08
「おい、央」
教室を出てすぐに、央は茅に呼び止められる。
いつも通りの不機嫌声。だが、声とは裏腹に不機嫌ではないようだ。
央は声のした方に顔を向ける。
「今から屋上だろ?俺も一緒に行く」
「うん、東澤くんは?」
「飛竜は、お楽しみがあるって」
それで、飛竜が何かを求めて校内を徘徊するのだとわかる。
悲鳴が上がれば、すぐさまそこに駆けつけて、そこに飛びこむ気なのだ。
「そう、じゃぁ、行こうか」
最近、茅に対する恐怖も取り除かれてきたのか、央はあまり声をつっかえないようになった。茅にとって、それは嬉しいことである。
屋上に2人で並んで行く。道は、勝手に開けてくれるので、歩きやすいといえば、歩きやすい。
なんせ、校内関わってはいけない人3人組の中の2人がいるのだ。
うかつに近づいて、因縁をつけられても困る。
屋上について、弁当を食べて、茅が飲み物を買いにいって、そして戻ってきて央にお礼だと言ってジュースを手渡して、それを飲んで。
いつもの昼休みのパターンだった。
しかし、茅がほらっと言って紙袋を渡したことで、その日はすぐにイレギュラーになる。
「何?これ」
「眼鏡とコンタクト。お前、弱視じゃないなら矯正できるんだろ?」
「できる、けど……。眼鏡もコンタクトも、苦手」
「苦手は克服するもんだぜ。前の視力検査の時の数値で作ってっから」
いつ、そんなものを調べたのだろうか。
実際、保険医に前の健康診断の視力結果を見せさせたというのが正しいのだが。
権力というものは、こういう時に使うものだ。
「あの、ごめん、でも、本当に」
「アレルギーがあるわけでもないんだろ?最初は怖いかも知れねぇが。つけてるうちになれる」
そう、コンタクトを使用している自分の組のものが言っていた。
最初は怖いけれど、そのうち慣れると。
なれたら、なしではいられなくなるらしいが。
「でも、ごめん。本当に」
「最初は、つけ方教えてやるからやってみろ」
少々強い口調で言われて、央は一瞬黙り込む。
その間に央から袋をひったくり、開けていく。
「ほら、こっち向いてみろ」
「えっ!いいです。いいから、お願い」
「俺の言うことが聞けねぇって言うのか?」
びくっと久しぶりに央の肩が跳ね上がった。
いつも央が大きな声や不機嫌な声に震えるから抑えてくれているのだけれども。
今は、ちょっとだけ不機嫌らしい。
「で、も、迷惑、かける、から」
ふう、と茅がため息をつく。それに、また央がビクリと震えて目をつぶった。
「目、開けろ」
「え?」
目を閉じている間に、茅は央の目の前まで来ていた。
驚いて、央は後ろに引こうとしたが、あいにく、後は屋上の金網。
逃げられる場所など、なかった。
目を開けろと言って開けてしまい、しかも茅の顔が目の前に会ったことで、央は混乱していた。
「ほら、顔上にあげろ」
茅をこんなに近くで見たことがなかった央は、どうしていいかわからない。
ただ、頭の片隅で、結構整った顔をしているのだなと思っただけだった。
言われるままに顔をあげ、そして、茅の指が目の前に近づいて行く。
その時に、それは来た。
「やぁっ」
バシンっと音がして、央は茅の手を振り払う。
茅はいきなりのことに驚いて、思わず振り払われたままになってしまった。
指に乗っていたコンタクトが、どこかへと飛んで行く。
「央?」
「ご、めん、なさ、い。ごめ、なさ……。ごめ……」
いきなり脅えだした央に呆然とした。
コンタクトが怖いという脅え方では、ない。
それぐらいの脅え方ではない、尋常でない怯え方。
今も、別に央が悪いわけではないのに、ごめんなさいと繰り返している。
「央、落ち着け。いきなり入れようとしたのは悪かったから」
自分に謝らせる人が、一体世界に何人いるのだろう。
確実に、片手の指で足りるし、謝るのは負けだと思っていたが、謝罪の言葉が先に出ていた。
「おい、央」
「ごめんなさい、ごめんなさい。――――ママ」
ママ?
今、ママとそう言っただろうか。
自分を母親と間違えているのか。しかし、央は母親のことをお母さんと呼んでいたはずで。
ママと一度も呼んだことはない。
「おい、央。落ち着けって」
「許して、ぶたないで、ママ」
「俺がいつお前を殴ったよ。おい、本当に落ち着けって」
そう言って抱きしめようとしても、央ははっきりとした拒絶を現した。
今まで多少強引に仲良くなったって、こんな拒絶はされたことがない。
「央!落ち着けって」
なんとか拒絶されながらも、茅は央を抱きしめた。
空想の人物に脅えているのなら、現実に戻してやればいいと思ったのだ。
効果は絶大で、央は次第に落ち着いてくる。
はぁはぁと荒い息を吐き出しながら、央はそのまま倒れこんだ。
「え?お、おい!央」
慌てた茅の声が聞こえて屋上に入ってきた飛竜は、抱きしめられながら気を失っている央と、慌てている茅を見て。
「はじめては、痛いからなぁ」
と言って茅に殴られたのであった。