19
実母は、怖い人だった。
目が合ったら叩かれたり、ひっかかれたり。
挙句の果てには何を見ているんだと外に放り出されて、男が来ても外に放り出されて。
父親が近くにいない分、央にとって身近なのは母親で、その母親に虐待を受けていたのだ。
怖くて、怖くて、たまらなかった日々。
それが、央の心の傷。
信じたいと、そう思った人に央は信じたいと思う事さえかなわなかった。
いつかはこちらを見てくれる、いつかは微笑んでくれる。
そう思っていい子にしていても、いい子にすればするほどひどくなっていって。
そして、央は思うようになったのだ。
――人が怖い、と。
だが、その後父親と今の母親に触れて2人を信頼できるようになって、それは少しずつ変わってきていた。
―――人を信じることが怖い、へ。
「なんで、わかったの?」
央でさえ、心の奥底にしまって気付かないようにしていたものに。
どうして茅は気付いたのだろう。
どうして?父親や今の母親に気づかれたことはなかったのに。
「なんでって、お前の事、昨日真剣に考えたんだ。その結果だ」
「結果って」
なんだか少し呆れてしまう。
だが、茅にはそう言うしかなかったのだ。
自分の布団の上で、これからどう央に気持ちを伝えようか考えていた時にふと思い立った。
そして、思い立ってしまったからこそ、茅は央を守りたいと思った。
そして、強く思ったのだ。
「なぁ、央」
「な、何?」
「逃げんな」
その言葉は、やはり央にすぐに浸透しなかった。
央が困ったようにぽかんと口を開ける。
「逃げんなよ。自分の弱さと戦え」
「茅」
「お前は、人を怖いと思いすぎて、自分からすべてを締め出してんだ」
「締め、だす?」
「人怖いのは、人が信じられないからだろ。けどな、俺から言わせてもらえば、そんなのお前の逃げだ」
何を言われているのかわからない。
けれど、やはり茅は央の中に踏み込んでくる気なのだ。
聞きたくない。
今度こそ、央はそう思って耳をふさぐ。
が、それはすぐに茅に阻止された。
「今、俺がいくら俺を信じろって言っても、お前は俺を信じない。なんでかわかるか?お前にその気がないからだ。俺の事信じたいって口で言いながら、本当はそんなこと思ってもいない。なんで思ってもいないかって?お前が逃げてるからだ」
あぁ、言われてしまった。
本当にその通りだということを言われてしまった。
周りが許してくれていたから、ずっと逃げていたことを、指摘されてしまった。
逃げたい、逃げたい。
この期に及んで、自分はそんなことを考える。
茅に手を取られているから、逃げられるはずがないのだが。
「なぁ、お前はそれでいいのかよ。ずっと、人を信じられなくて、それでいいのかよ!」
「うる、さい」
「は?」
「うるさいっ!!わかったような口聞かないで!!」
央が叫ぶ。
そしてその目からぼたぼたと大きなしずくがとめどなく出ていく。
茅が、一瞬呆然とし、央はその茅をにらみつける。
「だって、信じたくても、信じる人なんていなかった!皆、皆、私の事怖いって言って、それで、近づいても来なくて、来ないなら、それでいいって、私は、今までのまま、このままでいいって!!」
ぼたぼたと涙をこぼしながら、央は泣いた。
泣くなんて、一体いつからやっていないだろう。
最後に、母親に虐待された時でさえ泣かなかったのに。
泣いたって、助けなんて来なかった。
だから、泣いても仕方ない。そう思っていたのに。
どうしてだろう。茅なら、泣いても助けてくれる気がした。
泣いている央に、気付いてくれる気がした。
ぼろぼろと涙を流す央を、茅は抱きしめる。
そしてよしよしと頭をなでてやる。
「私、私……」
「もういい、もういいから、央」
「私、信じたいの、茅の、事。でも、でも」
ぼろぼろ。涙は乾かない。
バカだ。自分は大馬鹿だ。
笑っていてほしいとそう思っていたのに。
自分がしたことは、彼女を泣かすこと。
でも、これでいいと思えた。
きっと、彼女には必要だったのだ。
泣いていいよと、そう言ってくれる所が。
信じていいよと、そう言ってくれる人が。
それが、自分なら。
そんなに嬉しいことはないだろう。
「大丈夫、央。大丈夫だ」
「信じた、いん、だよ?でも、私、怖くて」
「あぁ、今から信じてくれたらいい。今から、信じていってくれたらいいから」
今すぐ信じろというのは簡単だ。
だが、央にはきっと難しい。
「信じたい」そう言ってくれる傷ついた彼女に、一体これ以上何を望むというのか。
「信じ、たいの、信じたいの」
「うん、わかってる。俺を信じろ。俺は一生お前を裏切らない」
それは、一生誓えるから。
だから、安心しろ。
そう伝えるように、央の背中をさする。
「好きだ、央。だから、信じろ」
「私、も、好き。信じ、たいの」
ぼろぼろと彼女の目からは涙が零れ落ちて、当分泣きやみそうにもない。
けれど、そこには安心感と、幸福感が存在していた。




