『観念学について』・・・観念的小説の行方
『観念学について』
・・・観念的小説の行方
㈠
観念的な小説、と言えば、所謂机上の文学が挙げられるが、数が多すぎて、中々これが観念的小説だという説明が出来ない。そもそもが、小説とは、虚構の、観念的なものなのでは、という疑問すら出てくる。小説と言うものは、勿論現実ではないし、頭で考えたことを文字にする訳だから、どれだけ現実に迫っていても、現実ではない。
しかし、限りなく現実に近い小説というものはある。例えば志賀直哉などは、小説の神様、とされるだけあって、心の、ありのままを描いた様な作品が多い。現実とは一体何か、と言う疑問が此処に出てくる。現実を感じる心、こそが現実だとしたら、志賀直哉は確かに、現実を描いているとは言えるのだ。
現実の定義、しかしやはり、現実は現実であって、小説ではない。ありのままの現実とは、何があったか、という物理的現象であろうと、思うことからは、小説はやはり、小説の域を出ないと定義出来よう。
㈡
観念的な小説は、代表例としては、芥川龍之介が挙げられよう。頭で考えた、虚構、偽り、また、題材を現実以外のものから取っている作品があることが、観念的小説と言われる所以だ。最後まで、観念小説的であった芥川龍之介は、自殺という形で人生の幕を下ろした。しかし、一つの考えが浮かぶ。何も、小説が観念的であっても、悪いことではない。現実を描かなくても、悪いことではない。観念的小説は、悪いことではないのだ。
では何故、観念的小説が、小説の神様が描いたと言われないのか。それは、自分に、また、自分の心に正直であるかどうか、ということが問題になっていそうなのである。人間の幸せとは、嘘偽りなく、正直な心によって世界と触れ合うことによって、生じるものなのだ、という一定の定義があると思われる。
しかし、現在でも、観念的小説は数え切れないほど描かれているのは確かなのだ。観念的小説の行方は、現代において、どこへ向かうのか。
㈢
結局は、観念的であっても、観念的でなくても、その描かれた小説が、支持を得て、面白いかどうか、ということにつきそうだ。現代の芥川賞、直木賞、この二つの賞が、誰もが手に入れたい賞であることは、大体予想が付くが、これらに選ばれる小説も、観念的の是非を問わず、支持を得るか、面白いか、ということが問題になっているようだ。
だから、殊更に小説を執筆する時、読書する時、観念小説かどうか、ということを意識する必要性はなく、寧ろ、執筆し終わった時、読書終了した時に、ああ、面白かったな、これは、小説のジャンルで言えば、観念小説だったな、くらいの判別思考で良いのだろうと思う。だから、観念学における、観念的小説の行方は、結句、これからも観念的小説は生まれるという事になるだろうし、無くなることはない、と思う。小説というものが無くならない限り。