親や兄弟には、観念的に感謝はしているが、感情としては憎んでいるといった現象が生まれる。これは社会でも同じことなのである。
㈢
結論から言うと、勝っているものが、負けているものを守るという形でしか、道徳倫理は発生しないと言えるだろう。これは社会の裏を暴くことになるかもしれないが、人間は動物であるが故、観念的に、勝っているものには逆らわないという思考がある。負けているものは、勝っているものに守ってもらおうとする。勝っているものが道徳倫理を放棄したら、勝っているものは殺される。負けているものが、勝っているものを押しのけようとすると、負けているものは勝っているものに殺される。この、殺す、という言葉は、本来的な意味ではない。勿論犯罪に巻き込まれる可能性もあるが、一般には、感情を殺される、という意味で、傷つけられる、とほぼ同義だ。
言いたいのは、観念的道徳倫理の本質とは、仮想の世界で教えられた気になる思い込み、であると言えよう。弱肉強食の社会で、それを平等に保つための、人間が思いついた知恵の一つである。勝っているものに負けているものが教え込まれた道徳倫理は、絶えずに、下へ下へと伝染していくのであり、これを破ったものだけが、犯罪者になってしまう。だから、人間は年上の人の言うことは、感情的には受け入れなくてもよいが、観念的には教訓として学んだ方がいいというのが鉄則であり、此処に、観念学における、道徳倫理の本質の意味を、上記した形で、一つの仮説として残しておこうと思う次第である。




