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今でも覚えている。
あの日、自分の目が傷つけられた日。
思い出せるのは、鮮明な赤。女の嗤い声。
そして、――――。
「透哉さんが単身赴任することになったのは、央ちゃんが2歳の時。それから、すぐに帰れる距離のところじゃなくて、透哉さんは全然帰れなかった。透哉さんがそれを発見したのは、央ちゃんが3歳の時だった」
それまで、誰も気づいてあげられなかった。
その女がやったことを、誰も止める人はいなかった。
父親の実家からは遠い所に住んでいたし、ご近所ともそんなに仲が良くなかったから。
それに何より、父親自体が家に帰ってこなかった。
ご近所さんは異変に気づいていたが、相談したい父親はいない。
警察に届けても、警察は何もしてくれない。
そんなとき、頼みの父親が帰ってきた。
お土産を持って、愛しい娘と妻のいる家に久しぶりに帰ってきた父親を待っていたものは。
「あの女、男を家に呼んで。その間、央ちゃんは外に放り出していた。真冬に、寒いのに防寒具さえつけてもらえずに、ただ、小さいトレーナーとジーパンだけの、そんな姿で、何時間も、その行為が終わるまで、ずっと」
女性の声には悔しさがあふれていた。
茅も、無意識にこぶしを握っていた。
そのあとの展開はもはや読めていたが、茅は止めることはなかった。
「透哉さんがついたときには、凍えて何もしゃべれなくて、熱まで出ていたのに!あの女!
透哉さんが、怒って扉を開けたら……」
「真っ最中」
「そう、よ。透哉さんが怒鳴って、あの女を問い詰めたら、すべて白状した
女は、口をゆがめてこう言い放った。
『私は何年もあなたにつながれてあげたじゃない。ちょっと気に入ったから、相手してあげたらすぐに落ちちゃって。全部嘘だったっていうのに!子供ができたときはどうしようかと思ったけれど、生んでくれって真剣な顔で言うし。あの時の顔、最高だったわよ。すっごく笑えたわ。ちょっとか弱い顔したら、すぐに落ちてくれて、子供産んだら逃げてやろうと思ったのに、あんたいなくなるし』
ひどい言葉は、父親に容赦なく降りかかる。そして、女は後ろにいる央にも目を向けた。
『そこの汚い子供も持って行ってちょうだい。邪魔だから。本当に聞き分けのない子供。ママっていうのよ?私の事。おかしい言ったらありゃしない!』
父親は怒りに我を忘れた。
そして、思いっきり女を叩いて、央を連れて出て行った。
叩かれた女は、笑っていた。央を連れて、去っていく父親をひどく笑っていたのだ。
その後、父親は央と一緒に生活をした。
央はすごく我慢強い子に育っていたらしい。
子供らしいかわいい我儘なんてことは一つも言わない。
おなかがすいても、欲しいものも。
何も言わずに耐えるだけ。
そんな子供の姿に、父親は思わず泣いた。
すぐに、離婚届は受理される。
あの女が名前を書いてよこしてきたのだから、父親は迷わずに離婚届をもらったその日に出しに行った。
みじめではなく、ただただ悔しかった。
「しばらくは会社を休んで央ちゃんと生活していたんだけれど、そうもいかなくなって。
私が働いていた保育園に央ちゃんは預けられるようになったの」
その時は何も知らなくて。
将来、保育士になりたいと夢を持って、知り合いの伝手で紹介してもらった保育園でアルバイトとして働いていた。
その時、彼女は17歳の女子高生。
他の先生を怖がった央が唯一大丈夫だったのが、彼女だった。
それはおそらく、その時女子高生であった自分が、お母さんと呼ばれる年頃ではなかったからだろう。
大人の女性を、央は怖がっていた。
あの女の影響に違いなかった。
「そんな縁で、私と透哉さんは出会って、まぁいろいろとあって結婚したの」
一度、女性不振に陥った父親だが、美香には心を開いてくれた。
それが嬉しくて、央も慕ってくれて、そして、3人の幸せな日々は始まった。
幸せで、央も笑ってくれるようになって、父親も穏やかな笑みができるようになって。
だが、その幸せもある一つの事で砕け散った。
「央ちゃんが5歳の頃。あの女はいきなり現れた」
父親はまた転勤になり、全然違う場所へ皆で移動していたのに。
あの女は調べて、そしてやってきた。
央を引き取りたいと、そう言って。
もちろん、そんなことを許すはずもない。
父親は反対して、女を追い返した。央の親権は、絶対に譲らないと、強い意志で。
もちろん、女性も脅しには屈しなかった。
結婚するまでに、何があったのかはきちんと聞いていたし、この女は同じ女として好かなかったから。
だが、央だけは違った。
「央ちゃんは、誘拐された。私が、用事があるって出掛けた時に。透哉さんが、仕事の間に」
実の母親を、央はきちんと覚えていた。
そして、その女の言葉には絶対服従だと、央は体で覚えてしまっていた。
誘拐され、そして連れてこられたのは昔住んでいた部屋。
そこで、本当に何が起こっていたのかは実は皆知らない。
央はその時の記憶がないし、父親も女性もその場にはいなかったから。
ただ、見つけ出した央は顔を赤く染めていた。
もう少し、発見が遅かったら、きっと央は死んでいただろう。
それぐらいの量の血が、央の周りに落ちていた。
「それで、央は失明直前まで行ったのか?」
「そう、弱視ではないけれど、それと同じぐらい、彼女は見えないの」
赤い顔の原因は、まぶたの上を切ったからだ。
もう少し下だったら失明だったと医者に言われて、父親は泣いた。
央は、泣いてはいなかった。ただ、そこにあるというだけ。
「私は、透哉さんは、あの女が許せない。あの女は、央ちゃんを傷つけた。身体的にも、精神的にも!!」
バンッと女性が机をたたく、泣きそうな瞳を下にして。
泣いてはいなかった、女性は強いのだろう。
本当は泣き喚きたいのを、必死で抑え続けていた。
「央ちゃんに、コンタクトを渡したって」
「え?あ、あぁ」
「入れるとき、央ちゃんは抵抗しなかった?」
していた。
思い切り、嫌だと言われた。
そして、その後に来た言葉は――。
『ごめんなさい、ごめんなさい。ママ』
納得した。
発見されたとき、顔が赤かったと言っていた。
その赤は、ぶたれて赤くなったのではなく、鮮血、つまりは血で赤かったのだ。
そして、央の血はまぶたから出ていたという。
央は顔を殴られていたのだ。
だから、人が央の目の周りに触れようとしたら、あれだけの拒否反応が返ってくる。
彼女はまだ怯えているのだ、あの女に。
「央ちゃん、あなたの事をとても嬉しそうに話すの」
それは、先ほども聞いた言葉だ。
だが、先ほど聞いた言葉より、なお重く感じる。
「コンタクトの話も聞いた。私たちでは、駄目だったのに」
「え?」
「弱視じゃないのなら、コンタクトでもメガネでもいいはずでしょ?でも、だめだった。拒絶されて、それで終わり。でも、あなたはできたの。あの子に、世界を見せてやれた」
央の目は、おそらく央自身が悪くした部分もあるのだと、医者はそう言っていた。
見たくないものを、封印したかったのかもしれないと。
目の周りに触れると、それを思い出してしまうから、だから拒絶するのだと。
思い出したくないのなら、それでいいと思った。
だから、女性も父親も、そのままでいいと思っていた。
だが、彼はやってのけたのだ。
女性も父親も、他の誰もができなかったことを。
だから、そんな彼だから。
「次期6代目、――――お願いがあるんです」




